大阪教会礼拝プログラム
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★礼拝に出席される皆様★
・代表祈祷は必ずマイクを使用し手で持ってください。
・使用したスリッパは棚に戻さず専用の箱に返却ください。
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第49主日礼拝式順序(アドベント第二週) 2024年12月8日 午前10:30〜
1.黙祷・・・一 同
2.賛美75 神の御子は (降誕) ・・一同起立
3.使徒信条・・一 同
4.主の祈り・・一 同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美68 久しく待ちにし (アドベント) ・・一同起立
7.三大祷告
再 臨
イスラエル
日 本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・ 寺東真也師
主題 「主は私の羊飼い」
詩篇23:1〜6旧約P.954
ヨハネ10:11〜14新約P.202
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講壇 「主は私の羊飼い」
聖句 詩篇23:1〜6
ヨハネ10:11〜14
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「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。」(ヨハネの福音書10章11、14節)
詩篇23篇は、ダビデがその晩年に記した詩であると言われています。ダビデの信仰は、その順風な時も、逆風の時も、その信仰によって歩んだ信仰の勇者であります。
そして、23篇はダビデの信仰の特色として、自分と神様との関係を如実に表しています。それは「神=羊飼い」「自分=羊」という関係です。
○緑の牧場、憩いのみぎわ、義の道
羊飼いなる神様は、私たちを豊かな命に導いてくださるお方です。イエス様は、ご自分のことを、「いのちのパン」(ヨハネ6:35、48)であり、ご自身が与える水を飲む者は渇くことなく、永遠のいのちのへの水がわき出で(ヨハネ4:14)、ご自身こそが、天の父なる神への唯一の道である事を明言されました(ヨハネ14:6)。
○死の陰の谷でも敵をよそに
信仰者にとって一番素晴らしいのは、順風満帆の時に喜び、感謝をすると言うよりも、逆風と荒波の中において、その患難と試練の中で、主に信頼し、任せる心をいただける事ではないでしょうか。
ダビデは、主の臨在の故に、試練や苦難を、「あなたのむち」「あなたの杖」と表現しています。それは、滅ぼすためのものではなく、羊の為のものです。
そして、絶体絶命のような状況でも(敵をよそに)、「食事をととのえ、頭に香油をそそいでくださる」と言うのです。
○追ってくる慈しみと恵み
ダビデの生涯を客観的にみるならば、苦しい時の方が多かったことでしょう。しかし、ダビデ自信がその生涯を思う時に、それは、神様の恵みと憐みに満ちた生涯であって、しかも、こちらから求めた以上のものが「追ってくる」そのような表現がふさわしいとダビデは、この詩篇を締めくくっています。
○主は良い羊飼い(ヨハネ10:9〜11)
ダビデは王になる前は父の羊を忠実に世話する良い羊飼いでした。羊を狙ってくる獣に対してもひるむことなく、命を懸けて、立ち向かったほどです(第一サムエル17:34〜35旧約P.510)。
イエス様はご自分のことを「わたしは、良い牧者です。」(ヨハネ10:11)と言われました。良い牧者は羊の為に命を捨てる事ができるとも言われました。
まさしく、イエス様は私たちの罪を負い、私たちが豊かにいのちを得るために、十字架の上で、身代わりの死をとげてくださいました。
ダビデは、自分を一匹の羊として牧者なる神様に絶対的な信頼と、信仰を寄せていました。なぜでしょうか。それは、自分は神様の所有であり、神様のものであって、それ故に、神様は心から自分を愛して下さっていることを知っていたからです(ヨハネ10:12〜14)。
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第48主日礼拝式順序&聖餐式(アドベント第一週) 2024年12月1日 午前10:30〜
1.黙祷・・・一 同
2.賛美70 朝日は昇りて (アドベント) ・・一同起立
3.使徒信条・・一 同
4.主の祈り・・一 同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美99 馬槽の中に (生涯) ・・一同起立
7.三大祷告
再 臨
イスラエル
日 本
8.聖書・・・・司 会 者
9.特別賛美・・聖 歌 隊
10.メッセージ・・・ 寺東真也師
主題 「目をあげて」
聖句 詩篇123:1〜4旧約P.1071
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講壇 「目をあげて」
聖句 詩篇123:1〜4
『あなたに向かって私は目を上げます。天の御座に着いておられる方よ。』詩篇123:1
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詩篇123篇はバビロン捕囚の真っただ中、あるいは、捕囚後の帰還民が荒れ果てた祖国を立て直す際に、反対勢力によって妨害されていた時に歌われた詩ではないかと言われています。どちらにしても、試練の真っただ中に歌われた詩です。
◯目をどこに向けるのか
人は苦しい時、悲しい時、どこに目を向けるでしょうか。うなだれて、心も顔も、下を向いてしまうのではないでしょうか。
人間という言葉を新約聖書のギリシャ語の言語では「アンスローポス」といい「上を見る者」という意味があります。人間は、初めより下を向くように造られたわけではなく、上を向いて生きるように造られたのです。今日の聖句で歌われている詩篇の記者は、辛い状況下のもとでこの詩篇を書いていました。その時に天を見上げたのです。なぜかと言うとそこに私たちの造り主であり、助け主なる神様がおられるからです。(詩篇121篇)
○権力に目を奪われた王
バビロンの王ネブカドネツァルは生ける真の神が、ダニエルに知恵と夢を解き明かす賜物とを与え(ダニエル2章旧約P.1507)、シャデラク、メシャク、アベデネゴを燃える炉の中から生還させた事(ダニエル3章)を経験しました。時の王は真の神を崇め、拝しました。しかし、このお方にのみ従う者となったわけではなく、真の神にも心を開いたのみでした。
私たちには、真の神以外に神があってはいけないのです。ネブカドネツァルは自分の権力と富に溺れ、高ぶろうとしていた為、夢、幻を通して警告を与えられました(ダニエル4:4〜27)。しかし、王は夢の警告を受けた12カ月後、宮殿を歩いている時、こう発言しました。
「この大バビロンは、王の家とするために、また、私の威光を輝かすために、私が私の権力によって建てたものではないか。」(ダニエル4:30)
王は警告通りに、7つの刻の間、人間の理性がなくなり、獣のように野を駆け回っていました。しかし、これは、王を謙らせるためのもので、全ての者が、真の神が謙った者を、その権威のもとに王に据えられる事を知る為でした。(ダニエル4:31〜32)
王は、その期間が終わった時、「目を上げて天を見た。すると私に理性が戻ってきた。」と言いました。この後、王は天の神をほめたたえています(ダニエル4:34〜37)。
王がした「目を上げる」という行為は、目も心も真の神に向かう事を意味しています。自分に仕えてくれる臣民や、自分の築き上げた(神の許しあっての事だが)建築物に目を留めているならば、心は高ぶるのです。結果、それは滅びに向かう序曲になるでしょう。
○イエスキリストを仰いで
私たちは本来、真の神を仰いで生きるように造られました。しかし、人間は、神様を仰ぐ事をやめて、物質的な豊かさや、地位や、名誉を求めるようになったのです。聖書はそれを罪と呼びます。
周りのものに気をとられるのではなく、イエスキリストに目を向けてみてください。その時あなたはイエスキリストによる本当の癒しと慰めを経験する事になるのです。(コロサイ3:1新約P.404)
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第47主日礼拝式順序 2024年11月24日 午前10:30〜
1.黙祷・・・一 同
2.賛美244 信ずる者は何びとも (救い) ・・一同起立
3.使徒信条・・一 同
4.主の祈り・・一 同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美148 夕べ雲焼くる (再臨) ・・一同起立
7.三大祷告
再 臨
イスラエル
日 本
8.聖書・・・・司 会 者
9.特別賛美・・聖 歌 隊
10.メッセージ・・・ 寺東真也師
主題 「味わい、見つめよ」
旧約P.965
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講壇 「味わい、見つめよ」
聖句 詩篇34:8〜10
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「味わい見つめよ。主がいつくしみ深い方であることを。
幸いなことよ主に身を避ける人は。」(詩篇34:8)
信仰生活の祝福の秘訣は、主の「素晴らしさ」を味わい、見つめる事です。素晴らしさと言う言葉は、原語では「トーブ」と言い、「良い」と言う意味です。私たちの神は良いお方、素晴らしいお方です。どのような時にも、主の素晴らしさに目を留め、味わう者ことが勝利の秘訣であり、良いもので満たされる人生を歩むのです。
若い獅子も乏しくなり飢える。しかし主を求める者は良いものに何一つ欠けることがない。」(詩篇34:10)
○人生の谷間で
詩篇の34篇は表題を見ますと次のように記されています。
「ダビデによる。ダビデがアビメレクの前で、頭がおかしくなったかのようにふるまい、彼に追われて去ったときに。」
ダビデはユダの町ベツレヘム出身でエッサイの八男として生を受けました。アマレクとの戦いにおいて神の命令に背き臨在を失った初代イスラエルの王サウル(第一サムエル15章旧約P.504)に変わって次の王となるように、預言者サムエルによって油注がれた人物です(第一サムエル16章)。
神なる主はダビデを祝福し、多くのイスラエル戦士が恐れた巨人ゴリアテを倒します(第一サムエル17章)。そしてダビデは王のお抱えの付人として召されて王宮に仕えるようになりました。そして、ダビデが民から好意を得ていた事にサウルから妬まれながらも、サウルからの無理難題を果たし、サウルの娘ミカルと結婚しました(第一サムエル18章)。ここまでは、一介の羊飼いが王の婿になるというサクセスストーリーです。
しかし、サウル王の妬みは殺意へと変わり、王の婿から、王に命を狙われて、命からがら逃げ回る逃亡者となってしまいます(第一サムエル19章以降)。
そして、逃亡生活を続けるダビデにとって辛かったであろう出来事の中で、一、二を争う出来事が34篇が歌われた背景となった出来事です。それは、宿敵ペリシテ人の領地ガテに藁をも掴む気持ちで出向いたところ、ペリシテの王アキシュの家来たちが、王に向かって、「この人は、かの地の王ダビデではありませんか。皆が踊りながら、
『サウルは千を討ち、
ダビデは万を討った』
と言って歌っていたのは、この人のことではありませんか。」(第一サムエル21:11)と皮肉を交えながら告げ口したのです。
ダビデはアキシュを恐れ、とっさに気が違ったかのように振る舞い、門の扉を掻き毟ったり、髭によだれを垂らしたりして、恥も外聞も捨てて難を逃れたのでした。
○だからこそ味わい、見つめる
主の良さ、素晴らしさは、順風満帆の時だけで味わい見つめる事が出来るものではありません。一見、なぜ、どうして、と思うような時に、こそ、主の恵みは本当に恵みであったという事に原点回帰する事ができるきっかけとなるのです。サウル王は主の良さ、素晴らしさを味わい見つめたうえで、自分に栄光を帰してしまいました。しかし、ダビデは、持ち上げられても高ぶる事をせず、砕かれた心をもって主の恵みを賛美し、味わい見つめました。そこに、主の本当の恵みは注がれたのです(詩篇34篇18〜22)。
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第46主日特別礼拝式順序 2024年11月17日 午前10:30〜
1.黙祷・・・一 同
2.賛美21 輝く日を仰ぐとき (賛美) ・・一同起立
3.使徒信条・・一 同
4.主の祈り・・一 同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美461 苦きを忍びて (霊の戦い) ・・一同起立
7.三大祷告
再 臨
イスラエル
日 本
8.聖書・・・・司 会 者
9.特別賛美・・聖 歌 隊
10.講師紹介・・ 寺東真也師
11.メッセージ・・・ 福永雄二師
主題 「ときの声をあげよ」
ヨシュア6:20旧約P.389
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講壇 「ときの声をあげよ」
聖句 ヨシュア6:20
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『民はときの声をあげ、祭司たちは角笛を吹き鳴らした。角笛の音を聞いて民が大声でときの声をあげると、城壁は崩れ落ちた。』(ヨシュア6:20)
1.人間の力ではどうにもならない壁がある。
神様はイスラエルの民を約束の地であるカナンに導いておられます。エリコに着いてみると、そこには堅く閉ざされた城門、がっちりとし、びくともしない城壁がありました。その時、ヨシュアは決して、あきらめなかったのです。その理由は神様の約束があり、与えてくださるということを信じていたからです。
2節で「あなたの手に渡した」と言っておられます。そのことにより、目の前の壁を乗り越えました。
私たちにも身の回りに乗り越えることができない、どうにもならない困難な壁というものがあります。でも、その時に、それらの問題を自分の力で解決しようとするのではなく、神様に解決をしていただきましょう。人間の力には限界があります。いくらがんばってもできないことがあります。乗り越えることができない壁があります。神様の御声を聞いた時、ヨシュアはこの戦いが霊的な戦いであることを悟ったのでした。だからこそ、神様に従うことができたのでしょう。
2.神様はその壁を崩してくださる。
ヨシュアはどのようにして壁に立ち向かったのでしょうか。ただ、神様の言われたことを忠実に実行しただけでした。その方法は町の周りを回るというものでした。人間的に考えると回るだけでは状況は変わらず、攻め入ることができないと考えるのが普通です。
しかし、ヨシュアは神様が言われた通りのことを行いました。何の疑いもなく、不満もなくです。イスラエルの民もヨシュアに文句を言うわけでもなく、従いました。
1日目から6日目までは毎日1周ずつ、角笛を吹き鳴らしながら、黙って回りました。しかし、7日目だけは7周も回ったのでした。回り終え、祭司が角笛を吹いた時に、イスラエルの民は大声でときの声をあげました。すると、何と、今までびくともしなかった城壁が、あれよ、あれよと一瞬のうちに崩れてしまったのでした。何も攻撃をしないで、城壁が崩れ落ちるなんて信じられません。でも、信じられないことが実際に目の前で起きたのです。奇跡が起きたのです。神様のなさることは人間の考えをはるかに超えています。時には奇跡を行われることがあります。神様は全知全能なお方なのです。
3.生活には自己管理が必要。
18節には「聖絶のものに手を出すな」と書かれています。なぜ聖絶しなければならないと言っているのでしょうか。神様は聖いお方ですから、罪をとことん嫌われます。罪の中におぼれていた物も徹底的に排除されます。
7章を見ますと、アカンが聖絶のものに手を出したことが書かれています。イスラエルの民はエリコの次にアイの町を攻めに行きます。アイはエリコと比べ人口は多くありませんでした。イスラエルにとっては余裕で攻めることができたのです。しかし、イスラエルはアイに負けてしまったのです。アカンが犯した罪の結果です。
私たちも罪には気をつける必要があります。罪が祝福された生活を奪います。罪を犯してしまいそうなことから極力離れる生活、すなわち、自己管理が求められるのです。罪に気をつけ、誘惑に陥らない、自己管理ができる生活を送りましょう。私たちも身の回りのことで、「これはどうにもならない」とか、「絶対だめだ」といった具合に神様の存在を忘れて、自ら、壁を作ったりしてはいませんか。神様にお委ねして、困難という壁を崩していきましょう。
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第45主日礼拝式順序 2024年11月10日 午前10:30〜
1.黙祷・・・一 同
2.賛美329 御国への道 歩むとき (信頼) ・・一同起立
3.使徒信条・・一 同
4.主の祈り・・一 同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美特選1 ・・・一同
7.三大祷告
再 臨
イスラエル
日 本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・ 寺東真也師
主題 「御言葉のともしび」
詩篇119:105旧約P.1065
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講壇 「御言葉のともしび」
聖句 詩篇119:105
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『あなたのみことばは私の足のともしび 私の道の光です。』(詩篇119篇105節)
聖書に書かれてある御言葉は神のことばであり、唯一の真理であり、キリスト者の規範です。
「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。」(第二テモテ3:16新約P.428)
◯心の高機能栄養ドリンク
みことばは聖書の中で乳と言われています。母乳は赤ちゃんにとってとても大切なものであり、成長するのに必要不可欠です。母乳には代替の粉ミルクがありますが、みことばに変わる代替商品はこの世界にありません。確かに様々な有益な書物は沢山あると思います。しかし、それだけでは私たちの命を救う事はできないのです。「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」(第一ペテロ2:2新約P.467)
◯御言葉のともしび
クリスチャンになったからといって完全になったわけではありません。反対に、霊的なスタート地点に立ったと考えるべきです。私達には「走るべき道のり」が与えられているのです(使徒20:24新約P.277、第二テモテ4:7。
しかも、この世界は今よりももっと悪くなるとイエス様は言われています。(マタイ24:12新約P.50)
1.足元を照らすともしび
私達の周りはさらに暗くよどんでいくことでしょう。今、自分がどこを歩んでいるのか、正しい道か、間違った道か、知るよしもないという状態ではクリスチャンでも途中で息絶えてしまいます。神様は私たちの人生の足元を照らす光としてみことばを与えてくださいました。
2.心を照らすともしび
みことばは私たちの人生の歩み方だけを整えるのではありません。歩み方の元である私たちの心をもとりあつかってくださるのです(詩篇139:24旧約P.1067)。みことばは私達をキリストに似たものとして整えてくださるのです。
「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」(詩篇119:130)
ペテロはイエス・キリストの来臨の時まで、みことばに目を留めるようにと勧めています。主の言葉は生きていて私たちに働きかけてくださるのです。
「また私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜が明けて、明けの明星があなたがたの心に昇るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。」(第二ペテロ1:19新約P.474)
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第44主日礼拝式順序&聖餐式 2024年11月3日 午前10:30〜
1.黙祷・・・一 同
2.賛美414 主は力をわれに注ぎ (聖霊) ・・一同起立
3.使徒信条・・一 同
4.主の祈り・・一 同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美432 北の果てなる (宣教) ・・一同起立
7.三大祷告
再 臨
イスラエル
日 本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・ 寺東真也師
主題 「はばからず、妨げられず」
使徒28:30〜31新約P.296
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講壇 「はばからず、妨げられず」
聖句 使徒28:30〜31
『パウロは、まる二年間、自費で借りた家に住み、訪ねて来る人たちをみな迎えて、少しもはばかることなく、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。』(使徒28章30〜31節)
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本日のみことばで使徒の働きは閉じられています。パウロの宣教は使徒13章から始まり、第一次宣教旅行から第三次宣教旅行を経て、エルサレムにおいて、訴えられ、捕えられ、暗殺されそうになりましたが、主の導きで、囚人としてローマに移送され、カエサルの法廷に立つ身となったのです。
◯待てど、暮らせど
「パウロは、まる二年間、自費で借りた家に住み、・・・」(30節前半)
当時の裁判の制度的に言うと、告訴した人が十八ヶ月以内に法廷に出頭しなければ被告は釈放されることになっていました。なんと、あれほど躍起になり、暗殺まで企てたユダヤ人たちは、自分たちの形成が不利であることを感じたのか、待てど暮らせどローマにやって来なかったのです。そして、ついに勾留期間の十八ヶ月を終え、半年の釈放手続きを経たのが「まる二年間」という年月だったのです。
もちろん、パウロは冤罪です。しかし、貴重な二年という年月は返ってきません。普通ならば、逆告訴しても良い状況です。でも、パウロはユダヤ人たちを訴えようなど一ミリも考えていなかったのです(使徒28:19)。
○機会を活かして
「・・・訪ねて来る人たちをみな迎えて、」(30節後半)
そんなパウロを神様は破格の待遇で二年間を過ごせるようにしました。家を自費で借りることが許され、監視の兵士が付いていたが、一人で生活することが許されたのです(使徒28:16)。そして、そのような境遇であったから、訪ねてくる人が起こされ、その人々をパウロは大歓迎して福音を語ったのです。訪ねてくる人の中には、仕事で来なければならない人々もいました。そう、監視の兵士たちです。パウロはこの獄中生活の中で、ピリピの教会に宛てた手紙を書き、その中で証を書いています。それは、このような、軟禁生活をすることになったから、カエサルの親衛隊である監視の兵士達が福音を聞き、親衛隊全員と他の人々にまで福音が明らかになっていったのです。しかも、それだけに止まらず、ローマのクリスチャン達はそのようなパウロの現状を主が用いられ、パウロもその機会を活かしている姿は、大きな励ましとなって、自分たちも福音を大胆に語ろうと語り出したというのです(ピリピ1:12〜14新約P.394)。
主のなさることは時にかなって美しく(伝道者3:11旧約P.1141)、パウロは聖霊が与えてくださる機会を損なうことなく活かしたのです(エペソ5:16新約P.390)。
○少しもはばかることなく
「少しもはばかることなく、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。」(31節)
パウロの宣教生涯で妨げがなかったのは、このローマでの二年間だけと言っても過言ではありません。しかも、日本語では「教えた」が最後ですが、原文では、「・・・主イエス・キリストのことを教えた。少しもはばかることなく、また妨げられることもなく」なのです。ここに、みことばの力と前進性が記されています。この後、パウロは解放され、再び牧会伝道に励みます。しかし、再びローマに来た際に、世相は一変し、迫害下の中で、殉教に向かうのです。しかし、パウロは言います。
「この福音のために私は苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばはつながれていません。」(第二テモテ2:9)
たとえ、苦難の中にあっても、みことばの宣教は、はばかることなく、妨げられることもなく、今も前進し続け、私たちに委ねられているのです。そう、今を生きる私たちに。
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第43主日召天者記念礼拝式順序 2024年10月27日 午前10:30〜
1.黙祷・・・一 同
2.賛美233 驚くばかりの (救い) ・・一同起立
3.使徒信条・・一 同
4.主の祈り・・一 同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美470 懐しき住まい (天国) ・・一同起立
7.三大祷告
再 臨
イスラエル
日 本
8.聖書・・・・司 会 者
9.特別賛美・・・・聖 歌 隊
10.メッセージ・・・ 寺東真也師
主題 「死に勝つ信仰」
創世記23:1〜20旧約P.35
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講壇 「死に勝つ信仰」
聖句 創世記23:1〜20
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創世記23章はアブラハムの妻であるサラの死とその葬りについて記しています。
◯サラを偲ぶ
サラは127歳という年齢で召されました。聖書の中の女性で死亡年齢が記されているのはサラただ一人です。もちろん、一人の人間ですから失敗もあれば、素晴らしい所もありますが、聖書はこのサラを賞賛しています(へブル11:11新約P.452)。
◯墓地購入
愛する妻に先立たれてアブラハムは悲しみの中にありました。しかし、悲しんでいる暇はありませんでした。今いる場所は、地元ではなく約束の地です。神様がアブラハムに与えると約束くださった地なのですが、まだアブラハムの所有ではありませんでした。サラを葬る墓地さえ持っていないのです。そこでアブラハムは墓地を購入したいとヘテ人と交渉を始めたのです。
アブラハムはヘテ人からとても好意を持たれていたので話はうまく進んでいきました。なんと無料で差し上げますと言ってくださるのです。しかし、アブラハムは「買い取る」事を強く要望しました(9、13節)。その結果、畑と洞穴を銀400シェケルという高額な値段で買い取ったのです。もしも、貸しても貰っていたり、無料で譲ってもらっていたら後々に文句をつけられて、その土地の権利を失う可能性があったからです。誰の目から見ても十分以上の金額を支払って公明正大にその土地はアブラハムのものになったのです。
◯死に打ち勝つ信仰
イエス様も私たちの罪の為に十分すぎるほどの代価である命を私たちの為に支払ってくださいました。悪魔は安易に自分と手を組めば、この世界をあげようと誘惑しましたが(マタイ4:9新約P.5)イエス様は公明正大に誰が見ても非の打ち所がない贖い(支払い)をしてくださったのです。
アブラハムとイエス様の共通している事は天の父なる神様の目的に従って歩んだと言うことです。死んだ本人よりも残された家族の方が実は悲しみは大きいものです。自分の死にもそうですが、愛する者が死んでしまう時、私達は打ちのめされるような悲しみに襲われるでしょう。しかし、完全にノックダウンされる事はありません。アブラハムは神の御旨に歩み、墓地と小さな田畑ですが、身内の死のなかでも約束の地を獲得するという勝利を収めたのです。この信仰を神様は賞賛しておられます(ヘブル11:15〜16)。
アブラハム目指した天の故郷を私達も目指して歩んでいこうではありませんか。
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第42主日礼拝式順序 2024年10月20日 午前10:30〜
1.黙祷・・・一 同
2.賛美206 飼い主わが主よ (臨在) ・・一同起立
3.使徒信条・・一 同
4.主の祈り・・一 同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美462 聖書も時の徴も (再臨) ・・一同起立
7.三大祷告
再 臨
イスラエル
日 本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・ 寺東真也師
主題 「イスラエルの望み」
使徒28:16〜29新約P.295
イザヤ6:8〜13旧約P.1176
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講壇 「イスラエルの望み」
聖句 使徒28:16〜29
イザヤ6:8〜13
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『そういうわけで、私はあなたがたに会ってお話ししたいと願ったのです。私がこの鎖につながれているのは、イスラエルの望みのためです。』(使徒28章20節)
主の導きによりパウロはローマに到着しました。しかも、囚人としては破格の待遇で生活することになります。
「・・・パウロは、監視の兵士が付いてはいたが、一人で生活することを許された。」(16節)
どうしてでしょうか。あのユダヤ総督フェストゥスがユダヤの王アグリッパ2世と共にパウロの弁明を聞き、どう考えても死刑に当たることをしていない事をその書状に書き記した事や(使徒26:31〜32)、また、カイサリアからパウロを護送した百人隊長のユリウスがパウロに好感をいだいていた(使徒27:3、43)ことにより、波乱万丈のローマへの旅の中で、何があったのかをパウロにとって有利な証言をしたのかもしれません。
そして、もちろん、そこには主の計らいと恵みがあったのです。
神様はパウロに約束した通りに、ローマでも主を証するのでした(使徒23:11)。
◯イスラエルの望み
ローマについて三日後、ユダヤ人の主だった人たちを呼び集め、囚人としてローマに来た経緯を弁明したのです。カエサルへの上訴は不可抗力で、決して同胞を訴える為ではなかった事(18、19節)しかし、何より、「私はあなたがたに会ってお話ししたいと願ったのです。」(20節)と伝え、それから核心に触れました。
「私がこの鎖につながれているのは、イスラエルの望みのためです。」(20節)
イスラエルの望みとは、まさしく聖書に預言された「メシア(救い主・キリスト)」のことです。ダビデの子孫として生まれ、イスラエルを統べ治めるものとなるのです(第二サムエル7:12〜13旧約P.551、イザヤ9:6〜7、エゼキエル34:23〜24旧約P.1477)。その究極であり預言の成就はキリストの千年王国です(黙示録20:6新約P.515)。
◯ローマにいるユダヤ人たちへ
本来ならば、パウロがユダヤの会堂へ赴き、そこで福音を語るのがパウロ宣教の基本でした。しかし、今回は破格の自由を与えられているとは言え、監視の兵士がおり、軟禁状態だったので、会堂に行く事は叶いませんでした。しかし、ローマにいるユダヤ人の方から、噂を耳にしているが、公式に通達を受けておらず、自分たちの耳で、張本人であるパウロ自身から話を聞いて判断したいと、多くのユダヤ人たちがパウロの宿に集まったのです。そして、パウロは神の国のことと、旧約聖書からイエス様について朝から晩まで語ったのです(23節)。
◯イザヤの預言の成就
偏見やマイナス要素がほぼない状況下で、福音はローマのユダヤ人たちに語られました。見える現状は上々と言えるでしょう。しかし、その結果は散々たるものでした。ある人たちは受け入れたが、他の人々は信じようとせず、最終的に、聞いたことが無駄になる形で、その集いは終わろうとしました。パウロは聖霊に示され、イザヤ書6章9、10節を引用し、ユダヤ人たちの頑なさを責めました(25〜27節)。
そして、ローマでも福音は異邦人へ送られることになったのです(28節)。
ユダヤ人たちは、その後も激しく論じ合いながら帰ってゆきました。なんと、哀れで、残念な光景でしょうか。
イザヤはこの預言を命じられた時、いつまでですかと問いました。すると、町は荒れ果て、見捨てられ、残った十分の一も焼き払われると。しかし、切り倒された木の切り株が残り、
「この切り株こそ、聖なる裔」(イザヤ6:13)と主は語られたのです。パウロ自身も、ローマに来る前のローマへの手紙ですが、ローマの教会へ、異邦人は救われたからと言って高慢になることなく、謙り、神のご計画の深淵を知るように書き記しました(ローマ11:25〜27新約P.316)。
神のことばは、つながれていないのです(第二テモテ2:9新約P.426)。
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第41主日礼拝式順序 2024年10月13日 午前10:30〜
1.黙祷・・・一 同
2.賛美267 渇けるわれは上より賜う (救いの喜び) ・・一同起立
3.使徒信条・・一 同
4.主の祈り・・一 同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美特選17・・一 同
7.三大祷告
再 臨
イスラエル
日 本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・ 寺東真也師
主題 「忍耐と慰め」
使徒28:11〜15新約P.294
ヘブル10:36新約P.451
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講壇 「忍耐と慰め」
聖句 使徒28:11〜15
ヘブル10:36
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『あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。』(ヘブル10章36節)
マルタ島に上陸したパウロ達は、さらに三ヶ月その島で過ごさなければなりませんでした。その島での生活は決して辛いものではなかったでしょう。そこに住む人々との関係は良好でした(10節)。
しかし、目と鼻の先に(といっても90キロ以上はありますが)イタリアの領土が広がっているのです。神様が行けと言われた地が、もう目の前にあるという状況で、三ヶ月待つというのは、クレタ島で冬を越すのとは訳が違います。でも、神様の導きは、マルタで三ヶ月過ごすことでした。
◯忍耐を育む(ヘブル10:36)
信仰者に必要なものの中で忍耐は上位にくるでしょう。なぜならば、忍耐なき信仰は未熟な信仰であるからです。イスラエルの民が、エジプトを脱出したのち、40年間荒野を旅しなければならなかったのは、信仰が未熟であったからです。彼らは、全能の神様に信頼し、待ち望むことをせず、目に見えるモーセに対して、パンがない肉がない(出エジプト16:3旧約P.127)水がない(出エジプト17:2)、と文句を垂れ流しました。また、モーセがシナイ山で四十日間、神様の前に出ていた時も、待ちきれなくなりアロンに、自分たちの神を造って欲しいと願い、金の子牛を造ったのです(出エジプト32:1)。
主は、イエス様の再臨を待ち望むようにされました。救いの完全成就まで、いつまでか分からないようにされたのです(マルコ13:32〜33新約P.97)。それは、私たちの信仰が成長し、主に喜ばれるものとなるためです。私たちは、ありのままで受け入れられます。しかし、主は、古い私たちのままでほうっておかれるお方ではないのです(第一ペテロ1:7新約P.465)。
パウロは自分の宣教地のゴールを目の前にしながら、忍耐を働かせる機会を与えられたのです。しかし、それは、主からの愛の試練であったのです。
◯主の愛の慰め
三ヶ月をマルタで過ごし、パウロたちはようやく、アレクサンドリアのローマ行きの船で出発したのです。そして、シチリア島南部の港町シラクサに寄港三日を過ごし出航、そして、イタリア半島の最南端のレギオンを経て、南風の助けもあり、二日でイタリア半島の真ん中のプテオリに入港しました。
1.プテオリでの交わり
パウロたちはここから陸路でローマを目指すことになります。約200キロの道のりです。しかし、主はその前に特別な慰めを波状的に用意されていたのです。まず、プテオリにも教会が存在し、彼らの家に七日間滞在したのです。他のクリスチャンとの交わりは、カイサリアをであとすぐのシドン以来なので(使徒27:3)格別のものであったことでしょう。
2.心からのお出迎え
プテオリを出発したパウロ一行はさらに驚く事になります。ローマから80キロほど離れた町アピイ・フォルムと53キロほど離れた町トレス・タベルネまで、それぞれ、パウロたちがローマに向かっていると聞いたクリスチャンたちが迎えに来てくれていたのです。
「パウロは彼らに会って、神に感謝し、勇気づけられた。」(15節)
ルカはサラッと書いていますが、旅の終着点であり、神様の与えてくださった使命の目的地を前にして、期待と不安が入り混じるパウロの心はどれほど、満たされ熱くなったことでしょうか。
主の愛の実践がなされる時、そこに大きな慰めと励ましが生まれるのです。教会が教会であることの存在意義がここにあります。
◯主の薫陶を受けながら
主は私たちに時には試練を、そして、時には慰めに満ちた交わりを与えてくださいます。それは、主がもう一度来られるその日まで、主の似姿とされるためなのです(第二コリント3:18新約P.359)。忍耐を働かせましょう。主の御許に重荷を下ろし、愛の交わりを築きあげましょう。
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第40主日礼拝式順序&聖餐式 2024年10月6日 午前10:30〜
1.黙祷・・・一 同
2.賛美219 われを見出し (神の愛) ・・一同起立
3.使徒信条・・一 同
4.主の祈り・・一 同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美437 行きて告げよあまねく (宣教) ・・一同起立
7.三大祷告
再 臨
イスラエル
日 本
8.聖書・・・・司 会 者
9.特別賛美・・聖 歌 隊
10.メッセージ・・・ 寺東真也師
主題 「主の真実な約束によって」
使徒28:1〜10新約P.294
マルコ16:18〜20新約P.105
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講壇 「主の真実な約束によって」
聖句 使徒28:1〜10
マルコ16:18〜20
『その手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば癒やされます。・・・弟子たちは出て行って、いたるところで福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばを、それに伴うしるしをもって、確かなものとされた。』(マルコ16:18、20)
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パウロの乗った船は、パウロの預言のごとく、失われてしまいましたが、276人もの乗船者の命はひとりも失われませんでした(使徒27:22)。
無事に上陸した島はマルタ島でした。イタリアのシチリア島から南へ90キロほど南に位置する島で、現在のマルタ共和国の最大の島です。
◯まむしに噛まれるパウロ
マルタ島の人々は船が座礁して命からがら上陸してきた人々を温かく迎え、雨が降り差し寒かったので、焚き火をして暖をとらせてくれたのです。そのような中、パウロも枯れ枝を集め、火にくべたところ、枯れ枝の間で冬眠していたマムシが驚いて這い出し、パウロの手を噛んだのです(3節)。
島の人々は、その光景を見て、パウロは人殺しであったに違いないと決めつけました。なぜなら、ギリシャ神話に出てくる正義の女神ディケを信奉していた彼らは、女神が海での遭難と船の難破では死ななかったパウロを見逃さず、マムシによって裁かれたと考えたからです(4節)。いつ死ぬかと凝視していた彼らでしたが、いつまで経っても、腫れもしなければ、倒れもしないパウロを見て、考えを改め、パウロは神様だと言い始めたのです(6節)。
人間の評価は曖昧で真理から遠く離れたものであることが分かります。
○プブリウスの父の癒し
マルタ島の長官でプブリウスという人が、パウロたちに好感を抱き、歓迎し、三日間にわたってもてなしてくれました。すると、その時、プブリウスの父が発熱と下痢で苦しんでいました。マルタ島にはマルタ熱が流行していたようです。正式な名称はブルセラ症で、ブルセラ属菌による人獣共通感染症です。感染したヤギの生乳を飲むことで感染することが多かったのです。
パウロはその事を知って、プブリウスの父のところに行き、手を置いて祈り、癒したのです(8節)。すると、島の他の病人たちもやってきたので癒してあげたのです(9節)。
こうして、パウロたちは、島の人々から深く尊敬され、マルタ島から出港する際には、必要な物を用意し、プレゼントしてくれたのでした。
○イエス様の預言の成就
使徒の働きの著者であるルカは神の霊感により、執筆していたのですが、今回の出来事は、そこで行われた「業」にスポットライトが当たっているのではありません。確かに、猛毒の蛇に噛まれて血清もない時代に、全く害を受けなかったことは驚嘆に値し、島の風土病を次々に癒していくパウロの姿は、英雄譚として語られてもおかしくないものです。しかし、ここでは人々から神だと言われ尊敬をあつめる描写はあるもののリステラの時のように祭り上げられることなく(使徒14:11〜13)、あっさりとしています。
聖書は、この記述を通して、あらためて、人をイエス・キリストの復活の証人として、福音を宣べ伝えるにあたり、必要な守りと力が備えられること、そして、それらは、イエス様が約束してくださったことであり、その約束が成就して事を記しているのです(マルコ16:18、20)。
そして、現代に生きる私たちにも、主の真実な約束は、さまざまな形をもって、主が共に働かれる事を証されるのです。
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第39主日礼拝式順序 2024年9月29日 午前10:30〜
1.黙祷・・・一 同
2.賛美266 罪 咎を赦され (救いの喜び) ・・一同起立
3.使徒信条・・一 同
4.主の祈り・・一 同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美455 み民よ戦え (霊の戦い) ・・一同起立
7.三大祷告
再 臨
イスラエル
日 本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・ 寺東真也師
主題 「主の計画こそ実現する」
使徒27:27〜44新約P.293
箴言19:21旧約P.1117
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講壇 「主の計画こそ実現する」
聖句 使徒27:27〜44
箴言19:21
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『人の心には多くの思いがある。しかし、主の計画こそが実現する。』(箴言19章21節)
パウロを乗せた船が遭難して2週間が経ち、夜中、真っ暗闇の海の真ん中を漂っていました。水夫たちは、陸地に近づいているのを感じ取り、水深を図り始めたのです。すると、20オルギヤ(約37メートル)であり、もう少し進むと15オルギヤ(28メートル)でした。このまま進むと暗礁に乗り上げる恐れがあった為、錨を四つ投げ下ろし、夜が明けるのを待ったのです。
◯恐れに飲まれた水夫(30〜32節)
夜の闇は人の恐怖を増幅させます。このままでは、近いうちに船は座礁し、多くの犠牲者が出るに違いない。276人もの乗船者がいる中で、脱出に使用できる小舟には限られた人数しか乗る事ができない。おのずと、水夫たちは策略をめぐらし、船尾の錨を下ろしたのち、船首の錨を下ろすふりをして、小舟を下ろして自分たちだけは助かる確率をあげようとしたのです。しかし、パウロは見落としませんでした。すかさず、抜け駆けしようとする水夫の策略を見抜き逃亡劇を未遂に終わらせたのです。
もしも、このまま水夫たちが恐れに飲まれて逃亡していたら、彼らの命も、残った者たちの命も危なかったのです。
◯心も体も満たされて(33〜38節)
夜が明けかけた頃、パウロは食事をすることを勧めました。人は、不安になると食欲が減衰し、食べられなくなるものです。命の危険をいつも感じ、一縷の望みも得ない状況で、だれも食事をすることも忘れて、体力的にも精神的にも限界をとうに超えていたのです。食べましょうと言って食べられれば苦労しません。しかし、この後、みなが食事をし始めるのです。なぜでしょうか。
パウロは確信持って語りました。
「これで、あなたがたは助かります。頭から髪の毛一本失われることはありません。」(34節)
そして、それを裏付けるように、神様に感謝をささげて後、パンを裂いて食べ始めたのです。非日常である危機的な状況の中で、日常生活である食事を目の前でする人を見た時に、皆は元気付けられました。パウロの心は神様によって守られ、力付けられ、キリストのいのちが脈打っていたからです(第二コリント4:8〜11新約P.359)。そして、その元気は周囲にも広がって行ったのです。前向きになった人々は、パウロのことばを信じて、積荷であった麦を海に投げ捨てなるべく船を軽くし、無事に陸地へ接岸しやすくしたのです。
◯一難去ってまた一難(39〜44節)
夜が明けた時、場所は分からなかったが、砂浜のある入江が目に飛び込んできました。ようやく助かると思い、錨を切り離し、舵を固定していた綱を解き、船首の帆を上げて、砂浜に向かって進んだのです。しかし、二つの潮流に挟まれた場所が浅瀬になっており、船首がめり込み、船尾が激しい波によって壊れはじめたのです。もう、船は壊滅的なダメージを負い、ダメになってしまいました。すると、兵士たちは囚人が逃げ出してしまわないように殺してしまおうと図りました。しかし、百人隊長の心を主は捉えて、パウロを助けるために、彼らの計画を制止し、泳げるものは泳いで、そうでない者たちは、板切れや、船にある浮力のあるものにつかまって、全員無事に陸に上がる事ができたのです。パウロが主によって語った通りになったのです。
◯人の思いと悪魔の妨害、主の計画
水夫たちが恐れのゆえに、どさくさに紛れて、自分たちだけ助かる可能性を高めるために、船から小舟で脱出しようとしました。しかし、それは悪手だったのです。また、パウロの励ましによって、元気づいた乗船者たちでしたが、悪魔の妨害によって、陸地を目の前に、船が座礁し、危機的な状況に陥ってしまいます。そして、保身のために兵士たちは囚人を殺そうとするわけですが、パウロの信仰に感銘を受けた百人隊長によって、私刑を免れます。人の思いより、悪魔の妨害より、主の計画こそ最善であり、また、その計画は滞りなく成就するのです。
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第38主日礼拝式順序 2024年9月22日 午前10:30〜
1.黙祷・・・一 同
2.賛美236 あだに世をば過ごし (救い) ・・一同起立
3.使徒信条・・一 同
4.主の祈り・・一 同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美147 起きよ夜は明けぬ (再臨) ・・一同起立
7.三大祷告
再 臨
イスラエル
日 本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・ 寺東真也師
主題 「希望の神に仕える」
使徒27:21〜26新約P.292
ローマ5:5新約P.304
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講壇 「希望の神に仕える」
聖句 使徒27:21〜26
ローマ5:5
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『ただ、彼と言い争っている点は、彼ら自身の宗教に関すること、また死んでしまったイエスという者のことで、そのイエスが生きているとパウロは主張しているのです。』(使徒の働き25章19節)
◯絶望の中で
パウロたちを乗せた船は冬を越すのに適したフェニクスまで歩みを進めようとなかば強引に出航し、暴風に巻き込まれ取り返しのつかない状況になってしまいました。船員、乗客合わせて276人もの大型船でしたが(37節)、嵐の前には一枚の葉っぱに過ぎない状況で、万策付き、望は絶たれようとしていたのです(20節)。
◯希望を語るパウロ
人は絶望する時、食欲が落ち、前向きな考えができなくなり、正常な判断ができなくなります。食料は十二分にあった船でしたが、だれも、何も食べようとしない状況が続きました。そのような中で、パウロは立ち上がって、皆に語り出したのです。もしも、言うことを聞いてくれていたならば、と叱責と共に、パウロは希望を語りました。
「しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。あなたがたのうち、いのちを失う人は一人もありません。失われるのは船だけです。」(22節)
見えるところは絶望しかありません。正常な判断ができにくくなっていたとはいえ、暴風に翻弄され、方角を知るための天体も厚い雲が遮って、見ることが叶わない状況です。そのような中で、パウロは元気を出しなさいと語るのです。しかも、誰もいのちを失わないと。周りが絶望的であればあるほど、希望のことばは人々の心の支えとなり、小さな光を見出したように感じるものです。ただし、絶望の中で、そのように語るものが現れればです。本来ならば、絶望が渦巻く中で、冗談でもそのようなことは言えないでしょう。しかし、パウロは力強く希望のことばを語ったのです。どうして、そのように励ませたのでしょうか。なぜなら、パウロは希望の神に仕えていたからです。
1. 臨在信仰
パウロが力強く励ますことが出来た一つ目の理由は「臨在信仰」の故です。パウロは、主に立ち返って後、いつも、臨在されるお方と共に歩み、戦ってきたのです。聖霊は、いつもパウロを励まし、慰め、力を与えてくださいました。そして、今回も、しかるべき時に、御使を通して、傍に立ち、なすべきことを伝えたのです。
2. 神信仰
二つ目の理由は「神信仰」です。パウロは、はっきりと明言しました。「私は神を信じています。」今、パウロが信頼し、絶対的に信じているのは、「神」です。信頼できる有能な仲間や、航海のプロ、権力者である隊長などが同船しておりましたが、パウロが命をかけたのは、神お一人でした。神様は、そのようなパウロを祝福し、絶望の中からの希望を語る器にしたのです。
3. みことば信仰
三つ目の理由は、「みことば信仰」です。「私に語られたことは、そのとおりになるのです。」神様の語られたみことばは必ずなると信じたのです。パウロに語られた、このときの神の約束は、パウロがローマにてカエサルの前に立つこと。同船しているすべてはパウロに与えられたことです。このみことばが成就すると信じたパウロは、この漂流にて自分は死ぬことはない。また、パウロに与えられた人々もパウロが望むならば必ず助かると言うことです。パウロは真面目に素直に、神のことばを信じたのです。
◯希望の神に仕える者となる
私たちの人生には絶望に思えることが多々起きてきます。世の人々は、見える現状において一喜一憂するだけでしょう。しかし、イエス様を信じる私たちは、困難な状況であるからこそ、希望を告白する者でありたいと思います(ヘブル10:23)。しかも、うわべの希望ではなく、臨在信仰、神信仰、みことば信仰に立って、希望の主に仕えさせていただきましょう。
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第37主日礼拝式順序 2024年9月15日 午前10:30〜
1.黙祷・・・一 同
2.賛美171 今日まで守られ (感謝) ・・一同起立
3.使徒信条・・一 同
4.主の祈り・・一 同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美445 重くとも汝が十字架 (試練) ・・一同起立
7.三大祷告
再 臨
イスラエル
日 本
8.聖書・・・・司 会 者
9.特別賛美・・聖 歌 隊
10.メッセージ・・・ 寺東真也師
主題 「幸せで満ち足りた晩年」
創世記25:7〜11旧約P.41
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講壇 「幸せで満ち足りた晩年」
聖句 創世記25:7〜11
「アブラハムは幸せな晩年を過ごし、年老いて満ち足り、息絶えて死んだ。そして自分の民に加えられた。」(創世記25:8)
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◯アブラハムの死
アブラハムは175歳で天寿を全うして葬られました。そして、愛する息子イサクとイシュマエルによってサラが葬られているマクペラの洞穴に葬られたのです。
◯アブラハムの晩年
聖書的に彼の晩年を一言で言うなら「幸せで満ち足りた晩年」と言えるのではいでしょうか。
では、幸せで満ち足りた晩年とはどのようなものでしょうか。一般的には、温かな家族や友人に囲まれ、健康で、裕福でなくても不自由なく過ごせる経済力があり、生きがいがある等でしょうか。では、アブラハムの晩年を見てみましょう。
1.父の故郷から約束の地へ
父テラの死後、アブラハムは75歳の時、生まれ故郷を出て神様の示す地に行きなさいと言われ、行き先もわからないまま従いました。(創世記12:1〜4)
2.保身のため、妻を危険にさらす
アブラハムは保身のため、二度愛する妻を奪われそうになりました。でも、主の憐れみにより守られました(創世記12:10〜20、20:1〜18)。
3.主を信じ、義と認められる。
アブラムは年老いて未だ子供がいませんでした。そのようなアブラハムに、神様は夜空の星を見上げさせ、あなたの子孫はこのようになると約束され、アブラハムは主を信じたのです。それが彼の義と認められたのです(創世記15:5〜6)
4.妥協からの家庭内危機
子供が与えられると約束を信じたアブラハムですが、妻サラは懐妊しません。それで、サラの女奴隷を用いて子供を得る方法をとったのです。サラの女奴隷ハガルを妻として迎え入れ、ハガルは懐妊します。優越感を持ったハガルは主人であるサラを軽んじ、サラは激怒し、家庭に不協和音が響き渡りますが、アブラハムは夫として二人の間に立ちませんでした(創世記16:1〜6)。神様の介入でことなきを得、ハガルはイシュマエルを産みました。
5.アブラムからアブラハムへ
アブラハムが99歳の時、それまでのアブラハムの名前は、アブラムでした。神様はアブラムからアブラハムに改名させました。そして、来年、サラが男の子を産み、その子が約束の相続人となることを告げたのです(創世記17:1〜21)。そして、神様の約束は成就し、サラはイサクを産んだのです(創世記21:1〜7)
6.試練の中で主を信頼する
神様はアブラハムに約束の子であるイサクを献げるように迫りました。アブラハムは、神様はイサクを死からよみがえらせる事の出来るお方と信じたのです。神様はイサクの代わりの雄羊を用意されていました(創世記22:1〜19)。
7.愛する妻サラの死
サラは127歳で生涯を終えました。アブラハムは悼み悲しみ泣きました。そして、サラのために正式に墓地を購入したのでした(創世記23章)。
8.アブラハムのけじめ
サラの死後、アブラハムはケトラという女性を妻に迎えます。そして、六人の子供が与えられます。しかし、アブラハムは主の約束を大切にし、側女であるケトラの子達には贈り物を与えて、イサクと距離を離すために東方の国に行かせたのです(創世記25:1〜6。)
◯主と共に歩む
アブラハムは晩年こそ、それまでの人生以上に波瀾万丈であったことでしょう。自分の弱さに直面しました。しかし、彼は、召してくださった主を信じ、従い、歩んだのです。その歩みは、主が臨在してくださるが故に、幸せで満ち足りていたのです。
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第36主日礼拝式順序 2024年9月8日 午前10:30〜
1.黙祷・・・一 同
2.賛美156 われは主にありて楽し (賛美) ・・一同起立
3.使徒信条・・一 同
4.主の祈り・・一 同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美特選11 ・・一同
7.三大祷告
再 臨
イスラエル
日 本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・ 寺東真也師
主題 「人生の岐路の進み方」
使徒27:1〜20新約P.291
イザヤ30:21旧約P.1215
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講壇 「人生の岐路の進み方」
聖句 使徒27:1〜20
イザヤ30:21
『ただ、彼と言い争っている点は、彼ら自身の宗教に関すること、また死んでしまったイエスという者のことで、そのイエスが生きているとパウロは主張しているのです。』(使徒の働き25章19節)
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◯囚人としてローマへ
パウロはカエサルに上告したのでローマにおいて裁判を受ける事となりました。パロ以外の囚人数人と共に、パウロはユリウスという百人隊長の監視下に置かれ、船にてローマに向かう事となりました。
◯航海には向かない季節
しかし、9月下旬から11月半ばまで、地中海の航海は危険を孕むようになり、その後の冬は航海を停止する期間になります。この頃の季節はおそらく、秋で、航海が危険になっている季節でした。なので、ローマへの直行便はありません。そこで、パウロたちが乗り込んだ船はカイサリヤからアジアの沿岸各地に寄港していくアドラミティオ(アジア北部の港町)行きの船に乗船する事になったのです。船は比較的安全なキプロス島の島陰からキリキア、パンフィリア沿いを航行し、リキアのミラに入港しました(4〜5節)。
ここで、ローマを経由してアフリカのアレクサンドリアに行く船に乗り継ぎました。しかし、風邪に悩まされ、難航し、クレタ島の南側の島陰を航行する事になったのです(7節)。そして、やっとのことで、クレタ島の「良い港」と呼ばれる場所まで来ました。
◯航行には危険な季節
この時、「かなりの時が経過し、断食の日(贖罪の日のことであろう9月末から10月初め頃)もすでに過ぎていた」(9節)と記されており、航海禁止までは言わずとも、状況的にみても、より航海するのに危険な季節になっていたことがわかります。
◯パウロの助言
パウロは御霊に導かれ次のように助言しました。
「皆さん。私の見るところでは、この航海は積荷や船体だけでなく、私たちのいのちにも危害と大きな損失をもたらすでしょう」(10節)
これは、決して的外れな助言や指摘ではありませんでした。
◯無理を押して出航した結果
結果から言うと、パウロの助言は虚しく聞き流され、無理を押して同じクレタ島のフェニクスまで行く事となり、出航したところ、まもなく、ユーラクロンという暴風が吹き降ろし、船は流されるままとなってしまいました。小舟を回収し、船具を降ろし、網で船体を巻き補強して・・・できることは全てした後、三日が過ぎても嵐は収まらない。最終的には、船を軽くするために船具まで海に投げ捨てたのです(19節)。そして、待っていたのは絶望でした(20節)。
◯人生の岐路に立つ時
今回のことを反面教師に三つ挙げましょう。
1. 神様よりも専門家に聞く(11節)
人は、専門家や知識人、頼りになる人を目の前にすると、神様よりもその人の意見に安心して、祈らなくなり、求めなくなる生き物です。百人隊長も素人のパウロの意見よりも、プロの意見を採用しました。知識がいらないのではありません。主を恐れることが知識のはじめなのです(箴言1:7旧約P.1092)。
2. 多数決こそ全てという間違い(12節)
「良い港」は冬を越すには良い所ではなかったので、乗船している多くの人の意見としては、西に80キロほど離れたフェニクスまで行きたいというものでした。そして、その意見が採用されたのです。民主主義的な多数決は最適手と考えられがちですが、はたしてそうでしょうか。多数の意見を出す人間は間違いを犯す存在であることを忘れてはなりません(黙示録3:14〜19)。
3. 見える状況に流される(13節)
出航を決めた瞬間、穏やかな南風が吹き、これ最善と勢いで錨を上げて出航しました。自分の思いを後押しするかのような状況が起こる時、これぞ、神の導きと勝手な解釈をすることがあります。もしかすると、そのような人は、御心を求めているようで、自分の願いを正当化する手段を探しているだけかもしれません。
あたなは人生の岐路でどのような選択をどのように行いますか?
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第35主日礼拝式順序&聖餐式 2024年9月1日 午前10:30〜
1.黙祷・・・一 同
2.賛美251 主イエスの御側に (平安) ・・一同起立
3.使徒信条・・一 同
4.主の祈り・・一 同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美462 聖書も時の徴も (再臨) ・・一同起立
7.三大祷告
再 臨
イスラエル
日 本
8.聖書・・・・司 会 者
9.特別賛美・・聖 歌 隊
10.メッセージ・・・ 寺東真也師
主題 「私のように」
使徒26:24〜32旧約P.291
第二コリント5:13〜15新約P.361
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講壇 「私のように」
聖句 使徒23:11〜35
第二コリント5:13〜15
『わずかな時間であろうと長い時間であろうと、私が神に願っているのは、あなたばかりでなく今日私の話を聞いておられる方々が、この鎖は別として、みな私のようになってくださることです。』使徒26:29
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アグリッパ王に対するパウロの弁明は、もはや弁明を超えて、聖霊によって用いられたパウロの証と伝道説教でした。
◯フェストゥスの横槍
パウロは、アグリッパ王に対して弁明をしておりましたが、一緒に聞いていたフェストゥスが我慢の限界を超えて、大声で弁明を遮ってしまったのです。
「パウロよ、おまえは頭がおかしくなっている。博学がおまえを狂わせている。」(24節)
パウロは情熱をもって紳士的に、そして、理路整然と旧約聖書に書かれた約束とその成就であるイエス・キリストの受難と復活を語りました。そして、それこそ、みことばの成就であり、ユダヤ人たちが待ち望む、救いと復活の希望なのだと語ったに過ぎません(25節)。しかし、ギリシャ人やローマ人にとって、霊魂の不滅に関しては受け入れることは出来ても、「体の復活」はあり得ないことだったのです(使徒17:32)。まさに、次のみことばの通りです。
「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」(第一コリント1:18新約P.327)
○アグリッパ王への問いかけ
福音は提示されるだけでは完結しません。福音を聞いた者が、福音を受け入れ信じる必要があるのです。そこでパウロはアグリッパに対して、信仰の決断をせまったのです。
エドム系とはいえ、ユダヤ人であり、王として、大祭司の任命権を持っている権力者であるアグリッパ王です。もちろん、イエス・キリストの十字架と復活の出来事、そして、その事を信じる者たちが、爆発的に起こり、国外にも信者を増やしていることをアグリッパは知っていました。興味もあり、今回の弁明を聞いたのですが、パウロの御霊に満たされた天来の知恵の前に、グウの音も出ないほどに、納得せざるを得ない状況になったのです。もしも、この時、アグリッパ王に地位も立場もなく、素直に、応えることができたならば、信仰告白に導かれたかもしれません。
○アグリッパ王の拒否
「おまえは、わずかな時間で私を説き伏せて、キリスト者にしようとしている」(28節)
残念ながら、アグリッパ王は、主の招きに応えることなく、自分の立場と体裁を守る事に徹しました。大切なのは、子供のように素直に神の国を受け入れることです(ルカ18:16〜17新約P.155)。
○私のようになって欲しい
パウロは素直な自分の気持ちを述べています。
「この鎖は別として、みな私のようになってくださることです。」(29節)
これは、「旧約聖書に精通し、理路整然と論理立てて語り、権威を持って語る有能なクリスチャン」という事を言っているのではありません。その反対で、自分の罪に気付き、その罪のために十字架に架かり、復活してくださったイエス・キリストを信じ、救われたものとなって欲しいとパウロは願っているのです。だから、世の光であるイエス様をいのちがけで述べ伝えるのです。
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第34主日礼拝式順序 2024年8月25日 午前10:30〜
1.黙祷・・・一 同
2.賛美266 罪 咎を赦され (救いの喜び) ・・一同起立
3.使徒信条・・一 同
4.主の祈り・・一 同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美398 新しき地に (献身) ・・一同
7.三大祷告
再 臨
イスラエル
日 本
8.聖書・・・・司 会 者
9.特別賛美・・聖歌隊
10.メッセージ・・・ 寺東真也師
主題 「証しされるお方」
使徒26:1〜23新約P.289
マルコ13:9〜11新約P.95
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講壇 「証しされるお方」
聖句 使徒26:1〜23
マルコ13:9〜11
「あなたがたは用心していなさい。人々はあなたがたを地方法院に引き渡します。あなたがたは、会堂で打ちたたかれ、わたしのために、総督たちや王たちの前に立たされます。そのようにして彼らに証しするのです。まず福音が、すべての民族に宣べ伝えられなければなりません。人々があなたがたを捕らえて引き渡すとき、何を話そうかと、前もって心配するのはやめなさい。ただ、そのときあなたがたに与えられることを話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。」(マルコ13:9〜11)
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総督フェストゥスはアグリッパ王の前にパウロを立たせ謁見させる機会を作りました。
フェストゥスにとっては、皇帝の法廷に送るための確固たる理由を得る機会、アグリッパ王にとっては、興味本位でしかなかったでしょう。しかし、パウロにとって、この謁見はイエス様が弟子たちに語られた、証の機会となったのです。
◯パウロの弁明の大枠
1.挨拶(2〜3節)
パウロにとって悪しきヘロデ王朝のアグリッパ王であっても、神が愛した一人の魂として真摯に向き合い、そして、福音を語るのです。
2.訴えられている本質(4〜8節)
まず、パウロは自分自身、厳格なパリサイ派に属しており、多くのユダヤ人が持っている約束に望みを抱くものだと主張します。その本質は死者の復活であると。それが、イエス・キリストによって成就されたとたん、その事を受け入れることができないのは不思議であると論じるのです。
3.パウロの過去(9〜11節)
しかし、パウロ自身も、過去はキリストに反対する人物であった事を語っています。イエス様の教えに反対し、信じるものたちを迫害してきた経緯を包み隠さず語ります。これは、本当に、悔い改めたからこそ、また、赦されたからこそ、語れるのではないでしょうか。
4.イエス様との出会い(12〜18節)
そして、ついにパウロはダマスコへの途上で眩い光の中でイエス様に出会ったのです。今回の証において特筆すべきことの中に、このイエス様との出会いの経験にあります。ルカがまとめた9章の史実や、暴動の中で、民衆に証した時には、語られなかった詳細な事柄が、パウロの口から語られたのです。それは、14節と16〜18節です。14節ではパウロの迫害は神の御心に叶わず、自分自身を傷つけるものである事、16〜18節では、大きな間違いを犯しているパウロを救い、選び、遣わすと、イエス様は仰いました。そして、闇と暗闇に支配されている人々を、イエス様を信じる信仰によって罪の赦しと永遠の相続にあずかるものにするのだと。
5.結論(19〜23節)
パウロは、自分本位な活動をしているのではいと弁明します。これは、天からのビジョンであり、神の御心であるからなのだと。ゆえに、ダマスコからエルサレム、ユダヤ地方全体、そして、異邦人にまで福音を宣べ伝えたのです。そして、宣べ伝えていることは、預言者が預言した通りのことで、キリストが苦しみを受け、死者の中から最初に復活し、ユダヤ人にも異邦人にも、まことの光なるキリストを宣べ伝えているのです。
◯誰が証しするのか
ところで、イエス様は、王や総督の前で、証をすることになると2度語られています。一つは、12弟子を訓練のために遣わされる前の指示の中においてです(マタイ10:17〜20新約P.18)。もう一つは、神殿の造りに感動した弟子たちにイエス様が終末を語られた中においてです(マルコ13:9〜11、ルカ21:12〜15新約P.163)。どちらも、厳しい状況の中に、クリスチャンは置かれる事を指摘しており、しかし、それと共に、証する源泉は三位一体の神ご自身からくる事を言っています。証するのは、父の御霊(マタイ10:20)、イエスご自身(ルカ21:15)、聖霊(マルコ13:11)だからです。
パウロは、アグリッパ王とフェストゥスを前に大胆に語りましたが、主に用いられて語ったのです。
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第33主日礼拝式順序 2024年8月18日 午前10:30〜
講壇 「見つめる先にあるもの」
聖句 使徒25:13〜27
『ただ、彼と言い争っている点は、彼ら自身の宗教に関すること、また死んでしまったイエスという者のことで、そのイエスが生きているとパウロは主張しているのです。』(使徒の働き25章19節)
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パウロはカイサリアにおいて新総督のフェストゥスのもとで、再度、2年ぶりとなる裁判を受け、あえて、不利になったとしても、当時の最高裁である、ローマにおけるカエサルの法廷に立つことを望み、上訴しました(使徒25:11)。パウロにとって、有利不利、有罪無罪よりもローマにおいて復活のキリストを証する使命を最優先にしたからです。
○アグリッパ王の表敬訪問
当時、ユダヤ地方を治めていたのはヘロデ王朝でした。ローマ支配における傀儡の王家であり、ダビデ王家とは関係ありません。当時の王はヘロデ・アグリッパ2世でした。
彼の父はヘロデ・アグリッパ1世で、ヤコブを殺害し、ペテロを投獄して処刑し(使徒12:1〜3)、最終的には自らを神と等しく振る舞い傲慢になったゆえに、虫に噛まれて(神に打たれて)息絶えました(使徒12:21〜23)。
彼の曽祖父はヘロデ大王でイエス様の誕生の際、妬みに駆られ、ガリラヤ一帯の2歳以下の男の子を皆殺しにした男です(マタイ2:16)。
また、彼の大叔父はヘロデ・アンティパスでバプテスマのヨハネの首を切った男です(マタイ14:3〜10新約P.28)。
ちなみに前総督フェリク’の妻であるドルシラは彼の末の妹です。そして、今回、新総督に表敬訪問した際、同席したベルニケはドルシラの姉であり、アグリッパ2世の妹でした。彼らは新総督であるフェストゥスに敬意を表するために訪問しにきたのでした(13節)。
○三者が見つめるもの
1.フェストゥス
アグリッパ王の表敬訪問が何日にも亘ったので、フェストゥスはパウロの裁判について言及しました(14〜21節)。すると、アグリッパ王がパウロに興味を持ち、自分も話を聞いてみたいと言い出したのです(22節)。フェストゥスは二つ返事で、了承し、次の日に謁見できるように手筈を整えたのです。これは、一見、アグリッパ王への忖度に見えますが、フェストゥスの中に、一つの課題がありそれを解決するために丁度よかったのです。それは、「カエサルに書き送るべき確かな事柄」です(26節)。フェストゥスはカエサルを「わが君」と読んでいますが。これは「主」と同じ言葉です。ある意味で、フェストゥスにとってカエサルは神だったのです。その神に中途半端な形で囚人を送ることはしたくなかったのです。フェストゥスが見つめていたのはカエサルだったのです。
2.アグリッパ王とベルニケ
アグリッパ王とベルニケはパウロから謁見を受けるとなった時、「大いに威儀を正して到着し、千人隊長たちや町の有力者たちとともに謁見室に入った」と記されています。彼らの見つめていたものは、誰々彼でなく自分たち自身だったのです(ピリピ3:19新約P.399)。
3.パウロ
最後に、パウロが見つめていたのは、復活された、今も生きている神の子イエス。キリストでした。奇しくも、フェストゥスはアグリッパ王に説明する際、パウロの主張はイエスが生きていることだと明言しています(19節)。
あるものは被造物を神として見つめ、ある者は自分自身を神として見つめ、そして、クリスチャンは神を見つめるのです。あなたは、何を見つめて生きていますか?
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第32主日礼拝式順序 2024年8月11日 午前10:30〜
1.黙祷・・・一 同
2.賛美309 荒野を旅する (信頼) ・・一同起立
3.使徒信条・・一 同
4.主の祈り・・一 同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美特選7 ・・一同起立
7.三大祷告
再 臨
イスラエル
日 本
8.聖書・・・・司 会 者
9.特別賛美・・・ 聖 歌 隊 o
10.メッセージ・・・ 寺東真也師
主題 「生きることはキリスト」
使徒25:1〜12新約P.287
ピリピ1:21新約P.395
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講壇 「生きることはキリスト」
聖句 使徒25:1〜12
ピリピ1:21
「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。」(ピリピ1:21)
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パウロが幽閉されてから2年の歳月が経ち、フェリクスはユダヤ総督から罷免される事になりました。史実によりますと、ユダヤ人と異邦人の間に争いが起こり、その結果、フェリクスは多くのユダヤ人を虐殺したようです。フェリクスの後任としてフェストゥスが着任したのです。
○フェストゥスの上京
フェストゥスは着任早々、ユダヤ人たちの重要な都市であるエルサレムに上り、仕事をこなしました。新しい総督にパウロの事を訴える絶好のチャンスと捉え、祭司長や長老たちは直談判をしたのでした(2節)。しかも、裁判の再審をこのエルサレムにおいて行わせていただきたいと望んだのです。これは、今までの裁判においてはパウロを有罪にするのが難しいと踏んだユダヤ人たちが、一度は失敗に終わった暗殺計画を再燃させたからでしょう。暴徒を装い、有耶無耶のうちに、襲撃し、亡き者にしようという算段だったからです。その状況を作り出すためには、パウロをエルサレム周辺に連れ戻す必要があったのです(使徒23:12〜15)。
この時、フェストゥスは毅然とした態度で、パウロのエルサレム行きを一蹴しています(4〜5節)。フェストゥス的にはユダヤ人の長老たちに恩を売るのは今後の政治的な事を考えても、益になります。しかし、パウロのローマ市民権所有者であることも、フェリクスから、暗殺のきな臭さがあることも聞いていた上で、着任早々に、良くも悪くも世を騒がせたパウロの暗殺劇が起こるのは、見逃せなかったのでしょう。
○フェストゥスの裁判
フェストゥスはカイサリアに戻ってすぐに、訴えのあったパウロに出廷を命じ、裁判を行いました。ユダヤ人たちは「重い罪状」を申し立てました。これは、ユダヤの最高法院でも、フェリクスの法廷でも取り扱われた罪状で、騒乱罪、律法違反、宮の冒涜罪等でした。しかし、今までもそうだったように、その罪状を証明することができませんでした(7〜8節)。
◯フェストゥスの下心
フェストゥスからしても、パウロは無罪であることが明らかだったことでしょう。そして、ローマの市民権を有する人は、高級国民のような人権を有する時代です。無下に扱うことはできませんが、同意のもとならばという発想で、パウロに一つの提案を投げかけました。それは、エルサレムに戻って裁判を行う事を望むか?というものでした。これは、一見、高等裁判所での裁判を、より軽い地方裁判所にてやり直させてあげようという甘い扱いに見えます。体裁はそうでしょう、しかし、実は、パウロの暗殺計画を知っていたフェストゥスはユダヤ人たちに恩を売るために、この提案をしていたのです(9節)。
◯パウロの上告の意味
パウロにとって、裁判をいかに有利に終わらせるかが判断基準ではありませんでした。パウロが見ていたのは、イエス様が見ていた世界宣教であり、目下、ローマにおける証であったのです(使徒23:11)。なので、パウロは地方裁判所であるエルサレムではなく、最高裁判所であるカエサルの法廷(ローマ)での裁判を要求したのです。これを、フェストゥスは暗殺されないためと飛躍解釈をしていました(使徒25:21)。しかし、彼にとって肉体の生き死にで人生を生きていなかったのです。キリストを宣べ伝え、証することに命をかけていたからです。
まさに、パウロにとって生きることはキリスト、死ぬことさえも益であったからです。
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第31主日礼拝式順序&聖餐式 2024年8月4日 午前10:30〜
講壇 「恵みの鍵」
聖句 ヨシュア2:1〜24
エペソ2:8
『この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。』(エペソ2章8節)
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聖書の中には神様の「恵み」が満ち溢れています。イスラエルが約束の地を与えられる事であってもそうですし、今日の御言葉の中に出てくるラハブという女性に約束され、起こった出来事も恵みなのです。その事から恵みの鍵を発見しましょう。
◯どのような人が神様の恵みを受けることができるのでしょうか?
恵みを受ける事が出来る人は真面目で誠実で、思いやりのある人・・・と考えてしまいやすいのですが、恵みに条件が付くならば恵みでなくなってしまいます(ローマ11:6新約P.315)。
今日の聖書に出てきたラハブの職業はというと、“遊女”(売春婦)でした。神の民イスラエルからみても、正しい人ではありませんでした。しかし、神様の恵みはラハブに注がれたのです。
すなわち全ての人が恵みを受けうる対象であることを示しています。
○恵みを授ける御方を知る。
ではなぜ、このラハブは恵みをいただくことができたのでしょうか。
ヨシュアは約束の地に入ってすぐの町のエリコをスパイ達に探らせました。しかし、スパイが侵入したことが敵に分かってしまったのです。その時、イスラエルのスパイをかくまってあげたのがラハブでした。ラハブはイスラエルの神様こそが真の神であり、畏れられるべき御方だと知ったのです。ラハブは恵みを授けられる方を知ったがゆえに、イスラエルのスパイをかくまい、助けたのでした。真の神に対する信仰こそ恵みを受ける秘訣です。
○恵みによって救われる
ラハブは恵みを授ける事の出来る御方に信頼し、信じた結果、エリコが滅ぼされる時に何の危害も加えられることがありませんでした。そして命を得ることが出来たのです(ヨシュア6:20〜27)。
また、命を得る以上に神様はラハブの信仰を喜ばれ、ヘブル人への手紙11章に信仰の勇者として描かれています(へブル11:31新約P.453)。また、何よりも驚くことに、神様が世に遣わすと約束された救い主イエスキリストの系図の中に名を連ねているのです(マタイ1:5新約P.1)。
信仰によってラハブは大いなる恵みの中に新しく生きる者とされたのです。
○恵みの保証書
ラハブに注がれた神様の恵みを共に見てきましたが、神様の恵みは今も、私たちも受けることが出来ます。恵みを受ける秘訣は信仰でありますが、それには保証書が存在します。
ラハブはイスラエルのスパイをかくまって、信仰告白した後に、自分も家族も助けて欲しいと望みました。その時“赤いひも”を印として窓から下げているなら助かるという保証を与えられました。
今日もイエス・キリストの十字架の血潮は私たちの永遠の保証となるのです。この犠牲の血潮こそ、恵みの中の恵みであります。永遠の命を得させる神様の保証書は、自己犠牲の愛に包まれた力あるイエスキリストの血潮です。ラハブの“赤いひも”はイエスキリストの血潮の型であったのです。
どのような者でも神様に信頼し、頼る者を神様は捨てられません。このお方にいついつまでも従って行きましょう。
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第30主日礼拝式順序 2024年7月28日 午前10:30〜
1.黙祷・・・一 同
2.賛美230 十字架のもとぞ (救い) ・・一同起立
3.使徒信条・・一 同
4.主の祈り・・一 同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美151 永久の安き来りて (再臨」) ・・一同起立
7.三大祷告
再 臨
イスラエル
日 本
8.聖書・・・・司 会 者
9.特別賛美・・・ 聖 歌 隊 o
10.メッセージ・・・ 寺東真也師
主題 「救いのチャンスを掴め」
使徒24:1〜27新約P.285
第二コリント6:2新約P.362
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講壇 「救いのチャンスを掴め」
聖句 使徒24:1〜27
第二コリント6:2
「神は言われます。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。」(第二コリント6:2)
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パウロは暗殺計画から逃れ、カイサリアにいる総督フェリクスのもとに護送されました(使徒23章)。
そして、5日後、大祭司アナニアは長老たちと弁護士のテルティロを引き連れて、総督に告訴したのです。
○テルティロの酷い訴え
テルティロは総督フェリクスにお弁チャラを述べた後(2〜3節)、パウロを酷い言葉でパウロを訴えています。
「実は、この男はまるで疫病のような人間で・・・」(5節)
なんと、人格否定から始めています。弁護士が訴える内容とは思えません。証拠不十分な内容を、感情的に訴える典型と言えます。
○パウロの賢明な弁明
テルティロの訴えに対して、パウロの弁明は実に論理的で紳士的なものでした。売り言葉に買い言葉という表現がありますが、ケンカに発展する典型です。ケンカを売られたから買ってやるというのは、子供から、国同士の世界観まで様々です。しかし、パウロは罵られても、罵り返しませんでした。パウロは十字架キリストの足跡に従っていたからです(第一ペテロ2:19〜21)。
◯フェリクスの思惑
フェリスクはこの地方の総督であったので、ユダヤ教の教義や、ナザレ派と言われたユダヤ教的には異端であるキリスト教のうわさも知っていました(22節)。おそらくフェリクスはもうこの時点で、パウロが無実である事を認識していたのでしょう。しかし、ユダヤ人達の指導者の訴えを退ける事は、自分の利害関係上、よくないと判断したのです。なので、当事者の一人である千人隊長のクラウディウス・リシアが来た後に判決を下すとして裁判を延期したのでした。
そして、さらに、フェリクスの自己中心的な思惑が二つ記されています。
1. 賄賂(26節)
フェリクスはパウロを何度も呼び出して、話を聞きました。一見、囚人に対して親身に対応しているように見えます。しかし、その実は、パウロが賄賂を用意してくれるのではないかと期待していたのです。パウロは、生まれながらにしてローマの市民権を持ち、ユダヤ教徒的にも本来はエリートである事をフェリクスは知っていたからです。
2. 偽りの人望(27節)
フェリクスは2年もの間、パウロを監禁しました。そして、彼の後任であるポルキウス・フェストゥスが着任する際も、パウロを監禁したままにしたのです。なぜでしょうか。それは、ユダヤ人たちの機嫌取りであり、恩を売るためだったのです。遣わされた地での、評価をあげるためです。
◯チャンスの先送り
話しを2年前に戻しますが、裁判を延期にした数日後、フェリクスは自分の妻であるドルシラを連れて、イエス・キリストに対する信仰の話を聞きに来たのです。
その際、パウロは御霊の導きの中で神の愛と恵みではなく、「正義と節制と来たるべきさばき」(25節)について論じたのです。なぜでしょうか。実は、フェリクスは妻のドルシラを略奪して結婚していたのです。彼女は使徒ヤコブを殺したヘロデ・アグリッパ一世(使徒12:1〜3)の末娘です。また、大叔父のヘロデ・アンティパスはバプテスマのヨハネに兄弟の妻を自分のものにした罪を責められ、牢にいれ、最終的に殺しています(マタイ14:3〜4新約P.28)。
フェリクスは来るべき裁きを聞き、罪を示されながら、受け入れる事なく、「今は帰ってよい」と言って、先送りしました。彼は救いの絶好のチャンスを自ら、放棄したのです(25節)。
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第29主日礼拝式順序 2024年7月21日 午前10:30〜
○失われた人
ザアカイとは「清く、正しい」という意味を持つ名前です。職業は取税人でした。ローマの支配下にあったイスラエルはローマに税金を支払う義務があったのです。それを面白く思っている国民は誰もいません。ローマ帝国に税金を納める為に、税を取り立てていたのが取税人で、ユダヤ人でありながら、支配国の側についている職業というイメージから嫌われていたのです。他者から、感謝されるどころか、働けば働く程、嫌われ、距離ができていく。負の感情にさらされ続けると人は、歪み、開き直って行きます。ザアカイは嫌われ者らしく、不正を行い、私腹を肥やす道を自ら選び取り、信じることが出来るのはお金だけいうような人生を送っていました。
ザアカイは神様の目から見て、失われた人だったのです。
○捜してだしてくださる神
エリコの町にイエス様が行かれた時、多くの人がイエス様を取囲んでいました。ザアカイはひと目イエス様を見たかったのですが、背が低かった為に、見ることが出来ませんでした。そして、彼のとった行動は、いちじく桑の木に登って上からイエス様を見ることでした。いちじく桑の下を通り過ぎるまさにその時、イエス様は歩みを止めたのです。
『イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」』(5節)
イエス様とザアカイは初対面です。しかし、イエス様はザアカイのお名前をご存知でした。いや、失われて罪深い心の奥底まで、全てを知っておられたのです。ザアカイはイエス様の招きに喜んで応答し、自分の家に迎えました。
○救ってくださる神
イエス様は、失われた人を捜しだすだけではありません。その者を救ってくださるお方なのです。ザアカイは人一倍お金を持っていました。しかし、お金は本当の意味でザアカイを満たすことは出来ず、もっとお金が欲しいと言う貪欲に陥らせ、不安に陥れるだけでした。本当の救いは神様にしか与える事は出来ないのです。それは、無条件で愛し、赦してくださるお方にしか成しえないのです。イエス様の愛に触れたザアカイは本当に救われました。彼は変えられ、だまし取って貯めこんでいたお金を、賠償とチャリティの為に用いる事を自ら、提案しだしたのです(8節)。いい人になる事が救いではありません。しかし、イエス様の救いは、罪赦されるだけではなく、イエス様の聖さに似せられ変えられていく恵みが輝いているのです。
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第28主日特別礼拝式順序 2024年7月14日 午前10:30〜
1.黙祷・・・一 同
2.賛美222 罪の深みに (神の愛) ・・一同起立
3.使徒信条・・一 同
4.主の祈り・・一 同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美468 やがて天にて (天国) ・・一同起立
7.三大祷告
再 臨
イスラエル
日 本
8.聖書・・・・司 会 者
9.講師紹介・・・・寺東真也師
10.メッセージ・・・ 長内愛一郎師
主題 「金持ちとラザロ」
〜終活なき人生からの教訓!〜
ルカ16:19〜31新約P.151
へブル9:27〜28新約P.448
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講壇 「何人かでも救うため」
聖句 ルカ16:19〜31
へブル9:27〜28
「そして、人間には、一度死ぬこと(地上)と死後にさばきを受けること(永遠)が定まっているように、
キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。」(へブル9:27〜28)
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◇キリスト者の終活について
「キリスト者の終活」とは、神様から与えられた人生を振り返り、人生の終わりに向けて「死(エンディング)への備え」をする事と言えます。その目的は、(1)神から与えられた人生を感謝しつつ、知恵深く、有意義に生きるため。(2)天の御国に入るための備えるため。(3)残された家族に迷惑をかけず良い証しをするためです。
◇終活なき人生から学ぶ教訓
さて、聖書が教える「終活」には、地上における人生の終わりに向けた備え〈肉体の死への備え〉と永遠に向けた神に会う備え〈死後のさばきへの備え〉)の二つがあります。
今日は、これらの備えをしなかったたとえ話に登場する「金持ち」から教訓を学びたいと思います。
聖書が教える終活の必要性を教える重要なみことばの一つがつが、へブル9:27〜28のみことばです。この個所から聖書的終活とは神様が人間に与えられた定めに基づくこと又、イエス様を信じるなら人の定めである死と死後のさばきを越えて永遠のいのちの希望に生きる待ち望みが与えられていることが分かります。
1.肉体の死は誰にでも訪れる!
聖書は、人の定めは死ぬこと、死後に神のさばきを受けることだと厳粛に語っています。
(1)金持ちの死(19節)
贅沢三昧の暮らしをした金持ちは「死んで葬られた」(22節)とあります。盛大な葬儀が営まれ、立派な墓に埋葬されたのでしょう。
(2)ラザロの死(20、21節)
金持ちの門前にはできものだらけの貧しいホームレスのラザロが犬にまでなめられ、人間の尊厳を感じられない人生を歩み、人知れず息を引き取りました。葬られたとは記されていません。
2.死後の魂(霊)の行き先は地上の生き方で決まる!
(1)金持ちの生き方と死後の行き先
(火の燃える苦しい場所)
金持ちは生前貧しいラザロの現状を知りながら愛の手を差し伸べず(ヤコブ2:5他)、神様と隣人とを愛する生き方ではなく、物質主義的な生き方をしました。
(2)ラザロの生き方と死後の行き先
(アブラハムの懐)
ラザロは死後、アブラハムの元で慰めと安らぎを得ました。この結果からラザロが見えない神様に信頼して歩んでいたがうかがえます。
3.聖書が教える終活は聖書に耳を傾け、どう応答するかで決まる!
(1)救いは聖書(モーセと預言者)に耳を傾けているか!
(2)地上で生きているうちに、信じ、応答する必要がある!
聖書が教える真の終活とは、聖書のみことばに耳を傾け、悔改めてイエス・キリストを救い主と信じ、永遠のいのちを持つことです!
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第27主日礼拝式順序&聖餐式 2024年7月7日 午前10:30〜
1.黙祷・・・一 同
2.賛美199 主を仰ぎ見れば (臨在) ・・一同起立
3.使徒信条・・一 同
4.主の祈り・・一 同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美150 旅人なるこの身にとりて (再臨) ・・一同起立
7.三大祷告
再 臨
イスラエル
日 本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・ 寺東真也師
主題 「備えられた脱出の道」
使徒23:11〜35新約P.283
第一コリント10:13新約P.340
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講壇 「備えられた脱出の道」
聖句 使徒23:11〜35
第一コリント10:13
『あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。』第一コリント10:13
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パウロにとって第三次宣教旅行を終えた後のエルサレム訪問は、困難に次ぐ困難でした。パウロはすでに覚悟はしていたのですが、人間ですから、ストレスは相当のものであったはずです。エルサレムにあるアントニオ城塞、ローマ軍の兵営に保護されたパウロは、夜、主の語りかけを聞いたのです。
「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことを証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」(11節)
人間は弱い存在です。小さな存在に過ぎないのです。しかし、主が勇気を出せと言われる時、そこには根拠があります。主が共におられるのです。
◯パウロ暗殺計画(12〜15節)
夜が明けると、ユダヤ人たちは、四十人以上が徒党を組んで、パウロを殺すまで食べたり飲んだりしないと呪いをかけて誓ったのです。そして、彼らは祭司長や長老たちに、自分たちの覚悟を伝え、最高法院の名の下に、もっとパウを調べる事を名目に、兵営から出されるようにして欲しいと願います。それは、連れ出されたパウロを暗殺するためだったのです。
○主が備えられた脱出の道
秘密裏に進行するパウロ暗殺計画を前に、神様は脱出の道を備えてくださいました。どのように、パウロは脱出できたのでしょうか。
1. パウロの甥によって
パウロを待ち伏せし、亡き者にしようと狙っているという計画が、パウロの姉妹の息子の耳に入ったのです。甥は、おじさんの危機を知り、すぐに、パウロに知らせに行きました。おそらく、甥が拘留中のパウロのお世話をしていたのでしょう。その最中に、一大事を知ったのでした。パウロはすぐに、百人隊長に甥を千人隊長のもとに連れて行き、話を聞きてもらえるように頼みました。ただ事でない雰囲気を感じ取った千人隊長は、誰も居ない所に甥を連れて行って、話を聞き、すぐに対策を立ててくれたのです。もしも甥がこの陰謀を聞いていなかったら。しかし、「偶然」と括ってしまうのは大きな間違いです。ペテロの牢からの奇跡的な救出劇(使徒12:5〜11)や、パウロとシラスのピリピでの投獄からの解放(使徒16:25〜34)のような派手さをありません。神様が、甥を用いたのです。
2. 千人隊長を用いて
千人隊長であるクラウディウスは、その日の夜に、護衛をつけて秘密裏にカイサリアにいる総督であるフェリクスのもとに送り出したのです。しかも、その護衛があり得ない数だったのです。歩兵200人、騎兵70人、槍兵200人、合計470人体制です。たかが囚人一人を送り出すのに、エルサレムの部隊の半数近くが動員されたのです。これは、パウロがローマの市民権を持っていたのが主な理由ですが(27節)、主は、千人隊長がパウロに好感を持つように導かれたのでしょう。
パウロの護送はアンティパトリスを経て、カイサリアに至りました。そして、パウロの身柄は、総督フェリクスが預かり、ヘロデ大王が建てた官邸に保護したのです。
○みことばに信頼し身を委ねて
今回の脱出劇はパウロの自力脱出の要因は一つもありません。全て神様が備え、導かれたのです。あえて、パウロがした事を挙げるならば、それは、捕えられた夜に語られた、神様の励ましのみことばに信頼することでした。でも、それが一番難しいのかもしれません。全てを益とされる主を信じましょう。
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第26主日礼拝式順序 2024年6月30日 午前10:30〜
1.黙祷・・・一 同
2.賛美233 驚くばかりの (救い) ・・一同起立
3.使徒信条・・一 同
4.主の祈り・・一 同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美464 汚れと争いは (再臨) ・・一同起立
7.三大祷告
再 臨
イスラエル
日 本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・ 寺東真也師
主題 「あなたは命を選びなさい」
申命記30:19〜20旧約P.370
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講壇 「あなたは命を選びなさい」
聖句 申命記30:19〜20
『私は今日、あなたがたに対して天と地を証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいをあなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。』(申命記30:19)
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◯人生は選択の連続
私たちは、生活をする上で多くの選択をしなければなりません。夕食のおかずを選ぶような小さな選択から、結婚を決断するような大きな選択まで様々です。
でも案外一番大切な選択を知らない人が多いのではないでしょうか。しかもその大切な選択は単純明快な選択なのです。「命」と「死」、「祝福」と「呪い」どっちがよろしいか?これが人に投げかけられる人生最大の選択であります。これは聖書が私達に投げかけている設問なのです。
○人間の選択(創世記2:15〜17旧約P.3、3:1〜6、16〜19)
この世界は神様によって全てが創られました。それは人も例外ではありません。しかも人は特別に、神様のかたちに創られた神様の最高傑作であります。しかし、人は、悪魔にそそのかされ、自分の意思で神様の戒めを破る方を選んでしまったのです。神様に背を向ける事を罪といいます。その時から人に死が入ってきてしまったのです。
◯神様の選択(第一ヨハネ4:14新約P.483)
神様は人類を憐れんでくださり、命に至る道を私達に与えてくださいました。それがイエス・キリストであり、神様はイエス・キリストを通して、赦しの計画を立てられたのです。イエス・キリストは神様のひとり子です。天の父なる神様は、大切なひとり子であるイエス様を私達の救い主として、この地上に遣わされる決断をされました。
○イエス・キリストの選択(ピリピ2:6〜8新約P.396)
またそれに従順に従ったイエス様の姿を、聖書に見ることが出来ます。天の王座に座しておられ、聖い光に包まれておられた御方が、弱く脆い人の姿となってこの地上にお生まれになったのです。神の御言葉を宣べ伝え、最後には十字架に釘付けにされたのです。
いったい何がイエス様をそこまでさせたのでしょうか?それは私達を愛する愛のなにものでもないのです。
○私達の選択(黙示録3:20新約P.496)
神様からの助けの御手はすでにさし伸ばされています。しかし、いくら神様が救いの御手をさし伸ばされても、私達がその手をとらないと何の意味もなくなってしまいます。そう、今度は私達が選択し、決断する番なのです。あなたの心のとびらを開いてイエス様をお迎えしませんか。
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第24主日礼拝式順序 2024年6月16日 午前10:30〜
1.黙祷・・・一 同
2.賛美300 御恵み豊けき (信頼) ・・一同起立
3.使徒信条・・一 同
4.主の祈り・・一 同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美515 わが罪のために (永遠) ・・一同起立
7.三大祷告
再 臨
イスラエル
日 本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・ 寺東真也師
主題 「弟子は師に勝らず」
使徒22:22〜29新約P.282
マタイ10:24〜33新約P.19
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講壇 「弟子は師に勝らず」
聖句 使徒22:22〜29
マタイ10:24〜33
『弟子は師以上の者ではなく、しもべも主人以上の者ではありません。弟子は師のように、しもべは主人のようになれば十分です。家の主人がベルゼブルと呼ばれるくらいなら、ましてその家の者たちは、どれほどひどい呼び方をされるでしょうか。』(マタイ10:24〜25)
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パウロがエルサレムに帰るに際し、そこに苦難が待ち受けていることは、周知の事実でした。そして、それはアジアからやってきたユダヤ教徒によって暴動が誘発され、パウロは命の危険にさらされたのです。しかし、主の守りのゆえに、千人隊長が遣わされ、危険から守られたばかりか、証をする機会を得たのでした。パウロの証に最初は静かに耳を傾ける群衆でしたが、異邦人にパウロが遣わされた証から一変し、またもや、パウロに対する暴言を叫び始めたのでした。
◯私たちの霊の戦い
私たちが、クリスチャンになったと言うことは、一面いおいては、祝福といのちに溢れた生涯に招かれたと言えます。しかし、もう一面においては、苦難と戦いの人生が始まったとも言えます。イエス様は、12弟子を遣わされる際に、こう言われました。
「弟子は師以上の者ではなく、しもべも主人以上の者ではありません。」(マタイ10:24)
師であるイエス様が素晴らしい働きをされてもなお、信じない人々は、イエス様をベルゼブル(悪魔の王)扱いしたのですが(マタイ12:24)、そうであるならば、弟子であるあなた方は、ひどい呼ばれ方、扱いを受けると言われたのです。
パウロは次のように言われました。
「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしておくべきではない。」(使徒22:22)
イエス様も、十字架に架かられる前に群衆から次のように叫ばれました。
「除け、除け、十字架につけろ。」(ヨハネ19:15新約P.225)
私たちには世の戦いがあります。それは、主も戦われた戦いでもあります。そして、その戦いに主はすでに勝利してくださったのです(ヨハネ16:33)。
○天の特権
民衆があまりにも、喚き、上着を放り投げ、ちりを空中に撒き散らすので、千人隊長はパウロを兵営の中に引き入れ、なぜ、民衆がここまで怒り狂っているのかを調べる為にパウロをムチで打って取り調べるように兵士に命令しました。ローマ兵がパウロをムチで打とうとした時、パウロは側にいた百人隊長に、パウロ自身がローマの市民権を持っている旨を伝えました。そこから、ローマ兵達の態度が一変します。すぐさま、千人隊長にその事が伝えられ、千人隊長も驚きを隠せず、なぜ、パウロが市民権を持っているのかを問い質したのでした。千人隊長でさえ、大金でこの市民権を買ったようですが、パウロは生まれつきの市民だったのです。ローマの市民権には大きな特権が伴うのです。
本来ならば、イエス様は天の特権をお持ちの方です。しかし、その特権をこの地上で行使されませんでした。ゲッセマネの園にて逮捕された際にも、弟子達をたしなめ、特権行使をしない訳を語られています(マタイ26:53〜54)。それは、聖書の約束である救いが成就される為だったのです。
クリスチャンも天の特権にあずかる者たちです。時に、奇跡を体験し、癒しを体験し、悪霊さえも震えて逃げ出すほどのみことばの権威と力を行使する事ができるのです。でも、イエス様は、そのような特権の力を喜ぶのではなく。天に名が記されていることを喜ぶようにと教えてくださいました(ルカ10:20)。
私たちの師匠であり、主人はイエス様です。このお方に似たものとして成長させていただく事が、私たちの本分なのです。
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第23主日礼拝式順序 2024年6月9日 午前10:30〜
1.黙祷・・・一 同
2.賛美427 ただ主を (証し) ・・一同起立
3.使徒信条・・一 同
4.主の祈り・・一 同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美特選6・・一同起立
7.三大祷告
再 臨
イスラエル
日 本
8.聖書・・・・司 会 者
9.特別賛美・・聖 歌 隊
10.メッセージ・・・ 寺東真也師
主題 「主が遣わされたから」
使徒22:1〜21新約P.281
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講壇 「主が遣わされたから」
聖句 使徒22:1〜21
「すると主は私に、『行きなさい。わたしはあなたを遠く異邦人に遣わす』と言われました。」(使徒の働き22:21)
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パウロはエルサレムにおいてユダヤ教徒のでっち上げの訴えを発端とした混乱の只中にいました。しかし、神様はローマ兵を通して、その混乱から救い出されました。また、パウロは転んでもタダでは起きません。千人隊長から発言する機会を得て、自分を殺そうとしていたユダヤ人達に対して語り出したのです。それは、パウロの「証」でした。
◯生い立ちと過去(3〜5節)
パウロは現トルコ南部に位置するキリキアのタルソに生まれ、一流のラビであるガマリエルのもとで律法を学びました。そして、熱心なパリサイ派に属し、クリスチャンを迫害したのでした。そして、ある日、大祭司からダマスコの諸会堂宛の手紙をもらい、クリスチャン達を縛り上げ、エルサレムに連行して処罰するために意気揚々と出かけたのでした。パウロはクリスチャンにとって脅威の人物であったのです。そして、その事を包み隠さず述べたのです。
○イエス・キリストとの出会い(6〜11節)
ダマスコへの途上で、パウロは光に包まれ、その光の中からら声がしたと言います。
「サウロ、サウロ、どうしてわたしを迫害するのか。』(7節)
パウロは声の主に誰かを尋ねると、あなたが迫害しているナザレのイエスであると応答がありました。そして、ダマスコに行くように指示を受け、そこで、パウロがすべき事を告げると言われたのです。パウロは輝きのゆえに目が見えなくなったので、手を引かれてダマスコに行きました。衝撃的なイエス・キリストの出会いを経験したのですが、パウロにとって青天の霹靂であったことでしょう。
◯回心(12〜16節)
ダマスコでパウロはアナニアと出会います。そして、彼を通して、見えない目が癒されたのです。
実は、ここまでは、使徒9章にも記されていますが、ここからは、9章に記されていない側面の証が記されているのです。
それは、神の御心を知り、神を見て、聞いて、その事を明かしする証人となると言う事でした(14、15節)。そして、バプテスマを受けるように勧められたのです。
パウロにとって救いと召命が一度にきた印象深い経験であったことでしょう。
○異邦人伝道への召し(17〜21節)
パウロの証では端折られていますが、ダマスコでの宣教で命を狙われたパウロは弟子達によって街の外へ籠で脱出させてもらい、エルサレムへと逃れました(使徒9:23〜25)。しかし、エルサレムでもギリシャ語を使うユダヤ人に宣教した結果、そこでも、命を狙われるのですが(使徒9:28〜29)、ここで、主からの直接的なエルサレムを出る導きと、異邦人伝道への召しをいただいたのでした(18〜21節)。パウロにとって迫害していたクリスチャンよりも、元仲間であったユダヤ教徒達の方が、受け入れてくれて伝道のチャンスになるのではないかと考えていたのでしょう。しかし、神様はパウロの思い描く願いとは正反対の道に導かれたのです。
○聞き従う事は献げものにまさる(第一サムエル15:22旧約P.505)
パウロの素晴らしさは、その優秀さにあるわけではありません。神様の召しを最優先して聞き従う道を歩み続けた事なのです。彼の証は、主が私を救い、召し、遣わされたと言うものだったのです。
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第22主日礼拝式順序&聖餐式 2024年6月2日 午前10:30〜
1.黙祷・・・一 同
2.賛美231 いさおなき われを (救い) ・・一同起立
3.使徒信条・・一 同
4.主の祈り・・一 同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美329 御国への道 歩むとき (信頼) ・・一同起立
7.三大祷告
再 臨
イスラエル
日 本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・ 寺東真也師
主題 「人生の難局を乗り切る秘訣」
使徒21:27〜40新約P.280
ローマ15:30〜32新約P.323
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講壇 「人生の難局を乗り切る秘訣」
聖句 使徒21:27〜40
ローマ15:30〜32
『兄弟たち。私たちの主イエス・キリストによって、また、御霊の愛によってお願いします。私のために、私とともに力を尽くして、神に祈ってください。私がユダヤにいる不信仰な人々から救い出され、エルサレムに対する私の奉仕が聖徒たちに受け入れられるように、』ローマ15:30〜31
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パウロはエルサレムに到着後、ユダヤ人クリスチャンの中で、まことしやかに噂されていた、誤解を解くために、誓願を立てている4人のものたちの髪を剃る費用を出してあげることにしました。
きよめの期間が過ぎパウロは宮に行きました。その時です。アジアから来たユダヤ人たちが、根も葉もないことを叫び始めたのです。
◯色眼鏡で人を見る愚かさ
クリスチャンであっても、あらぬ噂がたつほどでしたので、クリスチャンでないユダヤ人にとって、パウロの宣教活動は赦せない行為となりました。
エペソでの宣教をしていた際にも、ユダヤ人におけるは迫害や妨害があったのですが、そのユダヤ人たちが、あえて、エルサレムまで追いかけてきて、パウロの邪魔をしようとしていたのです。そして、ある光景を目撃します。それは、エサレム教会への献金を届ける使節団の一人であったエペソ人トロフィモ(使徒20:4)と町で一緒に歩いているところでした。五旬節の祭りがあったこともあり、普段よりも異邦人がエルサレムにいることは特段おかしなことではありません。しかし、パウロに対して敵対感情を持っていたユダヤ人の目には、憶測が憶測を呼び、ついに、決めつけによる訴えがなされたのです。
「イスラエルの皆さん、手を貸してください。この男は、民と律法とこの場所に逆らうことを、いたるところで皆に教えている者です。そのうえ、ギリシア人を宮の中に連れ込んで、この神聖な場所を汚しています。」(28節)
先入観で人を判断することや、レッテルを貼りつける事は、百害あって一利なしです。
○助け手が備えられる
この叫びは宮にいるユダヤ人たちを激怒させるのに容易な事でした。人々は殺到してパウロを捕らえ、宮の外に問答無用で引きずり出し、パウロを殺そうとしていました(30節)。
この怒りの様相は周りにいる人たちにも伝染し町中がパニックに陥ったのです。その事が、ユダヤに駐屯しているローマ軍の千人隊長のクラウディウス・ルシア(使徒23:26)の耳に入ったのです。クラウディウスは速やかに百人隊長と兵士を率いて駆けつけました。人々は、彼らを見て、パウロに暴力を振るうのをやめたのでした。
クラウディウスはすぐさま、パウロを捕らえて鎖をかけ、群衆に対して、パウロの容疑は何なのかを問いただしました。しかし、彼らの言い分は、食い違い、混乱の様相しか呈していなかったのです(33〜34節)。ただ、分かるのは、すべて、パウロに対する強い殺意を持っているという事でした(35〜36節)。
この時、クラウディウスは一つの仮説を立てていました。それは、最近、暴動を起こし、荒野に四千人の暗殺者を引き連れていったエジプト人なのではないかという事です。しかし、パウロは流暢にギリシャ語を話し、民衆にはヘブル語で話しかける姿を見て考えを改めるのでした。
何はともあれ、もし、もう少しでもクラウディウスの到着が遅ければ、パウロの命は危なかったでしょう。間一髪のところで、守られたのです。それは、偶然ではなく、祈りの結果と言えます。パウロは、ローマ宣教を確信しながらも、主の守り無くしては成し得ない事と分かっていたので、ローマの教会へ祈りの要請をしていたのでした(ローマ15:30〜31)。
私たちも祈りをもって、人生の難局を乗り切らせていただきましょう。
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第21主日礼拝式順序 2024年5月26日 午前10:30〜
1.黙祷・・・一 同
2.賛美155 御位を降り (賛美) ・・一同起立
3.使徒信条・・一 同
4.主の祈り・・一 同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美420 雨を降り注ぎ (リバイバル) ・・一同起立
7.三大祷告
再 臨
イスラエル
日 本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・ 寺東真也師
主題 「何人かでも救うため」
使徒21:15〜26新約P.279
第一コリント9:19〜22新約P.339
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講壇 「何人かでも救うため」
聖句 使徒21:15〜26
第一コリント9:19〜22
『すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです。』第一コリント9:22
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パウロはカイサリアでの滞在を終え、エルサレムに上りました。エルサレムでも歓迎を受け、エルサレム教会の代表者となっていた、イエス様の弟のヤコブを訪問しました(15〜18節)。ここで、一つの目的であった、マケドニア地方の諸教会が献げた献金を正式に手渡した事でしょう。
◯エルサレム教会のきよめ
パウロは続いて、第三次宣教旅行で、異邦人の上になされた主の御業を報告しました。この報告を聞いたヤコブとエルサレムの長老たちは神を褒め称え、喜んだのです。ユダヤ人から始まった、救いの御業は異邦人へと広がり、異邦人の中で多くの実を見ることになったのです。それと反比例して、エルサレム教会は迫害の中で、貧しさと苦難の中にありました。しかし、エルサレム教会の長老たちは、異邦人の救いを心から喜べるようになったのです。自分が涙の谷を通る時に、他者の祝福を喜べるのは主の素晴らしいきよめの恵みです(ローマ12:15新約P.318)。
○エルサレム教会の弱さ
エルサレム教会には弱さも存在ました。エルサレム教会にはユダヤ人でイエス・キリストを救い主として信じたものが何万といたのですが、律法に大変熱心であったと言います。ユダヤ人が律法に熱心なことは決して罪ではありません。しかし、今回はその熱心さが仇となり、パウロに対する偏見から、根も歯もない噂が広がってまことしやかにつぶやかれるようになっていたのです。
「ところが、彼らがあなたについて聞かされているのは、あなたが、異邦人の中にいるすべてのユダヤ人に、子どもに割礼を施すな、慣習にしたがって歩むなと言って、モーセに背くように教えている、ということなのです。」(21節)
いつの世にも、教会の中でさえ、噂話をする者、噂話に耳を傾ける者、広げる者がいて、それは、教会を破壊する働きになり得るのです(第一テモテ5:13新約P.422)。
○弱い人々のために
長老たちは、パウロに対して、噂を聞き、信じてしまっている人々の誤解を解くために、一計を案じました。それは、誓願を立てている四人のユダヤ人クリスチャンたちの頭を剃る費用をパウロが出すというものでした。これは、おそらくナジル人の誓約における儀式でした(民数記6:1〜21旧約P.245)。
第一次宣教旅行の後、物議を醸した福音の根幹を揺るがす問題が起こりましたが、それは、異邦人が救われるためにイエスキリストへの信仰に加えて、律法を守る必要があるというものでした、しかし、それはエルサレム会議で、否決され、偶像礼拝と倫理規定のみ書き送られました(25節)。今回は、その時の問題と似て非なるもので、律法を大切にするあまり、の誤解から生じたパウロへの不信感を取り除くための方法でした。
反対に言えば、多くのユダヤ人はクリスチャンになっても、ユダヤ人であれば、「救いの条件と言わずとも、律法を順守すべき」という弱さを持っていたのです。
○何人かでも救うため
パウロ自身は律法を守り行わなければならないというしがらみからは解かれていました。しかし、律法を大切にしているユダヤ人を躓かせない為に、この儀式に参加を決めたのです。その動機は、キリストに導き、救われる人が何人かでも起こされる為ならば、罪でなければ、譲れるものは譲り、できることは、何でもするという宣教ファーストの熱心さで溢れていたからです。
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第20主日ペンテコステ礼拝式順序 2024年5月19日 午前10:30〜
1.黙祷・・・一 同
2.賛美132 ペンテコステの日に (聖霊) ・・一同起立
3.使徒信条・・一 同
4.主の祈り・・一 同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美148 夕べ雲焼くる (再臨) ・・一同起立
7.三大祷告
再 臨
イスラエル
日 本
8.聖書・・・・司 会 者
9.特別賛美・・聖 歌 隊
10.メッセージ・・・ 寺東真也師
主題 「風は己が好むところに吹く」
ヨハネ3:1〜15新約P.179
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講壇 「風は己が好むところに吹く」
聖句 ヨハネ3:1〜15
『風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。』(ヨハネ3:8)
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◯変えられたニコデモ
イエス様のもとにニコデモが夜中にやってきました。ニコデモはパリサイ人であり、しかもサンヘドリン(ユダヤ人の最高議会)の有力な議員でした。ほとんどの議員が反イエス派であったのに対し、ニコデモだけは真理を求めており、イエス様にもとに人目を盗んでやってきたのです。
そこでイエス様は地上の表現を使ってニコデモに救いの真髄を話されたのです。
「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3)
しかし、ニコデモはその意味する事を理解できず、悩みました。
そこで、イエス様はニコデモにモーセの時代の荒野の蛇のたとえを持って、御自分こそ上げられる存在であり、御自分を信じる者は救われ、いのちを持つのだと教えられたのです(ヨハネ3:13〜15)。
ニコデモはここから徐々に変えられ、サンヘドリンでも議会に一言物申し(ヨハネ7:50〜52)、人目をはばからないで、イエス様の埋葬を進んで行いました(ヨハネ19:39〜40)。
○風と息
ニコデモとの会話の中で、新しく「御霊によって生まれる」ことを教える時に、
「風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」(ヨハネ3:8)
と言われました。聖書では風や息と言う言葉は同じ単語が使われています。そしてそれは聖霊を意味する事が多いのです(創世記2:7旧約P.3、エゼキエル37:9旧約P.1482)。私たちの救いは聖霊の導きが必須であるのです(第一テサロニケ1:5〜6新約P.408)。
○聖霊に喜ばれる教会に
今日の御言葉を文語訳にはこう訳されています。
「風は己が好むところに吹く」
聖霊は一位格をお持ちであり、ただの超常パワーのようなものではありません。常に私たちを気遣い、導いてくださっています。しかし、無理やり導かれるお方ではありません。聖霊を心の隅っこにおいやってしまう事も可能です。また反対に、聖霊をいつも敬い、心の王座に迎えることも可能なのです。
私たちが勝利の人生を送る為には聖霊に満たされなければなりません。この聖霊様の導きによって更に主に用いられる器とさせていただきましょう。そのために
1. 聖霊を悲しませない(エペソ4:30新約P.389)
聖霊をおいやってしまったり、罪を犯してしまうならば、聖霊はとても悲しまれます。聖霊を傷つけるような、行動、考え、態度などに気をつけるべきです。聖霊はそのような中では働かれることはありません。
2. 聖霊に喜ばれるように(ガラテヤ5:16新約P.382)
さらに聖霊を悲しませないだけでなく、積極的に聖霊に喜ばれるものになりましょう。
聖霊様は風にたとえられます。聖霊様は御自分の好まれるところに吹きまくってくださいます。たとえ問題があろうと、なかろうとそれは問題ではありません。私たちは聖霊様の好みに敏感になりましょう。
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第19主日礼拝式順序 2024年5月12日 午前10:30〜
1.黙祷・・・一 同
2.賛美136 御霊よ降りて (聖霊) ・・一同起立
3.使徒信条・・一 同
4.主の祈り・・一 同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美特選5 ・・一同起立
7.三大祷告
再 臨
イスラエル
日 本
8.聖書・・・・司 会 者
9.特別賛美・・聖 歌 隊
10.メッセージ・・・ 寺東真也師
主題 「みこころがなりますように」
使徒21:1〜14新約P.278
ルカ22:42新約P.167
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講壇 「みこころがなりますように」
聖句 使徒21:1〜14
ルカ22:42
『父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。』(ルカ22:42新約P.167)
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エペソの長老たちへの最後のメッセージを終え、パウロたちはミレトスから船出し、コス島、ロドス島を経て、パタラに渡りました(1節)。そこで、フェニキア行きの船に乗り換え、キプロス島を横目にシリアのツロ着いたのでした(3節)。
いよいよ、エルサレムが近づいてきているタイミングでしたが、ツロで1週間滞在し(4節)、その後、さらに船でプトレマイスに南下し、そこで1日滞在し(7節)、そこからカイサリアに行きました。カイサリアでは、かなりの期間を過ごしたと記されています(10節)。これは、おそらく予定よりも早く着いたことと、各地の弟子たち(クリスチャン)との交わりを大切にしたからです。
◯御霊が告げる
パウロは第三次宣教旅行の中で、聖霊に与えられたビジョンがありました。それは、エルサレムに行くこと、そして、その後にローマに行くことでした(使徒19:21)。もちろん、それは、福音宣教のためにです。そして、それには、苦しみと鎖が伴い、いのちが脅かされることも覚悟のうえであった事を告白しています(使徒20:22〜24)。
しかし、このエルサレムを前にして、御霊は、弟子たちに預言を与えて、パウロがエルサレムに行くならば何が起こるのかを伝えさせたのです。
1. ツロにおいて
ツロの弟子たちは、パウロに対する、エルサレムで待っている困難を知り、1週間の滞在期間中、パウロのためを思って、エルサレムに行かないように繰り返し言い続けました(4節)。
2. カイサリアにおいて
カイサリアにはエルサレム教会の初代執事7名のうちの1人で、信徒伝道者ピリポがいました(使徒6:5)。彼は、サマリア宣教で多くの実を結び(使徒8:5)、その後、ガザでエチオピアの宦官を救いに導き、御霊によってアゾトに現れてからカイサリアに移り住み、この時に至っています(使徒8:26〜40)。彼は、そこで結婚し、預言をする四人の娘が与えられていました(8〜9節)。
このピリポの家に滞在していると、まだ宣教旅行に行く前に、アンティオキアで知り合っていた預言者アガボがやってきたのです。彼は、クラウディウス帝の時に起こった大飢饉を預言した人物です(使徒11:28)。
なんの預言をしに来たのかというと、やはり、エルサレムにおけるパウロの受難の預言でした。しかも、パウロ自身の帯を用いて自分の手足を縛り、ユダヤ人の陰謀で、異邦人に渡される事を明瞭に伝えたのです(11節)。すると、パウロの同行者たちも、カイサリアの弟子たちもこぞってエルサレム行きを反対し始めたのです(12節)。
◯人間的な思いと神の思い
ツロの弟子たちも、カイサリアの弟子たちとパウロの同行者たちも、パウロを思って、エルサレム行きに反対したのでしょう。それ自体が悪いわけではありません。しかし、人間的な思いが、神様のみこころがなされるのと同じとは限らないのです。
イエス様の十字架に対して、ペテロも反対意見を述べたところきつく叱責されました(マタイ16:21〜23新約P.34)。
パウロも弟子たちを嗜めています(13節)。
人間の思いを超えた主のみこころを求めて祈るものならせていただきましょう(ルカ22:42)。
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第18主日礼拝式順序&聖餐式 2024年5月5日 午前10:30〜
1.黙祷・・・一 同
2.賛美261 流し給いし (救いの喜び) ・・一同起立
3.使徒信条・・一 同
4.主の祈り・・一 同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美314 天つ国を指して (信頼) ・・一同起立
7.三大祷告
再 臨
イスラエル
日 本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・ 寺東真也師
主題 「教会を建てあげるために」
使徒20:28〜38新約P.277
黙示録2:7新約P.492
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講壇 「教会を建てあげるために」
聖句 使徒20:28〜38
黙示録2:7
『今私は、あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねます。みことばは、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人々とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができるのです。』使徒20:32
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パウロは第三次宣教旅行の復路において、ミレトスからエペソの長老たちを呼び寄せ、彼らへの最後のメッセージを行いました。今日は、そのメッセージの後半部分からみことばに聞きましょう。
◯長老たちへ
メッセージの後半の主な内容は、長老たちへの助言と勧めです。長老たちとは、教会のリーダーたちの事です。自分は教会のリーダーではないので関係がないと思わないでください。ここで伝えられた大切な教えは教会全体で分かち合われエペソ教会にとって礎となり、骨組みとなったのです。
1.自分自身と群れ全体に気を配れ
教会が教会として相応しく歩むためには、教会全体が霊的に健全であることが求められます。
イエス様はご自身を良い羊飼いであると例え(ヨハネ10:11新約P.202)、ダビデは主を牧者と仰ぎ、自らを牧される羊になぞらえて歌いました(詩篇23篇旧約P.954)。大牧者なる主イエス様は、この働きをイエス様の体なる教会に権威をもって委ねられたのです。そして、教会に立てられた牧師や長老、リーダーがその牧会に責任を持ち、互いの霊的成長と健全化のために共に信仰生活をするのです。
パウロは自分の去った後のことを容易に想像できました。それは、「凶暴な狼」が教会に入り込んで容赦無く群れを荒らし回ることです(29節)。また、教会の中から真理ではない曲がった事を語るものが現れるというのです(30節)。実際、すでに教会の内外から、教会は攻撃されていた現実があったからです。
そこで、自分自身と群れの全体に気を配る事でした。まず、自分自身が霊的に健康健全でなければ、他者に仕えることはできません。まずは、自分が大牧者なるイエス様にしっかりと繋がり続けることです。そして、自分を愛するように隣人であり、神の家族である兄弟姉妹である群れに気を配り、愛し仕えるのです。それぞれが、イエス様に繋がり、互いに支え合う姿こそ、キリストの教会の目指すべき姿です。
2.神とみことばにゆだねる
パウロがした事は、三年間、みことばを語り、訓戒し続けたのです。神様が立てられた器ごとに賜物や個性があります。それらが用いられる事は素晴らしい事です。ただ、それらは、肉付けであって、骨子であり、最も重要なことは、みことばなのです。最終的に、パウロはエペソの教会から出発しなければならず、肉体的にはもう二度と顔を見ることはできない状況にありました。その際にしたことは、みことばにゆだねる事でした。なぜならば、みことばこそ、御国を受け継がせることができる鍵だからです。
3.与える幸い
最後にパウロは与える幸いを説きました。パウロ自身躓かせない為に、働きながら伝道をし、さらには、弱い者を助ける為に、積極的に働いたというのです。これは、イエス様の
「受けるよりも与えるほうが幸いである」(35節)
という教えを大切にしていたからです。イエス様自身が、ご自分の命さえ与える為に、この世に来られたお方だからです。
◯教会を建てあげよ
教会は愛によって建てあげられます。エペソの教会はその後、失敗した事があります。それは初めの愛から離れてしまった事です(黙示録2:4)。しかし。もう一度悔い改め、初めの愛(キリストの愛)に立ち返れば良いのです。
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第17主日礼拝式順序 2024年4月28日 午前10:30〜
1.黙祷・・・一 同
2.賛美344 なおも御恵みを (恵みの成長) ・・一同起立
3.使徒信条・・一 同
4.主の祈り・・一 同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美462 聖書も時の徴も (再臨) ・・一同起立
7.三大祷告
再 臨
イスラエル
日 本
8.聖書・・・・司 会 者
9.特別賛美・・・・聖 歌 隊
10.講師紹介・・・ 寺東真也師
11.メッセージ・・・ 笹川洋史師
主題 「恵みによって、縛られない強い人になる」
ヨナ2:1〜4旧約P.1578
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講壇 「恵みによって、縛られない強い人になる」
聖句 ヨナ2章
ヨナは魚の腹の中から、自分の神、主に祈った。
「苦しみの中から、私は主に叫びました。すると主は、私に答えてくださった。」(ヨナ2:1〜2)
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ヨナ書2章は、ヨナが魚の腹の中で、どのように過ごしたのかが記されています。決して神話ではなく、イエス様がヨナのしるしとして、例話にしている重要な経験です。
1.自分の思いどおりにならないことに縛られています。
○海に投げ込まれたヨナは、溺れていく過程を正確に記憶しています(3)。潮に流され、波にもまれます。海底にまで沈んでいきます。(4)
○「主の御顔を避け」た結果、神さまと歯車がかみ合わない「苦しみの中」(1)にありました。自分の無力さを痛感する時が、強くなるきっかけになります。
○不満にあふれた苦しみの状態では、力強く歩むことができません。あなたは、思いどおりにならない不満を抱え込んでいませんか。
2.縛られているところから解放してくださる方がおられます。
○海に投げ込まれたら、沈んで溺れて死んでしまうのが、自然の法則です。ヨナは、「滅びの穴」(6)まで行ったと自覚しています。この絶望的な状況から「引き上げられました」(6)。自然法則が覆されて、魚の腹で過ごすというあり得ない状況がもたらされました。
○どんな状況でも主の計画に中にあることを覚えるときに、強くなることができます。うまく進んでいないように見えても、主は見捨てることなく良い計画を進めてくださいます。
○主が共におられることがわかると、神さまと結び合わされている愛の関係になっていると悟ることができます。あなたは、すぐにあきらめて、むなしい心になっていませんか。
3.縛られないで歩む恵みの方法があります。
○ヨナは、「御顔を避け」た状態ではなく、主を思い出し、主に叫び求めます。大胆に「聖なる宮を仰ぎみたい」と祈ります。(4)
○「自分への恵みを捨て去ります」(8)と、自分の最大の問題点を告白します。主の恵みを勘違いして捨ててしまうと、真の神の力を発揮できないことになります。
○あたりまえだと思っていることが、実はあたりまえのことではなく、主の恵みだったと気づくことが、強い人になる方法です。あなたは、すべてのことに感謝することが習慣になっていますか。
●この世の価値観に縛られていないか、チェックしましょう。主にある聖い者となって、主の恵みに生かされて歩みましょう。
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第16主日礼拝式順序 2024年4月21日 午前10:30〜
講壇 「聖なる負い目」
聖句 使徒20:13〜27
ローマ1:14
『私は、ギリシア人にも未開の人にも、知識のある人にも知識のない人にも、負い目のある者です。』ローマ1:14
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パウロはトロアスからアソスへ陸路で行き、アソスから船に乗ってエーゲ海に浮かぶ島レスボス島のミティレネに行きました。そして、さらに船で、キオス島の沖を通ってサモス島に立ち寄り、ミレトスに至りました。このミレトスは、エペソから直線距離で五、六十キロ南の町です。
パウロはあえてエペソに立ち寄りませんでした。それは、五旬節(ペンテコステ)までにはエルサレムに着いていたかったので、アジアで時間を取られないようにする為でした。反対にいうと、パウロはエペソの教会を愛していたから、立ち寄ると時間がいくらあっても足らなくなるからでしょう。しかし、パウロは聖霊によって、2度とこの地に戻って来ることはできない事を知ったので(25節)、エペソの長老たちをミレトスに呼んで、告別説教をしたのです。今日はこの説教の前半からみことばに耳を傾けます。
◯謙遜の限りを尽くして仕えた(18〜21節)
パウロはまず、エペソでの伝道生活について思い起こしてもらうために語ります。パウロのエペソでの戦況生活を一言でいうと「謙遜に仕えた」生活でした。自分自身を前面に押し出したものではなく、ひとえにイエス様を語り、伝えたのです。そこには、主が共に働き、驚くべき御業がなされ、救われる人々が続出し、エペソにとどまらず、アジア全土に及ぶほどでした(使徒19:10)。19章のエペソ宣教が記されている中で、スケワノ七人の子供である巡回祈祷師たちの傲慢さと、パウロの信仰の違いを如実に物語る結果が記されています(使徒19:15)。パウロが述べ伝えたのは、「神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰」だったのです。
◯御霊に縛られて(22〜25節)
続いて、パウロは現状とこれからを語ります。ただエルサレムに向かっているのではありません。「御霊に縛られて」いると言うのです。人は誰しも縛られたり、自由を脅かされるのは嫌なのではないでしょうか。ペテロも復活のイエス様から取り扱いを受けた感動的な出来事の直後でさえ、自分の意に沿わない将来を語られると、他の人の事も気になってしまうのです(ヨハネ21:18〜22新約P.230)。
しかし、パウロはこの世の儚い楽しみよりも、永遠の栄光と喜び、そして何よりも、キリストの愛に捉えられていたのです。聖霊は、パウロに具体的な将来を教えてはくださいませんでした。ただ、どの町に行こうが、鎖と苦しみが待っているということは示されたのです(23節)。それに対して、パウロは主の与えてくださる使命を果たすことができるならば、自分の命は惜しくないと本気で思えた事を証ししたのです(24節)。
◯血の責任を果たす(26〜27節)
次に血の責任について宣言します。あなた方に対する血の責任はもう私にはないと。預言者エゼキエルに神様は、罪人に対しても、正しい人に対しても、神様が与えた使命を果たし、語る責任がある事を語られました(エゼキエル13:17〜21旧約P.1432)。
キリスト教の新興宗教のように、語り伝え救いに導くことが、自分の救いにつながるという事を言っているのでは決してありません。救われたも者はすでに主のものであり、主なる神様は、ご自分のいのちよりも大切なひとり子を与えるほどに、全ての人々を愛さされたのです。その思いを知るならば、愛してくださった、愛する神様のために、受け入れてくれるか否かは関係なく、福音を伝えずにはいられなくなるのではないでしょうか。パウロは神様の愛に突き動かされて語ったのです。
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第15主日礼拝式順序 2024年4月14日 午前10:30〜
1.黙祷・・・一 同
2.賛美129 ものみなこぞりて (復活) ・・一同起立
3.使徒信条・・一 同
4.主の祈り・・一 同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美特選3・・・・一 同
7.三大祷告
再 臨
イスラエル
日 本
8.聖書・・・・司 会 者
9.特別賛美・・聖 歌 隊
10.メッセージ・・・ 寺東真也師
主題 「真実な礼拝」
使徒20:7〜12新約P.276
ヨハネ4:23〜24新約P.183
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講壇 「真実な礼拝」
聖句 使徒20:7〜12
ヨハネ4:23〜24
『しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。』(ヨハネ4:23)
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コリントにて3ヶ月間を過ごしたパウロは、エルサレムに向けて船に乗ろうと考えていました。しかし、ユダヤ人の陰謀があったので、来た道を引き返す形でマケドニアを通って帰ることにしました(3節)。種無しパンの祭りをピリピで過ごし、トロアスに向かいました。そして、トロアスで七日間過ごしたのです(6節)。
◯トロアス教会
トロアスは、第二回宣教旅行の際、アジア及びビティニアで伝道する事を御霊に禁じられ、たどり着いた先の町でした(使徒16:6〜8節)。そして、そこでマケドニア伝道へと導かれたのです。トロアスが誰によって導かれたのかは、聖書は沈黙していますが、エペソ宣教の火がアジア全体に広がった際にトロアスにも福音は伝えられ、教会ができたのではないかと思います。
◯週の初めの日の礼拝
教会では伝統的に主イエス・キリストが復活された週の初めの日である日曜日に礼拝をするようにしてきました(旧約におけるユダヤ教では律法に従い土曜日が安息日であり礼拝する日です)。トロアスの教会でも、神様を礼拝する日として日曜日を大切にしていたのでしょう。
ただ、礼拝する「日」を論じる時に、律法的になる必要はありませんしすべきではありせん。賢く聞いていただきたいのですが、新約の恵みの時代に生きる私たちは、礼拝の日は何曜日であると定められてはいないからです。イエス様はサマリアの女との会話の中で、礼拝を論じられました。それは、決められた時間に、決められた場所で、決められたようにする律法的な礼拝ではなく、救われた喜びと感謝に溢れた心からの礼拝です(ヨハネ4:23〜24)。パウロもローマ人への手紙の中で、特定の日を大事にする人もいれば、どの日も大事だと考える人もいると書いています。そして、どちらが正解だと言うのではなく、それぞれに確信を持って、「主のために」している事なのだからそれは良しとされると言うのです(ローマ14:5〜6)。「主のため」が肝心であると。
◯飢え乾きをもって集まる
初代教会の礼拝の中心は、聖餐と愛餐でした。神の家族として、共に集い、主が私たちの罪のために裂かれてくださった事(死)を覚えるためにパンを裂き、流してくださった血潮を覚えるために葡萄酒を飲んだのです。そして、感謝の愛餐をし、みことばを中心とした集いを持ったのです。そこには、霊的な飢え乾きと、身体的な飢え乾きを満たす恵みが満ち溢れていました。人々は、喜びと感謝を持って集ったのです。礼拝とは深いですね。
◯ユテコの悲劇と慰め
トロアス教会にユテコという青年がいました。彼は名前からして奴隷であったようです。一日の労働を終え、遅ればせながらも神様を慕い、礼拝したくてやってきたのです。聖餐と愛餐の恵みにあずかり身も心もいっぱいになった後、パウロの告別説教に熱を帯び、夜中まで語り続けたのですが、人で溢れる部屋の窓の所に腰掛けていたユテコは睡魔に襲われ、三階から落下してしまったのです。即死でした(9節)。
しかし、パウロは、まだいのちがあると抱きかかえて言うとユテコは生き返ったのです。
トロアス教会の人々はひとかたならず慰められて、主の栄光を見たのです。
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第14主日礼拝式順序&聖餐式 2024年4月7日 午前10:30〜
1.黙祷・・・一 同
2.賛美238 尊き泉あり (救い) ・・一同起立
3.使徒信条・・一 同
4.主の祈り・・一 同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美199 主を仰ぎ見れば (臨在)・・・・一同
7.三大祷告
再 臨
イスラエル
日 本
8.聖書・・・・司 会 者
10.メッセージ・・・ 寺東真也師
主題 「気落ちした者を慰める神」
使徒20:1〜6新約P.276
第二コリント7:5〜11新約P.363
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講壇 「気落ちした者を慰める神」
聖句 使徒20:1〜6
第二コリント7:5〜11
『今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。』第二コリント7:9
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エペソ宣教はアルテミス神殿がらみの騒乱がおさまった後、終わりを告げ、パウロは与えられたビジョンのもと(使徒19:21)、もう一度、マケドニアとアカヤ(ギリシャ)を目指しました。
◯気落ちするパウロ
使徒の働きの中には1節から2節まで、第二次宣教旅行で伝道した地方を通り、そこにある教会をみことばをもって励まし、ギリシア(コリント)に到着したとあっさり記していますが、実はここにも大きなドラマが隠されているのです。
その為にはコリント人への手紙を見る必要があります。3年ほどのエペソ宣教の中で、コリントの教会が多くの問題を抱えている事を知ったパウロは、一通目の手紙(コリント人への手紙第一)を書き送り、また、コリントの教会を直接訪問したりもしました(第二コリント2:1)。しかし、それらは、パウロと教会の溝を広げるだけになってしまったのです。そこで、パウロは二通目の手紙を書き(第二コリント2:3〜4、7:8〜12)、テトスに委ねたのです。しかし、予想していた時期になってもテトスは帰ってこず、パウロはマケドニア、アカヤに向けて出発し、トロアスに着きました。そこでは、宣教の門がパウロのために開かれていたのですが。ここでもテトスに会えないことから平安がなく、すぐにマケドニアに向けて出発してしまったのです(第二テモテ2:12〜13新約P.426)。パウロも人の子です。気落ちし、心に平安がなく戦えない時もあったのです。主は、そんなパウロを責めはしませんでした。
◯マケドニア(ピリピ)にて
平安がないまま、パウロはマケドニア地方のおそらく、ピリピに到着しました。すると、念願であったテトスと合流できたのです。しかも、二通目の手紙を書き送った結果、コリントの教会が悔い改めたとの嬉しい知らせを聞いたのです(第二コリント7:5〜9)。そこで、パウロは三通目になる手紙(コリント人への手紙第二)を書き、先んじて送ったのでした。
◯悲しみから悔い改めへ
大きな問題を抱え、ある人々は開き直るほどの反抗を見せていたコリント教会ですが、パウロの愛と忍耐による指導が主の御手を動かしたのです。そこには、最初、悲しみが溢れました。それはとても深い悲しみであったのです。しかし、その悲しみは神のみこころに添った悲しみであったというのです(9節)。その悲しみは、悔い改めを生み、悔い改めは、信仰の熱心を生みました(11節)。罪を犯した事が致命傷になるのではありません。神の招きに背くことが致命傷になるのです。また反対に、悔い改めから始まる真の喜びは。コリントの教会にとってもパウロにとっても神の慰めとなり、励ましとなり、力となったのです。
ちなみに、この後、パウロはギリシア(コリント)に向かう前に、マケドニアの北西に位置するイルリコにまで宣教を広げています(ローマ15:19新約P.322)。
◯献金を携えて(使徒20:4)
パウロはコリントの教会と感動の再会を果たし、三ヶ月過ごして、エルサレムへ向かうのですが、ユダヤ人の陰謀から、マケドニア経由で帰ることになりました。しかし、その時、エルサレムへの同行者は7名が記されています。これらは、第一次、第二次宣教旅行の実である教会の代表者達です。彼らは、困窮するエルサレム教会への献金を携えて、パウロと共に同行したのです。慰められた者は、慰める者へと変えられるのです。
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第13主日イースター礼拝式順序 2024年3月31日 午前10:30〜
講壇 「エマオへの道で」
聖句 使徒24:13〜35
『道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。』(ルカ24:32)
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イースターおめでとうございます。死から復活され今も生きておられる主を褒め称えます。
福音書の記者たちは聖霊に導かれて、イエス・キリストの復活をそれぞれの視点で書き残しています。ルカの福音書の特筆すべき復活の記事は、エマオへの道での出来事でしょう(ルカのみに記されてある)。
◯失意の歩みの中で
エルサレムから11キロほど離れた町エマオへ、イエス様の弟子であった二人が向かっていました。その話題はもちろん、イエス様の死とそれに追い打ちをかけるように、死体が忽然と消え、墓に行った女性たちは御使いがイエス様は生きているというお告げを聞いたというものでした。
二人の弟子達を含め、ほとんどの弟子達はイエス様の復活に懐疑的であり、悪質な冗談ととっていたのでしょう。
二人で話し合い、論じ合っている最中に、イエス様は彼らと共に道を歩いておられました。しかし、彼らの目はさえぎられており、イエス様を本人だと分からなかったと言うのです。
そして、イエス様に聖書を教えていただくうちに、二人の心は燃え、ようやく、今目の前におられるお方がイエス様である事を知るのです。
人が、復活のイエス様と出会い、救われる本質を見ることが出来ます。
1. 知的情報では救われない
二人の弟子達は、イエス様の十字架の死を目の当たりにし、考えられる最悪の事態に落ちいっている事を認識しました(もちろん、それは人間的な見解にすぎませんが)。復活の希望の光がいかに輝いていても、目を開かなければ、見える者も見えません。
悲しみや、怒り、懐疑心は物事を曲げて見せてしまう事があります。女性たちの復活の報も戯言に聞こえ、目の前にいる栄光の主にもうんちくを述べてしまうのです(19〜24節)。
2. 真理はあなたを自由にする
「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:31〜32新約P.197)
人は神の前にへりくだり、みことばに聞き、とどまるならば、みことばは心の目を開いてくれます。すでに、肉体の目ではイエス様を見ていた二人でしたが、本質的に復活の主と出会ったのは、夕食の時でした(30〜31節)。
イエス様は二人に道々、みことばを語り、聖書を開いてくださいました。みことばが開かれる時、私たちの心も開かれるのです(32節、詩篇119:130旧約P.1067)。
◯共に歩んでくださる方
イエス様はご自分の復活を知らせる為に40日の時間を費やされました。知的理解から信仰的理解に深められるために、イエス様は責めず、焦らず、マリヤを(ヨハネ20:14〜18)、トマスを(ヨハネ20:24〜29)、ペテロを(ヨハネ21:15〜22)、愛する者たちを(ヨハネ20:30〜31)、そして、あなたを取り扱われるのです。
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第10主日礼拝式順序 2024年3月17日 午前10:30〜
1.黙祷・・・一 同
2.賛美109 友よ読みしや (受難) ・・一同起立
3.使徒信条・・一 同
4.主の祈り・・一 同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美105 栄えの冠を (受難)・・・・一同
7.三大祷告
再 臨
イスラエル
日 本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・ 寺東真也師
主題 「狭い門から入れ」
使徒19:21〜40新約P.274
マタイ7:13新約P.12
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講壇 「狭い門から入れ」
聖句 使徒19:21〜40
マタイ7:13
『狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。』マタイ7:13
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エペソにおける2年もの宣教期間を経て、主のことばは力強く広まって行きました。その後、パウロは御霊に示され、次のビジョンが与えられます。それは、第二次宣教旅行の際に伝道した、マケドニアとアカイア(ギリシャ)を再訪し、エルサレムに帰って、そこから、ローマに行くというビジョンです。この時代におけるローマは覇権をとった席あの中心地であり、また、「地の果て」の象徴でもあります(使徒1:8)。
◯福音の衝撃
パウロは、まず、テモテとエラストを先にマケドニアに遣わし、自分はエペソにしばらくとどまりました。そこで、大変な騒動が起こったのです。
アルテミス神殿の模型を銀で作って生計を立てていたデメテリオという銀細工職人が、同業の人々を集めて、パウロの宣べ伝えている福音がいかに、アルテミス信仰と自分達の生業に打撃を与えているかを熱く語ったのです(25〜27節)。
このことが発端となり、彼らは怒り狂って叫び始めたのです。
「偉大なるかな、エペソ人のアルテミス」
そして、この混乱は町中に広がり、パウロの同行者の二人を捕らえて、劇場になだれ込んでいったのです。
このような騒動は規模は違いますが、マケドニアのピリピでもありました(使徒16:19)。
この世界には神様が忌み嫌われる事柄が溢れています。ここで言うならば、偶像崇拝や占いなどです。霊的なことだからと言って全てを信じることは馬鹿げているのです(第一ヨハネ4:1新約P.482)。そして、福音にはそれらのものに対して、大きな衝撃を与える力があるのです。占いの霊は去り、偶像に仕えていた者が、真の神のみを拝するようになるのです。それは、その中で生きている人にとって目障りであり、到底許すことができないものとなっていったのです。反対に言うと、福音の力は本物だということです。
◯無視できないほどの騒乱
アルテミス神を信仰し、その信仰心に依存した商売を形成していた人々によって、キリスト教に対するデモ活動が勃発したのですが、人々が集まれば集まるほど、その真意を理解するものは多くなかった事が記されています(32節)。「ただ叫びたかった」「騒々しい雰囲気が楽しそうだった」程度の理由で集まる人々。人はお祭りが大好きというのは乱暴でしょうか。でも、群衆心理は、いつも流されゆく人の脆さ、弱さから始まるのです。
この群集たちの狂乱とパウロとその仲間たちの冷静さのギャップは天と地ほどあります(30〜31)。そこには、イエス・キリストという一本筋の通った唯一の道であるお方に仕えている者たちとの違いが浮き彫りになっているのです。
町の書記官は、この狂乱を無視することが出来なくなって、アルテミス信仰の正当性を上げながら、今皆がしている事の不当性を切々と語り聞かせ、その集まりを解散させるに至りました(35〜40節)。
◯心は映す(箴言27:19旧約P.1130)
今回の騒乱は勝手に始まり、勝手に終わっていて、パウロは蚊帳の外です。それもそのはず、信仰対信仰のように見えて、騒乱を起こした者も、そこに乗っかった者も、それを静めた者も、根本は私利私欲が原動力だからです。人は、私利私欲の上に、正当性という仮面を被って滅びの大路を歩みやすいのです。私たちは、キリストの為に生きるのです。
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第10主日礼拝式順序 2024年3月10日 午前10:30〜
講壇 「エペソのリバイバル」
聖句 使徒19:8〜20
『こうして、主のことばは力強く広まり、勢いを得ていった。』使徒19:20
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いよいよ、パウロの念願であったエペソ宣教が始まりました。第二次宣教旅行の帰り道、一時的に立ち寄ったエペソでは、ユダヤ人たちの反応は良く、もっと長く留まって欲しいと願われたほどでした(使徒18:20)。しかし、三ヶ月ほどユダヤ人の会堂で福音を語り、論じたのですが、ある者たちが心頑なにし、悪口を言い始めたのです(8〜9節)。パウロは肩透かしをくらったことでしょう。
◯ティラノの講堂にて
パウロは諦めませんでした。場所を変えて、エペソの公民館のようなティラノという講堂で福音を伝え続けたのです。その期間なんと2年です。そして、聖書は驚くべきことに、『アジア』に住む人々はみな主のことばを聞いたというのです(10節)。
エペソはアジアの中心都市でしたが、その地域はとても広大です。その人々にみなにみことばが届いたというのです。どうやって、みことばは広がったのでしょうか。
1. 恐れずに語り続けた
パウロはコリントの街で、主の声を聞き、大きく励まされたのです。
『「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるので、あなたを襲って危害を加える者はいない。この町には、わたしの民がたくさんいるのだから。」(使徒18:9〜10)
主のみことばを握りしめ、地道にコツコツとみことばに従い、語り続けたのです。
2. 主が共に働かれた
信仰による歩みをし続けるパウロと共に主はしるしを持って栄光を現されました。パウロの身につけていた前掛けを当てると病人は癒やされ、悪霊は追い出されたのです。驚いた中に、ユダヤ人の祈祷師もいました、彼らスケワという祭司長の七人の息子たちでしたが、試しに悪霊に憑かれている人に向かって、イエスの名で追い出そうとしたのです。すると、悪霊は、イエスもパウロも知っているがお前たちは誰だと言って反撃され、傷を負いながら逃げ出したのでした。このパウロとスケワの息子たちギャップからさらに人々はイエス様信じるようになって行きました。
3. 悔い改めの実が結ばれた
信じた人々は、ギリシャ人特有の珍しいもの好きの感じで、入信をしたわけではありませんでした。自分たちの犯した罪を告白し、魔術を行なっていた者たちは、高価な魔術書をみな持ってきて、公衆の面前で焼き捨てたのです(18〜19節)。純粋な信仰から結ばれた実は、悔い改めの実でした。この真実な実を主はどれほど喜ばれたことでしょう。
◯主のことばは力強く、広まり、勢いを得ていった
これらの結果、エペソにリバイバルが起こり、みことばは、エペソにとどまらず、アジア全土に広まっていったのです。パウロの手紙の中に、コロサイ人への手紙がありますが、実はコロサイには行った事がないのです。この教会はエパフラスというクリスチャンが伝道し、形成された教会だったのです。このエパフラスは、どこかでみことばに触れ、救われて、地元のコロサイに帰って福音を告げ知らせたのです。おそらく、エパフラスの救いは、このエペソでのリバイバルによる火種が、大きく燃え上がった影響によった可能性は低くないでしょう。黙示録の7つの教会の6つもそうです。
主は一人の人の信仰の火種を豊かに用いてくださるお方のです。
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第9主日礼拝式順序 2024年3月3日 午前10:30〜
1.黙祷・・・一 同
2.賛美19 救いをなし給う (賛美) ・・一同起立
3.使徒信条・・一 同
4.主の祈り・・一 同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美 特選2 ・・一同起立
7.三大祷告
再 臨
イスラエル
日 本
8.聖書・・・・司 会 者
9.特別賛美・・・聖 歌 隊
10.メッセージ・・・ 寺東真也師
主題 「聖霊が臨み」
使徒19:1〜7新約P.273
マタイ11:11新約P.20
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講壇 「聖霊が臨み」
聖句 使徒19:1〜7/マタイ11:11
『まことに、あなたがたに言います。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れませんでした。しかし、天の御国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です。』マタイ11:11
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アポロが紹介を受けてアカイア地方に渡った後、ガラテヤ、フリュギアの諸教会を励ました後、ついに、エペソに帰ってきたのです。第二次宣教旅行の往路では、御霊にアジアでみことばを語る事を禁じられ(使徒16:6)、復路においてようやくエペソに立ち寄る事が許されたと思ったら、主の導きを感じて、後ろ髪引かれる思いで、神の御心ならば戻ってきますとエペソを後にしたパウロでした(使徒18:21)。第三次宣教旅行の大半となる約3年はエペソ宣教でした(使徒20:31)。
◯アジアの中心都市エペソ
エペソはアジア州の中心都市であり、エーゲ海にも程近く、国際的な街でした。後に大騒動の引き金となる女神アルテミスを信奉する人々が多く、アルテミス神殿が聳え立っていたのです。
◯最初に出会った十二人の弟子達
パウロがエペソに到着して最初に出会ったのは十二人の弟子達でした(7節)。
その時、パウロは変な質問をしました。
「信じたとき、聖霊を受けましたか」(2節前半)
イエス様を信じる者には聖霊が与えられます(ヨハネ7:38〜39新約P.194)。また、そもそも、聖霊が働かれなければ人は福音とイエス様を信じる事はできないのです(第一コリント12:3新約P.344)。
では、なぜクリスチャンであるはずの弟子達にパウロはこのような質問をしたのでしょうか。
◯霊的違和感
おそらく、パウロはこの十二人弟子達に霊的な違和感を感じたのでしょう。そこで、信じた時に聖霊を受けたのかという質問をしたのです。すると、驚くべき答えが返ってきたのです。
「いいえ、聖霊がおられるのかどうか、聞いたこともありません」(2節後半)
この霊的違和感の原因を探ると、彼らはヨハネのバプテスマしか受けていない事が判明したのです。これは、先週学んだ、アポロにも共通する事でした。
霊的違和感を発していたのは、バプテスマのヨハネのように禁欲的にあろうと努力していたからではないかと考えられます。バプテスマのヨハネはラクダの毛衣をまとい、皮の帯を締め、イナゴと野蜜を食べて禁欲的な生活をしていたからです。
◯バプテスマのヨハネが指し示したお方
「その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。『私の後に一人の人が来られます。その方は私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。」(ヨハネ1:29〜30)
パウロはこの十二人の弟子達にヨハネの活動の本質であった、イエス様を信じる事を伝えました。そして、彼らは、イエス様の名によって洗礼を受けたのです。
◯内向きから外向きに
十二人の弟子達に聖霊が臨み、彼らは異言を語り預言を語り始めました。彼らは、禁欲的な内向きの信仰生活から、神に向かって賛美し、祈り、人々に神のことばを大胆に語り、伝える外向きな者達に変えられたのです(第一コリント14:1〜4)。
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第8主日礼拝式順序 2024年2月25日 午前10:30〜
1.黙祷・・・一 同
2.賛美18 おお御神をほめまつれ (賛美) ・・一同起立
3.使徒信条・・一 同
4.主の祈り・・一 同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美148 夕べ雲焼くる (再臨) ・・一同起立
7.三大祷告
再 臨
イスラエル
日 本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・ 寺東真也師
主題 「愛は教会を建てあげる」
使徒18:23〜28新約P.273
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講壇 「愛は教会を建てあげる」
聖句 使徒18:23〜28
『それを聞いたプリスキラとアキラは、彼をわきに呼んで、神の道をもっと正確に説明した。』使徒18:26
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第二次宣教旅行を終えたパウロはエルサレム教会に挨拶した後、母教会であるシリアのアンティオキア教会へ帰ってきました。そして。しばらく滞在した後、第三次宣教旅行へと導かれ、ガラテヤ地方、フリュギア地方の教会を再訪し、教会を励ましたのでした。この後、エペソに導かれ宣教する事になるのですが、今日の聖書箇所は、パウロがエペソに来る少し前の出来事です。
◯雄弁なアポロの信仰的不足(25節)
アフリカのアレクサンドリア生まれのユダヤ人であるアポロという教師がエペソにやってきました。アレクサンドリアは離散のユダヤ人たちが集まる中でも一大共同体であり、ユダヤ教を学ぶにはもってこいの地域だったのです。なので、アポロは旧約聖書に通じ素晴らしい知識を持っていました。しかもそれだけではなく、イエス様が旧約のメシア(キリスト、救い主)である事を信じて正確に語り教える事ができたのです。
とても優秀で雄弁なアポロでしたが、一点、致命的な不足があったのです。それは、『ヨハネのバプテスマしか知らなかった』事です。ヨハネのバプテスマとは「罪の赦しに導く、悔い改めのバプテスマ」です(マルコ1:4新約P.65)。神の御前に悔い改めをする事は、イエス様を信じる信仰に必要不可欠なものです。ただし、勘違いしてはならないのは、「私たちが悔い改めたから」罪が赦されるのではないのです。罪を赦す事ができるのは神様のみです。「神様の大きな恵みの故に」、悔い改めるものは罪が赦され、救われるのです。そして、神様の大きな恵みこそ、イエス様の十字架による贖い(死と復活)なのです。
アポロは神様を信じ、救い主がイエス様である事も信じていました。しかし、一番重要な「イエス様の十字架と復活は私のためであった」という事を信じるに至っていなかったのです。
◯プリスキラとアキラの愛(26節)
第二次宣教旅行の終盤、コリントでパウロと共に働いたクリスチャン夫婦のプリスキラとアキラは、パウロと共にエペソまで来ていました。パウロはアンティオキアに帰って行きましたが、プリスキラとアキラはエペソにとどまっていたのです。夫婦は、アポロの名演説を聞きました。すると、彼女たちは、すぐにアポロの不足に気づき、行動を起こしたのです。でもそれが、なんと愛に溢れ、キリストの体である教会を建てあげる行動であったかを知ってほしいのです。
「それを聞いたプリスキラとアキラは、【彼をわきに呼んで】、神の道をもっと正確に説明した。」
いくら、正しい事を伝えても、その言葉が刃となり、その人のプライドや心を傷つけるようなやり方では、人は育ちません。教会は建てあげられないのです。
人を生かすも殺すも、人の応対と言葉と言えます。プリスキラとアキラは、アポロを生かしたのです。人を生かすのは愛です。真理を伝える時、少しの配慮に、柔和な心で優しい言葉を添えて。
◯恵みによって(27節)
アポロは、悔い改めしか知らない信仰から、イエス・キリストの恵みの信仰に目が開かれ、アカイア地方のクリスチャンたちを、『恵みによって』大いに助ける者となったのです。
教会を建てあげる為には、キリストの愛を、隣人を愛する愛で伝えていく事が必要なのです。
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第6主日礼拝式順序 2024年2月11日 午前10:30〜
1.黙祷・・・一 同
2.賛美8 七日の旅路 (賛美) ・・一同起立
3.使徒信条・・一 同
4.主の祈り・・一 同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美467 世の終わりのラッパ (再臨) ・・一同起立
7.三大祷告
再 臨
イスラエル
日 本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・ 寺東真也師
主題 「恐れないで語り続けなさい」
使徒18:1〜11新約P.271
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講壇 「恐れないで語り続けなさい」
聖句 使徒18:1〜11
『ある夜、主は幻によってパウロに言われた。「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるので、あなたを襲って危害を加える者はいない。この町には、わたしの民がたくさんいるのだから。」』使徒18:9〜10
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日本宣教は簡単ではありません。福音を宣べ伝えますが、見える収穫が少ない時に人は、挫折し、勇気を失ってしまいます。しかし、聖書は、「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」(第二テモテ4:2新約P.429)と言います。しっかりやる為に、主は共にいてくださるのです。
◯パウロの挫折
第二回伝道旅行はパウロの思い描いていた地域とは違った道に導かれました。聖霊はアジア(今のトルコ)でみことばを語る事を禁じ、ビテニヤに北上しようとした時にも聖霊はお許しにならず、トロアスに下りました。そこで、マケドニア人が叫んでいる幻を見て、ギリシャのピリピへと足を踏み入れていくのです(使徒16:6〜9)。
ピリピでは、むち打ちや投獄など、トラブルに巻き込まれながらも、ルデヤ一家(使徒16:14)、牢獄の看守とその家族(使徒16:29〜34)が救われ、テサロニケ、ベレヤ、ではユダヤ人達にねたみから暴動を起こされましたが多くの者がイエス様を信じて、パウロに協力してくれました(使徒17:1〜15)。ピリピもテサロニケも救われた者が核となって教会が生まれたのです。
しかし、アテネにおいては少し違いました。アテネはギリシャの中心都市であり、ギリシャ哲学の最たる頭脳が集まっていたのです。そこの人々は、知識に飢え、目新しい教えを欲していたのです。しかし、知識だけで人は救われません。アテネの人々に向けたパウロの説教はむなしく響き、数人の人々が救われるのみで、教会を形成するに至りませんでした。もちろん数人でも救われた事はとても大事な事です。しかし、開拓者パウロにとって、初めての挫折を味わったのです。そんなパウロに神様はケアを忘れませんでした。
◯仲間によるケア
コリントへ来たときの心境を振り返ってパウロは記しています。
「あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。」(第一コリント2:3新約P.328)
神様は耐えられない試みには会わせられません。それどころか、脱出の道をも備えてくださるのです(第一コリント10:13)。丁度、ローマにおいて、ユダヤ人退去令がだされており、その為、熱心なクリスチャンであるアクラとプリスキラがコリントにて移り住んでいたのです。パウロは天幕作りの技術を持っており、同業者のアクラとプリスキラと共に働きながら宣教しました。コリントのユダヤ人達も福音を受けいれず、暴言を吐きだしたので、パウロはコリントの人々にのみ、みことばを語りました。その時、会堂管理者のクリスポを始め、多くのコリント人が救いに導かれたのです。
◯みことばによるケア
これまでのパターンはユダヤ人に激しいねたみが起こる、そして、暴動になり、命の危険に晒されるというものでした。
少なからず、パウロとて恐れを抱いた事でしょう。その中で、神様はねんごろに語られたのです。
「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから」(使徒18:9〜10)
パウロは知恵のことばではなく、キリストそのものを(第一コリント2:1〜5)、そして、自分の弱さに現れる神様の力強さ(第二コリント11:29〜30新約P.370、12:9〜10)を証するようになったのです。
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