大阪教会礼拝プログラム
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  ★注意事項★
 【家庭礼拝】
 ・家庭でも出来る限り、同じ時刻に主を礼拝するよう心掛ける。
 ・献金は月定、集会献金とも各家庭にて、及び各自で保管し、来会できるようになった時点の礼拝で献げる。
 【会堂奉仕者礼拝】
 ・発声する場合(賛美、祈り、唱和)は大きな声を出さない。
 ・同居家族以外間隔を開ける。
 ・マスクは必ず着用する。
 ・手指洗い、消毒を徹底する。
 ・各自、使用した部分(机、椅子、便座、スリッパ)を使用後にアルコール除菌する。

第5主日礼拝式順序 2024年2月4日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美7 主のみいつと (賛美) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美463 喜びもて (再臨)
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.特別賛美・・ 聖 歌 隊
10.メッセージ・・・ 寺東真也師
 主題 「真理を求めよ」
     使徒17:16〜34新約P.270
     第一コリント1:20〜24新約P.327

講壇 「真理を求めよ」
  聖句 使徒17:16〜34
     第一コリント1:20〜24

『神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。』第一コリント1:21
 べレアでの騒動があって、シラスとテモテはべレアにとどまりましたが、パウロは救われた人々に送り出されて、一足先に次の町であるアテネに案内されてたどり着きました。結果的に、このアテネでの宣教はパウロの孤軍奮闘となりました。

◯偶像と知識に溢れた町

 アテネはギリシャ文化の中心地であり、パルテノン神殿や野外劇場、音楽堂、様々な彫刻等、目を見張るようなものが沢山あります。また、最盛期は過ぎておりますが、紀元前400年頃には、ソクラテス、プラトン、アリストテレスなど名だたる一流の哲学者や思想家たちを輩出した町です。そして、そのような、文化や芸術は宗教に結びつき、町の至る所にギリシャ神話の偶像に溢れていたのです。

◯憤るパウロ

 誠の神から離れた人類が、その知識から生み出すものは、人間に都合の良い「偶像」や「神々」です。この世界とそこにある全てのものを造られた神に対して、一番の不敬は、神以外のものを神とし、見える形に落とし込んだ偶像を崇拝することです。まことの神の愛と恵みを知ったパウロにとって、知らずとはいえ、町中に溢れかえる偶像を見たとき、その心は義憤に燃えたのです。

◯広場での宣教

 今までの町々に関して、パウロの宣教の方法は、会堂や会堂の無い町では、川辺の祈りの場に行って、まことの神を信じるユダヤ人や、求道していた異邦人に福音を述べ伝えたのです。しかし、アテネでの宣教は一味違いました。偶像と知識に酔っている人々を見て、いてもたってもいられなくなったのでしょう。もちろん、まず、会堂で福音を述べ伝えたのですが、それに加えて、町の広場に出て行って、そこに居合わせた人々に福音を伝え論じ合ったのです。

◯エピクロス派とストア派

 広場で論じ合った人々の中には、エピクロス派とストア派 と言われる人々がいました。エピクロス派は快楽こそ人生の主要な目的とする快楽主義者です。そして、反対に、ストア派は凡神論でこの世の全てのものは神であり、世界=神だから人生の主要な目的は宇宙と一つになる事だと唱えました。実生活においては、禁欲主義、厳粛主義をとり、ストイックという言葉の語源となった程です。
 相反する主義を持った派の人々ですが、同じような対応をとったのです。

1.おしゃべり扱い

 自分たちの知識に誇りを持っていたので、パウロに対して、尊敬の念ではなく、小鳥がさえずり、種を啄むようなもの扱いをし、下に見ていたのです。

2.新しいもの好き

 良くいえば好 奇心旺盛なのですが、そこにいた人々はみな、この世の知識を得て楽しむだけの日々を過ごしていました。悪くいえば 流行を追うだけで審理を求めることをしない人々だったのです。ゆえに、パウロはアレオパゴスという当時の重要な会議を行う集会所に連れてゆき福音を語るように願いました(19、20節)。しかし、福音を聞いた多くの人々は、あざ笑い、「またの機会に」と流してしまったのです。

 信仰に基づかない知識は、人を真理から遠ざけます。しかし、謙って神を求める者には、命と真理に導かれるのです。
  
11.祈祷・・一  同
12.聖餐式49 しみも咎も(聖餐)・・・・寺東真也師
13.献金314 天つ国を指して (信頼)・・・・一同
14.感謝祈祷 ・・指 名
15.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
16」.祝祷・・・・・・ 寺東真也師
17.報告・・・・・・司会者

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第4主日礼拝式順序 2024年1月28日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美5 み使いよ伏して (賛美) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美148 夕べ雲焼くる (再臨) ・・一同起立
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・ 寺東真也師
 主題 「イエスは王」
     使徒17:10〜15新約P.270
     詩篇119:103旧約P.1065

講壇 「みことばに生きる」
  聖句 使徒17:10〜15
     詩篇119:103

『あなたのみことばは私の上あごになんと甘いことでしょう。 蜜よりも私の口に甘いので す。』詩篇119:103
 テサロニケにおいて妬みに駆られたユダヤ人たちの策略により暴動が起こった為、パウロたちは兄弟たちに送り出されて次の町に向かいました。

◯べレアにて

 べレアはテ サロニケから約80キ ロ離れた場所にある古い町でした。ここにもユダヤ人の会堂があり、パウロとシラスは早速、会堂にて 福音を宣べ伝え始めたのです。この町での福音宣教の結果は、今までにない展開を迎えます。今までの町々では、皆が福音に耳を傾けますが 、異邦人が受け入れ、ユダヤ人が信じず、反対に妬みに駆られて迫害し始めると言うことも少なくありませんでした。しかし、べレアでは、多くのユダヤ人もギリシア人も福音を信じ、救われたのです。

◯べレアの人々

 どうして、べレアのユダヤ人たちも救われるに至ったのでしょうか。11節のみことばが鍵になるでしょう。
「この町のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた。」(11節)

1.素直に

 一つ目は、テサロニケのユダヤよりも「素直」であったのです。イエス様は、聖書を語られる時、よくこう仰いました。
『そしてイエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」』(マルコ 4:9新約P.270
 どれほど、有益な情報があったとしても、それを聞く人が聞こうとこしなければ、その情報は何の意味も持ちません。べレアの人々は、固定概念に縛られていなかったのです。良い意味で、子供たちのように( マルコ10:14)。

2.非常に熱心に

 二つ目は「非常に 熱心に」みことばを受け入れたのです。
 主が喜ばれる信仰は「熱い」信仰です。黙示録に出てくる7つの教会の最後の教会は、現代社会の中に生きるクリスチャンに示唆を与え、警告していまたす。
「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。そのように、あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出す。」(黙示録3:15〜16新約P.419

3.毎日聖書を調べ

 三つ目は「毎日聖書を調べ」たのです。素直で熱心にみことばを聞き、受け入れ、そして、その確信を聖書から持としたのです。
 聖書は難しいというイメージは誰しも持ってしまいやすいものです 。しかし、神のことばは生きていて、力があるのです(ヘブル4:12新約P.419)。みことばは私たちの大切な霊的な糧であり、求めて、読む時、必ず、神様は語りかけてくださるのです。べレアの人々は、このみことばによって新しく生まれるに至ったのです。

◯ 教師が取られても

 テサロニケのユダヤ人たちはその妬みから、べレアにまで来て騒ぎを起こし、パウロが次の町に送り出されることになりました(13〜14節)。
 教師が取り去られても、立ち続ける教会には、みことばに立ち続けるクリスチャンがいたのです( 使徒20:4)。
  
11.祈祷・・一  同
12.献金466 来り給う主を (再臨)・・・・一同
13.感謝祈祷 ・・指 名
14.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
15.祝祷・・・・・・ 寺東真也師
16.報告・・・・・・司会者

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第3主日礼拝式順序 2024年1月21日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美4 子羊をば (賛美) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美特1 火の祈 ・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・聖 歌 隊
10.特別賛美・・・寺東真也師
 主題 「イエスは王」
     使徒17:1〜9新約P.269

講壇 「イエスは王」
  聖句 使徒17:1〜9

『・・・イエスという別の王がいる・・・』使徒17:7

 ピリピを出たパウロとシラスは、マケドニア州の首都にあたるテサロニケに向かいました。この町には、ユダヤ人の会堂があったので、パウロとシラスは三週に渡り、聖書に基づいてそこに集っている人々と論じ、イエスこそキリストであることを伝えたのです。

◯二つの反応

 会堂にいた人々は等しく、福音を聞きました。しかし、その反応は二つに分かれました。
 福音を聞いた者たちのうち、ある者たちは福音を信じ、パウロとシラスに従いました。その大多数は、ギリシャ人の改宗者たちで、女性も沢山いたようです(4節)。
 しかし、ユダヤ人たちは信じないだけでなく、ねたみに駆られて、ならず者を集め、暴動を起こして町を混乱させ、イエスを主と信じ、パウロとシラスを自宅に招き入れたヤソンの家を襲撃させたのです。
 憎しみの力はなんと大きい事でしょうか。その時、パウロとシラスはヤソンの家にいなかったので、ヤソンと兄弟たちを連れてゆき、役人たちに訴え出たのです。

◯二つの訴え

 ユダヤ人たちは二つの訴えを街の役人たちに訴えました。
 それは、彼らを落とし入れる内容のものなのですが、角度を変えてみると、全てデタラメではなく、キリストを信じる者の特徴を悪く表現しているだけである事がわかります。反対に、この訴えの真実な部分を抽出してみましょう。

1. 世界中を騒がせてきた

「世界中を騒がせてきた者たちが、ここにも来ています。」(6節)
 文語訳では「「天下を覆したる彼の者たち」となっており、世界をひっくり返した人たちだと言うのです。それは、過激な革命家のようなイメージでしょう。クリスチャンはテロリストではありません。しかし、世界をひっくり返す力をもったみことばを携えている者たちであるのです。まだ、この時は、ユダヤ人たちにとって目の上のたんこぶのような存在にすぎない程度かもしれませんが、後に、ローマ帝国さえも振り回すほど影響力を持っていると認識され、教会は大きな迫害をうけるようになるのです。しかし、その力は破壊を目的とする力ではなく、和解と平和を実現する愛の力なのです。

2. イエスを王とする

「彼らはみな、『イエスという別の王がいる』と言って、カエサルの詔勅に背く行いをしています。」(7節)
 クリスチャンはイエスを王とする者たちです。しかし、この世の権威も主が建てられたもので、主に背く事以外には従うようにと聖書は言います(ローマ13:1新約P.318)。なので、カエサルの勅令に背く行いをしていると言うのは間違いです。ただし、神の御心に背くことを権威あるものが迫ってくる場合はイエスを王とする者は、最高権威者であられるイエス様の御心を行うべきです。
 しかし、主の恵みによらなければ、弱い私たちは王に従い切ることさえできないのです。主の愛にとどまりましょう。

  
11.祈祷・・一  同
12.献金466 来り給う主を (再臨)・・・・一同
13.感謝祈祷 ・・指 名
14.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
15.祝祷・・・・・・ 寺東真也師
16.報告・・・・・・司会者

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第2主日礼拝式順序 2024年1月14日 午前10:30〜

 
1.黙祷・・・一 同
2.賛美3 天地の御神をば (賛美) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美465 いつかは知らねど (再臨)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・寺東真也師
 主題 「主イエスを信じなさい」
     使徒16:25〜34新約P.268

講壇 「主イエスを信じなさい」
  聖句 使徒16:25〜34

『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。』使徒16:31

 パウロは占いの霊につかれた女奴隷の中にいた悪霊を追い出しました。すると、この女奴隷によって儲けていた主人たちが烈火のごとく怒り、役人たちの所に連れてゆき、長官に訴えでたのです。町の人々も、長官たちも、信頼していた占い師を失くし、パウロとシラスをろくに調べもしないで、衣を剥ぎ取り、むちで打って牢に入れたのでした。

◯牢の中で

 パウロとシラスは牢に入れられ、足かせをはめられました。聖霊導きによってマケドニア宣教の道が開かれ、最初のピリピ宣教において、リディア一家が救われたばかりで、これからが本番と感じていた矢先にこのような事が起こったのです。パウロとシラスはどのような気持ちだった事でしょう。聖書はこう記しています。
「真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。」(25節)
 夜というのは、ただでさえ、気持ちが落ち込みやすいと言います。前向きな発想がしづらいのです。しかし、彼らは、全能の神様に全く信頼していました。そこには、悲しみや嘆きが逃げ去る喜びがあったのです(イザヤ35:10、51:11旧約P.1222)。

◯臨在の拡大

 すると突然、地を揺るがす大地震が起こり、牢獄を揺り動かして、牢の扉が全て開いてしまい、すべての囚人の鎖が外れてしまったのです。目を覚ました看守が慌てて駆けつけると、全ての扉が開いているのを見て、全員の囚人が逃げてしまったとも思い、自害しようとしました。当時のローマの法律は取り逃した囚人の罪は取り逃した看守が背負わなければならなかったからです。
 パウロは看守に大声で、自分達を含め、全ての囚人は逃げ出していない事を知らせ、看守の自殺を阻止しました。
 神の臨在は拡大するのです。まず初めに、神を信じるパウロとシラスの上に、この世のものではない、喜びと平安が溢れ、祈りと賛美となって湧き上がりました。そして、その声を聞いていた囚人たちにも変化が訪れ、脱走できる状態にも関わらず、誰一人、脱走しないという奇跡が起こりました。そして、それを目の当たりに見た看守は、ひれ伏し、心砕かれて、救いを求めたのです。その後、すぐに、看守はパウロとシラスを自宅に引き取り、家にいた全員が、イエス・キリストを信じる恵みにあずかったのです。
 主の臨在は一人のクリスチャンが変えられる所から始まります。そこには、聖なる臨在があり、周囲の人々にも良い影響を与えて広がるのです。

○あなたもあなたの家族も救われる

 看守の前に広がっている光景はありえないものでした。大小あれど罪を犯した囚人たちさえ、利己に走らず、牢にとどまる様があったのです。天国の片鱗を見た看守は、こう問わざるを得なかったのです。
「先生方。救われるためには、何をしなければなりませんか」(30節)
 その答えは「主イエスを信じなさい」でした。
 イエス・キリストの十字架と復活を信じる信仰があなたもあなたの家族も、全ての人を救う、唯一の鍵であるのです。

  
10.祈祷・・一  同
11.献金201 イエスはわがいのち (臨在)・・・・一同
12.感謝祈祷 ・・指 名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・ 寺東真也師
15.報告・・・・・・司会者

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第1主日礼拝式順序 2024年1月7日 午前10:30〜

 
1.黙祷・・・一 同
2.賛美2 たたえよ救い主イエスを (賛美) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美151 永遠の安き来りて (再臨)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・寺東真也師
 主題 「心を開いて」
     使徒16:11〜18新約P.267

講壇 「心を開いて」
  聖句 使徒16:11〜18

『・・・主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに心を留めるようにされた。』使徒16:14

御霊の導きによって、パウロ一行はトロアスから船出し、サモトラケを経て、マケドニアのネアポリスに到着しました。そして、最初の宣教地に選んだのは、ネアポリスからも近く、植民都市として栄えていた、ピリピだったのです。

◯植民都市ピリピ

 ピリピは昔、アレクサンダー大王の父でフィリップ2世が作った町で、その名にちなんでピリピと命名されました。後に、ローマが台頭し、ピリピは支配される事に反抗したのですが、後のローマ皇帝アウグストゥス(当時はオクタビアヌス)が勝利し、ピリピに、ローマの軍人たちを多く住まわせて植民地化した歴史があります。ピリピはマケドニアの小ローマのような町となったのです。

◯祈り場にて

 植民都市であるピリピにはユダヤ人がほとんどいなかったようです。ある程度、男性のユダヤ人がいれば、会堂を建てて礼拝するからです。会堂が無い町の少数のユダヤ人や信仰者は、川があればその岸で集まり、祈りをしていたのです。ピリピはそうでした。男性信者はおらず、そこには女性たちがいました(13節)。その女性たちに、パウロは福音を語ったのです。

○二人の女性

 さて、今日の聖書の箇所には二人の女性が登場します。一人はリディア。そしてもう一人は、名前は記されていない占いの霊につかれた女奴隷です。この二人の女性から、信仰を持つ事について聖書に聞きましょう。

1. リディア

 リディアはティアティラ市の紫布の商人でした。ティアティラ市はアジアの町で、小ローマと言われるピリピに家族と共に出稼ぎニ来ていたのです。そして、何より、彼女は「神を敬う人」であったようで、ティアティラでユダヤ教に改宗しまことの神を信じていたのです。ただし、イエス・キリストの福音については知りませんでした。彼女は、パウロが語る福音に耳を傾け、ついに、彼女も彼女の家族も、イエス様を信じ、洗礼を受けるに至ったのです。彼女がイエス様を信じる事ができたのはこう書かれています。
「主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに心を留めるようにされた。」(14節)
 信仰は、誰彼は関係なく、私と神様の関係の中にあるものです。自分の意思で信じる事が必要です。しかし、その前に、神様が心を開いてくださらなければ、自分の意思で福音を信じる事ができないのです。エマオの途上の弟子たちも、使徒たちも心を開いていただく必要があったのです(ルカ24:31、45新約P.173)。信仰を持ちたいけれども、どうすれば良いかわからない方は、私の心を開いて信じる事ができるようにしてくださいと祈ってください。必ず、神様は答えてくださいます。

2. 占いの霊につかれた女奴隷

 占いの霊につかれた女奴隷は、パウロたちの事について「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えています」と叫び伝えました。間違った事は言っていません。しかし、彼女の心は開かれておらず、反対に、反キリストの霊が、支配していたのです。頭で理解しているから救われるのではありません。心開かれたものが、真心からの信仰告白によって救われるのです(マタイ7:21新約P.12)。

  
10.祈祷・・一  同
11.聖餐式49 しみも咎も(聖餐)・・・・寺東真也師
12.献金200 心に悶えあれば (臨在)・・・・一同
13.感謝祈祷 ・・指 名
14.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
15.祝祷・・・・・・ 寺東真也師
16.報告・・・・・・司会者

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元旦礼拝順序 2024年1月1日 午前11:00〜

 
1.黙祷・・・一 同
2.賛美1 いざ皆きたりて(賛美) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美149 いつ主は来り給うや (再臨)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・寺東真也師
 主題 「恵みの良い管理者として」
     第一ペテロ4:7〜11新約P.470

講壇 「恵みの良い管理者として」
  聖句 第一ペテロ4:7〜11

「それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。」(第一ペテロ4:10)

 新しい年を迎え、主の再臨の日まで着実に時は進んでいます。その日は、万物の終わりの日であり、また、永遠の始まりの日でもあります。クリスチャンにとって、その日は輝かしい待ち望むべき日であるので、いついかなる時、主がおいでになっても良いように備えるべきです。どのように備え、歩むべきかを、今年の大阪教会の標語の中より「恵みの良い管理者」という視点で、みことばに聞きましょう。

◯賜物の管理者

 神様は私たちに、賜物を与えてくださいます。ある人は生まれついた才能を持ち、ある人は、学んだり、訓練を受けて、開花した特技があるかもしれません。また、ある人は、気配りが優れていたり、黙々と忠実に物事に取り組めたり、とても社交的な人もいるように、その人の性格も賜物です。経済的に余裕のある方や、商売が得意な方もいるでしょう。
 自分の生まれや、育ち、才能や特技、すべては神様からの賜物なのです。そして、それらはその人のものでありながら、霊的な視点から見るならば、その人が神の栄光を現す為に、与えられたものであるのです。与えられたものをどのように使用するかは、その人にかかっています。だからこそ聖書は言うのです。

「それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。」

 では、良い管理者とはどのような管理者なのでしょうか。

1.皆の益になる(第一コリント12:4〜7新約P.344

 良い管理者は、皆の益になる事を優先します。聖書は教会を「キリストの体」と表現しています。そして、クリスチャン一人一人はその体の各器官であるというのです。そして、各器官は、体のために、その器官の働きを、体全体のためにするのです。御霊によって与えられた賜物を、自分の為にだけに使うのではなく、皆の益になる為に、使用するのが、良い管理者なのです。

2. 愛の潤滑油(第一コリント12:31)

 私たちは、神様の栄光を現す為に、より優れた賜物を熱心に求めるべきです。しかし、どれほど、素晴らしい賜物でも、「愛」がなければ、無に等しく、何の役にも立たないものに成り下がります(第一コリント13:1〜3)。何よりもまず、互いに愛し合う愛が、クリスチャン生活の潤滑油なのです。

3.互いに仕え合う

 最後に、「互いに」もてなし合い、仕え合う姿勢が大事です。これは、自分の賜物を良い管理者として、用いて、仕えることは勿論のこと、その反対もある事を受け入れる必要 があります。全てのことを自分一人で完結しようとすることは、責任感が強くて良いように見えるかもしれませんが、共同体の成熟を考える時に、他者に委ね、また、自分がお世話になることも良い意味で受け入れる事のできる信頼関係を築く事が大事なのです(第二テモテ2:1〜2新約P.426)。

  
10.祈祷・・一  同
11.献金386 ナルドの香油 (献身)・・・・一同
12.感謝祈祷 ・・司会者
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・ 寺東真也師
15.報告・・・・・・司会者

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第53主日年末感謝礼拝式順序 2023年12月31日 午前10:30〜

 
1.黙祷・・・一 同
2.賛美22 御神の愛をば (賛美) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美171 今日まで守られ (感謝)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・寺東真也師
 主題 「主の良くしてくださった事」
     詩篇103:1〜5旧約P.1040

講壇 「主の良くしてくださった事」
  聖句 詩篇103:1〜5

『わがたましいよ主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。』詩篇103:2

 人生は嬉しい事や楽しい事だけでできていません。いやむしろ、辛いことや悲しい事の方が多いのではないでしょうか。この詩篇の記者であるダビデは一見、一介の羊飼いが、イスラエル王国の大王にまで成り上がる成功者のように見えなくもありません。しかし、その人生は決して甘くはありませんでした。ダビデは自分の人生を振り返る時、きっとまず思い浮かんだのは人生の辛いシーンだったことでしょう。しかし、その思いと心に、聖霊に満ちたダビデ自身が語りかけるのです。

「わがたましいよ主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」

◯感謝すべき事を覚える
・罪を赦して頂いたこと

 まず神様に感謝すべきなのは、私たちの罪を赦して頂いたことです。罪の赦しほど大きな恵みはありません。いつの間にか、救いの恵みが薄れてきていないでしょうか。
 神様は黙示録でエペソの教会に「初めの愛に帰れ」と忠告されています。巨大なアルテミス神殿がある偶像の町に真の神様を信じて救われた人々がエペソの教会でした。困難に耐え、偽使徒にも騙されることなく、信仰を守ってきました。しかし、豊かな生活が、救いの恵みを水増ししたのか、彼らは、初めの愛から知らず知らずのうちに離れてしまっていたのです。クリスチャンから救いの喜びを取ってしまったら、何も残りません。私たちの感謝の源であり、信仰の原動力であるイエス様の愛にいつも帰るようにしましょう。

・病を癒して頂いたこと。

 神様は、私たちの真の癒し主です。近代医学が発達した世の中で、神癒の恵みが薄められています。病院や医者、薬は神様に用いられているにすぎません。もちろんこれらは神様が必要あって人間に知識として与えて下さったものなので軽んじてはいけませんが、万能なる癒し主は神様のみであり、癒しは主から来ることを覚えて感謝いたしましょう。私たちの健康は害して初めてその貴重さに気づくことが出来るのかもしれません。病の中でもそのことを知れたことを感謝するならば、もっと癒し主なる神様を深く知ることになるでしょう。

○感謝は力

 私たちの人生に感謝が溢れる時に、心が豊かさで溢れるようになります。神様に対する感謝は私たちをパワーアップさせる増強剤となるのです。たとえ、私たちの状況が感謝出来ないような状態にあっても神様の恵みを忘れずに感謝する時、私たちの心にはまず平安がやってきます。そして次には、喜びがやってくるのです。

 あなたは神様に感謝すべき事がいくつありますか。神様の恵みを恵みとして受け取り、どんな小さな事でも忘れないで神様の前に出ましょう。

  
10.祈祷・・一  同
11.献金172 望みも消え行くまでに (感謝)・・・・一同
12.感謝祈祷 ・・指 名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・ 寺東真也師
15.報告・・・・・・司会者

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第52主日クリスマス親子礼拝式順序 2023年12月24日 午前10:30〜

 
1.黙祷・・・一 同
2.賛美76 諸人こぞりて(クリスマス) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美77 きよしこの夜 (クリスマス)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.特別賛美・・聖 歌 隊 10.メッセージ・・・寺東真也師
 主題 「喜びの知らせをあなたに」
     ルカ2:6〜20新約P.110

講壇 「神の導きと時」
  聖句 ルカ2:6〜20

『今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。』(ルカ2:11)

 イエス様がお生まれになった夜、特別にこの知らせを聞いた人々がいました。それは、羊飼い達でした。

◯羊飼いたち

 この時、ローマにローマ皇帝から勅令が出ていました。それは、自分の町にて住民登録をするようにというものでした。ほとんどの成人した人々はこの命令に従って動いていたのです。しかし、社会の底辺にいた人々の中には例外もいたのです。例えば、今日のみことばに出てくる羊飼いたちも、その中の一人であったようです。皆が住民登録をしていた時に、彼らは夜通し働かなければなりませんでした。別の角度から見ると、住民登録はローマに税金を納める為の、準備です。しかし、羊飼いたちは、登録してもしなくても影響が出ない程度の扱いを受けていた人々と言えるのです。
 現代で言うならば、働けど、働けど、生活は豊かにならない貧しい人々と言えるかも知れません。

◯喜びの知らせ

 そんな彼らを、主の栄光が照らし、包んだのです。その体験に彼らは心の底から恐れおののきました。しかし、御使いが伝えたのは、喜びの知らせだったのです。

1. この民全体のため(10節)

 この喜びの知らせは、この民全体に与えられるものでした。イスラエルの民全員にです。さらに、聖書全体の真理から言うならば、造られた全世界のすべての人々のための喜びの知らせなのです。神様はあえて、その時代の、取るに足りないと爪弾き者とされていた羊飼いたちにこの知らせをいの一番に知らせたのです。

2. 主キリスト(11節)

 キリスト(メシア)は油注がれた者という意味で、旧約聖書にて預言されているお方です。当時はローマ皇帝こそがこの世界を平定する「救い主」と崇められていました。しかし、聖書は、人間の本質的な問題である「罪」からの救い主として神様に選ばれ、油注がれたキリストこそ真の救い主であると語るのです(ローマ3:9〜24新約P.301)。

3. 見つける事ができるしるし(12節)

 良い知らせを聞いた時、生まれたばかりの救い主に会いに行くチャンスが羊飼いたちに与えられました。それは、「布にくるまった飼い葉桶に寝ているみどりご」だったのです。羊飼いたちは、その地域の飼い葉桶がある場所を知っていたので捜し出す事ができました。しかし、ある一面、これは、神様が見つけられるようにあえてしてくださり、見つかってくださったと言えます。イエス様を通して、本来、神様のもとに行くことも、見つけることも出来ない罪人が、赦され、義とせられ、神様を見出す(見出させていただく)者とされるのです。
「あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。わたしはあなたがたに見出される──主のことば──。・・・』(エレミヤ29:13〜14旧約P.1344

◯証人と礼拝者に(17、20節)

 羊飼い達は、御使いの語ったとおりである事を知り、みどりごがキリストである事を証し、神をあがめ、賛美しながら帰って行きました。救いを受けたクリスチャンは、イエス・キリストの証人であり、礼拝者なのです。

  
11.祈祷・・一  同
12.献金79 天には栄え (クリスマス)・・・・一同
13.感謝祈祷 ・・指  名
14.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
15.祝祷・・・・・・ 寺東真也師
16.報告・・・・・・司会者
17.挨拶&降誕劇・・・教会学校生徒

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第51主日礼拝式順序【アドベント第三週】 2023年12月17日 午前10:30〜

 
1.黙祷・・・一 同
2.賛美81 諸人声上げ(クリスマス) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美467 世の終りのラッパ (再臨)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.特別賛美・・聖 歌 隊 10.メッセージ・・・寺東真也師
 主題 「神の導きと時」
     使徒16:6〜10新約P.267
     伝道者3:11旧約P.1141

講壇 「神の導きと時」
  聖句 使徒16:6〜10
     伝道者3:11

『神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。』(伝道者3:11)

 第二次宣教旅行が始まり、パウロとシラスは、リステラにてテモテを連れて行いくことにしました。第一次宣教旅行で救われた人々を励まし、その後、新たな地域にパウロたちは進むことを計画したのでした。

○ 新たな宣教地を目指して
1.アジア宣教の禁止

 パウロたちが計画していたのは、現在のトルコ西部にあたるアジア宣教でした。特に、アジアの中心都市であるエペソにおける伝道を考えていたことでしょう。ピシディアのアンティオキアから、西に進むルートです。しかし、どのような方法であった のかは詳しくは記されていませんが、精霊によってアジアでみことばを語ることが禁じら れたのです(6節)。

2.ビティニア行きの妨げ

 パウロたちは聖霊の導きに従い、西に向かうのではなく、フリュギア・ガラテヤを通り、進路を北に向けて出発し、ミシアまで来た時、さらに、北に向けて歩みを進めビティニアに行こうと計画しました。しかし、またも、イエスの御霊がそれを許されず、留められたので(7 節)、ミシアから西に進み、エーゲ海に面する港町のトロアスに辿り着いたのです(8節)。

3.マケドニア人の叫び

 その夜、パウロはマケドニア人が「マケドニアに渡って来て、私たちを助けてください」(9 節)と叫ぶ幻を見たのです。このことで、パウロたちは、マケドニアにおいてイエス様の福 音を必要とする人々がいる事を確信するのでした。

○ 聖霊の導き

 第一次宣教旅行においては、パウロとバルナバの計画と神様の計画は同じであったので計画通に進んで行きました。しかし、第二次宣教旅行においては、そうでありませんでした。2度も、みことばを語る事を禁じ、進もうとする道を閉ざされたのです。しかし、そこには、明確な神様のご計画と、時が存在していたのです。

1.みことばと福音を必要としない場所はない。

 アジアやビティニアはこの時、福音が語られず、宣教の道が閉ざされました。神様から見 捨てられたのでしょうか。決してそんなことはありません。神様はすべての人が十字架の 血による贖いを必要としている事を知っておられますし、すべての人が悔い改めて救われ る事を願っておられるお方です(第一テモテ2:4新約P.419)。

2.人間の計画を越える神の計画と時が存在する。

 では、なぜ、良いことのはずの宣教や、みことばを語る事を禁じるような事を御霊は導かれ たのでしょうか。それは、人間の計画を越える神様のご計画と時が存在するからです(伝道 者3:11)。宣教の実践は私たちに神様は委ねてくださっていますが、救霊の実を結ばせ てくださるのは、神様ご自身の業なのです。

3.確信をいただく

 私たちは、大胆にみことばを語らせてくださいと願い、用いられる事を祈る必要があります。 しかし、それが、自分勝手な思い込みによる人間の業になってしまうことは避けなければなりません。聖霊の導きの声に聞き、確信を与えられ、平安と喜びに満ちて、主に仕えることがとても大事なのです。(イザヤ30:21旧約P.1215

  
11.祈祷・・一  同
12.献金333×2回 神の時の流れの中で (信頼)・・・・一同
13.感謝祈祷 ・・指  名
14.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
15.祝祷・・・・・・ 寺東真也師
16.報告・・・・・・司会者

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第50主日礼拝式順序【アドベント第二週】 2023年12月10日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美78 荒野の果てに(クリスマス) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美68 久しく待ちにし (アドベント)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・寺東真也師
 主題 「福音のために生きる」
     使徒16:1〜5新約P.267
     第一コリント 9:19〜23

講壇 「福音のために生きる」
  聖句 使徒16:1〜5
     ローマ 8:28
     第一コリント 9:19〜23

『すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです。』第一コリント9:22

 第二次宣教旅行はパウロとバルナバは互いに違う道を行くことになりました。パウロはシラスと共に、アンティオキアの教会から神の恵みにゆだねられて、シリア、キリキアを抜け、第一次宣教旅行の終端であったデルベ、そして、リステラに行きました。

○リステラの町で

 パウロにとってリステラの町は良い思い出は少なく、命の危機があった町でした。一人の生まれつき足の不自由な男性を癒した奇跡により、地元の人々から、ギリシャ神話の神々に祭り上げられそうになり、その後、ピシディアのアンティオキアとイコニオンの町から後を追いかけてきたユダヤ人たちから石打ちにされたのです。  トラウマになってもおかしくないような思い出の町で、神様は特別な出会いを用意されていました。それは、パウロにとって愛弟子であるテモテとの出会いでした。

○テモテ
1.ハーフであった(1節)

 テモテは、ギリシャ人の父とユダヤ人の母を持つハーフでした。
 本来、ユダヤ人にとって異邦人と結婚する事は御法度です。しかし、エルサレムから離れて住んでいた人々は、少し緩い考えや信仰になっていたのでしょう。しかし、パウロは、ユダヤの信仰と、異邦人の感覚を理解できる器として、異邦人伝道には、とても良いとテモテを見込んだのです。

2.評判の良い人あった

 ハーフという生い立ちが異邦人伝道に役立つという発想は、間違いではありませんが、それだけでは、問題の方があるに違いありません。パウロは、マルコの一度の失敗を受け入れることができないほど熱い信仰の持ち主であったことを考えると、彼らの信仰は、キリストを信じた時から、リバイバルし、純粋で、まっすぐな信仰になっていたようです。後に、パウロはテモテの信仰の純粋さを褒め、それは、祖母、そして母から受け継いだものであることを記しています(第二テモテ1:5新約P.425)。
 また、その結果の現れとして、リステラとイコニオンの教会の兄弟たちの間で、とても評判の良いクリスチャンであった事をルカは記しています(2節)。

○福音のために

 パウロは、テモテをどうしても宣教旅行に連れ行きたいと考え、異邦人とユダヤ人のハーフという事が、異邦人には好都合でも、ユダヤ人たちには、それが、欠点となってしまう事をパウロは知っていました。そこで、パウロはテモテに割礼を受けさせたのです。
 パウロは律法主義の割礼派に妥協したのでしょうか。決してそうではありません。パウロにとって割礼の有無が大事な事なのではなく、福音による新生を重要視していたからです(ガラテヤ6:15新約P.383)。誤解を恐れず言うならば、割礼自体は悪いものではなく、ユダヤ人にとって、大切なものである事を認めつつも、それは、型であり、心の割礼こそが本物の割礼だからです(ローマ2:29新約P.300)。
 パウロはユダヤ人も異邦人も獲得するために、あえて、テモテに割礼を施したのです(第一コリント9:19〜23新約P.339)。神様は、人の動機をご覧になります。福音のために生きた人々を、主は祝福され、諸教会も祝福されて人数も増し加えられたと記されているのです(5節)。

10.祈祷・・一  同
11.献金406 主にありて生くるとき (献身)・・・・一同
12.感謝祈祷 ・・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.報告・・・・・・司会者

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第49主日礼拝式順序【アドベント第一週】 2023年12月3日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美70 朝日は昇りて(アドベント) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美75 神の御子は (クリスマス)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・寺東真也師
 主題 「全てのことを益に」
     使徒15:36〜41新約P.266
     ローマ 8:28新約P.310

講壇 「全てのことを益に」
  聖句 使徒15:36〜41
     ローマ 8:28

「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」ローマ8章28節

 第一次宣教旅行を終えて、帰ってきたパウロとバルナバを待っていたのは立法主義割礼派の間違った教えの脅威でした。しかし、教会は聖霊の導きにより、しっかりと神様の恵みに立ち信仰義認の姿勢を貫いたのでした。

○第二次宣教旅行に向けて

 パウロとバルナバはしばらくアンティオキアに留まって福音を宣べ伝えましたが、もう一度、第一回宣教旅行の中で、救われた人々を訪問して励ましに行く計画を立てたのでした(36節)。パウロとバルナバは福音を宣べ伝えっぱなしではなく、生まれたばかりの信仰者のための助けになるべく行動したのです。イエス様の大宣教命令は伝道、受洗に終わるものではなく、全てのことを教えることに繋がるのです(マタイ28:19〜20新約P.64)。

○激しい議論に

 パウロとバルナバは再び宣教してきた地を訪問することで一致していました。しかし、宣教チームを再構築する際に、二人の中に大きな軋轢を生むことになってしまったのです。それは、マルコと呼ばれるヨハネをもう一度一緒に連れて行くかどうかという点でした。
 バルバナは、マルコをもう一度一緒に連れて行くつもりでした。しかし、パウロは第一次宣教旅行の途中で中途半端に離脱したような者は、連れて行かない方が良いという考えだったのです。

○バルナバ

 バルナバは「慰めの子」という意味の名前です。そして、その名の通り、隣人を愛し、受け入れ、育てることを大事にする人でした。パウロ本人も、バルナバの執り成しのゆえに、教会に受け入れてもらえたと言っても過言ではありません。そして、マルコに対してもバルナバは寛容であり、一度の失敗で見捨てることなく、導きの手を伸べ続けようしたのです。

○パウロ

 パウロの信仰の情熱は誰よりも熱いものがあります。迫害者であった際も、その一面は一貫しており、 竹を割ったような性格であり、主を愛する愛は一途そのものでした。 イエス様も、「・・・鋤に手をかけてからうしろを見る者はだれも、神の国にふさわしくありません。」(ルカ9:62新約P.134)と仰っておられる事を鑑みると、神様に対する私たちのあり方を考えさせられるものがあります。

○正しさの中の弱さ

 二人の対立はどちらが正解で不正解というような者ではありません。この時、激しい議論になり、最終的には「互いに」別行動をとることにしたのです。バルナバはマルコを連れてキプロスへ、パウロはシラスを連れてシリア、キリキア方面へ行きました。この時、どちらも、自分の意見、正義を有し、その主張を曲げませんでした。決して喧嘩別れをしたわけではありませんが、キリストにある一致を成熟の基準とするならば、両人とも、弱さがあったと言えます。正しさと正しさがぶつかる時、キリスト者の真価が問われるのでしょう(伝道者7:16旧約P.1147)。

○全てを益に

 別々の道を選んだパウロとバルナバでしたが、図らずも、一つの宣教チームが、二つとなり、それぞれが主にあって用いられる結果となっていったのです。主は弱さをも益としてくださるお方です。

10.祈祷・・一  同
11.聖餐式49 しみも咎も(聖餐)・・・・寺東真也師
12.献金340 救い主イェスと (恵みの成長)・・・・一同
13.感謝祈祷 ・・指  名
14.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
15.祝祷・・・・・・寺東真也師
16.報告・・・・・・司会者

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第48主日親子礼拝式順序 2023年11月26日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美486 雄々しくあれ(子ども) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美151 永遠の安き来りて (再臨)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・寺 東 栄 化 師
 主題 「主よ感謝します」
     ルカ 7:36〜50新約P.125
     ローマ 8:28新約P.310

講壇 「主よ感謝します」
  聖句 ルカ 7:36〜50
     ローマ 8:28

『そして彼女に、「あなたの罪は赦されています」と言われた。』ルカ7:48

 イエス様がシモンというパリサイ人の家へ食事に招待された時の事です。一人の「罪深い女」 がその場にやってきて、泣きながら、イエス様の足を涙で濡らし、自分の髪の毛で足の汚れをぬぐって何度も足に口づけしました。そして、高価な香油をイエス様の足に塗ったのでした。

○シモンが見ていたもの
1.女性の罪

 シモンはこの女性がやってきた時から心の中である思いが浮かび上がってきました。それは、この女性に対する軽蔑の思いです。
「この人がもし預言者だったら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っているはずだ。この女は罪深いのだから」(39節)
 どのような罪を犯していた女性かは具体的には書かれていませんがおそらく、道徳的性的な罪を犯し、しかも、この町の人が知っているほどの常習的なものであったのでしょう。

2.イエス様の対応

 もう一つは、罪深い女性に対してどのような対応をするかです。預言者ならば、罪深い女であることを見抜いてあしらうはずと、高みの見物を決め込んだのです。

3.自分の義

 そして、何より彼が見ていたものは自分自身の義でした。彼は意識せずとも、「この中で自分が一番正しい」と考えていたのです。
 女性に対しては、自分がパリサイ人で罪に沈み汚れた女性のようでない事さえ感謝するような感覚であったに違いありません(ルカ18:9〜12)。また、イエス様に対しては、自分の正しい目で見て、本物かどうかを見てやろう、ないしは、化けの皮を剥がしてやろうと、上から目線でイエス様に接して いたのです。なぜなら、彼は本来、客人に対して行う最低限のおもてなしさえも怠っていた からです(44〜46節)。彼は、自分で自分を正しいとする義の上にあぐらをかいていた のです。

○罪深い女が見ていたもの
1.イエス様の恵み

 彼女はイエス様が病人(罪の因果と考えられていた)を癒やし、心の貧 しい者たちに福音が語られ、友となられるイエス様の恵みを見ていました。

2.目の前におられるお方

 そして、何より、今目の前にいる愛と恵みに溢れたお方のみを見ていました。自分がいかに 罪深い者であっても、受け入れ、赦し、包み込んでくださるお方に目を向けていたのです。 彼女は信仰の目をもってイエス様を仰ぎ見ました。そこに救いがあったのです(イザヤ45:22旧約P.1245)。

○赦されただけ愛した女

 彼女はなりふり構わず、赦された事の感謝と愛をもって、自分に出来ることの限りを尽くして行動しました(38節)。間違えてはならないのは、罪を赦して欲しくてとか、赦されるために行動したのではないという事です。こんな自分を受け入れてくださったから、赦されたからこそ行動したという事実です。

「ですから、わたしはあなたに言います。この人 は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。」(47節)

10.祈祷・・一  同
11.献金268 御国の心地す (救いの喜び)・・・・一同
12.感謝祈祷 ・・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・ 寺 東 栄 化 師
15..報告・・・・・・司会者

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第47主日礼拝式順序 2023年11月19日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美474 主がわたしの手を(子ども) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美475 まもなくかなたの (子ども)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・寺東真也師
 主題 「イエス様に喜ばれる信仰」
  聖句  ルカ7:1〜10新約P.123
      ヘブル11:1新約P.451

講壇 「イエス様に喜ばれる信仰」
  聖句 ルカ7:1〜10
     ヘブル11:1

「さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」ヘブル11章1節

 イエス様に喜ばれる信仰とはどのような信仰なのでしょうか。
 ローマの百人隊長のしもべの一人が病気でしかも死にかけており、百人隊長は使いを送ってイエス様に癒してくださるようにお願いしに来ました。
 最終的にイエス様はこの百人隊長の信仰を次のように称賛されました。

「あなたがたに言いますが、わたしはイスラエルのうちでも、これほどの信仰を見たことがありません。」(9節)

 この百人隊長の信仰をイエス様はとても喜ばれたのです。この百人隊長の信仰をみことばから聞きましょう。

1. 神の前に立つ資格

 百人隊長という役職はその名の通り100人の部下を持つ隊長です。しかもビジネス的な部下ではなく、部下の命をも左右する事の出来る立場であり、絶対的な上下関係が存在する関係なのです。立場が人を作ると言いますが、悪い意味において立場が人を傲慢にすることもあります。しかし、この百人隊長は、神の前にある自分の資格(価値、値打ち)を理解していました。
 ユダヤ人の長老たちは、百人隊長は神の憐みと恵みを受けるに相応しいと値踏みしました。なぜならば、ユダヤ人を愛し、私財を用いて会堂を建ててくれるような人物だったからです。しかも、「しもべ」という時「ドゥーロス(奴隷)」ではなく「パイス(子、若者)」を癒してくださいと表現するほど、部下想いな人であったからです。
 しかし、神の前に立つ資格はその人がどれだけ善行を行ったとか、人格的に優れているかで決まるものではありません。
 百人隊長は家の近くまで来た時に友人たちを遣わしてイエス様に伝えました。

「主よ、わざわざ、ご足労くださるには及びません。あなた様を、私のような者の家の屋根の下にお入れする資格はありませんので。ですから、私自身があなた様のもとに伺うのも、ふさわしいとは思いませんでした。」(6〜7)

 自分が異邦人であり、神の民と同格に扱われるのは違うと思っていたのでしょう。また、それ以上に、イエス様の前に立てる資格(価値、値打ち)はないとバプテスマのヨハネ(ルカ3:16)やペテロ(ルカ5:8)のように霊的に自覚していたのです。神への正しい畏れは信仰の一歩です。

2. 徹底したみことば信仰

「ただ、おことばを下さい。」(7節)。この一言の中に、百人隊長の信仰の中心が輝いています。軍隊の規律は権威によって統制されています。その事を身をもって知っている百人隊長は、だとすれば、この世の全てのものは神の権威のもとに服していると信じる事が出来たのです。イエス様のことばには権威があり、病さえも従うのだと(8節)。
 この信仰を神様は喜ばれ、百人隊長のしもべは、イエス様と物理的に会うことなく癒されます(10節)。
 そこには畏れだけでなく、必ず救って下さる恵み深いお方への愛と信頼が溢れていたのです。

10.祈祷・・一  同
11.献金282 見ゆるところによらず (信仰)・・・・一同
12.感謝祈祷 ・・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.幼児祝福式505 は (永遠)・・・・寺東真也師
16.報告・・・・・・司会者

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第46主日礼拝式順序 2023年11月12日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美233 驚くばかりの(救い) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美516 ヨルダンの彼方に (永遠)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.特別賛美・・聖 歌 隊
10.講師紹介・・・・寺東真也師
11.メッセージ・・・花岡甲一師
 主題 「永遠を目指して生きよう。」
  聖句 詩篇90:10〜12旧約P.1030

講壇 「永遠を目指して生きよう。」
  聖句 詩篇90:10〜12

「どうか教えてください。自分の日を数えることを。そうして私たちに知恵の心を得させてください。」詩篇90篇12節

 さて今日は、人生が駆け足で過ぎ去る事につて語っている聖書箇所をまずお読みいたします。(詩篇90篇10〜12)
『私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。そのほとんどは労苦とわざわいです。瞬く間に時は過ぎ私たちは飛び去ります。だれが御怒りの力をあなたの激しい怒りの力を知っているでしょう。ふさわしい恐れを持つほどに。どうか教えてください。自分の日を数えることを。そうして私たちに知恵の心を得させてください。』
 現在の日本人の平均寿命は、男性が81歳、女性が87歳です。しかし、旧約聖書の中で120年生きたモーセは、たとえ80年生きても、瞬く間に時は過ぎ私たちは飛び去ります。と語っています。ところで,80年の人生を人は何に時間を使っているのか、という統計があります。それによりますと、睡眠に26年と6か月、食事に3年4か月、トイレに1年2か月、学校で2年7か月、職場にいる時間は、9年6か月、そして出勤の為の移動時間が2年であります。と言う事は、約45年は、生活に使っているのです。そこで残り35年はとなりますが、ここから義務教育、高校、大学の15年を引きますと、本当に自立した大人として自由に使える時間は、たった20年だけだと言うのです。そして人生のほとんどは、食べて、出して、寝る事だというのです。もしそれだけが人生だとしたら、それは豚と変わらない虚しい人生と言えるでしょう。しかし、モーセは、ここで3つの事を語っているように感じます。
 第一に、人生には、締切があることを知りなさい。と語っているように思います。世の中には、時々、天才的な人が現れます。しかし、どんな天才といえども、晩年の悩みは共通するのです。それは、未完の作品を前にして、知る自分の小ささです。ミケランジェロの晩年は、イエスキリストが十字架で息を引き取って降ろされる作品が多いのですが、そのほとんどが未完成です。又、モーツアルトのレクイエムも未完成です。多くの人々が自分の人生を終える時に、やり残したことに心残りを感じるのではないでしょうか。
 第二に、永遠の神の前に立つ準備をしなさいと語っています。ちょうど私たちが、海外旅行に行く時に色々と準備をします。着替えやガイドブックを買ったりします。しかし、一番肝心なことは、必ずパスポートを準備しビザを取る事です。ましては、神の御前に立ち永遠の天の御国に入るために、イエスキリストを救い主と受け入れる事は、何よりも大切な準備なのです。聖書には、「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」使徒4:12新約P.239とあるのです。
 第三に、永遠を勘定に入れた人生を歩む事の勧めです。それは、私達が永遠の御国に行っても永遠に価値を失わないものを求めて人生を使う事です。 ある新聞記事に日本の生んだ科学者の人気投票の中では、断トツ第一位は、野口英世だそうです。彼は、東北の極貧困農家の出身で火傷のハンディを乗り越えて世界的な医者になり、ついには、アフリカ・ガーナの人々のために命をささげた人でした。もし彼が亡くなっていなければ日本人初のノーベル医学賞の第一号なるはずの人でした。実は彼は、明治28年19歳の時、会津若松の教会で洗礼を受けています。それは、この教会が始まって3人目のクリスチャンでした。この教会生活を通して牧師から英語を学び、また日曜学校で子供たちに聖書を教えたのです。やがて医師を目指して東京に上京した時の下宿先は、本郷中央キリスト教会の二階の部屋だったのです。その後、明治35年、アメリカに渡りました。彼の生涯は、神と人を愛する事に命をかけた生涯だったのです。あなたも同じ永遠に向かって価値ある人生を歩みませんか。

12.祈祷・・一  同
13.献金517 はるかに仰ぎ見る (永遠)・・・・一同
14.感謝祈祷 ・・指  名
15.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
16.祝祷・・・・・・花岡甲一師
17.報告・・・・・・司会者

x

第45主日礼拝式順序 2023年11月5日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美263 罪 咎を赦され 神の子とせられ(救いの喜び) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美454 立ちあがれいざ (霊の戦い)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・寺東真也師
 主題 「愛のゆえに」
  聖句 使徒15:1〜35新約P.264

講壇 「愛のゆえに」
  聖句 使徒15:1〜35

『聖霊と私たちは、次の必要なことのほかには、あなたがたに、それ以上のどんな重荷も負わせないことを決めました。』(使徒15:28)

 第一次宣教旅行からシリアのアンティオキアにパウロとバルナバ戻りました。そして、しばらくした時、ユダヤから来た人々が、兄弟姉妹を混乱させる教えを説き始めたのです。それは次のような教えでした。 「モーセの慣習にしたがって割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」(1節)
 この事を聞いたパウロとバルナバは激しく反対し、論争になったのです。これをゆゆしき事態であると判断したパウロとバルナバと幾人かの人々は使徒達や長老たちと話し合う為にエルサレムへ上ったのです(2節)。この時の話し合いと決議はとても重要なもので、キリスト教会の中では、「エルサレム会議」と呼ばれています。

◯エルサレム会議の争点

 エルサレム会議の争点は、「異邦人クリスチャンも律法を守り、割礼を受けるべきである」というものです。要するに、人が救われる為には、イエス・キリストの福音を信じる事と共に、割礼(律法を守る事)も必要であると言う考え方です。
 これに対して、教会の代表であるペテロが口を開き、以前に経験した異邦人の救いと神様が与えられた証(聖霊に満たされた事)を語りました。これはコルネリウスの事です(使徒10章から11章18節)。これを聞いた会衆は静かになり、さらにパウロとバルナバの 宣教旅行における 証に耳を傾けました。
 そして、最後に主の兄弟であるヤコブが アモスの預言の言葉を引用し、一定の配慮を行うのみにとどめるよう締めくくりました(16〜18)。

◯異邦人クリスチャンに求めたもの

 この時、教会が異邦人クリスチャンに求めたものは、次の四点でした(20〜21、29節)。
1. 偶像に供えたもの
2. 血
3. 締め殺したもの
4. 淫らな行い
 すべては、偶像礼拝につながるものです。 ただし、 救いの要件としてではありません。 自分自身が信仰から離れてしまわないためにと、ユダヤ人クリスチャンへの配慮からです。後にパウロは食べ物についての教えを語っています(ローマ14:20新約P.321、第一コリント8章新約P.337)。

◯聖霊と私たち

 救いの根幹に関わる大切なことを話し合ったわけですが、以前のように、くじを引いて決定する事はありませんでした。最初に皆で十分に話し(7節)、神の導きとみことばを確認し(7〜21)、一致をして決議しました(22節)。
 そこには、ただ、民主的に話し合いで決めたのではなく、神頼みのくじを引いたわけではない、聖霊の臨在の中で、私たちは話し、決議した事をまっすぐにアンティオキアとその周辺の教会の兄弟姉妹に伝えることにしたのです。

◯そこに愛があるか

・神への愛
 エルサレム教会は決定した事を伝える為に、パウロとバルナバに加え、2名(ユダとシラス)の使者立てました。これは、律法に則った正式な方法です(申命記19:15旧約P.349)。神様の前に誠実にあり、神様への愛の表れと言えます。

・人への愛
 また、先にも触れましたが、四つの指示は律法を大切にしているクリスチャンたちへの配慮と自分自身への配慮である事は、自分自身を愛するようにと隣人をも愛することにつながります。罪以外のすべてのことは許されている自由 を私たちは持っていますが、 その自由を愛することのために使うべきです(ヨハネ13:34新約P.213)。

10.祈祷・・一  同
11.聖餐式49 しみも咎も(聖餐)・・・・寺東真也師
12.献金416 聖霊来れり (聖霊)・・・・一同
13.感謝祈祷 ・・指  名
14.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
15.祝祷・・・・・・寺東真也師
16.報告・・・・・・司会者

x

第44主日召天者記念礼拝式順序 2023年10月29日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美513 悩み多き浮世を(永遠) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美470 懐しき住まい (天国)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.特別賛美・・聖 歌 隊
10.メッセージ・・・寺東真也師
 主題 「復活の希望」
  聖句 第一テサロニケ4:13〜18新約P.412

講壇 「復活の希望」
  聖句 第一テサロニケ4:13〜18

「眠っている人たちについては、兄弟たち、あなたがたに知らずにいてほしくありません。あなたがたが、望みのない他の人々のように悲しまないためです。」第一テサロニケ4章13節

 イエス様が天に昇られて後、弟子達は聖霊に満たされて、福音を世界に伝えるべく遣わされていきました。福音は、国境を越えて、小アジア、ヨーロッパにまで伝えられ、各地においてイエス様を信じる者たちの群れである教会が誕生したのです。しかし、生まれたばかりの教会には、様々な問題や課題があり、それらと戦うために、健全な教えと指導が必要であったために、新約聖書の大半の書簡は記されたのです。

◯再臨と死の問題

 弟子達はイエス様の十字架の死と復活による贖罪、そして、来るべき再臨の希望を語りました。自分たちが見聞きし、実際に触れたお方がもう一度、来られるという教えは、現実味に溢れた素晴らしいものでした。しかし、再臨が自分たちの生きている時代に起こり得るのだという健全な待望による再臨信仰にも、初代クリスチャン達の肉体の死を経験していく時に、健全な知識不足により、聖徒の死を健全に受け止められず、その信仰にダメージを負う人々が出てきたのです。
 イエス様は帰って来てくださる。しかし、それまでに仲間が一人、また一人と死んでいく現実に、肉体の死と信仰者の死後に不安を抱き始めたのです。
 そこで、パウロは信仰者の肉体的な死について、又、再臨の時に、クリスチャンの死者はどうなるのかを手紙に記したところが、今日の聖書箇所です。

◯過去形の恵み

 パウロは死んだ人々を思う時に、主がまず、私たちに何をしてくださったのかを書き記します。

イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです。」(14節)

 イエス様は私たちの罪を背負って十字架で死んでくださいました。また、それだけでなく、死を打ち破って復活されたのです。これは、信じる者に与えられる恵みのひな形です(ローマ6:3〜5新約P.305)。

◯未来形の恵み

「すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」(16〜17節)
 イエス様は時が満ちた時、もう一度この世界に来られます。

・再臨と死者と生者

 主が来られる時の基本原則はキリストにある死者がその時生きているキリスト者よりも優先されます。イエス様が初めに空中に再臨されるのですが、そこに引き上げられることを携挙と言います。そこに、まず、キリストにある死者がよみがえって引き上げられ、その後、生きているキリスト者が引き上げられると言うのです。

◯再臨は希望

 主がもう一度来られる時こそ、希望の成就であり、永遠の始まりなのです。
 先に召された生徒も、今、この時代の中に使命を持って生かされている私たちも、その日を待ち望む者はなんと幸いなものとされている事でしょうか。

11.祈祷・・一  同
12.献金467 世の終わりのラッパ (再臨)・・・・一同
13.感謝祈祷 ・・指  名
14.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
15.祝祷・・・・・・寺東真也師
16.報告・・・・・・司会者

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第43主日礼拝式順序 2023年10月22日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美263 罪 咎を赦され 神の子とせられ(救いの喜び) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美463 喜びもて (再臨)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・寺東真也師
 主題 「委ねる信仰」
  聖句 使徒14:19〜28新約P.264

講壇 「委ねる信仰」
  聖句 使徒14:19〜28

「また、彼らのために教会ごとに長老たちを選び、断食して祈った後、彼らをその信じている主にゆだねた。」使徒14章23節

 リステラにおいて、生まれつき足の不自由な人を癒すという素晴らしい神の業が行われました。しかし、人々は勘違いをし、パウロとバルナバを異邦の神々の化身として祭り上げようとしたのですが、なんとかして、説得しやめさせたのでした(使徒14:18)。

◯追いかけてきたユダヤ人達

 リステラの町において、思ったように宣教の実が結ばれない中、更なる悪い出来事がパウロ達を襲いました。それは、ピシディアのアンティオキアとイコニオンにおいて、妬みに燃え、反対派になったユダヤ人達が、リステラまでやってきて、リステラの町の人々を巻き込み、パウロを石打ちにしたのです(19節)。
 ユダヤ人達はパウロが死んだものと思い、町の外に引きずり出したのですが、パウロは生きていました。そして、次の町であるデルベに行き、福音を宣べ伝え、ここでは多くの者が弟子となったのでした。

◯第一次宣教旅行の折り返し

 第一次宣教旅行はデルベが折り返し地点となります。というか、アンティオキアからキプロスを経由してパンフィリアからピシディアのアンティオキア、イコニオン、リステラ、デルベと時計回りに宣教してきたと言え、そのまま東に向かうと、パウロの故郷であるタルソ、そして、その更に東がシリアのアンティオキアで出発地点となる教会がある町です。
 しかし、パウロとバルナバは、直帰するのではなく、来た道を反時計回りに遠回りして、アンティオキアまでの道を歩み始めたのです。それは、ひとえに、町々で生まれた教会を励まし、強める為だったのです。一つ間違えば殺されていたかもしれない経験をしてもです。

◯苦しみを経て

 パウロは各町のクリスチャン達に信仰にしっかりととどまるように勧め、語りました。

「私たちは、神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならない」(22節)

 信仰を持つことは、この地上において利益を得ることが本質ではありません。それどころか、信仰を持つが故に、戦いがあり、自分の十字架を負ってキリスト共に生きることであるというのです(ルカ9:23新約P.131)。

◯委ねること

 パウロとバルナバにとって一番チャレンジであったことはなんだったのでしょうか。自分が辛い目に遭うよりも、信じて救われたばかりの教会の人々が、辛い目に遭うことだったと思います。親の一番の痛みは子供の痛みだからです。パウロは、自分が宣教旅行に出かける際、アンティオケ教会も神様の恵みに、「委ねて」送り出したのです(27節)。そして、自分もまた、新しく建て上げられた教会の人々のために、長老を任命し、主の手に委ねたのでした。これこそ、信仰のなせる業です。

◯神様につく信仰

 すべての教会の目指すべき姿があります。それは、牧師やリーダーなど人につくのではなく、神様につく信仰に成長することです。教会は互いに愛し合い、信頼し合うものですが、人間に依存する事による結びつきで成長するのではないのです(第一コリント1:12〜13新約P.326)。

10.祈祷・・一  同
11.献金372 聖なる者と (きよめ)・・・・一同
12.感謝祈祷 ・・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.報告・・・・・・司会者

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第42主日礼拝式順序 2023年10月15日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美215 神は汚れたる世人のため(神の愛) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美464 汚れと争いは (再臨)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・寺東真也師
 主題 「信仰によって」
  聖句 使徒14:8〜18新約P.263

講壇 「信仰によって」
  聖句 使徒14:8〜18

この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。」エペソ2章8節新約P.386

 イコニオンでも福音に反対するユダヤ人達は町の人々を扇動し、パウロとバルナバを迫害し殺そうと企てたので(5節)、リカオニアのリステラという町に難を逃れ、そこで福音宣教を行いました。

◯力ある業

 イエス様はペンテコステ後、福音が神様からのもであり、確かなものである事を証される為に、不思議で力ある業を使徒たちによって行われました(マルコ16:20)。
 リステラにおいても一つの力ある業がなされたのです。それは生まれつき足が動かず、今まで歩いたことのない男性の癒しです。パウロはこの男性に癒されるにふさわしい信仰があるのを見て、信仰のチャレンンジを与えました。

 「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」(10節)

 すると、その男性は飛び上がって歩き出したのです。彼が持っていたふさわしい信仰とはどのような信仰なのでしょうか。イエス様は、弟子たちに「からし種」ほどの信仰があれば、山を動かし(マタイ17:20新約P.35)、深く根を張った桑の木を海の中に植え替える(ルカ17:6新約P.153)ことさえできると教えられました。

◯本当に大事なもの

 初代教会の時代に福音が語られ、多くの人が救われる為に、力ある業は、主が許され有効に用いられたのですが、本質的な事で誤解を生むことに気をつけなければならない事を今日のみことばは私たちに語りかけています。
 リステラの町には、ある神話が語り継げられていたそうです。それは、ギリシャ神話の主神であるゼウスと、その息子ヘルメスが人間の形をとって町を訪れたというのです。しかし、町の人々はそのことに気付かず、だれも歓迎しようとはせず、一組の老夫婦のみが、自宅に招いて歓迎し、自宅に泊めたのです。その結果、この老夫婦以外をゼウスとヘルメスは、洪水で滅ぼしてしまったというお話です。
 この影響で町の人々は、業を行ったバルナバをゼウス、パウロをヘルメスと思い込み、祭り上げ、生贄を捧げようとし始めたのです。
 このリステラの町の人々にとって、大事だったことは、神話の中の教訓であり、2度と不幸が起きないようにする事でした。聖書はこう語っています。

「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。」(第一コリント1:22〜24新約P.327

 私たちに与えられている救いの本質は、罪からの救いです。しかし、信仰の本質がいのちから、ご利益に転換されてしまい、知識やしるしを求めてしまうのが人間といえます。見える、感じる、体験できる「証拠」を求め、神の愛や恵みがなおざりにされる時、本質を見失うのです。業を通して、信仰が強められるのであれば、それは有益ですが、業だけが、独り歩きするならば、魔術や占いと変わらないものとなってしまうのです。私たちが誇るべきは十字架に架かられたイエス様のみなのです。

10.祈祷・・一  同
11.献金299 山辺に向かいてわれ (信頼)・・・・一同
12.感謝祈祷 ・・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.報告・・・・・・司会者

x

第41主日礼拝式順序 2023年10月8日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美216 ここに真の愛あり(神の愛) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美463 喜びもて (再臨)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・寺東真也師
 主題 「それでも教会を建て上げる」
  聖句 使徒14:1〜7新約P.263

講壇 「それでも教会を建て上げる」
  聖句 使徒14:1〜7

「それでも、二人は長く滞在し、主によって大胆に語った。主は彼らの手によってしるしと不思議を行わせ、その恵みのことばを証しされた。」使徒14章3節

 ピシディアのアンティオキアのユダヤ人達にねたまれ、迫害されて追い出されたパウロとバルナバは、それでも喜びと聖霊に満たされて、イコニオンという町に行きました(使徒13:50〜52)。
 14章のはじめに、こう記されています。
「イコニオンでも、同じことが起こった。」(1節前半)

○良い事と悪い事

 ピシディアのアンティオキアで起こった事と同じ事がイコニオンでも起こったのです。それは良いことも、悪いことも、同じように起こりました。

1.良い事

 パウロとバルナバはイコニオンの町でもユダヤ人の会堂に入って福音を語ったのですが、福音を聞いて、ユダヤ人もギリシャ人も福音を受け入れた人々が大勢おこされたと言うのです(1節後半)。アンティオキアでも多くの異邦人が救われましたが、イコニオンでも、多くのものが救われたのです。

2.悪い事

 しかし、同じ事がおこったのは、人々が大勢救われると言う良い事だけではありませんでした。やはり、信じようとしないユダヤ人あちは、おそらく、アンティオキアのユダヤ人と同じようにねたみに燃えて、信じないだけでなく、反対運動として、イコニオンでは、異邦人達を扇動して、信仰者達に悪意を抱かせたのでした(2節)。

○それでも

 人間は、良い事よりも悪い事が起こった記憶の方が鮮明に残ります。そして、その痛みの記憶から、それを回避するような動きをしてしまうのではないでしょうか。しかし、パウロとバルナバは違いました。
「それでも、二人は長く滞在し、主によって大胆に語った。」(3節前半)
 すると、神様も彼らの手によってしるしと不思議を行わせ、恵みのことばを確かなものとされたのです(3節後半)。

○剣をもたらすために

 すると、今回、町の人々は、半々に分かれたのです。一つは、福音に反対するユダヤ人達につく者達。もう一つは福音を受け入れて信じ使徒達の側につく者達です(4節)。
 なんとも、雰囲気が良くない状況にイコニオンの町は包まれた事でしょう。
 イエス様はご自分の働き一面について、平和をもたらす為ではなく、剣をもたらす為だと言われました(マタイ10:34〜36新約P.19)。
 これは、イエス様が平和の君ではないと言う事を言っているのではなく、本物の平和が実現されるための一過性の対立であることは明白です。
「主のしもべは争ってはいけません」(第二テモテ2:24新約P.427
とも聖書は記しています。ただし、信仰に反して世と調子を合わせることは間違いです(ローマ1:1)。
 時に、親しい友人と愛する家族と信仰の故に対立するような状況になる事もあるでしょう。その時、私たちは、信仰の旗印は掲げつつ、その友のために、愛する家族のために、祈ってあげなければいけないのではないでしょうか。

10.祈祷・・一  同
11.献金384 主よ御手もて (献身)・・・・一同
12.感謝祈祷 ・・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.報告・・・・・・司会者

x

第40主日礼拝式順序 2023年10月1日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美199 主を仰ぎ見れば(臨在) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美148 夕べ雲焼くる (再臨)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.特別賛美・・聖 歌 隊
10.メッセージ・・・寺東真也師
 主題 「異邦人の光」
  聖句 使徒13:43〜52新約P.262

講壇 「異邦人の光」
  聖句 使徒13:43〜52

『わたしはあなたを異邦人の光とし、地の果てにまで救いをもたらす者とする。』(使徒13:47)

 ピシディアのアンティオキアでの宣教は順風満帆のように見えました(42節)。
 しかし、急転直下、次の安息日から風向きが大きく変わってしまったのです。

○「めぐみ」と「ねたみ」

 パウロとバルナバは最初の安息日に多くのユダヤ人や改修者たちが会堂から出た後も、求めてついて来るのを見たので、二人はこの人々と語り合い神の「めぐみ」にとどまるように熱く語りました(43節)。しかし、翌週の安息日に、ユダヤ人や改修者だけでなく、アンティオキアの町のほとんどの人々が会堂に詰めかけ、パウロたちの語ることを聞くために集まってきたのを、ユダヤ人たちは見ました。すると、先週までは、パウロたちに好意を持っていたユダヤ人たちの心に「ねたみ」が沸き起こり、態度は180度変わってパウロ達に反対し、口汚くののしるようになりました(44〜45節)。
 ユダヤ人達は二つの選択肢がありました。それは、神の「めぐみ」にとどまるか、自分自身の「ねたみ」にとどまるかです。パウロ先生達は、同胞を愛していましたから(ローマ9:3、10:1新約P.311)、神のめぐみにとどまるように説得したのです(43節)。しかし、ユダヤ人達は、自ら、ねたみにとどまる事を選択し、預言の成就に至ったのです(41節)。

○福音提示の順序

 今、日本において私たちは福音を聞き、信仰を持ち、神のものとされ、新しい命に生きるものとされています。しかし、この福音が語られなければならない順序があったのも確かです。それは、本来、すべて、イスラエル人のものであるからです(ローマ9:4〜5)。イエス様自身も語られ(マタイ15:24新約P.31)、12弟子たちを遣わされる時にも失われたイスラエル人たちのもとに遣わされました(マタイ10:5〜6)。
 では、異邦人は見捨てられ、滅ぶべき存在だと神様は見ておられるのでしょうか。絶対にそうではありません。「まず」イスラエルに福音は提示されなければならなかったのです。そして、それに次いで、異邦人にもこの救いは大いに語られる事を神様はご計画されておられたのです(47節、イザヤ49:6旧約P.1251)。
 教会のリーダーであるペテロも主の幻とカイサリアのコルネリウス達の救いを通して、異邦人にも救いの道が開かれている事を確信していました(使徒10:34〜36新約P.255)。
 表面的に残念なのは、最初に福音が提示されたイスラエルの人々は、多くがその福音を拒否し、頑なになったことです。今回もユダヤ人達はそうなったのです。

○異邦人の光が輝く

 一方、異邦人達はこの福音が自分たちのためでもあった事を聞き、歓喜に沸き、救われる人々が続出したのです。そして、今もこの異邦人の光は全世界で光輝いています。異邦人の時が満ちるまで(ローマ11:25〜27)。最終的には、イスラエルもみな救われる時が来る事を聖書は預言しています。人間は、自分の力では、ねたみにとらわれて神様の恵みを見失ってしまう者なのです。しかし、神の恵みとご計画は、すべてのものを頑なにし、すべてのものを愛によって砕くことにより、神の恵みにとどまる事ができるようにしてくださったのです(ローマ11:32〜36)。

○喜びと精霊に満ちて

 パウロとバルナバはアンティオキアを追い出されてしまいました。しかし、喜びと聖霊に満ちていました。それは、神様の計画を知り、信頼していたからなのです。

11.祈祷・・一  同
12.聖餐式49 しみも咎も(聖餐)・・・・寺東真也師
13.献金392 主の愛の汝が内に(献身)・・・・一同
14.感謝祈祷 ・・指  名
15.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
16.祝祷・・・・・・寺東真也師
17.報告・・・・・・司会者

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第39主日礼拝式順序 2023年9月24日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美202 一度 死にしわれをも(臨在) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美151 永久の安き来りて (再臨)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・寺東真也師
 主題 「福音を語る」
  聖句 使徒13:13〜42新約P.260

講壇 「福音を語る」
  聖句 使徒13:13〜42

「ですから、兄弟たち、あなたがたに知っていただきたい。このイエスを通して罪の赦しが宣べ伝えられているのです。また、モーセの律法を通しては義と認められることができなかったすべてのことについて、この方によって、信じる者はみな義と認められるのです。」使徒13章38〜39

 

○不測の事態にも負けず

 キプロス島における宣教を終え、プロ一行は船で北に向かい、パンフィリアのペルゲに着きました。しかし、そこで、助手として同行していたマルコと呼ばれるヨハネが離脱しエルサレムに帰ってしまったのです。この時は、大きな問題にはなりませんでしたが、後の第二回宣教旅行に出かける際に、パウロとバルナバが袂を分たなければならないほどの問題に発展した事(使徒15:38)を考えると、この時も痛みを覚えた事でしょう。それだけではなく、彼らは、シリアのアンティオキアとアジアのエペソを結ぶ主要な街であるピシディアのアンティオキアに向かったのです。この北上する道は、タウロス山脈を越えていかなければならない道でした。そこは山賊も出る道です。後に、コリントの教会へ宛てた手紙の中で、盗賊の難(第二コリント11:26〜27新約P.370)を含め苦難の経験を語っていますが、もしかするとこの時も、命懸けであった事が推察されます。しかし、聖霊に導かれて、150キロもの道のりを越えて行ったのです(14節)。

○パウロの説教

 ピシディアのアンティオキアに到着したパウロたちは安息日にユダヤ教の会堂に入りました。旧約聖書の朗読があった後、その時の説教者としてパウロが選ばれたのです。パウロは大胆にキリストの復活の証人として語りました。
 パウロは説教において、大まかに三つのポイントで語っています。

1.イスラエルの歴史(16〜25節)

 まず、語ったのはイスラエルの歴史の中に働かれる神ご自身の御業についてです。順を追いますと、エジプト滞在から出エジプト、40年の荒野での生活から、カナンの地奪還、士師の時代を経て、王政の確立、初代サウル王からダビデ王へ、ダビデへの約束の故に、ダビデの子孫として救い主イエスが世に来られたのだと。そして、バプテスマのヨハネはイエス様こそその成就である事を証言したのだと結びます。

2.十字架と復活(26〜37節)

 二つ目のポイントは、福音の中心である、十字架と復活について語りました。イエス様は、イスラエルの人々、及び指導者たちに、罪人に仕立て上げられ、ピラトを利用して十字架につけられ、その遺体は墓に納められたのです。しかし、父なる神様は、イエス様を死者の中からよみがえらせました。そして、弟子たちの前に現れ、復活の主を見た者たちがその証人となったと言うのです。預言の成就として詩篇2:7旧約P.934、イザヤ55:3旧約P.1261、詩篇16:10、を引用し、ダビデは死んで朽ちてしまったけれども、イエス様は朽ちる事なく、死からよみがえられたと言う事を解いたのです。

3.信じるものは救われる(38〜41節)

 そして、最後に、大切なチャレンジをパウロは語ります。モーセの律法で成し遂げられなかった罪の赦しと義と認められる事が、このイエス様を信じる者たちに実現するのです(38〜39節)。しかし、多くのユダヤ人にとってイエス様の福音はつまづきとなり、信じがたい事となるが預言されているので、そうならないようにと言うのです。彼らは感動し、次の安息日でも同じ説教をして欲しいと頼むのでした。

10.祈祷・・一  同
11.献金434 語り告げばや(宣教)・・・・一同
12.感謝祈祷 ・・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.報告・・・・・・司会者

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第38敬老感謝礼拝式順序 2023年9月17日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美20 主の真実はくしきかな(賛美) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美149 いつ主は来り給うや (再臨)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.特別賛美・・聖 歌 隊
10.メッセージ・・・寺東真也師
 主題 「背負ってくださる神」
  聖句 イザヤ46:1〜13旧約P.1245

講壇 「背負ってくださる神」
  聖句 イザヤ46:1〜13

『ヤコブの家よ、わたしに聞け。イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。
わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。』(イザヤ46:3〜4)

 明日は敬老の日です。教会では一足先に高齢の愛兄姉の為に祈り、祝福する時を持ちます。聖書は「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。」(レビ19:32旧約P.213)と命じています。お年を召された方を尊敬し、敬うことは、主を畏れる事の一部なのです。

○偶像に依り頼む民
1.かたくなな民

 しかし、年を重ねれば重ねる程、その良い面と同時に、悪い面も出てきやすくなるのが人間です。経験豊かなその知識と知恵は尊敬に値します。しかし、その経験と知恵が、傲慢に陥る時、かたくなさが芽を出します。それは、全ての信仰者に言える事です。イエス様は、神のことばよりも、宗教として成長してきたユダヤ教の指導者の頑なさを嘆かれました。たしかに、長年培われた伝統はとても大切なものです。しかし、その言い伝えや教えのほうが、神のことばや御心よりもいつの間にか上になっていたが故に、神の子であるイエス様とそのしるしを受け入れる事が出来なかったのです。

2.あなたの偶像は何ですか?

 イザヤは南ユダ王国に遣わされた預言者でした。そして、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤと4人の王の時代にみことばに仕えたのです。アハズ以外は神を中心に政治をした良き王でした。しかし、慢性的に異国の偶像礼拝は水面下で働いているような時代です。ウジヤは高ぶり祭司の仕事を横取りしようとしてツァラアトにかかり失脚(第二歴代誌26:16旧約P.794)、ヨタムは神に忠実に仕えたが、民は偶像礼拝を行い続け(第二歴代誌27:2)、アハズは異国に憧れ、積極的に偶像礼拝を国内に持ち込み、アッシリヤ従属し、平和を保とうとしました(第二歴代誌28:16〜23)。ヒゼキヤは父アハズとは違って宗教改革を行いましたが、アッシリヤの脅威から、エジプトに媚を売ってしまいます(第二列王記18:19〜21旧約P.686)。再度、信仰に立ち返って主にある勝利を与えられますが、不死の病を癒された時、神様に委ねられた国よりも自分の時代の安泰にあぐらをかいてしまいます(第二列王記20:16〜19)。
アハズのような誰が見ても偶像礼拝というものもあれば、信仰によらない決断や作戦、更には私たちの内側にあるかたくなさくる自信かもしれません。

3.背負われる神と背負って下さる神

 イザヤは当時の偶像の筆頭である、ベル(バビロンの主神)とネボ(ベルの子)を引き合いに出してそれらは、自分で立つ事も、歩くことも出来ず、ただの荷物になる事を預言します。それと対照的に、本当の神は、人を生まれた時より、白髪になってもなお背負い続けてくださるお方である事を語ります。

◯背負ってくださる神の導き

 イザヤは今後、イスラエルの不信仰によりバビロンに捕囚とる事を預言し、その先のペルシャによる統治と解放を預言しています。祖国に帰って来ることは好ましいことです。しかし、本当の自由を手にしたわけではありません。なぜ、神様はこのような試練をイスラエルに与えられるのでしょうか。それは信仰によるところの本当の勝利と祝福が神の栄光の為に現わされる為です。

11.祈祷・・一  同
12.献金427 ただ主を(証し)・・・・一同
13.感謝祈祷 ・・指  名
14.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
15.祝祷・・・・・・寺東真也師
16.長寿祝福式・・・寺東真也師
17.報告・・・・・・司会者

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第37主日礼拝式順序 2023年9月10日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美266 罪 咎を赦され(救いの喜び) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美337 愛する主よ わが君よ (恵みの成長)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・寺東真也師
 主題 「霊の戦いの勝利」
  聖句 使徒13:4〜12新約P.259
     エペソ6:10〜19新約P.392

講壇 「霊の戦いの勝利」
  聖句 使徒13:4〜12
     エペソ6:10〜19

「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。」エペソ6章10節

 バルナバとサウロ(パウロ)は聖霊によって送り出され、最初に海を渡り、キプロス島にやってきました。彼らに助手としてバルナバのいとこにあたるマルコが同行していました。

○バルイエス(魔術師エリマ)

 彼らがキプロス島全体を巡回し、パポスまで来た時のことです。彼らはバルイエスと言う名のユダヤ人に出会いました。バルイエスという名前の意味はイエスの子とか救いの子という意味を持っています。イエス様と同じイエスですが、ヘブル語的にはヨシュアのギリシャ語読みがイエスなので、イエスという名前は珍しいものではありませんでした。しかし、そうだとしても、とても皮肉めいたものを感じざるを得ません。なぜならば、彼の通り名としてエリマ(魔術師)と呼ばれ、聖書は『偽預言者』であったと記しているからです。ユダヤ人でありながら、魔術に通じ(律法は魔術を禁じています)、それと同時に、神の言葉を聞いたと言って預言的なことをしていたのです。しかも、彼はその地域の総督官邸にいたと言うことなので、その立場は認められていたのでしょう。

○地方総督セルギウス・パウルス

 バルナバとパウロはもう一人の人物に出会いました。それは、地方総督セルギウス・パウルスです。かれは「賢明な人」であると記されています。しかも、霊的に柔らかい心を持っていて、バルナバとパウロが語る「神のことば」を聞きたいと願っていた人だったのです(7節)。

◯霊の妨げ

 総督の求道心を知ったエリマことバルイエスは二人に反対して、信仰から遠ざけようと画策したのです。使徒の働きでは、聖霊が働かれ、多くの人が福音を聞き救われています。しかし、働いているのは聖霊だけではありません。悪霊も同じように働いて、人々に福音が伝わらないように、いのちを得る事がないように必死になって働いているのです。パウロはバルイエスをこう表現しています。

「ああ、あらゆる偽りとあらゆる悪事に満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、おまえは、主のまっすぐな道を曲げることをやめないのか。」(10節)

 悪魔は「偽りの父」(ヨハネ8:44新約P.198)です。そして、その霊に支配され用いられたバルイエスは救いの子から悪魔の子と堕ちてしまっていたのです。

◯聖霊の勝利

 バルナバとパウロは救いの道を捻じ曲げ、福音から遠ざけようとするバルイエスに対して、しばらくの間、盲目となり日の光を見る事ができなくなると宣言しました。すると、バルイエスの目はかすみと闇が覆い手を引いてくれる人を探し回らなくてはならなくなりました(11節)。
 総督はこの出来事を見て、「主の教え」に驚嘆し、信仰に入りました。神のことばが証される為に、奇跡は起こりました。しかし、人が救われるのは、奇跡を見たからではありません。奇跡に裏付けられた神の教えであり神のことばによるのです。

◯祈りの備え

 勝利の秘訣は祈りにあります。遣わされた者も遣わした者たちも、祈り、福音宣教が実を結び、罪に沈む囚われ人を解放するために、御霊によって祈るのです(エペソ6:18〜19)。その時、神の業は前進するのです。

10.祈祷・・一  同
11.献金458 光の高地に(霊の戦い)・・・・一同
12.感謝祈祷 ・・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.報告・・・・・・司会者

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第36主日礼拝式順序 2023年9月3日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美185 来れ誰も(神の招き) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美329 御国への道 歩むとき (信頼)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.特別賛美・・・聖 歌 隊
10.メッセージ・・・寺東真也師
 主題 「教会の働き」
  聖句 使徒13:1〜5新約P.259

講壇 「教会の働き」
  聖句 使徒13:1〜5

『彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が
「さあ、わたしのためにバルナバとサウロを聖別して、わたしが召した働きに就かせなさい」と言われた。』(使徒13:2)

 使徒13章からアンティオキア教会から遣わされるパウロに主にスポットライトが当てられ、世界宣教への更なる広がりが書き記されています。パウロに注目が行きがちですが、パウロの働きは、アンティオキア教会があっての働きなのです。

○アンティオキア教会

 アンティオキア教会は設立後間もない若い教会です。ステパノの殉教を発端とする迫害の中で散らされた人々がたどり着いた先の一つがアンティオキアでした(使徒11:19)。散らされた人々は原則、ユダヤ人のみに福音を語っていましたが、キプロス人とクレネ人が何人かいて、ギリシャ語を話す人々にも福音を述べ伝えたところ、大勢の人が救われ、アンティオキア教会が誕生しました。この事を知ったエルサレム教会は、バルナバを派遣しました。そして、バルナバはサウロをタルソから連れてきて、生徒たちを教え、訓練したのでした。アンティオキアで初めて「キリスト者(クリスチャン)」と呼ばれるようになるほどでした。

○預言者や教師達

 アンティオキアには実にユニークな預言者や教師がいました。そこから、アンティオキア教会がいかにユニークで多様性に富んでいるかを推察できます。

1. バルナバ

 バルナバはキプロス生まれのレビ人で本名をヨセフと言います。自分の畑を売ってその代金を教会のために献げた敬虔な信仰の持ち主です(使徒4:36〜37)。パウロが回心した際も、エルサレム教会の人々は信じる事が出来ない中、使徒達との仲介役になったのもバルナバでした(使徒9:26〜27)。アンテオケ教会が誕生した際も、教会の中核となって励ました人物です(使徒11:23)。

2. ニゲルと呼ばれるシメオンとクレネ人ルキオ

 ニゲルとはニグロと同じ意味を持っていて肌の色が黒い人を意味します。すなわちシメオンは、アフリカ系の黒人であったのでしょう。また、クレネ人ルキオも、クレネ出身で、クレネは北アフリカの町でした。使徒でないピリポがガザに下る道で出会ったエチオピアの宦官も救われましたが、福音はエジプトを超えて、アフリカにまで広がりを見せつつあったと言えます。

3. ヘロデの乳姉妹マナエン

 この国主ヘロデとは、ヘロデ大王の息子ヘロデ・アンティパス(バプテスマのヨハネを処刑した)と同じ宮殿で一緒に教育を受けて育った人物です。生まれも育ちも高貴な身分であったのでしょう。

4. サウロ

 サウロはタルソ出身でリベルテンに属し、生粋のユダヤ人。超一流のラビであるガマリエルの門下生でエリート。生まれながらにしてローマの市民権を持つ類稀な経歴の持ち主です。しかし、その驕りからキリスト者を迫害していましたが、ダマスコへの途上でイエス様に出会い、改心して、今に至ります。

 教会は様々な人がいます。そして、神様が教会に求めておられるのは、多様性における一致です。意見や考え方は様々でしょう。しかし、それを超えて一つになれるのが教会です(ヨハネ17:21〜23新約P.221)。
 さらに、聖霊は、バルナバとサウロを聖別して、世界宣教の任務に就かせ、教会は彼らを遣わしたのです。遣わされる者、遣わす者、出で行く者、留まる者、祈られる者、祈る者、それぞれの働きは違いますが、御霊の導きによって、一つの働きを全うするのです。

11.祈祷・・一  同
12.聖餐式49 しみも咎も(聖餐)・・・・寺東真也師
13.献金423 村の小さな教会(証し)・・・・一同
14.感謝祈祷 ・・指  名
15.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
16.祝祷・・・・・・寺東真也師
17.報告・・・・・・司会者

x

第35主日礼拝式順序 2023年8月27日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美238 尊き泉あり(救い) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美466 来たり給う主を (再臨)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・寺東真也師
 主題 「信仰による義」
  聖句 創世記15:1〜6旧約P.21

講壇 「信仰による義」
  聖句 創世記15:1〜6

「アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。」創世記15章6節

○恐れるアブラム

 14章では勇敢で潔い勇士アブラムの姿が記されています。しかし、その後、神様は意外な言葉をアブラムにかけられています。それは「恐れるな」という言葉です。14章でこれほど勇敢な姿はないというほどの行動をとったアブラムですが、これらの出来事の後、アブラムは恐れている事があったというのです。なぜ恐れていたかは聖書には書かれてありません。しかし、神様の祝福と守りの言葉の後に続くアブラムの発言が鍵となると思います。

「神、主よ、あなたは私に何を下さるのですか。私は子がないままで死のうとしています。私の家の相続人は、ダマスコのエリエゼルなのでしょうか。」
「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらなかったので、私の家のしもべが私の跡取りになるでしょう。」(創世記15:2、3)

 アブラムは神様から祝福の言葉を何回も頂いていましたが、それが実現する為には自分の子供がどうしても必要でした。跡取りが、この時まだ与えられていなかったからです。アブラムが最も恐れたのは、主の約束が実現しなくて主の御名が辱められることだったのでしょう。

○さあ、天を見上げなさい

 恐れるアブラムを神様は天幕の中から外に連れ出して、こう言われました。

「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」
「あなたの子孫は、このようになる。」」(創世記15:5)

 視覚教材として神様は御自分の創造された傑作の一つである大空に光る星々を使われました。この星の数のようにあなたの子孫は増え広がるのだと。

○信じたアブラム

 アブラムは神様から、もう一度その計画と約束を聞きました。その時、アブラムはとやかく言わないで、その言葉を信じたのです。
 この「信じた」という言葉は私達もよく用いている「アーメン」という言葉と同じ語源の動詞が使われているのです。だから、アブラムは神様が御自分の御計画を明かされた事に対して「アーメン」と宣言したとも訳せるのです。「アーメン」とは「真実」という意味です。アブラムは神様の御計画はいまだ目に見えるところは進んでいなくても、あなたがおっしゃるのであれば、私の子孫は天の星のように増え広がると信じ、それは真実であるとしたのです。
 しかも、他人事のように、現実から逃避したり、責任を回避したのでもなく、当事者として神様の計画は真実であると「アーメン」と告白したのです。

○義と認められたアブラム

 アブラムは神様を信じる信仰によって義と認められました。何かを成し遂げたからでも、他の人々より優れていたからでもありません。神様を信じる信仰によって正しいとされたのです。これは私たちにも言えることです。
 イエス・キリストを信じる信仰によって私たちは今、現在も神様から義と認めていただけるのです。アブラムを通して信仰義認の原則を知る事が出来るのです。(ローマ4:18〜25新約P.303)

 私たちの周りには理解できないような事が起こるでしょう。しかし、そのような時こそアブラムのように主の約束に「アーメン」と答え、信じるのです。その時神様は「恐れるな。わたしはあなたの盾である。」と答えてくださるでしょう。

10.祈祷・・一  同
11.献金275 信仰こそ(信仰)・・・・一同
12.感謝祈祷 ・・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.報告・・・・・・司会者

x

第34主日礼拝式順序 2023年8月20日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美266 罪 咎を赦され (救いの喜び) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美462 聖書も時の徴も (再臨)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.特別賛美・・・聖 歌 隊
10.メッセージ・・・寺東真也師
 主題 「神に栄光を帰す」
  聖句 使徒12:18〜24新約P.259

講壇 「神に栄光を帰す」
  聖句 使徒12:18〜24

『その後、私は、大群衆の大きな声のようなものが、天でこう言うのを聞いた。
「ハレルヤ。救いと栄光と力は私たちの神のもの。』(黙示録19:1新約P.513

 神様は教会の祈りに応えてくださり、ペテロを牢獄から解放してくださいました。朝になって動揺したのは、牢の番兵達です。当時のしきたりで、番兵の過失で、囚人が逃げてしまった場合、逃げた囚人の受けるべき刑がその番兵に執行されるからです。
 ヘロデはペテロを取り逃した番兵達に怒りを向け、ペテロを処するはずだった死刑に、番兵達を処します。

○神によらない権威はない

「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。」(ローマ13:1新約P.318
 聖書はこの世界に存在する権威は神の許しのもとで成り立っている事を示します。しかし、いつの時代にも、権威を与えられた人間は、その権威、力、栄光は自分のもので、それに相応しいから持ち得るものだと勘違いするのです。

○反面教師ヘロデ

 人の命を政治の駒としか考えないヘロデです。彼の傲慢は神様の前に、山と積み上げられました。

1.怒り

 理由は記されていませんが、ヘロデはツロとシドンに対してい怒りを覚えていました。傲慢の種は、人を怒りやすくさせる傾向があります。自分の思い通りにならなければ、不機嫌になり、怒りが込み上げてくるのです。
「人の怒りは神の義を実現しないのです。」(ヤコブ1:20新約P.459
 私達の人生は何で満ちているでしょうか?
 ヘロデのように、自分のことばかりに関心を持ち、不平不満でいっぱいになっていませんか。イエス様に心が向くとき、心が平安で満たされ、喜びと感謝が溢れるのです。

2.栄光の独り占め

 残念な事に、多くの人は権力を持つ人に影響を受けやすく、尻尾を振りやすいものです。当時、ツロとシドンはユダヤに食料供給を依存していました。ですから、ヘロデの怒りをかったままでは、食べる事に直結するので、なんとかして、和解しなければなりませんでした。そこで、ツロトシドンの人々は、ヘロデの侍従であるブラストに取り入って和解を申し出ました。なんとか、和解交渉はうまくいったようですが、さらに、関係を良好とするための行動に出ます。ヘロデの演説があった時(聖書に定められ日とあるが、おそらくローマ皇帝の誕生日を祝う日)、歴史資料には、その時、ヘロデは銀の糸で織られたすばらしい布地で裁った衣装を着けており、陽の光が反射して神々しく輝いていたのだとか。その光景と演説を聞いて、人々はこう叫びました。
「神の声だ。人間の声ではない」
それを聞いたヘロデは、神の前に謙ることをせずに演説を続けました。すると、一匹の虫がヘロデを噛み、それが原因でヘロデは絶命する事になりました。
「ヘロデが神に栄光を帰さなかったからである。」(23節)
 私たちは、ただの人間です。私たちが持ち得るものも、本来は神のものであり、その本質である栄光は主に帰するものなのです。クリスチャンの格言に言い得て妙であるものがあります。
「恥はわがもの。栄えは主のもの」
 神に栄光を帰するものにならせていただきましょう。

11.祈祷・・一  同
12.献金429 地の塵に等しかり(証し)・・・・一同
13.感謝祈祷 ・・指  名
14.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
15.祝祷・・・・・・寺東真也師
16.報告・・・・・・司会者

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第33主日礼拝式順序 2023年8月13日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美265 世人の咎のために (救いの喜び) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美151 永遠の安き来りて (再臨)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・寺東真也師
 主題 「熱心な祈りの中で」
  聖句 使徒12:1〜17新約P.257

講壇 「熱心な祈りの中で」
  聖句 使徒12:1〜17

『こうしてペテロは牢に閉じ込められていたが、教会は彼のために、熱心な祈りを神にささげていた。』(使徒12:5)

 教会にとって祈りは生命線です。祈りのない教会には命がないと言っても過言ではありません。
 反対に、どんなに窮地に立っていたとしても、信仰もって祈る教会は前進し、神の御心を成し遂げていく事でしょう。

○逆風の中で

 初代教会はユダヤ教徒から大きな迫害を受けていました。しかし、そのような中でもイエス・キリストを信じる者は確実に増えていきました。それは、ユダヤ教の指導者にとっては面白くありません。
 当時、ローマ帝国からパレスチナ一帯を統治するために立てられていたヘロデ・アグリッパ1世は、その地に住むユダヤ人の心を掴む為に、教会を迫害し始めたのです。そして、ヘロデ王によって、使徒で初めての殉教者が出たのです。それは、ヨハネの兄弟、ヤコブでした。
 ユダヤ人達の反応は良く、勢いにのったヘロデはペテロを捕えて牢に入れたのです。

○熱心な祈り

 ヤコブの殉教の悲しみの中で、ペテロにも忍び寄る死の影に教会は熱心に神に祈ったのです。
 ペテロが捕えられたのは、種なしパンの祝いの時期でした。ユダヤ教的にもとても大切な祭りです。その期間に死刑にするのはよろしくないので、ヘロデは過越しの祭りの後に民の前で公開処刑にして、自分の株を上げようとしていました。
 初代教会の聖徒たちは、祈りの重要性を頭で知っていたのでなく、信仰生活の髄に染み込んでいたのでしょう。個人での神様との祈りはもちろん大切です。しかし、共に集って祈る祈りには、大きな力があるのです。祈りの輪の中に主がおられるからです(マタイ18:18〜20新約P.37)。
 世の終わりが近づいている時こそ、祈りのチームプレーを主は期待しておられるのです(へブル10:25新約P.450)。

○ペテロの勝利

 ペテロは牢に入れられて、昼夜を問わず、監視されました。4人一組が4組、一人に対して16名がかりの厳重な警備です。しかも、夜も番兵と番兵の間に鎖につながれて眠るほどです。過越祭が過ぎるまでは死刑にならないチャンスを狙って仲間が助けに来ても手を出せないように、警備をこれでもかと厳重にしていたのでしょう。
 しかし、神様が働かれる時は、人間がどう抗っても意味がありません。ペテロは御使いの案内によって、鎖が解かれ、二つの衛所を通り、町に通じる鉄の門まで開かれて自由とされたのです。
 でも、ペテロの信仰の勝利はド派手な脱出劇ではなく、間もなく死刑になるその中にあっても脇腹を叩かれるまでぐっすり、寝ていた事にあるのです。以前は保身の為にイエス様を三度も否定したペテロ、しかし、今や、嵐の中で一人ぐっすり眠っておられたイエス様の信仰をペテロも持っていたのです(ペテロ4:12〜19)。

○圧倒的な答え

 教会は祈りの答えが予想以上だったために、初めは分かりませんでした。私たちの主は、祈りに応えてくださる生ける主です。

10.祈祷・・一  同
11.献金196 祈れ物事(祈り)・・・・一同
12.感謝祈祷 ・・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.報告・・・・・・司会者

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第32主日礼拝式順序 2023年8月6日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美264 われ贖われて (救いの喜び) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美367 イエスよ この身を (きよめ)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.特別賛美・・聖 歌 隊
10.メッセージ・・・寺東真也師
 主題 「すべての人の主」
  聖句 使徒10:34〜36新約P.255

講壇 「すべての人の主」
  聖句 使徒10:34〜36

『神は、イスラエルの子らにみことばを送り、イエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えられました。このイエス・キリストはすべての人の主です。」(使徒10:36)

○神様の計画

 神様の救いは完璧であり完全です。そのご計画は、全地に渡り、すべての人に及ぶのです。しかし、順序があります。本来、すべては、イスラエルのものでした。異邦人の使徒パウロも次のように述べています。
「彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法の授与も、礼拝も、約束も彼らのものです。父祖たちも彼らのものです。キリストも、肉によれば彼らから出ました。キリストは万物の上にあり、とこしえにほむべき神です。アーメン。」(ローマ9:4〜5新約P.311

 神様はイスラエルを長子とし、彼らの頑なさを用いて、その救いと祝福がすべての人に及ぶように計画されたのです(ローマ11:11、12、30〜32)。

○異邦人へ

 イスラエル人にとって異邦人は、神に対して穢れた人々であって、付き合ってもいけないし、関わってもいけないと教えられてきました。確かに、歴史を振り返るときに、純粋な信仰を守ろうとする時、律法が定める掟には一理あります。しかし、神様の計画は人間の想像を遥かに超えた素晴らしい愛と神様主導の恵みによって展開されていくのです。
 カイサリアという町にコルネリウスという100人隊長がいました。彼は異邦人でしたが、真の神様を信じ、毎日、祈り、貧しい人に施しをしていた信仰熱心な人でした。神様は、彼のもとにペテロを遣わすように導きます。

○ペテロの見た幻

 ペエロは祈りの中である幻を見ました。敷布が四隅を吊るされて天から降りてくるのです。その敷布が開くとあらゆる四つ足の動物、地を這うもの、空の鳥が入っていました。そして、天からこう声がありました。
「ペテロよ、立ち上がり、屠って食べなさい」(13節)
しかし、その中には、律法的には食べてはならない生き物もいたのです。ですから、ペテロは咄嗟に拒否します。するとさらに天からこう声がありました。
「「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。」(15節)
同じ事が三度あった後に、すぐ、コルネリウスから使わされた人が到着して、ペテロにコルネリウスの元に来て欲しいと懇願するのでした。

○異邦人の救い

 ペテロは御霊に指示を受け、コルネリウスのいるカイサリアに向かいました(19〜23節)。
 カイサリアに着くとコルネリウスは丁重にペテロを迎え、御使が語られたことの次第と、ペテロの語ろうとする事に耳を傾ける準備ができている次第を伝えました。
 ペテロは神様のご計画を悟り、異邦人にもえこひいきする事なく福音を伝えられなければならない事を確信し、福音を余す事なく語りました。すると、聞いていた異邦人達はみな聖霊に満たされ、洗礼を受けたのです。

○すべての人の主

 この出来事から、本格的に異邦人伝道の道が大きく開いていく事になりました。今は、恵の時、救いの日です(第二コリント6:2新約P.362)。異邦人が満ちたその先には、イスラエルの救いが(ローマ11:25〜27)、そして、神の国の完成が控えているのです。イエス様はすべての人の主です。

11.祈祷・・一  同
12.聖餐式49 しみも咎も(聖餐)・・・・寺東真也師
13.献金436 未だ見ぬ地(宣教)・・・・一同
14.感謝祈祷 ・・指  名
15.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
16.祝祷・・・・・・寺東真也師
17.報告・・・・・・司会者

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第31主日礼拝式順序 2023年7月30日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美315 主の御手に頼る日は (信頼) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美466 来り給う主を (再臨)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・寺東真也師
 主題 「癒し、立たせ、救われるお方」
  聖句 使徒9:32〜43新約P.252

講壇 「癒し、立たせ、救われるお方」
  聖句 使徒9:32〜43

『平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。』(第一テサロニケ5:23新約P.413

 初代教会の宣教の記録を見る時に、素晴らしいしるしが伴っていることに気付きます。マルコも福音書の最後に次のように書き記しています。
「弟子たちは出て行って、いたるところで福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばを、それに伴うしるしをもって、確かなものとされた。」(マルコ16:20新約P.105

○癒されるお方

 ペテロは福宣教のために「あらゆるところ」を巡回していました。そして、リダに行った際に、アイネアという8年間も中風を患い、寝たきりになっている人物に出会いました。そこでペテロは
「アイネア、イエス・キリストがあなたを癒やしてくださいます。立ち上がりなさい。そして自分で床を整えなさい。」(34節)
と語りかけたところ、アイネアはただちに立ち上がったのです。
 この出来事は、イエス様の奇跡を彷彿とさせます。四人の人に担がれてイエス様のもとに来た中風の人に対してイエス様は最後に
「あなたに言う。起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。」(マルコ2:11)と仰られ、その中風の人は癒やされたのです。
 大切なのは、『イエス・キリスト』が癒されるという事です。主は癒し主です(イザヤ53:5旧約P.1259)。

○立たせてくださるお方

 リダから西に行った地中海に面するヤッファという町に、タビタ(ギリシャ名はドルカス)というクリスチャン女性がいました。彼女は貧しいやもめ達に、賜物を活かして、下着や上着を作り、施しをしていました。なので、とても信頼されていた女性でした。
 その彼女が、病気になってしまい、死んでしまったのです。ペテロが近くのリダまで来ている事を聞いた弟子達は、タリタのために、ペテロを連れてきました。
 ペテロはタビタの遺体が安置された部屋に入り、皆を出し、一人になって主に祈ったのです。そして、言いました。
「タビタ、起きなさい」(40節)
すると、タビタは起き上がったのです。
 これも、イエス様の奇跡に酷似しています。会堂司のヤイロの娘が、死にかかった際、向かう途中で、娘は死んでしまったのですが、イエス様は、死んだ娘の所へ行って、両親とペテロとヤコブとヨハネのみを側に置き、言われました。
「タリタ、クム。」(41節)
これはアラム語で「少女よ、起きなさい」という意味です。ヤイロの娘は生き返ったのです。
 イエス様は死人さえも死から立たせてくださるお方です。

○救われるお方

 主は癒し主であり、死んだ体に命を吹き込み立ち上がらせる事もできるお方ですが、それは、私たちを罪から救い出すことができる、罪を赦す権威をお持ちである事を信じる事ができるようになるためであります(マルコ2:9?10)。
 リダにおいては、アイネアが癒された事により、リダの人々が救いへと導かれ(35節)、ヤッファでは、死から立ち上がったタビタを見て、主を信じるようになったのです(41?42節)。
 私たちが信じているイエス・キリストは私たちの霊、たましい、体の全て癒し、立たせ、救ってくださるお方なのです(第一テサロニケ5:23)。

10.祈祷・・一  同
寺東真也師
11.献金453 ガリラヤ湖の岸にて(いやし)・・・・一同
12.感謝祈祷 ・・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.報告・・・・・・司会者

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第30主日礼拝式順序 2023年7月23日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美215 神は汚れたる世人のため (神の愛) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美151 永遠の安き来りて (再臨)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・寺東真也師
 主題 「力強い選びと新生」
聖句 使徒9:10〜22新約P.250
   第二コリント5:17新約P.361

講壇 「力強い選びと新生」
  聖句 使徒9:10〜22
     第二コリント5:17

『しかし、主はアナニアに言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のためにどんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示します。」』(使徒9:15〜16)

 サウロはステパノを迫害し、石打にして殺す事に賛成していました。直接手をくだすことはしていませんでしたが、実行犯の上着の番をしていたのです(使徒7:58、8:1)。
 迫害が激化する中、サウロは大祭司のお墨付きを得て、ダマスコの諸会堂宛ての手紙を求めました。それは、ダマスコに於いて、クリスチャンを捕縛し、エルサレムに連行する為でした。
 サウロは、立場と知識と知恵、そして、力を持っていたのです。そして、神様の為に、それらを最大限に生かして、サウロの迫害の矛先はクリスチャンに向けられていたのでした。

○キリストとの出会い

 神様の選びは不思議です。分からなかったとはいえ、ここまでの迫害者サウロの前にイエス様ご自身がご臨在くださったのです。しかも、サウロを断罪する為ではなかったのです。イエス様は、ご自身を現す事によって、サウロの独りよがりの行動に気付かせたのです(5〜6節)。サウロはぐうの音も出せず、イエス様の指示に従いダマスコの町に入って飲まず食わずで三日を過ごしたのでした(9節)。

○アナニアの葛藤

 サウロを取り扱い、癒す為に、アナニアが選ばれ、主ご自身が幻の中で語られ、サウロのもとへ行くように導かれました。
 しかし、サウロは迫害者としてとても有名でした。なぜ、敵である者のところに行って、彼の為に祈らなければならないのか理解できなかったのです(13〜14節)。神様のご計画や御心は時に私たちの理解をはるかに超えている為に、受け入れがたい事があります(イザヤ55:8〜9旧約P.1262)。

○力強い選び

 そこで、神様はアナニアに主の御心と計画を包み隠さず、語られたのです。それは、迫害者サウロを、イエス・キリストの名を異邦人に伝える選びの器として召しているというのです(15節)。
 アナニアはそれ以上、食い下がる事をせず、理解しがたい事ではありましたが、主のみ告げに従い、サウロのところに行き、彼の為に祈ったのです。
「神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。」(ローマ11:29新約P.317

○新しく生まれたものとして

 アナニアの祈りが献げられると、すぐさま、サウロの目から鱗のようなものが落ちて、目が見えるようになり、彼の心の目も開かれてイエス・キリストを信じ、すぐにバプテスマを受けたのです。そこから、彼は180度変えられ、ダマスコで、ユダヤ人たちにイエス・キリストは神の子であると力強く証し、周囲の者達は驚きを隠せませんでした。
 人は自分の力で新しく生まれる事は出来ません。御霊によって私たちは新生を経験するのです。
 そして、人は、人の努力でここまでの変化をする事は到底できません。しかし、信仰を持ち、聖霊に満たされたサウロは、誰に習い、学んだわけでもなく、福音を宣べ伝え始めたのです(第一テモテ2:7新約P.419)。
 サウロを選ばれ新しくされたお方は、あなたも同じように選ばれ、遣わしておられるのです。

10.祈祷・・一  同
寺東真也師
11.献金271 ひと度はわれも(救いの喜び)・・・・一同
12.感謝祈祷 ・・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.報告・・・・・・司会者

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第29主日親子礼拝式順序 2023年7月16 日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美206 飼い主わが主よ (臨在) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美291×2回 神の国と神の義 (信仰)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・寺東真也師
 主題 「イエスの勝利」
 聖句 マタイ4:1〜11新約P.5

講壇 「イエスの勝利」
      マタイ4:1〜11

『イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」』(マタイ4:4)

 イエス様は公生涯に入られる前に、荒野で悪魔の試みに遭われ、見事に勝利されました。イエス様は神の御子であられお方なので、勝利する事は当たり前であると同時に、私たちの手本となる為に、私たちと同じ弱さを抱えてなお、勝利をされた事に大きな意味があります。私たちも信仰の創始者であり完成者であられるイエス様から、勝利の秘訣を学ばせていただきましょう。

○御霊にみちびかれて

 人生において試練は節目ごとにあるものです。それは、決して喜ばしいものではありません。しかし、その試練さえも、神様は益と変えてくださり、信仰の成長のために用いられるのです(第一ペテロ1:7新約P.465)。イエス様は、御霊の導きの中で、あえて、悪魔の試みに遭われるために、御霊に従われたのです。私たちも試練に遭った時の備えをする事ができるのです(第一ペテロ4:12)。

1. 神のことばがなくては

 まず、イエス様が悪魔の試みに勝利された一つ目の秘訣は、みことばの重要性を心から理解し、知っておられた事です。
 イエス様は40日間断食をされ、肉体的には限界をとうに超えている状況でした。その空腹はピークを過ぎて、極限状態にあり、細胞はエネルギーを求めて悲鳴を上げている状況でした。そんな中で、悪魔は、信仰やみことばなど、空腹や肉体の死の前には無意味であることを突きつけながら、
「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」
と言ったのです。もちろん、人間には生きて行く上で食物は欠かせません。しかし、悪魔の本意を知っておられたイエス様は、
「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」(4節) と答えられたのです。

2. 神中心の生き方

 二つ目の秘訣は、人間中心の生き方ではなく、神中心の生き方で生きる事です。人間の為に神様がいるのではなく、神様のために人間は造られた存在なのです。
 悪魔はみことばを巧妙に使用して、人間中心的な神様との関係を植え付けようとします。イエス様にも、高い神殿の頂きに立たせて
「「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。『神はあなたのために御使いたちに命じられる。彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてあるから。」(6節)
と言いました。しかし、イエス様は、人間が神様を試みてはならないとみことばを通して拒否されたのです。神様を便利屋にするのはやめましょう。

エスにこそ救いがある

 三つ目の秘訣は、私たちの救いは神の子なるイエス・キリストにのみあるという事です(使徒4:12新約P.239)。悪魔は、イエス様に、妥協して自分にひれ伏せば、十字架ぬきで、この世の全てを与えようと言いました。しかし、イエス様は断固拒否され
「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」(10節) と答えられたのです。この世の富や栄華は過ぎ去るものです。本当の救いは、イエス・キリストの十字架と復活抜きにあり得ないのです。

10.祈祷・・一  同
寺東真也師
11.献金459 世人は敵に(霊の戦い)・・・・一同
12.感謝祈祷 ・・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.報告・・・・・・司会者

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第28主日礼拝式順序 2023年7月9日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美324 主と主の言葉に (信頼) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美147 起きよ夜は明けぬ (再臨)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・寺東真也師
 主題 「導かれ導く人」
 聖句 使徒8:26〜40新約P.249

講壇 「導かれ導く人」
      使徒8:26〜40

『するとその人は、「導いてくれる人がいなければ、どうして分かるでしょうか」と答えた。そして、馬車に乗って一緒に座るよう、ピリポに頼んだ。』(使徒8:31)

 初代教会の最初の役員であったピリポの働きはサマリアから、神様の導きでエルサレムからガザに下る道へと向かいます。

○導かれる人ピリポ

 「さて、主の使いがピリポに言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」そこは荒野である。」(26節)
 ピリポはステパノの殉教から始まった大迫害のゆえに、不可抗力でエルサレムから散され、サマリアにやってきました。しかし、ピリポはサマリアの地で文句ひとつ言わず、そこを導きの地として、力強いしるしをもってキリストを証し、福音を宣べ伝えた結果、多くのサマリア人が信仰を持つに至ったのです(12節)。
 サマリアのリバイバルはピリポにとっても大きな慰めであり、喜びであった事でしょう。そして、これから更に、サマリアで福音宣教が拡大し、大きな実を結んでいくように思えたに違いありません。
 そのような時に、主の御使いがピリポに現れて導きを与えられたのです。しかし、その導きは、耳を疑うようなものでした。行き先は『エルサレムからガザに下る道』であり、そこは、人っ子一人いない『荒野』であったからです。
 ピリポはどうしたでしょうか。救われる可能性の高い人々がいるサマリアから荒野に行けと言われる導きにピリポは従ったのです(27節前半)。
 私たちの計画、私たちの作戦も大切でしょう。しかし、もっと大切なのは主に従う事です。従ったものには必ず、報いがあります。荒野にある道に着いたピリポは、そこに、エチオピア人の女王カンダケの高官で、女王の全財産を管理していた宦官のエチオピア人に出会うのでした。

○導き手ピリポ

 御霊はすぐにピリポに語り掛けます。
「「近寄って、あの馬車と一緒に行きなさい」(29節)
ピリポが近寄っていくと、馬車からイザヤ書53章が朗読されていました。エチオピアの宦官は、真の神様を求める熱心な求道者で、この日もエルサレムへ礼拝しに行った帰り道だったのです。
 ピリポはすぐさま、語り掛けます。
「あなたは、読んでいることが分かりますか」(30節)
すると宦官は答えました。
「「導いてくれる人がいなければ、どうして分かるでしょうか」(31節)
 神様は人を導き、キリストへの導き手として用いられるお方です。ピリポはこの聖書箇所から始めて、イエスの福音を伝えました。(35節)
 すると、エチオピアの宦官はすぐさま福音を受け入れ、バプテスマを授けて欲しいとピリポに交渉しました。ピリポは信仰告白した宦官にバプテスマを授けました。信仰者に地位の高さや低さは関係ありませんが、社会的に影響力のある宦官が救われた事は、後のエチオピア宣教に少なからず影響を与える事になった事でしょう。

○伝道者ピリポ

 宦官の受洗後、ピリポは御霊によってアゾトに現れ、そこからカイサリアに住むようになりました(39〜40節)。そこで、彼は伝道者として、用いられたのです(使徒21:8)。

10.祈祷・・一  同
寺東真也師
11.献金349 移りゆく時の間も(恵みの成長)・・・・一同
12.感謝祈祷 ・・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.報告・・・・・・司会者

x

第27主日礼拝式順序 2023年7月2日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美317 わが友 主イエスは (信頼) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美437 行きて告げよあまねく (宣教)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・寺東真也師
 主題 「福音宣教の止まらぬ拡大」
 聖句 使徒8:1〜5新約P.248

講壇 「福音宣教の止まらぬ拡大」
      使徒8:1〜5

『「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)

 御霊に満たされたステパノの殉教から、エルサレム教会は激しい迫害を受けるようになりました。

○悲しい事が続く

 エルサレム教会ではステパノを悼み、葬りの時が持たれました。喪に服する暇もなく、サウロはこの機会を逃さず、クリスチャンの家々に押し入って教会を荒らしました。
 その迫害は日増しに激化し、使徒たち以外はユダヤとサマリヤの諸地方に散らされてしまったのです。
 ペンテコステから始まった福音宣教は拡大の一途をたどっていましたが、一挙に信仰の危機を迎えたかのように見えました。

○聖霊の火は消えない

 後に、この迫害の首謀者であったサウロ事、パウロは変えられて、次のように言っています。

「私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。私たちは、いつもイエスの死を身に帯びています。それはまた、イエスのいのちが私たちの身に現れるためです。」(第二コリント4:8〜10新約P.359

 このエルサレム教会への大迫害を通して教会は散されてしまいました。しかし、「散らされた人たちは、みことばの福音を伝えながら巡り歩いた。」(4節)と記されています。散された人々は御霊と共に散され、散された先で福音を宣べ伝えたのです。

○ユダヤからサマリヤへ
1.信徒が用いられる

 エルサレム教会の配給問題の際に選ばれた7人の中のピリポという信徒が、めぐり歩きながら、サマリアの町に下り、そこで福音を伝えました(5節)。ここで再度、確認しておきたい事は、ピリポは信徒であったという事です。12使徒のピリポではなくです。それを踏まえたうえで、サマリヤでの宣教はどうなったと言うと、ピリポによって不思議と力ある業、そして癒しが行われ、サマリヤに大きな喜びがおこったのです(8節)。

2.間違った信仰

 また、サマリアの町で名の知れたシモンという魔術師がいたのですが、ピリポが力ある業を行うのを見て信仰に入り付き人になりました。そして、サマリアの人々が神のことばを受け入れ救われたことを聞いて駆け付けたペテロの祈りによって人々が聖霊に満たされていくのを見て、シモンはお金で権威を買おうとしました(18〜19節)。これにはペテロは嫌悪感を抱き、きつくシモンを叱責するに至りました(20〜23)。

3.聖霊の道備え

 「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)
 この後、ピリポは主の使いの導きにより、エルサレムからガザに下る道に導かれ、エチオピアの高官と出会い、救いに導きます(26節以降)。このエチオピアの高官は使徒の働きの中で最初に洗礼を受けた異邦人でした。ピリポの人生は神様が教会に用意された福音宣教の拡大の型です。サマリアから地の果てまでキリストの証人となるのです。

10.祈祷・・一  同
11.聖餐式49 しみも咎も(聖餐)・・・・寺東真也師
12.献金435 罪に沈む汝が友に(宣教)・・・・一同
13.感謝祈祷 ・・指  名
14.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
15.祝祷・・・・・・寺東真也師
16.報告・・・・・・司会者

x

第26主日礼拝式順序 2023年6月25日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美359 罪深きこの身を (確信) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美465 いつかは知らねど (再臨)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・寺東真也師
 主題 「聖霊に満ちた人」
 聖句 使徒6:1〜10新約P.243、7:54〜60

講壇 「聖霊に満ちた人」
      使徒6:1〜10、7:54〜60

『さて、ステパノは恵みと力に満ち、人々の間で大いなる不思議としるしを行っていた。』(使徒6:8)

 初代教会の時代、聖霊に満たされた弟子達を通して、イエス・キリストの福音は力強く宣べ伝えられ、信じる人たちは爆発的に起こされていきました(使徒2:47)。

○初代教会の初めての問題

 信仰者の交わりは素晴らしいもので、世にある人々は教会に対して好感を抱いているほどでした。しかし、救われたと言えども、人が集まる所には問題は起こるものです。初代教会の最初の問題は、ギリシャ語を話すユダヤ人のやもめがヘブル語を話すユダヤ人達になおざりにされ、配給に不公平が出ているという事でした。そこで、使徒たちは、教会運営の為のリーダーを7人選出する事によって問題解決に至りました。この七人は「御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たち」(使徒6:3)でありました。これが、初代教会の最初の教会役員と言えるでしょう。

○聖霊に満ちた人ステパノ

 七人の選ばれし者たちのひとりにステパノという人物がいました。このステパノは初代教会で最初の殉教者でもあります。このステパノは聖霊により「信仰と恵みと力と知恵」(使徒6:3、5、8、10節)に満ちていました。

1.力に満ちたステパノ(使徒6:8)

「・・・力に満ち、人々の間で大いなる不思議としるしを行っていた。」(8節)
 ステパノには聖霊による力が満ち、しるしと不思議が伴ない、そのことばには力がありました。故に多くの人々は、信仰に導かれ救われていったのです(7節)。

2.知恵に満ちたステパノ(使徒6:3、10)

「彼が語るときの知恵と御霊に対抗することはできなかった。」(10節)  ステパノは聖書を良く知っているというだけでなく、聖書の言わんとする本質を見抜く洞察力を有していました。頭でっかちになり、権力主義に陥っていたユダヤ教徒から議論を吹っ掛けられても、御霊による知恵のことばは、理路整然として真理をまっすぐに解き明かしたのでした。

3.信仰に満ちたステパノ(使徒6:5)

「最高法院で席に着いていた人々が、みなステパノに目を注ぐと、彼の顔は御使いの顔のように見えた。」(15節)
 力と知恵に満ちたステパノに勝てないと思った者たちは、禁断の方法を選択します。それは、偽証をし、ステパノを陥れ、最高法院にてつるし上げるというものでした。しかし、信仰に満ちていたステパノはの顔は、訴えられ、不利な状況に置かれていることなど微塵にも感じさせず、その顔は御使いのようであったというのです。

4.恵みに満ちたステパノ(使徒6:8)

「そして、ひざまずいて大声で叫んだ。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、彼は眠りについた。」(使徒7:60)
 聖霊によって恵みに満ちたステパノは、理不尽の極みの果てに、石打のリンチで絶命する直前、自分に石を投げる者たちの為に祈りながら殉教しました。

10.祈祷・・一  同
11.献金406 主にありて生くるとき(献身・服従)・・・・一同
12.感謝祈祷 ・・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.報告・・・・・・司会者

x

第25主日礼拝式順序 2023年6月18日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美340 救い主イエスと (恵みの成長) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美454 立ちあがれいざ (前進)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・寺東真也師
 主題 「初代教会の光と影」
 聖句 使徒4:32〜5:11新約P.240

講壇 「初代教会の光と影」
      使徒4:32〜5:11

『そして、教会全体と、このことを聞いたすべての人たちに、大きな恐れが生じた。』(使徒5:11)

 聖霊に満たされた人々によって教会は数的にも質的にも成長しました。特に目を見張るのは、自然発生的に財産の共有がなされた事です。ユダヤ人にとって富や財産が増す事は神様からの祝福であり、信仰の結果の指標であったからです。そして反面、金持ちは献金で自分の信仰深さをアピールするようになっていました(マルコ12:41〜44新約P.95)。そのような信仰者の世俗化が深刻化する中で、教会では、キリストの体(エペソ1:23新約P.385)であり、神の家族(エペソ2:19)である教会の為に、自分の財産を献げたのです。
 するとそこに、神の恵みが注がれ、教会に属する人々はみな乏しい者がいなかったと記されています(使徒4:34)。教会は裕福になったわけではないでしょう。しかし、乏しい事はなかったのです(詩篇23篇旧約P.954)。

○光と影

 後に、使徒パウロと共に異邦人伝道へと派遣された(使徒13:1〜3)バルナバも御霊の導きの中で、所有する畑を売って、その代金を教会に献げました。彼は聖霊と信仰に満ちている人でした(使徒11:24)。
 ここまでは、聖霊の働きによる麗しい教会の姿を聖書は描き出しています。しかし、光のある所に影も存在します。
 アナニアとサッピラの夫婦は、バルナバをはじめ多くの人々がしているように、所有の土地を売ってお金にして、教会へ献げました。しかし、その献げたお金は売った金額の全額ではなく、一部を自分たちの為にとっておき、それを隠して、全て献げたという体をとったのです(2、8節)。
 結果的に、アナニアとサッピラは使徒たちと教会の前で、打たれて死んだのです(5、10節)。

○アナニアとサッピラの罪

 アナニアとサッピラは、自分の犯した罪のゆえに即死する事になったのですが、彼らの罪とはいった何だったのでしょうか。

1.全額を献げなかったからではない。

 絶対に誤解して欲しくないのは、献げる額が少なかったからとか、全額を献げなかったからとう理由ではありません。神様に与えられた富は与えられた人の自由にする事ができるのです。
「売らないでおけば、あなたのものであり、売った後でも、あなたの自由になったではないか。」とペテロも語っています。

2.献げる動機が問われる

 神様に献げることは、少額であろうが、大金であろうが、基本、素晴らしい献げものです。ただし、そこにその人の神様への心が、そして愛がこもっている事が一番大切です。しかし、アナニアとサッピラは、信仰と神様への感謝から献げたのではなく、自分も信仰深く見られたいという見栄や、形だけの信仰から献げることが同調圧力に感じたのかも知れません。

3.聖霊を欺き、試みた

 アナニアとサッピラの罪の本質は「聖霊を欺き、御霊を試みた」事です(3、9節)。赦されない罪はありません。しかし、御霊を冒涜することは赦されないのです(マルコ3:28〜29)。聖霊を冒涜するとは、内住くださる御霊をあえて、無視し消すことです(第一テサロニケ5:19新約P.413)。アナニアとサッピラは信仰深い行動を取りつつ、その実は、御霊を消し、信仰を捨て去っていたのでしょう。

10.祈祷・・一  同
11.献金393 献(ささ)げまつりし (献身・服従)・・・・一同
12.感謝祈祷 ・・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.報告・・・・・・司会者

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第24主日礼拝式順序(花の日) 2023年6月11日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美420 雨を降り注ぎ (リバイバル) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美432 北の果てなる (宣教)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・寺東真也師
 主題 「みことばを大胆に語らせてください」
 聖句 使徒4:23〜31新約P.239

講壇 「みことばを大胆に語らせてください」
      使徒4:23〜31

『彼らが祈り終えると、集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出した。」(使徒4:31)

○止まる事を知らない宣教

 「美しの門」で生まれてから40年以上も足が不自由で歩けなかった男性が癒された事をきっかけに多くの人々が求道し、信者の数は男性だけで5千人を超えました(使徒4:4)。

○止める力

 しかし、この勢いに脅威を感じた祭司や宮の守衛長、サドカイ人達は、ペテロとヨハネを捕らえて留置しました。そして、ユダヤ教の指導者たちが集まり、二人を真ん中に立たせて尋問し、最終的にキリストの名を語ってはならないと脅して釈放したのでした(使徒4:15〜21)。

○それでも語る

「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが、神の御前に正しいかどうか、判断してください。 私たちは、自分たちが見たことや聞いたことを話さないわけにはいきません。」(使徒4:19〜20)
 ペテロとヨハネは頑張って宣教していたのではありませんでした。語る事が神の御心である事を確信し、語らざるを得ない情熱に燃やさされていたからです(エレミヤ20:9旧約P.1327)。

○大胆に語る者へ

 この宣教の情熱はどこから与えられたのでしょうか。

1.仲間のもとへ

 信仰者は一人で戦っているのではありません。人は一人でいるように造られたのではないからです(創世記2:18旧約P.3)。信仰の火が燃え続ける為にも、神様は「教会」を与えてくださったのです。ペテロとヨハネは釈放された後、直ぐに信仰の家族である兄弟姉妹のもとへ帰り、指導者たちが告げた反対のことばを全て報告し、共有したのです(23節)。

2.心を一つに神に向かう(祈る)

 ペテロとヨハネの報告を聞いて教会がしたことは何だったでしょうか。緊急の会議でも、指導者たちに対抗する作戦を練ったのでもありません。心を一つにして神に向かって声を上げ、祈ったのです。何事でも、私たちがまずすべきことは、心を合わせて祈ることなのです。

3.現実(成就)と展望(約束)

 祈りの詳細から彼らの信仰に聞きましょう。まず、神の権能を認め、賛美しています(24節)。そして、苦しい現実さえも神のご計画の中にあり、御手にある事を告白しています(25〜28節)。最後に、みことばを大胆に語らせてくださいと願い、イエスの名によって、癒しとしるしと不思議を行わせてくださいと祈ります。そこにはイエス様の約束を信じ祈る彼らの信仰の姿を見る事が出来るのです(マルコ16:15〜20新約P.105)。

○聖霊に満たされて

 祈りがささげられるとすぐに、集まっていた場所が揺れ動き、教会は聖霊で満たされ、神のことばを大胆に語り出したのです(31節)。
 私たちにも同じ聖霊が既に与えられています。この時代においても、聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語らせて頂きましょう。

10.祈祷・・一  同
11.献金434 語り告げばや (宣教)・・・・一同
12.感謝祈祷 ・・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.花感謝贈呈・・教会学校生徒
16.報告・・・・・・司会者

x

第23主日礼拝式順序 2023年6月4日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美317 わが友 主イエスは (信頼) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美437 行きて告げよあまねく (宣教)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・寺東真也師
 主題 「私たちにあるもの」
 聖句 使徒3:1〜10新約P.236

講壇 「私たちにあるもの」
      使徒3:1〜10

『すると、ペテロは言った。
「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」』(使徒3:1〜6)

 イエス様の復活を目の当たりにし、その後、約束の聖霊に満たされた使徒たちは、恐れることなく、その生活を信仰によって歩み始めます。その歩みは、神の力に満たされていたので、多くの救われる者が増し加えられて行きました。

○美しの門にて

 エルサレムにある東側の城壁に「黄金門」と呼ばれる大変美しい門がありました。別名を「美しの門」と言います。材質はブロンズ(銅)であり、金や銀で装飾されていたと言われます。救い主メシアはこの門を通られると伝えられており、人気のスポットでもあったようです。
 人の集まる所には、物乞いをする人も集まります。ユダヤ教においても施しをする事は美徳であり、推奨されていました。美しの門にはある一人の足の不自由な男性が、いつものように、人々に連れて来てもらい、一日中物乞いをして暮らしていたのです。
 晴れやかな美しの門とは対照的な自分の人生に、悲観しながらも、その日を精一杯に、そしてガムシャラに生きる男性の姿がそこにありました。

○祈りの生活は宣教体質

 ペテロとヨハネは3時の祈り(日暮れの祈り)を捧げるために、宮に上りました。そして、美しの門において、足の不自由な男性が二人に施しを求めてきたのです。
 祈りの生活をしていく時、信仰によって人生を送っていく時に、私たちの前に神様は、神様を必要とする人々を送られます。
 反対に、霊的な備えが十分でない場合、神様は人をお送りにはならない場合が多くあります。

○私たちにないもの

 ペテロとヨハネは、その男性を見つめ、そして「私たちを見なさい」と言います。そして、「金銀は私にはない」ときっぱり言い切るのです。いや、彼らには金銀どころか、名誉や立場、優れた能力など何もなかったのです。彼らは無学な凡人でした(使徒4:13)。
 しかし、ペテロとヤコブは弱い、何もない自分たちを知っていました。信仰者の自己認識の第一歩は自分の弱さ、罪深さ、足りなさを素直に認める所から始まります。

○私たちにあるもの

 ペテロとヤコブは自分にないものに悲観的になっているのではありません。「私にあるものをあげよう」と。それは、イエス・キリストを信じる信仰であり、内に居られるいのちの君を指し示す事でした。何もない自分に、神様はとても素晴らしいお方をくださった事を証し、その御名によって、足の不自由な男性に癒しの奇跡が与えられたのです。
 イエスの御名の大きな力が働いた時、多くの者はペテロとヨハネのもとに来て彼らを見つめました。その時、ヨハネとペテロは、「どうして私たちを見つめるのか?」と言います。あくまでも、私たちにはない、しかし、死んで復活されたイエスにこそ、希望がある事を語ったのです。

10.祈祷・・一  同
11.聖餐式49 しみも咎も (聖餐)・・寺東真也師
12.献金275 信仰こそ (信仰)・・・・一同
13.感謝祈祷 ・・指  名
14.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
15.祝祷・・・・・・寺東真也師
16.報告・・・・・・司会者

x

第22主日ペンテコステ礼拝式順序 2023年5月28日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美136 御霊よ降りて (ペンテコステ) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美149 いつ主は来り給うや (再臨)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.特別賛美・・聖 歌 隊
10.メッセージ・・・寺東真也師
 主題 「聖霊が臨むとき」
 聖句 使徒2:14〜41新約P.234

講壇 「聖霊が臨むとき」
      使徒2:14〜41

『しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)」

 主が復活された日から50日目、7週の祭り(五旬節、シャブオット)の最中にイエス様が約束された聖霊は、弟子たちに注がれました。主の最後の弟子達へのことばはペンテコステの日に成就されました。そして、この約束は今も尚、私たちにも語られていると信じます。
 祭りには、当時、外国に住むたくさんのユダヤ人と他国の改宗者が来ていました。その中で、聖霊に満たされた弟子達は、それぞれ、他国語で、御霊が話させさせてくださるとおりに話し始めたのです。
 皆が、驚き、怪しみ、酒に酔っているだけではないかと言い始めた時、11使徒とペテロが立ち上がって、そこにいた多くの会衆にメッセージを語り始めました。
 このメッセージは、以前のペテロのメッセージとは大きく違いました。熱さや力強さなど、ペテロらしさはそのままに、そこには権威がありました。みことばと御霊の権威です。聖書に次のように記されています。 「『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の主は言われる。」(ゼカリヤ4:6旧約P.1616
 御霊によって語らえたメッセージに耳を傾けてみましょう。

○ペテロのメッセージ
1.酒に酔っているのではない聖霊に満たされている。(14〜21節)

 ペテロはヨエルの預言の成就である事を示しました(ヨエル2:28〜32旧約P.1556)。
 聖霊は私たちに勇気と確信、そして必要を満たして下さるお方です。
「また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。」(エペソ5:18新約P.390

2.イエスは死から復活された。(22〜33節)

 ダビデは預言して、キリストの復活を詩篇に綴りました(詩篇16:8〜11旧約P.945)。

3.イエスは主である。あなたの主をあなたが十字架につけた(34〜36節)

 ダビデは詩篇の中で預言して救い主を「主」と呼んでいました(詩篇110篇)。それは、神御自身がキリストを私たちの主とされたからです。その主を十字架につけたのは紛れもなく、あなたがただと言いきったのです。

○三千人が救われる

 聖霊が臨まれる時、そこに罪の自覚と救いへの渇きが与えられます(37節、第一コリント12:3新約P.344)。そして、渇いて主の御もとに来るものは、永遠の命の水を飲むことを許されるのです(ヨハネ7:37〜38新約P.194、黙示録22:17新約P.519)。
 この日、ペテロのメッセージを聞いた3千人が救われました。
 聖霊が臨まれる時、私たちの計画や願いを超えて素晴らしい御業がなされるのです。

11.祈祷・・一  同
12.献金415 恵み深き御神よ (聖霊)・・一  同
13.感謝祈祷 ・・指  名
14.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
15.祝祷・・・・・・寺東 真也師
16.報告・・・・・・司会者

x

第21主日礼拝式順序 2023年5月21日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美215 神は汚れたる世人のため (神の愛) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美409 燃ゆる御霊よ (聖霊)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・寺東真也師
 主題 「神の召しに応えて」
 聖句 使徒1:15〜26新約P.233

講壇 「神の召しに応えて」
      使徒1:15〜26

『さて、主にある囚人の私はあなたがたに勧めます。あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。」(エペソ4:1)

 イエス様が昇天されてからペンテコステ(聖霊降臨)まで10日の期間がありました。イエス様は、『父の約束を待つ』ように使徒たちに言いつけました(使徒1:4〜5)。私たちのクリスチャン生活の原動力は何でしょうか。それは聖霊の導きと助けによってです。イエス・キリストの霊が私たちに与えられている事は私たちが考える以上にとても重要な事なのです(ゼカリヤ4:6旧約P.1616)。イエス様の弟子たちは、この聖霊を待ち望み、祈って待ち望んでいました。
 さて、今日の聖書の箇所は、ペンテコステの前に、祈りつつ行った大切なことからみことばに聞きましょう。それは、『使徒職の補充』でした。

○使徒とは

 使徒とはギリシャ語でアポストロスと言い任命された者とか遣わされた者、使節、大使という意味を持ちます。使徒はイエス様が直々に任命され、定められました(マルコ3:13〜19新約P.70)。使徒は、教会が建てあげられる為の、大切な土台であり(エペソ2:20新約P.386)、来るべき御国においては、イスラエルの12部族を治めるという大切な使命を帯びています(マタイ19:28新約P.40)。

○イスカリオテ・ユダの脱落

 イスカリオテのユダの脱落は聖書のことばの成就であった事が記されています(16節)。これは決して、ユダは滅びる運命であったとう事ではありません。彼には悔い改めのチャンスも与えられていました。しかし、ユダは自ら、イエス様の愛の御手を振り払い、最後は自死を選んだのです。聖霊はダビデを通して、人間の愚かさ、頑なさの結果を預言していたのです(詩篇69:25、109:8旧約P.1003)。

○使徒の資格

 使徒になる為の必要な資格は三つありました。
1. イエス様と行動を共にしていた
2. 復活の証人である
3. 神の任命である
 先の二つを満たしている人物は120人中、二人だけでした。一人目はバルサバ(安息日の子)と呼ばれ、ギリシャ語でユスト(正直者の意)というヨセフ。もう一人はマッティアでした。
 最後の三つ目の資格である神の任命でありますが、人間の判断とは一線を画します。ルカが記すだけでもヨセフは、あだ名もギリシャ名も名は体を表すとうように評判であったのではないかと推察できます。しかし、くじによって選ばれたのは(箴言16:33旧約P.1114)、マッティアでした。マッティアは、12使徒という括りでは登場しますが、個人名はこの箇所しか出てこないのです(決して、マッティアが駄目であるという事ではありません)。
 神様の召しを考える時に、自分自身を見ても、どうして私がと感じる事もあるかもしれません。でも、心配しないでください。召されたお方が恵みによってあなたを召されたのです(第二テモテ1:9新約P.425)。

○神の召しに応えて

 私たちに与えられている信仰は同じであり、一つですが、召しはそれぞれ異なるでしょう(エペソ2:4〜7新約P.385)。イエス様が望まれておられるのは、強いられた歩みではなく、それぞれが、その召しにふさわしく自発的に喜んで主に仕え、召しに応えて歩む歩みなのです(第二コリント9:7新約P.366)。

10.祈祷・・一  同
11.献金392 主の愛の汝が内に (献身)・・一  同
12.感謝祈祷 ・・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東 真也師
15.報告・・・・・・司会者

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第20主日礼拝式順序 2023年5月14日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美474 主がわたしの手を (子ども) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美475 まもなくかなたの (子ども)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.特別賛美・・・聖歌隊
9.証・・・・・・川原聖輝兄
  10.聖書・・・・司 会 者
11.メッセージ・・・寺東真也師
 主題 「あなたは特別な存在」
 聖句 創世記1:26〜28旧約P.2

講壇 「あなたは特別な存在」
      創世記1:26〜28

『神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。」(創世記1:27)

 神様は、世界の始まる前から存在し、永遠に存在されるお方です(黙示録1:8、22:13新約P.491)。この世界の全ては、神様が創造されたのです(創世記1:1)。そして、私たち人間も神様によって造られた存在である事を聖書は明言しています。

○特別な存在として

 神様はこの世界を6日間で創造されました。そして、6日目の最期に人間は創造されたのですが、他の被造物と一線を画す形で創造されたのです。光、大空、海、陸、植物、太陽、月、星、魚、鳥、動物、これらは、神のことばによって秩序を与えられ、存在し、生み出されました。人間は、地の塵(アダマー)から神ご自身が神のかたちとして神の似姿に形造られ、神の息(霊)を吹き込まれて生きたものとなりました(創世記2:7)。
 また、ダビデは詩篇の中で
「人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。あなたは人を御使いよりわずかに欠けがあるものとしこれに栄光と誉れの冠をかぶらせてくださいました。」(詩篇8:4〜5旧約P.939
と詠いました。
 人間はどのような特別な存在として造られたのでしょうか。

1.神のかたちに。似姿に。

「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。」(26節前半)
 畏れ多くも、人間のモデルは神様ご自身です。「われわれ」という表現は一人称複数で書かれています。これは、神様は複数存在すると言う意味ではなく、一般的には、尊厳の複数と言われるもので、国王など高い身分の方が自らを指す場合、一人称単数(私)ではなく、複数(我ら)を使用するのです。また、霊的な意味においては、聖書の真理である、三位一体(父なる神、子なるイエス・キリスト、聖霊)の神を言い表す表現です。
 要するに、人は神様によって、神様のかたち、神様の似姿に、造られた特別な存在です。
 あなたも、神様によって造られた特別な存在なのです。

2.委ねられた存在

「こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」(26節後半)
 神様は人間を特別な存在として造り、特別な使命を与えられました。それは、この被造世界の支配(管理、運営)です。この世界が創造された直後、完璧な神様の目から見ても、この世界は『非常に良かった』のです。神様の最高傑作を従える事を神様は、人間の使命としてくださいました。神様は私たちに類稀なる期待をし、委ねてくださるお方です。

3.祝福された存在

「神は彼らを祝福された。」(28節抜粋)
 神様は人を一人で生きる存在として造られませんでした。神様ご自身も三位一体の愛の交わりに生きるお方であるように、人間も男と女に想像し、夫婦を、家庭を、そして、社会を、文化を育んでいく者としてくださったのです。神様は仰いました。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。」私たちは神様の祝福を受け継いでいく存在なのです。

12.祈祷・・一  同
13.献金505 主われを愛す (幼児祝福)・・一  同
14.感謝祈祷 ・・指  名
15.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
16.祝祷・・・・・・寺東 真也師
17.小学生祝福式・・・寺東 真也師
18.報告・・・・・・司会者

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第19主日礼拝式順序 2023年5月7日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美244 信ずる者は何びとも (救い) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美348 鷲のごとく (恵みの成長)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・寺東真也師
 主題 「大宣教命令 -弟子とせよ‐」
 聖句 マタイ28:18〜20新約P.64

講壇 「大宣教命令 -弟子とせよ‐」
      マタイ28:18〜20

『わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:18〜20)

 イエス様が昇天される前に弟子たちに語られた重要なメッセージである大宣教命令について共にみことばに聞きましょう。

○主権者イエス

「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。」(18節)
 イエス様は全ての権威を父なる神から与えられました。
 語る権威(ルカ4:32新約P.116)、罪を赦す(癒す)権威(ルカ5:24)、悪霊に命じる権威(マルコ1:27新約P.66)、権威を授ける権威(ルカ10:19)、自分からいのちを捨て、再び得る権威(ヨハネ10:18font color="#ff0000">新約P.202)、すべての人を支配する(永遠のいのちを与える為)権威(ヨハネ17:2)等。
 私達は弱く、足らなかったとしても、教会の頭なるイエス様はそのようなお方です。心配無用です。

○大宣教命令のゴール

「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」(19節前半)
 イエス様が私たちに委ね与えられた大宣教命令のゴールは、あらゆる人々を、「イエス様の弟子とする」事です。イエス様の支持者や愛好家を集めるのではありません。イエス様を愛し、イエス様に従い、習いたいと願うものを生み出していくのです。
 私たちは教会のお世話になる為に、召されたわけではありません。その反対で、教会で奉仕の働きをなし、キリストのからだを建てあげる為に、召されたのです(エペソ4:12新約P.388)。

○弟子としてのスタート

「父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け」(19節後半)
 バプテスマ(洗礼式)はクリスチャンとしてのゴールではなく、スタートラインであると言われます。私たちが相応しいから選ばれ、救われるのでは決してありません。全ては、父なる神、子なる神、聖霊なる神の圧倒的な愛と恵みによってなされた、救いの御業である十字架による贖いと、信仰によって与えられる復活のいのちの付与がバプテスマの全てなのです。バプテスマは信仰告白です。してもしなくてもよいものではなく、神様に召された者がこれからの人生を主と共に歩み、弟子の道を歩んでいくために、必ず通るべき道なのです。イエス様もあえて、バプテスマのヨハネから洗礼を受けられた通りです(マタイ3:13〜15)。

○弟子としての過程(プロセス)

「わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。」(20節前半)
 大宣教命令は救いへと導いて終わりではありません。弟子となる為に、イエス様が命じた全ての事を、守るように「教える」事を主は求めておられます。教会が、聖書のみことばを語り、教える事を辞めるとするならば、それはもはや、教会ではありません。イエス様も、その生涯の多くは、弟子を教え、訓練する事を大切にされました。礼拝で、祈祷会で、様々な諸集会で、聖書が開かれるのは、全てのクリスチャンが主の弟子となる為なのです。

○共におられる主

「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(20節後半)
 イエス様は昇天されましたが、聖霊をとおして、いつも、私たちと共におられ、励まし、慰め、必要な力を与えてくださいます。このお方に従って参りましょう。

10.祈祷・・一  同
11.聖餐式49 しみも咎も (聖餐)・・寺東真也師
12.献金404 弟子となし給え (献身)・・一  同
13.感謝祈祷 ・・指  名
14.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
15.祝祷・・・・・・寺東 真也師
16.報告・・・・・・司会者

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第18主日特別礼拝式順序 2023年4月30日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美24 聖なるわれらの主 (賛美) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美467 世の終わりのラッパ (再臨)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.特別賛美・・聖 歌 隊
9.聖書・・・・司 会 者
10.講師紹介・・・寺東真也師
11.メッセージ・・・瀬戸偉作師
 主題 「互いに愛し合う教会」
 聖句 ヨハネ13:34新約P.213 / 第一ヨハネ4:7〜10新約P.483

基督兄弟団大阪教会特別礼拝メッセージ 2023.04.30

大阪聖会2023 (2023/04/30)

講壇 「互いに愛し合う教会」
    ヨハネ13:34
    第一ヨハネ4:7〜10

『私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(第一ヨハネ4:10)

 旧約時代から心を尽くして主を愛することや、隣人を自分自身のように愛することが律法の形で語られて来ましたが、新約時代においては、愛することにおいて「互いに」という側面が新たに語られるようになりました。この「互いに」は、まさに教会時代の本質を表す重要なポイントです。そこに、教会に対する主の深いみ旨が込められています。そのみ旨を私たちはしっかりと受け止めて、共に主のからだなる教会、また神の家族である教会に仕えて行きたいと思います。

一、私たちに示された神の愛
(1) 一方的な神の愛

 まず神様が、罪人である私たちのために、ご自身を犠牲にして十字架の贖いを成し遂げてくださいました。神様の方から「一方的に」私たちを愛してくださっておられるという点が重要です。私たちに何らかの良い所があって、それだからと言っていただいた恵みではありません。私たちは、滅びる者でしかありませんでしたが、憐れみのゆえに一方的な神の愛によって、救いの手が差し延ばされたのです。救いの確信は、ただ一方的な主の愛によってであること、主の愛は無条件の愛であることは、重要なポイントです。この福音理解と自分自身の受け止め方が明確であることが、とても重要です。

(2)神から生まれた者として

 なぜなら、その福音理解と神様に愛されている自分を受け入れることは、そのまま、教会の兄弟姉妹を受け止め、理解し、受け入れる姿勢に表れるからです。私たちは、日々神様の御前に自分を置いて、贖いの恵みを思い起こして感謝をささげることが大切です。同時に、神の家族の一員としてくださった神様のみ旨を確かめて、感謝をささげます。互いに愛し合う教会の基本は、そうした日々の祈り、そこで新たにした確信、そしてささげた感謝の上に形づくられて行くのです。

二、互いに愛し合う愛の本質
(1) タラントのたとえより マタイ25:14〜30

 さて、主が話されたタラントのたとえから、「愛する」という視点から考えてみたいと思います。タラントを活用したしもべたちは商売をして、その結果「よくやった。良い忠実なしもべだ」と褒められています。彼らはそうするようにと言われてではなく、自発的にしました。
 一方、1タラントのしもべは預かったものを地面に隠し、主人が帰って来た時、それをそのまま返しました。当時のセキュリティとしては、地面の中に隠しておくのが一番安全だったそうですが、ある意味、1タラントのしもべは、「預かった」ということに最も忠実に行動したことになります。最も安全な方法でしたが、彼は主人から厳しく叱責されました。なぜだったのでしょうか。

(2)愛することは自発的

 私たちは、このイエス様のたとえから「自発的」な行動が大切なポイントであることを学ばせられます。実のところ、「愛すること」こそが、最も自発的な行為であることを教えられるのです。多くの場合、頼まれてとか、決められているからという理由があって人は行動しますが、教会が成長して行くためには、それだけではなく、「自発的」な部分が大切です。真に自発的な行為には、その本人に責任が伴いますが、その責任感、あるいは、自己犠牲の覚悟が重要です。それを主のために決意して行うのです。決められたことだけをして、あとは何もしないで、じっとしていれば失敗するリスクもなく安全かも知れませんが、その姿勢は、1タラントのしもべに通じるものがあります。
 良かれと思ってする「愛する」行為には、時には失敗のリスクもありますが、周りがその芽をつぶしてしまうのではなく、理解をもって受け止めて行くことも、互いに愛する教会の良き姿ではないでしょうか。
 私たちは、福音理解を深めて、神様に愛されている自分を受け止め、同じく神様に愛されているお互いを受け止め、そして、愛を動機とする雰囲気を大切にする教会を目指すお互いでありたいと願います。

12.祈祷・・一  同
13.献金382 心から願うのは (きよめ)・・一  同
14.感謝祈祷 ・・指  名
15.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
16.祝祷・・・・・・寺東 真也師
17.報告・・・・・・司会者

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第17主日礼拝式順序 2023年4月23日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美221 ああ主の瞳 (神の愛) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美471 われ聞けり かなたには (天国)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・寺東真也師
 主題 「主の招き」
 聖句 ヨハネ21:1〜19新約P.229 / マタイ9:13新約P.16

講壇 「主の招き」
      ヨハネ21:1〜19
      マタイ9:13

『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」(マタイ9:13)

 ペテロはイエス様が十字架につけられようとする時、保身からイエス様を3度否みました。自分の弱さと足りなさを、まざまざと見せつけられるような経験から、信仰的にどん底にいるペテロに対してイエス様は、そのペテロを招かれました。その招きを3つの角度から見ていきましょう。

1. 無条件の招き(ヨハネ21:1〜14)

 弟子達が復活をされたイエス様と3度目に会ったのは、ペテロたちの故郷であり、宣教の拠点としていたガリラヤでした。そこには、イエス様との貴重な経験と思い出がたくさん詰まった地です。しかし、ペテロは悔い改めよりも、あきらめにも似た心境の中で、イエス様の弟子という使命からフェードアウトするかのように、昔、していた職業である漁をしに、ガリラヤ湖に出かけたのです。そして、そのガリラヤ湖畔にイエス様は立たれ、失意の中にあるペテロたちに優しく語りかけ、最初に救いと召しの経験をした、漁の奇蹟を通して(ルカ5:1〜11新約P.117)、はじめの愛に気付かせてくださいました。そこにあったのは、無条件の招きです。

2. 赦しの招き(ヨハネ21:15〜17)

 朝食を終えたペテロにイエス様は一つの質問を3度、語りかけられました。それは「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」でした。ペテロはもう「愛します!」とは言えませんでした。
「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」という遠まわしな表現しかする事しかできませんでした。しかし、これが精一杯のペテロの本心からの応答だったのです。
 イエス様は、3度裏切りの発言をしたペテロに、3度の悔い改めの機会を与えられたのです。
 それと共に、この三度の質問と応答のやりとりにはイエス様からの歩み寄りによる赦しが見られるのです。15節と16節のイエス様の「愛しますか」という言葉は、ギリシャ語で「アガパオー」が使われています。アガパオーは、「無条件の愛」や「自己犠牲の愛」で神の愛に使われることばです。それに対し、ペテロが答えている「私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」の愛は「フィレオ―」が使われています。フィレオ―は「友愛」や「相互における愛」に使われます。
 ペテロへの質問の変化は、私たちへの恵みによる赦しと、神の子が私たちに寄り添ってくださり、ご自分をなだめの供え物として献げて下さった事を如実に現しているのです。

3. 再起の招き(ヨハネ12:15〜19)

 ペテロの精一杯の応答に対するイエス様の答えは「わたしの羊を飼いなさい。」でした。イエス様は、そもそも、ペテロの限界を知っていてくださり、そして、本人がその事を自覚していなかった時点から、ペテロの為に、とりあつかい、導いておられたのです(ルカ22:31〜32)。人生における失敗や挫折を、ただのマイナスと捉えるか、信仰によってそれを最善に変えてくださるお方によって尊い糧にするかは、私たち次第です。ペテロは、この時の経験で、もう一度、イエス様の弟子として、再起する事が出来ました。それは、自分の力ではなく、召してくださるお方の御声に耳を傾けたからです。

10.祈祷・・一  同
11.献金367 イエスよ この身を (きよめ)・・一  同
12.感謝祈祷 ・・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東 真也師
15.報告・・・・・・司会者

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第16主日礼拝式順序 2023年4月16日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美166×2回 威光・尊厳・栄誉 (賛美) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美148 夕べ雲焼くる (再臨)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・寺東真也師
 主題 「信じる者になりなさい」
 聖句 ヨハネ20:19〜29新約P.228 / 第一ヨハネ5:4〜5新約P.484

講壇「信じる者になりなさい」
     ヨハネ20:19〜29
     第一ヨハネ5:4〜5

『それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」』(ヨハネ20:27)

 信仰はとてもシンプルです。途方もない学びをしなければ取得できない資格試験とは異なり、小さな子供でも持つことの出来るものです。いや、自分を高めてくれる知識も信仰がないならば、霊的な高慢に陥り、命から遠く離れてしまます。反対に知識も知恵もまだ少ない幼子のようなへりくだった者に、ご自分をお示しになられるのです(マタイ11:25新約P.21)。

○信仰がなければ

「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」(へブル11:6新約P.451
 信仰の第一要素は神がおられることを信じる事です。全ての全てであられ、唯一の絶対存在者、そして、この世の全てのものを創造されたお方を認め、信じる事から全ては始まります。
 信仰の第二の要素は、神を求める者に報いてくださるお方である事を信じる事です。神様がおられる事を信じていても、神様がどういうお方であるかと言う認識が大切です。神様は、私たちを無条件で愛しておられ、私たちにとって一番必要なものを与えたいと考え、用意してくださいました。しかし、その差し出されたプレゼントを受け取らなくては、それは大なしになってしまいます。神様と言うお方を、私たちが正しく認識し、神様のプレゼントを受け取る事が信仰です。

○信じることが出来ない弟子達

 イエス様の弟子たちが一番恐れていた事、それは、イエス様を失う事です。そして、それが、見事に起こったのが十字架でした。死はイエス様を飲み込み、超えることの出来ない絶望の壁が弟子たちの前に立ちはだかったのです。その悲しみの経験は、イエス様が十字架以前に語られていたみことばをも隠してしまうほどでした(マタイ20:18〜19、ルカ24:5〜7新約P.172)。
 弟子たちは、イエス様を十字架につけて死に至らしめたユダヤ人達を恐れて、固く戸をしめていました。しかし、そこに、預言通りに死から復活されたイエス様が立たれた姿を見て、弟子達は歓喜に湧いたのです。

○不信仰が頭をもたげる時

 イエス様が弟子たちの前に現れてくださった時、一人だけ同席していなかった弟子がいました。それはトマスです。トマスは女性たちの証言にも、弟子たちの証言にも、なにより、イエス様の語っておられた事よりも、自分の見聞きした事、そして、自分の常識を優先させてしまいました。
「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」(ヨハネ20:25)
 イエス様が復活されてから40日この地上におられましたが、その五分の一の8日間トマスは不信仰の中にとどまっていました。

○常識の先にあるもの

 死者の復活、それは、常識から考えると馬鹿げたことでしょう。しかし、死に打ち勝たれたお方を信じる信仰こそ、勝利なのです(第一コリント15:19〜20新約P.350、第一ヨハネ5:4〜5)。トマスは復活の主に会って、ようやく信仰を取り戻しました。神様が私たちに求めておらえ事は、優れた知識でも、技能でもありません。私たちの為に、死に打ち勝たれて復活されたイエス様を、今も生きておられる、唯一の救い主である事を信じる事です。

10.祈祷・・一  同
11.献金459 世びとは敵に (霊の戦い)・・一  同
12.感謝祈祷 ・・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東 真也師
15.報告・・・・・・司会者

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第15主日礼拝式順序 2023年4月9日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美123 救いの主は (復活) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美127 墓の中に (復活)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・寺東真也師
 主題 「心が燃える」
 聖句 ルカ24:13〜35新約P.172

講壇 「心が燃える」  ルカ24:13〜35

『道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。』(ルカ24:32)

 今日はイエス・キリストの復活を記念するイースター(復活祭)です。
 イエス様は十字架で死なれましたが、三日目の日曜日の朝早くに死からよみがえり、復活されたのです。そして、今も生きておられるお方です。この事をあなたは信じますか?

○エルサレムからエマオへ

 この世界に生きていると私たちは、目に見える事柄に左右されてしまいやすくなります。それは、信仰者にとってもそうです。
 イエス様が十字架で死なれた事は、誰しもが知る事実でした。そしてその事実は弟子たちにとって、失望と落胆を与えるものだったのです。しかし、安息日が明けた次の日の朝、イエス様はよみがえられたという噂が広がりました。
 イエス様を信じていた女性たちが埋葬の準備が不十分だったので、再度遺体に香油を塗る為に、向かったのですが、その時すでにイエス様の遺体はなく、天使が復活された事を告げたのです。
 しかし、直属の弟子である者たちでさえ、女性たちの言っている事はたわごとのように聞こえたと言うのです(ルカ24:11)。
 本来ならば、復活の希望にあふれ、喜びの内にイエス様をエルサレムにおいて待ち望むはずです。しかし、ある二人の弟子は、エルサレムに背を向けてエマオという町に向かって歩き出していました。持っていた信仰はどこへやら行ってしまっています。
 否定的な考えや、思いでいっぱいになって議論している弟子たちの中にイエス様が共に歩いておられました。その心は暗く、それが復活の主である事さえ気づかなかったのです。

○みことばが生かす(詩篇119:50旧約P.1062

 この世は移りゆきます。今新しいものも、明日には古くなるのです。力あるものも、つまずき倒れます(イザヤ40:30旧約P.1232)。
 変わらないものは、聖書のみことばだけです(マタイ5:18新約P.7)。
 イエス様は二人の弟子たちに、キリストについて、旧約聖書からみことばを通して、諭されました。力強い、イエス様のお話に、二人の弟子は心燃やされたのです。

○エマオからエルサレムへ

 エマオに到着した時、二人の弟子はイエス様に無理を言って自分たちと宿を共にしていただきました。そして、食事の際にイエス様がパンを裂いて渡される時に、目が開かれイエス様だと分かったのです。
 彼らは「すぐさま」エルサレムへと帰って行きました。信仰が回復され、目に見える事柄ではなく、みことばを信じ、受け入れたときに、彼らの行動は変わりました。その真ん中に、イエス様は立たれ、復活の事実を確かなものとされたのです。

 私たちの信仰は「現実」と言うエマオに向かっているでしょうか。それとも、みことば信仰というエルサレムに向かっているのでしょうか。

10.祈祷・・一  同
11.聖餐式49 しみも咎も (聖餐)・・寺東真也師
12.献金336 日暮れてやみはせまり (恵みの成長)・・一  同
13.感謝祈祷 ・・指  名
14.中高生祝福式・・・・寺東真也師
15.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
16.祝祷・・・・・・寺東 真也師
17.イースターカード配布・・・教会学校生徒
18.報告・・・・・・司会者

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第14主日礼拝式順序 2023年4月2日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美109 友よ読みしや (受難) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美147 起きよ夜は明けぬ (再臨)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・寺東真也師
 主題 「十字架上の祈り」
 聖句 ルカ 23:34、46新約P.170
    マタイ 27:46新約P.62

講壇 「十字架上の祈り」
   ルカ 23:34、46
   マタイ 27:46

『十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。』(第一コリント1:18新約P.327

 イエス様は十字架の苦しみの中で、父なる神様に三つの祈りをされました。それは、『執成し』『叫び』『委ねる』祈りでした。

○執成しの祈り

「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(ルカ23:34)
 拷問を受け、恥辱を受け、十字架において苦しみ抜かる中で、まずイエス様は祈られました。しかも、その祈りは、執成しの祈りだったのです。今、御自身が誰よりも苦しいはずであり、弱音の一言を吐いても誰も責められないような状態です。
 その中で、イエス様は『彼ら』をお赦しくださいと祈られました。『彼ら』とは誰でしょうか?姑息な策略をめぐらし、訴えた祭司長?民衆の怒声に怯み、責任を放棄した裁判長ピラト?その場の勢いに任せて死刑を叫んだ民衆?ローマの権力を笠に着てむち打ち、唾し、着物を面白半分で分けたローマ兵?
 もちろん、それらの人々の為にも祈られたのですが、一番大切なのは『私』の為に祈られたのだと自覚し、受け入れる事です。
「わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。」(ヨハネ17:20新約P.221

○叫びの祈り

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」【わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか】(マタイ27:46)
 イエス様は午後3時頃、息を引き取る少し前、父なる神に『叫び』ました。さかのぼる事3時間前、真昼の正午、日が一番高い時間であるのにかかわらず、全地は暗くなったとあります(マタイ27:45)。その暗闇はイエス様が息を引き取られる3時まで続きました。あたかも、父なる神が、愛する息子の苦しむ姿を見ていられないかのようにです。
 詩篇22篇旧約P.952の歌い始めが、イエス様の叫びと同じです。聖書は苦難のメシアを預言していたのです。正真正銘、『私』の為に、父なる神に見捨てられたお方こそ、罪からの救い主イエス・キリストなのです。

○委ねる祈り

「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」(ルカ23:46)
 イエス様のご生涯は、父なる神に委ねた生涯でした。
 委ねることは、自らは何もしない事とは違います。ましてや、自分の知恵や経験に頼って判断、行動する事とも違います。私たちが委ねるべきお方は、私たちにも福音宣教を委ねてくださいました。
 信仰のゆえに委ねるとは、委ねてくださったお方に信頼し、神の御心を求め、御旨を成し、結果を主に委ねる事です。

10.祈祷・・一  同
11.献金114 血潮したたる (受難)・・一  同
12.感謝祈祷 ・・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東 真也師
15.成人祝福式354 迷えるとき光りを (確信)・・・・寺東真也師 16.報告・・・・・・司会者

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第13主日礼拝式順序 2023年3月26日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美108 丘に立てる荒削りの (受難) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美467 世の終わりのラッパ (再臨)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・寺東真也師
 主題 「罪の深淵」
 聖句 マルコ15:15〜20新約P.102
    イザヤ1:18旧約P.1168

講壇 「罪の深淵」  マルコ15:15〜20 / イザヤ1:18

『さあ、来たれ。論じ合おう。─主は言われる─たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。』(イザヤ1:18)

 ピラトはバラバを釈放し、イエス様を十字架刑に引き渡す事を決定しました。十字架に至るまでは、人の弱さ、汚さがより際立っている箇所です(エレミヤ17:9旧約P.1321)。

○ローマの鞭打ち(15節)

 イエス様は十字架刑に処される前にローマの鞭打ち刑に処されました。
 イスラエルにも鞭打ちの刑はありますが大きく異なります。共通するのは回数制限が40回以内とするという事です。しかし、その理由が異なります。ユダヤ人の鞭打ち刑は、罪の罰でありながらも、その人の尊厳を守りながら(申命記25:2〜3旧約P.358)、更生を目的とするからです(箴言22:15、23:13〜14旧約P.1121)。
 しかし、ローマの鞭打ち刑は、過度な『罰』にあります。回数制限をしなければ、命を奪いかねない刑だからです。鞭の先には、動物の鋭利な骨や鉛が埋め込まれていて、打ち叩かれた皮膚を破り、肉と筋をえぐりとるのです。鞭打ち刑を受けた者は、体は血だらけ、肋骨はあらわになり、顔は親族が見ても判別できないほど切り裂かれていたと言います。瀕死の状態になるのです。

○ローマ兵の闇

 人間は自分より弱い立場のものを目の前にして、しかも、その者を好き勝手できる権威を得たならば、同じ人間に対してでも、残酷になれるのです。戦争の際に、軍の規律を守らない部隊が、占領した地域を蹂躙する事があるのは、残念ながら事実です。
 ローマ兵は瀕死のイエス様を前にして、憐れむどころか、ボロボロになった死刑囚として、人権を無視し、更に痛めつけ始めたのです。

1.肉体的苦痛

 ローマ兵は鞭打ちでボロボロになっているイエス様に対して、着ている衣をはぎ取り、その代わりに紫の衣と茨の冠を被らせ(17節)、緋色のマントを羽織らせました(マタイ27:28新約P.61)。後で、脱がせました。ずたずたに裂かれた皮膚からは血が流れ出しています。触れただけでも激痛でしょう。それを、着せ替えするという事は、衣服と皮膚と肉は血で固まっていたので、それをはぎ取る形になり、拷問のような痛みになるのです。
 また、イエス様は茨の冠を被せられました。中東の茨は、棘が長く鋭いのです。それを冠として、頭に押しつけ被らせられるのです。そして、葦の棒で、頭を殴られたのです。

2.精神的苦痛

 本来、紫の衣、緋色のマントは王様の装束です。兵隊たちは、あえて、この色のものを選んで着せ、王冠の冠の代わりに、茨の冠を、王の酌の代わりに、葦の棒を持たせて、「ユダヤ人の王様、万歳」と叫び、ひれ伏して拝み、戴冠式のまねごとをしたのです。イエス様は体の苦痛だけでなく、心も引き裂かれてくださったのです。

○罪の深みからの救い

 茨は、アダムとエバの罪の結果呪いの象徴の一つでした(創世記3:17〜18旧約P.5)。本来、罪のゆえに呪いを受けなければならない私たちの為に、イエス様は、その呪いを一身に引き受け、身代わりとなってくださったのです。たとえ私たちの罪がいかに深くとも、主の救いの御手は私たちの手をとって救い出してくださるのです(イザヤ1:18)。

10.祈祷・・一  同
11.献金447 貴方のもてる悩みは (悔い改め)・・一  同
12.感謝祈祷 ・・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東 真也師
15.報告・・・・・・司会者

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第12主日礼拝式順序 2023年3月19日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美107 十字架の上にて (受難) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美149 いつ主は来り給うや (再臨)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・寺東真也師
 主題 「二人のイエス」
 聖句 マタイ27:15〜26

講壇 「二人のイエス」  マタイ27:15〜26新約P.60

『おまえたちはだれを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか、それともキリストと呼ばれているイエスか。』(マタイ27:17)

 イエス様がピラトのもとで裁判を受けていた時、ピラトは冤罪判決をするのも、ユダヤ人たちが判決結果に不満を覚えて暴動になるのも避けたかったのです。そのピラトにとって切り札になる人物がいました。それは「バラバ・イエス」という人物でした。

○バラバ・イエス

 四福音書の中で、バラバと言う人物は全て出てきます。しかし、本名を記しているのはマタイだけです。実は、バラバと言うのはあだ名で、「父の息子」という意味です。そして、イエスが本名でした。イエスはギリシャ語読みでヘブル語読みにすると「ヨシュア」です。「主は救い」という意味の名前で、ユダヤ人にとっては良くある名前であったのですが、イエス・キリストを指し示す為に書かれた書物で、イエス様とバラバと言われる人物が混同される事が無いように、あえて、あだ名を用いて差別化をはかったのでしょう。
 それほど、バラバは極悪人だったのです。マタイは「名の知れた囚人」(16節)と記し、マルコとルカは「暴動と人殺し」(マルコ15:7新約P.102、ルカ23:19新約P.169))と記し、ヨハネは「強盗」(ヨハネ18:40新約P.224)と記しています。暴徒のリーダーとて、暴動を引き起こし、その中で殺人と強盗も行っているテロリストです。

○バラバかキリストか

 ピラトは毎年、過越しの祭りの際に、囚人を一人、恩赦にして解放していました。
 ピラトはきっと確信を持っていた事でしょう。今いる囚人は、二人、バラバと呼ばれるイエスか、キリストと呼ばれるイエスです。何としてでもイエス様を死刑にしたい祭司長たちとは違い、民衆は、極悪人のバラバを恩赦にするのは反対するに違いないと。しかし、彼らの罪は根深く、民衆は祭司長たちの扇動と説得に安易に流され、バラバを釈放し、イエス様を十字架につけろと叫んだのです。

○名前は一緒、本質は正反対

 イエス様は、天の父なる神の子です(マタイ3:17)。バラバと呼ばれる極悪人のイエスもあだ名は「父の子」であった事は偶然ではないでしょう。このバラバは私たちの型であるといえます。
 聖書は神のことばを受けた人々の事を「神々、いと高き者の子ら」と言っています(詩篇82:6新約P.1020、ヨハネ10:34〜36)。確かに、私たちは御子イエス様を信じ受け入れた時に、いと高き方の子ととなる特権を受けたのです(ヨハネ1:12)。これは神様の愛と恵みの賜物です。本来、人間は罪のゆえに、神様との愛の関係は絶たれ、神の子である特権は失われているのです。それを、バラバは象徴しながら、そのバラバ=罪を犯した人の代わりに、神の子なるイエス様が、十字架に架かられるというのです。

○バラバのその後

 聖書は、死刑を免れたバラバのその後を語っていません。しかし、多くのクリスチャンはバラバと自分を重ね合わせ、バラバは本当の父なる神の子となったと想像できるのではないかと思います。
 私の死が、キリストの死となり、キリストのいのちが私のいのちとなる、神様が用意してくださった何千年にも及ぶ救いの計画が、このきな臭い裁判の中にも輝いているのです。

10.祈祷・・一  同
11.献金377 見よ十字架より降る (きよめ)・・一  同
12.感謝祈祷 ・・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東 真也師
15.報告・・・・・・司会者

x

第11主日礼拝式順序 2023年3月12日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美104 十字架の上に (受難) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美148 夕べ雲焼くる (再臨)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・寺東真也師
 主題 「真理に聞き従わない者たち」
 聖句 ルカ23:1〜16 / ヨハネ18:28〜38

講壇 「真理に聞き従わない者たち」  ルカ23:1〜16新約P.168 / ヨハネ18:28〜38新約P.223

『わたしは、真理について証しするために生まれ、そのために世に来ました。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。』(ヨハネ18:37)

 聖書の中の人物で反面教師として学ぶ事の出来る人物もいますが今日は、その中の二人から学びたいと思います。それは、意にそぐわない形であったとしても、与えられた権威を通してイエス様を十字架刑に定めた、ユダヤの総督ポンテオ・ピラトとガリラヤの領主ヘロデです。

○領主ヘロデ

 ガリラヤの領主ヘロデは、イエス様が降誕された時の暴君ヘロデ大王の息子です。腹違いの兄弟ピリポの妻へロディアを妻とした事で、バプテスマのヨハネに糾弾され牢に入れていたのですが、ヨハネが正しい聖なる人であると認め、当惑しながらも、ヨハネの語る話を喜んで聞いていたと言うのです(マルコ6:19〜20新約P.77)。
 ピラトがイエス様を尋問している際に、イエス様がガリラヤ出身である事が分かると、すぐに、ヘロデのもとに送りました。すると、ヘロデは嫌がるどころか、喜んだと聖書は記しています(ルカ23:8)。しかし、それは、真理に耳を傾け、面と向かう為ではなく、イエス様が行われる「しるし」である奇跡を見てみたいというミーハーな性格からだったのです。
 そもそも、バプテスマのヨハネの話に耳を傾けていたのも、真理を語るヨハネの話に興味はあったものの、それを自分の事として受け入れるつもりはなかったのでしょう。その結果、へロディアとその娘サロメに願われるまま自分の体裁を気にして、バプテスマのヨハネを死刑にし、奇跡を期待したイエス様は何も行わないどころか、一言もお答えにならず、思い通りにならなかった事で、手のひらを返し、兵士と共に侮辱の言葉を投げつけ、派手な衣をこれ見よがしに着させて、ピラトに送り返したのでした(ルカ23:9、11)。
 ヘロデ王の真理に対する聞く姿勢は、イエス様が語られた種のたとえ話の中に出てくる良い地以外のすべての悪いケースに当てはまります(マタイ13:18〜22新約P.26)。

○ポンテオ・ピラト

 ピラトはローマから派遣されたユダヤ総督でした。なので、絶大な権力を有していたのです。ただし、当時の彼は、ローマにおける地位を守るために必死であり、ユダヤ地方における問題は、彼の評価に直結する為、それが弱点になっていたと言えます。
 イエス様の裁判に関して、はっきり言えば、ピラトは関わりたくなかったのです。それは、イエス様が死刑になるような罪は犯しておらず、宗教的な軋轢から、その指導者たちは死刑にして欲しいと言う尋常じゃない圧力をもって接してきていたからです。下手な冤罪裁判をしても、反対に大きな暴動になっても彼の経歴に傷がついてしまうのです。
 だからこそ、ピラトはあの手この手で、出来るだけ穏便にイエス様を無罪にしようとつとめたのですが、最後にはカエサルに変わってユダヤの王になろうとしている男を有罪にしなければ、あなたはカエサルの敵だと脅された時、保身から、無罪の人を、十字架につける為にユダヤ人たちに引き渡したのでした(ヨハネ19:12)。
 ピラトは、その少し前に、イエス様とさしで話したときに、真理に触れています。しかし、その真理を知ろうともせずに、聞き流してしまったのです(ヨハネ18:37〜38)。

10.祈祷・・一  同
11.献金354 迷えるとき光りを (確信)・・一  同
12.感謝祈祷 ・・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東 真也師
15.報告・・・・・・司会者

x

第10主日礼拝式順序 2023年3月5日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美103 わがためイエス君 (受難) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美147 起きよ夜は明けぬ (再臨)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・寺東真也師
 主題 「イスカリオテ・ユダの失敗」
 聖句 マタイ27:1〜10

講壇 「イスカリオテ・ユダの失敗」  マタイ27:1〜10新約P.60

『主ご自身が「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われたからです。』(へブル13:5)

 深夜に大祭司邸宅の庭で行われていた不正な裁判を有効なものとするために夜が明けるやいなや、形だけのサンヘドリン(最高法院)を開いて、イエス様を有罪としました(ルカ22:66〜71新約P.168)。
 しかし、当時、ローマの属国となっていたイスラエルに死刑にする権限はありませんでした。そこで、彼らは、ユダヤを治めていた総督ピラトに引き渡しのです。

○イスカリオテのユダの失敗

 あれよ、あれよと言う間に、イエス様は断罪され、死刑に向けてありえない速さで進んでいきます。これに、怖れを覚えた人物がいました。それは、イエス様を売った張本人であるイスカリオテのユダです。彼は、銀貨30枚でイエス様を売り、祭司長たちに引き渡しました。
 もしかすると、イスカリオテのユダにはイエス様の愛や優しさが、腑抜けているように見えて、彼なりに喝を少し入れてやろうと馬鹿げたことをしたのかもしれません。
 しかし、それが取り返しのつかない事になったと知って、彼は心の底から後悔する事になったのです。イエス様を売った対価の銀貨30枚を持って祭司長たちの所に行き銀貨を返そうとしたのですが、祭司長たちはそれを受け取りません。
「私は無実の人の血を売って罪を犯しました。」
 後悔の言葉も空しく響き、祭司長たちは冷たく言い放ちます。
「われわれの知ったことか。自分で始末することだ。」(4節)
 その言葉を受けて、イスカリオテのユダは自ら首をくくって自殺をしたのでした。

 少し考えて頂きたいのです。確かにイスカリオテのユダはイエス様をお金で売るという最低の失敗をしました。しかし、失敗したのはユダだけでしょうか。誰しもが失敗するのです。いや、失敗どころかユダの話を聞いて、自分はそこまでひどくないと安心する自分は、神様の前に、もっと最低なのではないでしょうか。
 ユダが特別罪人であったから最悪の最期を迎えたのではありません。彼は大きな間違いを二つ犯しました。

1.『後悔』で終わった

 一つ目、彼は自分の失敗に打ちひしがれ『後悔』しました。後悔する事は決して悪い事ではありません。人は、自分が罪の泥沼に沈んでいて、最悪な状況に陥っているという事を自覚しなければ、そこからの救いを知る事ができないからです。自分は罪を犯してしまったという後悔から、聖なる神様の招きを受けて、悔い改める事が出来るのです。ただ、ユダは、神様の招きに目を留めることなく、ただ、罪の現実に絶望し、「後悔」するだけに終わってしまったのです。

2.自分で始末した

 二つ目、彼は、祭司長たちの声に従い、自分の罪を自分で始末するために自殺を選びました。イエス様は、絶対にそんなことを望んではおられなかったでしょう。ユダが口づけで裏切った時、イエス様は「友よ」と仰いました(マタイ26:50)。自分の聖さによって神様に受け入れられる事を目指した場合、絶望が待っているだけです。しかし、どんなことがあっても、見放さず、捨てないと仰られるイエス様の愛の言葉に耳を傾けていたら、その結末は大きく変わっていたことでしょう(ヘブル13:5新約P.456)。

10.祈祷・・一  同
11.献金446 あなたの罪 過ちは (悔い改め)・・一  同
12.感謝祈祷 ・・指  名
13.役員就任式・・寺東真也師 14.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
15.祝祷・・・・・・寺東 真也師
16.報告・・・・・・司会者

x

第9主日礼拝式順序 2023年2月26日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美102 主は命を (受難) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美468 やがて天にて (天国)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.特別賛美・・聖歌隊
10.メッセージ・・・寺東真也師
 主題 「イエス様のまなざし」
 聖句 ルカ22:47〜62

講壇 「イエス様のまなざし」  ルカ22:47〜62新約P.167

『わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった人たちのためにお願いします。彼らはあなたのものですから。』(ヨハネ17:9)

○人生最悪の日

 イエス様にとって人生最悪の日と言ってもよい日があります。
 それは、自分の愛する12弟子の中の1人であるイスカリオテのユダに裏切られた日です。その他の弟子たちも、必死に抵抗しましたが、イエス様が捕えられてしまうと、蜘蛛の子を散らしたように逃げてしまいました。そしてイエス様は早朝からの違法な裁判でつるし上げられ、あれよ、あれよという間に十字架刑という極刑に処されることになりました。ローマの兵士から嘲笑され、馬鹿にされながら瀕死になるまでムチで拷問を受けたのです。また自分のかかる十字架を背負わされ、刑場であるゴルゴタの丘まで歩き(途中、限界が来て交代もしたが)、死刑囚二人に挟まれて十字架につけられ、最後には絶命しました。これはたかだか12時間の間に起こった出来事です。

○不正な裁判の場で

 今日のみことばにおけるシーンは弟子に裏切られた後、イエス様が1人、捕えられて不正な裁判に連れていかれた先での出来事です。

○女中のまなざし(疑いの目)

 イエス様が捕まってしまったとき全ての弟子たちは逃げてしまいました。しかしペテロとヨハネだけは身をひそめていて、不正な裁判が行われようとしていた大祭司邸の庭に、ヨハネのコネを使って入る事ができました(ヨハネ18:15〜16新約P.222)。
 緊張が張りつめている中で、一人の女中の目がペテロに留まりました。彼女はまじまじとペテロを見つめて、彼がイエス様の弟子であるのではないかと疑い始めたのです(ルカ23:56新約P.171、マルコ14:66〜67新約P.101)。
 その時、ペテロの目は緊張で泳いでいたのではないかと思います。問われたペテロは焦りながらも必死に違うと否定します。女中の目は、容疑者を裁く検察官のような鋭い疑いの目であったに違いありません。「さばいてはいけません。さばかれないためです。」(マタイ7:1新約P.11)一方でイエス様が注がれたまなざしは一味違います。(ヨハネ8:1〜11新約P.195

〇イエス様のまなざし
1.いつくしみのまなざし

 富める青年は自信に満ち溢れていました。しかし、救いの確信がありませんでした。神様の前にへりくだることなく真理は知りえません。しかし、イエス様は知らずに傲慢になっていた青年をもいつくしまれました。(マルコ10:17〜27)

2.赦しのまなざし

 イエス様はペテロが自分を3度裏切って否定する事を知っていました。そして、すでにそのペテロを赦しておられ、励ましておられた事を忘れてはいけません(ルカ22:32)。

11.祈祷・・一  同
12.献金221 ああ主の瞳 (神の愛)・・一  同
13.感謝祈祷 ・・指  名
14.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
15.祝祷・・・・・・寺東 真也師
16.報告・・・・・・司会者

x

第8主日礼拝式順序 2023年2月19日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美238 尊き泉あり (救い) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美467 世の終りのラッパ (再臨)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・寺東真也師
 主題 「ゲツセマネの祈り」
 聖句 ルカ22:39〜46

講壇 「ゲツセマネの祈り」  ルカ22:39〜46新約P.167

『父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。』(ルカ22:42)

 イエス様は、愛する弟子に裏切られ、十字架に向かって歩みだされる直前、苦悶の祈りをされました。最後の晩餐の後、イエス様はオリーブ山にあるゲツセマネという園に行かれて祈りはじめられたのです。

○変わらないライフスタイル

 イエス様は自分の人生が今日、日が沈むまでに終わりをつげ、その終わり方がいかに壮絶で悲惨なものであるのかを知っていました。しかし、最後の夜、イエス様は「いつものように」(39節)「いつもの場所に」(40節)祈られる為にゲツセマネに来られました。
 もし、私たちの人生が今日で終わるとしたらいったい何をするでしょうか?イエス様はいつもと同じように過ごされました。そう、祈りに行かれたのです。
 最後の最後まで祈られたお方。その人生は、父なる神様と密接な祈りの交わりに貫かれているのです。

○祈りの緊張関係

 ゲツセマネでの祈りはいつものようにいつもの場所においてなされた祈りであると同時に、イエス様にとって、特別な祈りの時間となりました。なぜならば、そこに最後の霊の戦いがあったからです。私の願いと神のみこころを求める祈りの緊張関係です。

1. 『杯を取り去ってください』

 イエス様は父なる神に自分の素直な気持ちをぶつけました。
 イエス様にとって十字架にかかるという事は、私たちの罪を一身に背負って呪われた存在になることであり、父なる神から一時的とはいえ、見捨てられることです。
 この事について、イエス様が「苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。」(44節)と記されています。
 もし、この苦杯を飲まずにすむならば、十字架以外に神の愛と聖さを人々に告げ知らせ、完全なる救いを与える道があるならば。全てをイエス様は知っていたでしょう。これ以外に方法がない事や、その為の救い主である事も。でも、祈らないではおられなかったのです。イエス様は私たちの弱さを理解できないお方ではありません。なぜならば、ゲツセマネの園において、その痛みを通ってくださったからです(へブル4:15)。

2. 『みこころがなりますように。』

 イエス様はご自分の気持ちを素直に祈られただけではなく、自分の理性や感情を超えた所にある、父なる神の最善に信仰を持ってこう祈りました。「しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」(42節)
 命を削るような祈りを、3度終えた時、イエス様には霊的な勝利が与えられました。
「立ちなさい。さあ、行こう。」(マタイ26:46)

11.祈祷・・一  同
12.献金105 栄えの冠を (受難)・・一  同
13.感謝祈祷 ・・指  名
14.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
15.祝祷・・・・・・寺東 真也師
16.報告・・・・・・司会者

x

第7主日礼拝式順序 2023年2月12日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美101 イエスよ十字架に (受難) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美466 来たり給う主を (再臨)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・寺東真也師
 主題 「私達の為の祈り」
 聖句 ヨハネ17:9〜19

講壇 「私達の為の祈り」  ヨハネ17:9〜19新約P.220

『わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった人たちのためにお願いします。彼らはあなたのものですから。』(ヨハネ17:9)

 ヨハネ17章はイエス様の告別説教後になされた祈りです。まず、イエス様は、これから十字架に向かわれるご自分の為に、御子の栄光を現わしてくださいと、迫る十字架の苦しみに優る、「贖い」における栄光を求めて祈られました(1節)。
 そして、次に祈られたのは、イエス様を信じた者たちの為でした(9節)。イエス様は私たちの為に、何を祈ってくださったのでしょうか。

1.一つとなるため(11節)

 イエス様の12使徒たちは、多種多様な人たちの集まりでした。ガリラヤの漁師もいれば、取税人であった人もいる。そうかと思えば、反ローマ帝国の過激派組織であった元熱心党員や、熱心なユダヤ教徒までいました。彼らにとって、イエス様は尊敬する師であり、神の子でありました。しかし、弟子たちどうしの関係はと言うと、決して仲が悪かったわけではないと思いますが、悪い意味でのライバルのような関係性が見え隠れしていました。弟子の中で何度も誰が一番偉いかという議論がおこっていたからです。
 イエス様が願われている事は、父なる神と子なる神が一つであったように、弟子たちも一つになる事でした。それは多様性の中にある一致であり、互いに愛し合う関係の中に生まれる奇跡なのです(エペソ4:3、13新約P.388)。

2.イエス様の喜びが私たちのうちに満ちあふれるため(13節)

 イエス様は告別説教を語った理由としても、弟子たちの中にイエス様の喜びがある為だと語っておられました(ヨハネ15:11)。
 イエス様の喜び、イエス様の平安、イエス様の感謝は、尽きる事が無く、いのちの泉となってわき溢れるものだからです。

3.逃げるためではなく、戦いの中で守られるため(15節)

「わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」
 イエス様は、イエス様を信じた者たちの群れが一つになり、イエス様の喜びで溢れる時、大きな力になる事を知っておられました。イエス様が私たちを救われたのは、この世から逃げ出す為ではなく、この世に遣わされ、そこで主の戦いを勇敢に戦い、勝利を得る為なのです。

4.聖別されるため(17、19節)

 最後にイエス様が祈られたのは、弟子たちの聖化でした。
 私たちはどのように聖くされるのでしょうか。それは真理によってとイエス様は祈られました。真理とは、イエス様ご自身のことです。私たちが聖く生きようと努力した所で、出来ることはたかが知れています。しかし、きよめ主なる、イエス様に従っていきるならば、すでに、私たちは聖くされており、聖くされ続け、時が来ると、完成に至るのです(ヨハネ15:3)。

 弟子たちに祈られた祈り。それは、現代に生きるキリストの弟子である私たちの為にも祈られた祈りなのです。

10.祈祷・・一  同
11.献金421 ここに主は在して (リバイバル)・・一  同
12.感謝祈祷 ・・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東 真也師
15.報告・・・・・・司会者

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第6主日礼拝式順序 2023年2月5日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美31 豊けき主の愛 (賛美) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美465 いつかは知らねど (再臨)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・寺東真也師
 主題 「イエス・キリストの栄光」
 聖句 ヨハネ17:1〜5

講壇 「イエス・キリストの栄光」  ヨハネ17:1〜5新約P.219

『父よ、時が来ました。子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。』(ヨハネ17:1)

 ヨハネ14章〜16章はイエス様の告別説教と言われるメッセージです。そして、17章はまるまるイエス様の祈りが記されています。今日は、その祈りの冒頭の部分から、イエス様の栄光について思い巡らせて頂きたいと思います。

〇目を天に向けて

 イエス様は弟子たちに向き合って、真っ直ぐにメッセージを語られましたが、その締めくくりとして、祈られたと言っていいでしょう。弟子たちに向けられた視線が、天に向けられ、祈りの言葉が紡ぎ出されていくのです。  私たちの祈りは、どこに向かっているでしょうか。現実をしっかりと把握する事は大事な事です。しかし、私たちの人生に起こる大きな出来事や困難を直視したまま、そこから目を離せずにいる事はないでしょうか。そうなった時、出てくるのは不平不満や、信仰からかけ離れた祈りの言葉になるでしょう。もちろん、どのような祈りにも父なる神様は耳を傾けてくださいますが、イエス様は祈りの良いモデルとなってくださっているのです。私たちの心の目は常に天を仰いで祈りましょう。そうすれば、希望が溢れてくるのです。

○時が来ました

 この時とはどのような時でしょうか。それは、十字架と復活の「時」です。イエス様は何度も「私の時はまだきていません」と仰っておられましたが、12章23節で「人の子が栄光を受ける時が来ました。」と仰いました。そして、最後の晩餐、告別説教、今日の御言葉の祈りに繋がっているのです。
 イエス様は続いて「子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。」と祈られていますが、それは、イエス様の最高の栄光は、十字架と復活にあるからです。

〇権威の使い方

 父なる神様は、イエス様に全ての人を支配する権威をお与えになりました。その権威は絶大で、この世界の覇者や独裁者にだってなれたでしょう。しかし、イエス様はの権威を、ご自分の為に使うのではなく、父の御心である、人々の救いの為、永遠のいのちを与える為に用いられたのです。
 永遠の命とは、神様とイエス・キリストを「知る」事です(3節)。
「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。(ヨハネ5:24)

〇世界が始まる前から

 イエス様はこの世界が始まる前から存在し、神の栄光で輝いておられたお方です(ヨハネ1:1〜3)。そして、この神の栄光は、一人よがりな栄光ではなく、愛を与える栄光でした。この栄光のクライマックスこそ、十字架と復活なのです。それは、決して安直なものではなく、この世界で一番辛いものであります。しかし、そこを経なければ、永遠のいのちを、与える事は出来ない事を知っておられました。だからこそ、イエス様は、王冠の代わりにいばらの冠りを、玉座の代わりに、十字架にお着きになられたのです。それこそが、ご自分の最高の栄光であると受け止められたのでした。神様とイエス様はこの世界が始まる前からあなたを愛し選んでおられたのです(エペソ1:4新約P.384)。

10.祈祷・・一  同
11.献金260 わが胸に響く歌あり (救いの喜び)・・一  同
12.感謝祈祷 ・・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東 真也師
15.報告・・・・・・司会者

x

第5主日礼拝式順序 2023年1月29日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美24 聖なるわれらの主 (賛美) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美464 汚れと争いは (再臨)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・寺東真也師
 主題 「勝利者として」
 聖句 ヨハネ16:33

講壇 「勝利者として」  ヨハネ16:33新約P.219

『これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。』(ヨハネ16:33)

 十字架に架かられる前夜、最後の晩餐を終え、告別説教をイエス様はされました。このメッセージの目的は、弟子たちが平安を得る為でした。信仰者には、イエス様が与えてくださる平安が備えられているのです。

〇世にあっては苦難がある

 クリスチャンにとってこの世は決して安寧の地ではありません。反対に、真剣にみことばに生きようとすればするほど、苦しみや悩みが増すのではないでしょうか。告別説教の中でも
「世はあなたがたを憎むのです。」(ヨハネ15:19)
と語られた通りです。私たちは、イエス様を信じた時に、世のものから、イエス・キリストのものに変えられ、選び出された者なのです。

○勇気を出して

 勇気は信仰者にとって必要なものです。信仰を働かせ、主に従っていくのは、しばしば苦難が伴う事は先に確認しました。主に従うよりも、世の平安を求めて、丸く収める事も出来るでしょう。しかし、それは逃げであって、勝利はつかめません。南ユダの三代目の王であるアサは100万もの軍勢が攻め込んできた時に、信仰もって、主に祈り求めました(第二歴代誌14:11旧約P.775)。すると、主が共に戦って下さり、ユダは大勝利を収めたのです。オデデの子のアザルヤに神の霊が臨み次のように預言しました。

「しかし、あなたがたは勇気を出しなさい。力を落としてはなりません。あなたがたの働きには報いがあるからです。」(第二歴代誌15:7)

 また、同時に世も勇気をもって信仰を働かせる機会を、巧みに削いでくるので注意が必要です。
 勇気を出す必要もない、信仰を働かせる必要もない、方法で霊的に眠らせるのです。アサ王は、治世の前半、素晴らしい信仰と働きをなしましたが、後半は、北イスラエルの王バアシャから責められた時、アラムに頼り(第二歴代誌16:2〜3)、晩年、両足が病気になった時、主ではなく医者を求め、信仰の歩みを止めてしまったのです。
 世が与える平安は、惰性と妥協が伴い、主が与えてくださる平安には、勇気が伴います。勇気を出しましょう

〇勝利されたイエス様

 どうして、苦難の中でも勇気を出せるのでしょうか。それは、すでに、イエス様が勝利されたからです。失望、不安、悪意、病、死、全てにイエス様は勝利を取ってくださり、完全なる生涯をおくってくださったのです。すでに勝利されたイエス様を信じる者は、勝利が約束されているのです。
「神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。 世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」(第一ヨハネ5:4〜5新約P.484

10.祈祷・・一  同
11.献金459 世びとは敵に (霊の戦い)・・一  同
12.感謝祈祷 ・・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東 真也師
15.報告・・・・・・司会者

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第4主日礼拝式順序 2023年1月22日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美20 主の真実はくしきかな (賛美) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美463 喜びもて (再臨)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・寺東真也師
 主題 「御名によって」
 聖句 ヨハネ16:23〜28

講壇 「御名によって」  ヨハネ16:23〜28新約P.219

『その日には、あなたがたはわたしの名によって求めます。あなたがたに代わってわたしが父に願う、と言うのではありません。父ご自身があなたがたを愛しておられるのです。あなたがたがわたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからです。』(ヨハネ16:26〜27)

 クリスチャンは祈りの最後に「イエス・キリストの御名によって祈ります。」という旨の言葉をもって祈りを締めくくります。これは、単なる常套句ではありません。キリストの「御名」を用いる事が出来る特権が私たちには与えられているのです。

〇弱い者に与えられる祈り

 イエス様は最後の晩餐の後、愛する弟子たちに、最後の説教をされ(ヨハネ14〜16章)、祈られました(ヨハネ17章)。これは、まだ、霊的に無知で、幼い弟子達、イエス様を裏切ってしまう弟子たちに向けられた愛なのです。

「あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。」(ヨハネ16:24)

 弟子たちは、今までも、神を信じる者として、イエス様と共に祈っていた事でしょう。しかし、イエス様の御名によって祈る事はしていなかったのです。それは、イエス様を知っているようで、知らない弟子達だったからです。パウロも「・・・かつては肉にしたがってキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。」(第二コリント5:16新約P.361)と言っています。健全で信仰的なキリスト理解がまず求められます。
 イエス様は神のひとり子であり、罪からの救い主、十字架において罪を身代わりに負い、死から三日目に復活されたお方。この事を信仰もって受け入れ、信じる時こそ、キリストの御名の力を知ることの出来る時です(ヨハネ16:26)。

○御名の力

「・・・まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしの名によって父に求めるものは何でも、父はあなたがたに与えてくださいます。」(ヨハネ16:23)
 イエス・キリストの御名を用いることの出来る特権は、私たちが想像を絶するほどの、素晴らしい特権です。
 王妃エステルは、ユダヤ人の危機を救うためにクセルクセス王に直談判し、その願いを聞き届けられました。エステルは、王の名と指輪による印を用いる権利を得、その力によってユダヤ人の危機を救ったのです。(エステル8:8旧約P.870)。
 全世界の王の王なる主の御名には絶対的な力があります。ペテロは美しの門において生まれつき足のなえた男性をキリストの御名によって完全に癒したのです(使徒3:6新約P.237)。これはペテロが偉大なのではありません。キリスト・イエスの御名を通して、全能なる神の栄光が現れたのです。

〇御名による祈りの秘訣

 始めにも触れましたが、御名によって祈る事は、常套句ではありません。信仰が伴う必要があります。全能の主キリストの御名の力を信じる事です。
 エペソにおいてユダヤ人魔除け祈祷師が試しに御名を使って悪霊を払おうとした時、返り討ちに遭いました。これは信仰による祈りでなかったからです(使徒19:13〜16)。
「ですから、あなたがたに言います。あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」(マルコ11:24新約P.91)

10.祈祷・・一  同
11.献金196 祈れ物事 (祈り)・・一  同
12.感謝祈祷 ・・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東 真也師
15.報告・・・・・・司会者

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第3主日礼拝式順序 2023年1月15日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美19 救いをなし給う (賛美) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美148 夕べ雲焼くる (再臨)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・寺東真也師
 主題 「多くの実を結ぶ為に」
 聖句 ヨハネ15:1〜8

講壇 「多くの実を結ぶ為に」  ヨハネ15:1〜8新約P.215

『あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります。』(ヨハネ15:8)

 聖書は神様と私たちとの関係を「ぶどうの木」に例えています。美味しいたわわに実った実を結ぶぶどうの木をイメージしてイエス様は分かり易く語ってくださいました。

○農夫とぶどうの木、そして枝

「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。」(1節)イエス様はご自身を、その例えの中で「ぶどうの木」と言い、父なる神は、「農夫」であると言われました。そして、当の私たちは、ぶどうの木の「枝」であると言われました。農夫はぶどうの木を良く管理し、剪定(刈込)をします。その目的は、多くの良い実を結ぶ為です。
 私たちは、ぶどうの木の枝で、多くの実を結ぶことを期待されている。多くの実を結ぶことが求められるのです。

〇実の種類
1.悔い改めの実

 一つ目の実は悔い改めの実です。バプテスマのヨハネが荒野で活動を開始した頃、多くのユダヤ人がバプテスマを受けに来ました。そしてヨハネはそんな彼らに、口先だけ、パフォーマンスとしてのバプテスマを受けに来ている者に、声を荒げて、悔改めの実を要求したのです(ルカ3:7〜14新約P.113)。
 信仰の土台は、悔い改めにあります。聖霊が臨まれる時、私たちの心はとかされ、素直に、自分の非を認める事が出来ます。そして、そこから生じる実は、自分中心の言動とは一線を画すのです。

2.御霊の実

 二つ目の実は御霊の実です。聖書には「肉」が結ぶ実と、「御霊」が結ぶ実が明確に書き記されています。

「肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。」(ガラテヤ5:19〜21新約P.382

「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」(同:22〜23)
 キリスト・イエスに着く者は、肉を十字架につけ、御霊によって生き、実を結ぶ者へと変容させて頂けるのです。

3.宣教の実

 三つ目の実は宣教の実です。
「この福音は、あなたがたが神の恵みを聞いて本当に理解したとき以来、世界中で起こっているように、あなたがたの間でも実を結び成長しています。」(コロサイ1:6)
 福音は人から人へと伝えられて行き、多くの人が救われ、いのちを得ています。

〇実を結ぶ為に

 信仰を持ち、救われ(悔い改めの実)、御霊によって整えられ(御霊の実)、救われる者が更に与えられ広がっていく(宣教の実)。これは、真のぶどうの木であるキリストに「とどまる」「つながる」事によってなされる御業なのです。

10.祈祷・・一  同
11.献金332 主はまことのぶどうの木です (信頼)・・一  同
12.感謝祈祷 ・・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東 真也師
15.報告・・・・・・司会者

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第2主日礼拝式順序 2023年1月8日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美18 おお御神を奉れほめまつれ (賛美) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美147 起きよ夜は明けぬ (再臨)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・寺東真也師
 主題 「起きよ。輝け」
 聖句 イザヤ60:1〜3 / マタイ26:1〜16

講壇 「起きよ。輝け」  イザヤ60:1〜3旧約P.1269 / マタイ26:1〜16新約P.55

『起きよ。輝け。まことに、あなたの光が来る。主の栄光があなたの上に輝く。』(イザヤ60:1)

 過ぎ越しの祭りまであと二日となった時、イエス様はベタニアにおられました。その町はエルサレムからほど近く、イエス様がエルサレムに上京された際には必ず立ち寄られた町です。

○愛の光が輝く

 イエス様は、もうすぐご自分が救いを完成するために、人々の罪を背負って十字架にかからなければならない事を理解しておられました。そして、その事を弟子たちにも告げておられたのです(2節)。ただし、その事を、本当に理解し、受け入れる事が出来た人は、弟子たちを含め誰も誰もいませんでした。
 確かに、人間は弱く小さな存在で、神様の計画を、遠回しに聞いても、具体的に包み隠さず聞いても、理解する事は出来ないのでしょう。ただ、弱くとも、小さくとも、愛する事は出来るのです。イエス様が与えられた戒めは、「互いに愛し合いなさい」でした。愛は奇跡を起こすのです。
 マタイとマルコの福音書では「ある女の人」と記されていますが、ヨハネの福音書では、それが、ベタニアのマリアである事が記されています。今回はあえて、名前を伏せましょう。この女性は、イエス様に非常に高価な香油を注いだのです。
 弟子たちは憤慨しました。なぜならば、一時の為に、香油を注いだことは「無駄」であると感じたからです。確かに、論理的に考えるならば、弟子たちのいう事は一理あります。しかし、この女性は、イエスへの純粋な愛から、この事をなしたのです。そして、その一見無駄に思えるこの香油注ぎには、計らずも、大変意味のある事となったのです。それは、イエス様も言っておられます。

「この人はこの香油をわたしのからだに注いで、わたしを埋葬する備えをしてくれたのです。」(12節)

 イエス様が十字架に架かられた日は安息日の前日である金曜日です。そして、ユダヤの一日は、日没から始まるので、安息日は金曜日の日没から始まるのです。安息日には死体に触れる事は許されません。なので、イエス様の遺体は、時間がなかった為、埋葬の為の準備を十分にすることが出来ず、墓に収める事になったのです。
 香油を注いだ女性は、無知で論理的ではなかったかも知れません。しかし、その愛は本物であり、その愛の行動を神様は豊かに用いられたのです。

〇憎悪と貪欲の狭間で

「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:5新約P.55
 イエス様は罪に溢れた漆黒の闇の世に、この世を照らすまことの光として来られたのです(ヨハネ1:9)。光は、周囲が暗ければ暗い程、光を放ちます。この時もそうでした。この香油注ぎのの前後には人の罪の深淵が記されています。

1.指導者たちの殺人計画

2.十二弟子であるユダの裏切り

 香油を注いだ女性の愛は、後になって初めて理解する事が出来るような小さな光でした。しかし、その光は、世界中に輝きを放っています。この世界は、より、暗黒の度を増していくでしょう。しかし、恐れることはありません。私たちの主はまことの光であり、私たちを照らしてくださるのです。私たちも、この世界に、キリストの証人として遣わされているのです。愛の光を輝かせましょう。

10.祈祷・・一  同
11.献金394 成し給え汝が旨 (献身)・・一  同
12.感謝祈祷 ・・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東 真也師
15.報告・・・・・・司会者

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第1主日元旦礼拝式順序 2023年1月1日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美70 朝日は昇りて (アドベント) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美466 来り給う主を (再臨)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・・・寺東真也師
 主題 「互いに愛し合いなさい」
 聖句 ヨハネ13:1〜5、34〜35 

講壇 「互いに愛し合いなさい」  ヨハネ13:1〜5、34〜35新約P.211

『わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。』(ヨハネ13:34)

 今年の兄弟団の標語は「あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。」(エペソ4:1新約P.388)です。主の召しに相応しい歩みとはどのような歩みでしょうか。
 私たちキリスト者は、神の愛によって始まり、神の愛によって完成される者たちです。イエス様が私たちに与えてくださった新しい戒め、それは「互いに愛し合う」ことです。キリストの愛に根ざし、生きることこそ召しにふさわしい歩みなのです。

○互いに愛し仕えあうモデル

 イエス様はご自分の時(十字架による贖い)が間近に迫っている事を覚えられました。
 私たちは、愛する者との今生の別れを悟る時、最後に何を語り、何をするでしょうか。イエス様はご自分の愛を残るところなく示されました(1節)。イエス様にこそ、愛のモデルがあります。いや、本物の愛は、イエス・キリストにのみあると言えます(第一ヨハネ4:7〜8新約P.483)。本物の愛、イエス様の愛とはどのようなものだったのでしょうか。

1.仕える愛

 イエス様の愛は仕える愛でした。弟子達は、誰が一番で、御国においてイエス様の右と左に側近として座るかという事にこだわっていましたが、イエス様は、あなた方は偉くなりたいならば、しもべになり、皆に仕える事を教えられたのです(マタイ20:20〜28新約P.41)。
 仕えることの素晴らしさを口頭で教えるだけでなく、最後の晩餐の席で、イエス様は、真実の愛を示される為に、弟子たちの足を洗い始められたのです(4節)。他人の汚れた足を洗う役目は、一番立場の低い者か、奴隷、又は招待した側がお客様に対してする行動だったのです。

2.敵をも愛する愛

 イエス様の愛は、自分を裏切ろうとしている者、もしくは、既に裏切っている者へも注がれる愛です。イエス様は事ある毎に、敵を愛することを教えられました(ルカ6:27〜36新約P.121)。素晴らしい教えであると共に、この世においては現実的でなくきれい事に聞こえてしまう事でしょう。しかし、これは確かに、イエス様の教えであり、キリスト者の価値観であるべきなのです。この常識を超えた愛によって罪人であり、既に神を裏切っていた私たちも赦され、神の子となる道が開けたのです。
 イエス様は、弟子たちの足を洗う時に、この直後、ご自分を裏切るユダの存在と計画を知っていました。しかし、ユダの足も洗われたのです(11節)。
 イエス様は十字架上で父なる神に祈られました。
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)

○愛を示した意味(12〜17)

 イエス様は弟子たちの足をどうして洗われたのかを語っておられます。それは、イエス様でさえ、愛し仕えたのだから、弟子である者もそれに倣うようにという事です。
 そして、もし、教会の中にこのキリストの愛があるならば、全ての人に対する証しとなるというのです(34節)。この愛故に初代教会は人々に魅力あるものに映り、多くの人が導かれ救われました(使徒2:47)。

 私たちも原点に立ち返り、イエス・キリストの愛にしっかりと根ざして今年の歩みをはじめましょう。

10.祈祷・・一  同
11.献金387 一粒の麦 (献身)・・一  同
12.感謝祈祷 ・・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東 真也師
15.報告・・・・・・司会者

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第43主日礼拝式順序 2021年10月24日 午前10:30?

1.黙祷・・・一 同
2.賛美453 ガリラヤ湖の岸にて(いやし) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美148 夕べ雲焼くる(再臨)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「イエス様の心」
聖句 マルコ1:40?45

講壇 「イエス様の心」  マルコ1:40?45新約P.67

『イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。』 マルコの福音書1章41節

 イエス様はガリラヤ地方において、福音を宣べ伝え、病を癒やし、悪霊を追い出し、神の栄光を現わされました。
 ある町で、イエス様のもとに一人の人が来て跪いて懇願しました。彼は「ツァラアト」に冒されていたのです。

○ツァラアト

 ツァラアトを昔の日本語の聖書では「らい病」と訳していました。しかし、ツァラアトはらい病とは違うのと、らい病自体が差別的な扱いを受けてきた歴史を鑑み、しかも、ツァラアトという病は宗教的にも忌み嫌われており、らい病を患っておられる方への差別を助長する事にもなりかねない事から、他の聖書では「重い皮膚病」や「規定の病」と訳すようになりました。
 この病の特徴は皮膚や表面に現れる事です。人(レビ13:1?46旧約P.196)だけにとどまらず、衣服(レビ13:47?59)や家屋(レビ14:34?53)も感染する病です。そして何より病というよりも、神様との関係の中で「汚れている」とされたのです。なので、患部か改善された時に癒されたというよりも「きよめられた」とされるのです。
 ツァラアトの感染者は町の中に住むことは許されず、町の外で生活し、人と接触する可能性がある場合は、警告の為に自ら、「汚れている!」と大きな声で叫ばなければならないのでした(レビ13:45?46)。感染者は生ける屍のような人生が待ち受けていました。

○お心ひとつで

「お心一つで、私をきよくすることがおできになります。」(40節)
 ツァラアトに冒された人はひれ伏して言いました。
 これは、ツァラアトに冒された人の精一杯の信仰告白でした。ツァラアトはただの病ではないので改善し、きよめられる事はありましたが、それは神の御業でしかあり得ない事だったのです(第二列王記5:7旧約P.657)。言わば、イエス様を神と同等に信じ、期待したわけです。

○深く憐れまれるイエス様

 このツァラアトに冒された人を見てイエス様は深く憐れまれたのです。この憐みは感情で終わるものではありませんでした。「汚れている」この人に「触れ」たのです。ツァラアトに冒された人に触れる事は自身も汚れる事であり、律法違反です。しかし、イエス様はあえてその患部にさわったのです。もちろん、願いの通りにお心一つ、願い、権威のことばをもってきよめる事もできたでしょう。しかし、この人の心にふれる為に、愛の手は延ばされるのです。

○イエス様のきよさにふれる

「わたしの心だ。きよくなれ」
 イエス様こそ、私たちの汚れをすべてきよめてくださるお方です。ツァラアトに冒された人の体は一瞬のうちにきよめられ、ツァラアトは消えてなくなりました。これは私たちの罪をきよめてくださるイエス様の救いの型です。

○そこにイエス様はいますか?

 最後に、ツァラアトをきよめられ、救われたこの人は、イエス様のいいつけを破り、人々に言いふらしてしまいます。悪気はなかったのかもしれません。しかし、時に悪気のない自分本位の行動や言動は、イエス様の為になると思っても、イエス様を外に追いやるような事かも知れません。私たちの内におられる御霊の声を、いつも聞き、従う者であらせていただきましょう。

10.祈祷・・一  同
11.献金382 心から願うのは(きよめ)・・一  同
12.感謝祈祷 ・・司会者
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.報告・・・・・・司会者

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第42主日礼拝式順序 2021年10月17日 午前10:30?

1.黙祷・・・一 同
2.賛美244 信ずる者は何びとも(救い) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美466 来り給う主を(再臨)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「権威ある新しい教え」
聖句 マルコ1:21?28

講壇 「権威ある新しい教え」  マルコ1:21?28新約P.66

『「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」』 マルコ1章15節

 イエス様がガリラヤ地方において一番活動された町はカペナウムでした。故郷のナザレでもそうでしたが、安息日にイエス様は会堂に行かれてそこで神を礼拝し、聖書を読み、それを解き明かされたのでした。そして、イエス様のメッセージには一貫した中心的な教えがありました。

「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)

 そして、その教えには権威があり、今までにないような新しい教えであって多くの人が驚き感動を与えるものだったのです。

○律法学者たちのようではなく

 イエス様の教えは、律法学者たちのようではなかったと聖書に記されています(22節)。律法学者たちの教えとはどのようなものだったのでしょうか。それは、先達の教えや、伝統的な考え方を論理立てたものでした。聖書に書かれている律法を基盤としているのですが、「A先生はこういった」とか「伝統的な教えによればこうすべきだ」と言ったような教えだったのです。決してそのような教えがダメだったというのではありません。ある意味、先達の教えや伝統は軽んぜられるべきではないのですが、イエス様は父なる「神」を解き明かすお方であり(ヨハネ1:18新約P.176)、又聞き的な教えではなく、神の御心を真っ直ぐに、そして、違えることなく、語られたのです。

○教えの真理

 礼拝中に一つの事件が起こりました。会堂にいた一人の男が叫びながらイエス様に絡んで来たのです。

「ナザレの人イエスよ、私たちと何の関係があるのですか。私たちを滅ぼしに来たのですか。私はあなたがどなたなのか知っています。神の聖者です。」(24節)

 この男性は汚れた霊につかれていたのです。イエス様は、汚れた霊を権威あることばでしかりつけられました(25節)。すると、汚れた霊は大声をあげて男性から出ていったのです。そこにいた人々はこの奇跡を目の当たりにして称賛し、イエス様の評判はガリラヤ一帯に広がるほどでした。しかし、イエス様は称賛を受ける為にこの世界に来られたわけではありません。見える業だけで称賛したカペナウムの人々は救いの真理に至る事はなかったのです(マタイ11:20?24新約P.21)。

 汚れた霊はイエス様の「福音=罪の赦しと新しいいのちへの招き」を薄める為に、大声を出し、イエス様の正体を明かします。イエス様こそ神のひとり子で救い主であるという事を知っているだけでは救われません。悪霊でも「神」を正しく知ってはいるからです(ヤコブ2:19新約P.460)。知って、その救いは自分の為であるという事を信じる事がとても大切なのです。

10.祈祷・・一  同
11.献金185 来れ誰も(神の招き)・・一  同
12.感謝祈祷 ・・司会者
13.受洗50年祝福式・ 寺東真也師
14.献児式・・・・寺東真也師
15.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
16.祝祷・・・・・・寺東真也師
17.報告・・・・・・司会者

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第41主日礼拝式順序 2021年10月10日 午前10:30?

1.黙祷・・・一 同
2.賛美185 来れ誰も(神の招き) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美147 起きよ夜は明けぬ(再臨)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「イエス様の招き」
聖句 ルカ5:1?11

講壇 「イエス様の招き」  ルカ5:1?11新約P.117

『「恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕るようになるのです。」』 ルカ5章10節

 神様は私たちを、招いていてくださいます。私たちの自覚があるなしに関わらず、その手は伸ばし続けられているのです。12弟子のペテロはイエス様の恵みの招きによって人生が180度変えられました。

○最初の出会い

 ペテロの本名はシモンと言います。イエス様と最初の出会いの時にペテロというニックネームをイエス様につけていただいたのですが、イエス様に出会うきっかけとなったのは、バプテスマのヨハネの弟子であった弟、アンデレの紹介に拠りました。

・神の子羊

 アンデレは、バプテスマのヨハネが「見よ、神の小羊」(ヨハネ1:36新約P.177)とイエス様を指して言っているのを聞いて、イエス様について行ったのです。イエス様は「神の小羊」と呼ばれました。それは、私たちの罪の為のいけにえとして御自身を十字架で身代わりになる事を指しているのです(第一ペテロ1:18?19新約P.466)。

・ペテロ(岩)と呼ばれる。

 イエス様はシモンに目を留められました。イエス様に私たちは隠し事や、嘘は通用しません。全てをお見通しのその眼は、ペテロの全てを知った上でペテロ(岩)と御名づけになったのです。岩のように頑固な部分があったのかもしれませんが、ペテロが将来大切な信仰告白をします。それは「イエスとは誰か?」という問いに対してのもので、「あなたは生ける神の子キリストです。」(マタイ16:16新約P.33)と答えたのです。この信仰告白の上にイエス様は私の教会を建てるとおっしゃったのです(マタイ16:17?19)。

〇ガリラヤ湖畔における招き

 ルカの5章におけるガリラヤ湖畔における出会いは、福音書の記事としては、二度目の出会でした。しかし、この出会いが、ペテロの人生を大きく変えるものとなったのです。

1.深みに漕ぎ出しなさい

 イエス様は漁を終えたペテロの舟を演台にして、港に溢れかえる群衆に教えを説かれたのです。その後、イエス様はペテロにプロの漁師からすると無意味で馬鹿げた事を御命じになられました。
「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」(ルカ5:4)
 漁業は基本的に深夜から明け方に行うものです。すでに、漁の後、網の片づけまでし、イエス様の説教が終わった時間に、漁をしても魚は一匹も取れる時間帯ではない事をペテロは分かっていたのです。しかし、ペテロは、イエス様がおっしゃるのであればと、その「ことば」通りにしたのです。すると、考えらえないほどの魚がとれて助けを呼んで2艘の舟が沈みそうになったのです。

・罪深さを知る

 イエス様の奇蹟を目の当たりに見て、ペテロが示されたのはイエス様の偉大さだけではありませんでした。それは、自分の罪深さだったのです(ルカ5:8)。

2.こわがらなくてもよい

 イエス様は自分の罪と、イエス様の聖さのギャップに震えおののいている者を正式に弟子としてお招きになりました(ルカ5:10)。
 罪に沈んでいた者が、神の命と使命に生きる者とされたのです。

10.祈祷・・一  同
11.献金395 主はガリラヤ湖の(献身)・・一  同
12.感謝祈祷 ・・司会者
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.報告・・・・・・司会者

x

第40主日礼拝式順序 2021年10月3日 午前10:30?

1.黙祷・・・一 同
2.賛美338 山行くも 海行くも(恵の成長) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美460 こは世の末の徴なるべし(霊の戦い)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「信仰と不信仰」
聖句 ルカ4:16?30

講壇 「信仰と不信仰」  ルカ4:16?30新約P.115

『イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」』 ヨハネ20章29節

 イエス様の働きの中心はイスラエル北部地方のガリラヤでした。イエス様の育った町ナザレもガリラヤ地方にありました。今日の聖書箇所の舞台はイエス様が育った町ナザレです。

○いつもしているとおり

 イスラエルにはシナゴーグ(会堂)が地域に存在し、毎週安息日にはそこに集い、礼拝をささげるのです。そして、その礼拝の中心は、聖書の朗読とメッセージでした。イエス様もまた、この集いを大切にされ、毎週、集っていたことが次のように書かれています。

「・・・いつもしているとおり安息日に会堂に入り朗読しようとして立たれた。」(16節)

 当たり前だけれども大切な事です。それは、礼拝がクリスチャンの生活の中心であるという事です。

〇聖書のメッセージはイエス・キリストご自身(ヨハネ5:39)

 ナザレの会堂において、イエス様はいつものようにみことばを朗読するために立たれました。そして、手渡されたイザヤ書の61章冒頭部分を朗読されました(18?19節)。そして、そのみことばを解き明かして語られました。

「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」(21節)

 このメッセージを切り口に、イエス様は神の権威によって恵みを語られたのです。
 直接的に自分は救い主キリストであるとは語られませんでしたが、そのメッセージを素直に聞き、受け入れるとご自分が救い主であると宣言されたのと同じでした。そして、実際に、ガリラヤのカペナウムとエルサレムにおいて力あるしるしを行っていたことがナザレにも伝わっていたのです。そもそも、聖書はイエス様を証している書なのです。

〇ナザレの不信仰

 イエス様は故郷を愛していた事でしょう。しかし、心の距離が近過ぎるがゆえに、致命的な欠点を抱えている事もご存じでした。ナザレの人々はイエス様を幼子の時から知っており、父母兄弟も知っています。その現状の知識が、邪魔をして不信仰を生み出してしまったのです。

「・・・この人はヨセフの子ではないか・・・」(22節)

 イエス様のメッセージを聞いて感動し褒め、驚きました。しかし、この人は、ヨセフの子でそれ以上でもそれ以下でもないと頭をよぎるのです。
 また、イエス様は彼らの心の本心を見抜いて、目に見えるしるしを欲している事を指摘しされました。 ナザレの不信仰の原因は、目に見えるものに囚われてしまったことです。

〇信仰は見えない神を信じ従う事

 イエス様は預言者が遣わされた先について皮肉を込めながらも、信仰の大切さを伝えようとされました。一つ目の例は「エリヤとやもめ」(第一列王記17:9?16旧約P.631)二つ目の例は「エリシャとナアマン将軍」(第二列王記5:1?19旧約P.657)です。どちらも神様を信じ、預言者を信頼してそのことばに聞き従った者達です。そこに神は神の恵みと栄光、癒しを現わされたのです。

「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」(ヨハネ20:29)

「さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(へブル11:1新約P.451

10.祈祷・・一  同
11.献金282 見ゆるところによらず(信仰)・・一  同
12.感謝祈祷 ・・司会者
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.報告・・・・・・司会者

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第39主日礼拝式順序 2021年9月26日 午前10:30?

1.黙祷・・・一 同
2.賛美433 天つ真清水(宣教) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美467 世の終わりのラッパ(再臨)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨・・オンライン指名
 イスラエル・・オンライン指名
 日   本・・オンライン指名
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「イエス様が与える水」
聖句 ヨハネ4:3?15

講壇 「イエス様が与える水」  ヨハネ4:3?15新約P.181

『この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。』 ヨハネ4章13?14節

 人間の体の約60%は水です。その5%が体内から奪われただけでも、人は瀕死の状態になるといわれています。私たちにとって水は無くてはならぬものです。しかし聖書にはこの水よりも、もっと大切な生ける水がある事を述べています。

○心の渇き

 私たちの心はとても繊細にできています。美しいものに感動し、喜びの出来事に心躍ります。しかし、鋭い批判の言葉に傷ついたり、罪によって汚い思いが心を鈍らせる事もあります。
 肉体的な乾きは、水を摂取する事によって潤されますが、心の渇きはいくら水分をとったからと言って潤される事はありません。

〇心の渇きを潤す生ける水

 今日のテキストの一文は、サマリヤの女とイエス様の会話の中から出てきます。心の渇きを潤す水はイエスキリスト様のみが与えうるのです。この生ける水の特徴を2点あげてみましょう。

1.存在価値を与える水

 当時、ユダヤ人とサマリヤ人は敵対関係にありました。しかし今日の物語の中でユダヤ人であるイエス様が、敵国の女に親しげに頼み事をしている所から始まるのです。
 普通、仲の悪いもの同士が鉢合わせた場合は、無視するか、争いごとが起きます。それは相手を認めていないからです。人から認めてもらえない事は人にとって大きな痛みとなるでしょう。しかしイエス様は、敵味方関係なく、全ての人を愛されその人の価値を認められました。
 イエス様が与える水は、私たちに存在価値を与えてくれるのです。そうあなたは高価で尊いと。

2.心を癒す水

 このサマリヤの女は結婚を5回失敗して、現在は男と同棲中でありました。聖書は離婚も不貞も姦淫の罪にあたります。この時代背景からすればこの女は大罪人です。ユダヤ人であれば石打刑で処刑されなければなりません。そこでこの女はひっそり暮らしていたのでしょう。
 イエス様はこの女の事を全て御存知で女と会話をしておられました。女は自分が全て知られており、それでも、一人の人として認めて下さっているイエス様に心を開いたのです。それだけにとどまらず、町の人にイエス様の事を知らせに行ったのです。もし心の傷が癒されなければ自分の恥を他人に伝える事はできないでしょう。イエス様が与える水は、心の傷を癒して下さいます。

〇泉となって湧きでます

 この水で心を潤された者は、その人の心から生ける水が湧いてくるというのです。イエスキリストによる、喜び、平安、愛、希望が湧き出でます。
 この生ける水はあなただけでなく、あなたの周りの方々をも潤す水となるのです。一人の罪深い女からサマリヤの町の方々がイエス様を信じて心が潤されました。そして永遠のいのちへの水が湧き出るものへと変えられたのでした。
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」(ヨハネ7:37、38)

10.祈祷・・一  同
11.献金267 渇けるわれは上より賜う(救いの喜び)・・一  同
12.感謝祈祷 ・・司会者
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.報告・・・・・・司会者

x

第38主日礼拝式順序 2021年9月19日 午前10:30?

1.黙祷・・・一 同
2.賛美171 今日まで守られ(感謝) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美331 今日まで来たのは(信頼)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨・・オンライン指名
 イスラエル・・オンライン指名
 日   本・・オンライン指名
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「年をとっても大丈夫」
聖句 創世記18:9?15

講壇 「年をとっても大丈夫」  創世記18:9?15旧約P.26

『主にとって不可能なことがあるだろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子が生まれている。」』創世記18章14節

 人生100年時代と言われていますが、健康寿命という事も課題で叫ばれています。年を重ねるうえで、これからは健康で長生きする事が一つの目標になっています。
 年をとると今まで出来ていたことが出来なくなってきます。すると、考え方や発想が消極的になるものです。しかし、聖書は、年をとる事を悲観的には捉えていません。反対に、年老いた信仰者たちが、用いられている姿を聖書の中に見る事ができます。

○アブラハム100歳サラ90歳

 アブラハムが99歳の時、神様はアブラハムに現われてくださり、サラによって子孫が繁栄する事を語られました(創世記17:1、15?16)。その翌年、サラが出産する時にはアブラハム100歳、サラ90歳という年齢になります。
 信仰の父アブラハムと言えど、その事をすぐに受け入れる事は出来ず、その時すでに女奴隷によって与えられていたイシュマエルが頭をよぎり、イシュマエルの祝福を願ったのです(創世記17:17?18)。しかし、主が用意されていた計画は人知を超えたもので、既に与えられているイシュマエルではなく、100歳と90歳の夫婦に与えられる子どもを通して、約束の祝福は紡がれていく事だったのです。

〇三人の人の姿をもって主が

 主は、その年のうちにこの世の罪の縮図であるソドムとゴモラを審判するために三人の人の姿を持って地上に下り立たれました。そして、その前にもう一度、アブラハムを訪問し、再度、子供が与えられる事を告げたのです。
 そして聖書はその時の現実を明確に記しています。

「アブラハムとサラは年を重ねて老人になっていて、サラには女の月のものがもう止まっていた。」(11節)

 そして、サラもアブラハム同様同じように自分たちの現実を見て心の中でつぶやきます。

「年老いてしまったこの私に、何の楽しみがあるでしょう。それに主人も年寄りで。」(12節)

 年を重ねるという事は祝福であり、経験と知識が積み重ねられ、人格的にも成熟してゆきます。しかし、それと同時に、現実を見る目が養われている事が災いし、霊的な事を見る事を忘れてしまう時、神様の祝福を見過ごしてしまう危険もあるのです。

〇冷笑から笑顔へ

 アブラハムもサラも主が語られる人知を超えた祝福を受け止めきれず、悪い冗談のように聞こえたことでしょう。しかし、神様は悪い冗談を言われるお方ではないのです。神様への二人の反応は隠れたところで「冷笑」したのでした(創世記17:17、18:12)。
 これに対して、神様は指摘されています。
「主はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑って、『私は本当に子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに』と言うのか。」(13節)
 信仰を持ちきれないアブラハムとサラに、それでも神様は男の子が与えられると恵みの言葉を残されました(14節)。
 そして、本当にサラに男の子が与えられ、その名を「イサク(笑う)」と名付けたのです。それは、主への悔い改めと心からの感謝、そして喜びを込めた「笑」だったのです。神には不可能な事はありません。年をとっていても大丈夫です。神様があなたを用いたいと願って下さっていますから。

10.祈祷・・一  同
11.献金275 信仰こそ(信仰)・・一  同
12.感謝祈祷 ・・司会者
13.敬老祝福祈祷 ・・寺東真也師
14.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
15.祝祷・・・・・・寺東真也師
16.報告・・・・・・司会者

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第37主日礼拝式順序 2021年9月12日 午前10:30?

1.黙祷・・・一 同
2.賛美109 友よ読みしや(受難) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美204 わが友にます(臨在)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨・・オンライン指名
 イスラエル・・オンライン指名
 日   本・・オンライン指名
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「新しく生まれる」
聖句 ヨハネ3:1?15

講壇 「新しく生まれる」  ヨハネ3:1?15新約P.179

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』ヨハネ3章16節

 イエス様が公生涯に入られて最初の過ぎ越しの祭りを祝われた時、宮きよめをされた後、様々なしるしを行われ、その奇跡を体験し、見た人々は、表面的とはいえ信じる者が沢山起こされました。しかし、ユダヤ教の指導者たちには目をつけられ、敵対視されるようになりました。しかし、指導者の中でも、教師と呼ばれ、特に律法を厳格に守る事を大事にするパリサイ人で、議会の一員であったニコデモという人は、イエス様に好感を持ち、教えをもっと聞きたいと訪問してきたのです。

○ニコデモの隠れた悩み

 ニコデモは他のパリサイ人たちに比べて心が柔らかく、霊的にも鋭い人であったのでしょう。イエス様に対して次のように言いました。

「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」(2節)

 イエス様は弱冠30歳、ニコデモは年を重ねている大ベテランの域です。そのニコデモが遜ってイエス様に語り掛けているのですが、それに対して、イエス様はニコデモの心を見抜き、次のように語り掛けられました。

「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(3節)

 ニコデモは経験もある優秀なパリサイ人でした。しかし、その心の奥の部分においては、神の国を見、そして、そこに入る為の確信がなかったのでしょう。

〇肉の事、霊の事

 肉の事、霊の事  ニコデモは聖書の全てを信じる信仰熱心なユダヤ教の指導者でした。しかし、人間(肉)の限界がここにあります。例え、聖書を穴が開くほど読み、勉強したとしても、神の霊によらなければ、霊的な事柄を理解する事も、信じる事もできないのです。
 イエス様の言葉を肉的な事としか理解できず、老いてから、母の胎にもう一度入る事は出来ないと考えたからです。しかし、イエス様は霊の事を語っておられたのです(エゼキエル36:26旧約P.1480)。

〇新しく生まれる為に

1. 水と御霊によって生まれる(原則)
 「水」とは信仰告白であり、バプテスマ(洗礼)を指します。そして、御霊とは神の霊の事であり、神を信じる信仰によって救われる事を指しています。

2. イエスを仰ぎ見る(方法)
 唯一、天から下ってこられた救い主(13節)。人間は自力で天国に入れるものはいません。しかし、神の子は天から地に下り、救いを成し遂げる為に、人間になられたのです。
 出エジプトの際の荒野に於ける救い(14節、民数記21:9旧約P.278)。これはイエス様の十字架の救いの型です。

3. 信じる者は永遠の命を持つ(結果)
 イエス様の十字架は、人類の罪の身代わりとして罰を受ける為でした。この事を信じる者には、もれなく永遠の命が与えられるのです。(15節)

10.祈祷・・一  同
11.献金31 豊けき主の愛(賛美)・・一  同
12.感謝祈祷 ・・司会者
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.報告・・・・・・司会者

x

第36主日礼拝式順序 2021年9月5日 午前10:30?

1.黙祷・・・一 同
2.賛美220 恵みの光は(神の愛) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美471 われ聞けり かなたには(天国)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「真のしるし」
聖句 ヨハネ2:13?25

講壇 「真のしるし」  ヨハネ2:13?25新約P.178

『イエスは彼らに答えられた。
  「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。」』ヨハネ2章19節

 イスラエルでは年に三回、エルサレムにのぼり、神殿にて神様を礼拝し祭り(過ぎ越しの祭り、七週の祭り、過越しの祭り)を祝う事が律法で定められていました。
 過越しの祭りが近づいた時、イエス様もこの事を大切にされ、エルサレムに上られました。

○妥協の産物

 イエス様が神殿に来られて見た光景は怒りを覚えるようなものでした。
「宮の中で、牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを見て」(14節)

1.いけにえの商店
 牛、羊、鳩とは神様への献げ物であり、神殿に於ける礼拝では欠かせないものでした。この動物の献げものを祭壇に献げる事で、罪が赦され、受け入れられるからです。遠方から家畜を連れてくるのは至難の業です。だから、エルサレムにて神様に献げるいけにえを購入するのは理に適っていたと言えるでしょう。

2.両替所
 又、両替人がいました。当時のイスラエルはローマの属州になっていましたから、通貨はユダヤ貨幣ではなく、ローマ貨幣であり、皇帝カエサルの肖像画が刻まれていました。神殿に献げるお金は律法に記されているユダヤ貨幣(シェケル)にする必要がありました。それで、両替所が必要になったのです。

3.神の為?神殿運営の為?
 イエス様は神殿にてこのような事が行われているのを見て行動に移されました。
「細縄でむちを作って、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らして、その台を倒し」(15節)
 そして、言われました。
「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家にしてはならない。」(16節)
 イエス様は商売を否定されたのではありません。神殿を治めていた祭司やレビ人達が、商売人と結託して、当時の神殿運営の為に資金集めの手段にした事に異を唱えたのです。又、それだけにとどまらず、聖職者たちは私腹を肥やし、贅沢な暮らしをしていたと言われています。イエス様はその事を見抜き、十字架にかかられる直前にも、同じことをされ、次のように言われました。
「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしている。」(マタイ21:13新約P.43

〇真のしるし

 祭司たちは、制度を否定された事に腹を立て、そこまでの事を言い、行動したのなら、しかるべき「しるし」を見せろと迫りました(18節)。その事に対して、イエス様は
「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。」(19節)と応えられました。祭司たちは当時の神殿が46年建築にかかった事を指摘しましたが、イエス様はご自分の最後であり真のしるしとしての、十字架の死と、葬り、そして、復活を指して発言されたのでした(21節、第一コリント15:3?4新約P.349)。

〇人のうちにあるもの

 イエス様は、この後、エルサレムにおいて様々な「しるし」を行われ、その事で信仰を持った人々が沢山おこりました。しかし、その人々にご自分をお任せにならなかったのです。それは、人の中にある罪(自己利益主義)の故でした。

10.祈祷・・一  同
11.献金378 罪の世人らに(きよめ)・・一  同
12.感謝祈祷 ・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.報告・・・・・・司会者

x

第35主日親子礼拝式順序 2021年8月29日 午前10:30?

1.黙祷・・・一 同
2.賛美474 主がわたしの手を(子ども) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美475 まもなくかなたの(子ども)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「弱くても勇士に」
聖句 士師記6:11?40

講壇 「弱くても勇士に」  士師記6:11?40(旧約P.436)

『主の使いが彼に現れて言った。「力ある勇士よ、主があなたとともにおられる。」』士師記6章12節

 神様はどのような人物を用いられるのでしょうか?力の強い人、頭の賢い人、特技を持っている人、特別な人。私は無関係と感じている人が多いと思います。しかし、聖書には次のように書いてあります。

「しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。」(第一コリント1:27?28(新約P.327)

 今日は、士師の時代、弱虫であったギデオンという人が選ばれた事からみことばに聞きたいと思います。

○士師の時代

 モーセの次世代を率いたヨシュアは百十歳で召されました。それまでは、イスラエルの人々は完璧ではありませんでしたが、神様を信じ、従順に歩んでいたのです。しかし、ヨシュアの死後、枷が外れたかのように、イスラエルの人々は好き勝手なことをやりだし、ついには、異邦人が拝み、信仰している土着の偶像であるバアルやアシェラ、アシュタロテを拝み、仕えるようになったのです。その結果、約束の地に住む異邦人たちの手に主はイスラエルを引き渡し、略奪され、立ち向かう事ができなくなったのです(士師記2:8?15)。
 すると、イスラエルの民はその境遇に叫び声をあげて助けを求め出したのです。神様は憐れんで、彼らに救いをもたらす「裁き司」を送られたのです。ギデオンもその裁き司の一人です。

〇力ある勇士よ?

 ギデオンが聖書に登場するシーンはぶどうの踏み場で小麦を打っているというものです。これは略奪者と化したミディアン人に見つからないようにコソコソ隠れて作業していたのです。そこに、神の使いが現れて告げます。
「力ある勇士よ、主があなたとともにおられる。」(12節)
 敵に恐れをなして、隠れながら作業をしている男に向かっていう言葉ではないと感じませんか?

1. 言い訳(15節)

2. 証拠であるしるしの要求(17節)

3. 隠れてミッション実行(25?27)

4. 再度のしるし要求(36?38節)

5. 再々度しるし要求(39?40)

〇あなたのその力で

 神様はご自分の栄光を現わすためにあえて弱いものを用いられるお方です。そこに必要なのは力ではありません。信仰における勇気なのです。主が共におられるがゆえに、私たちは勇士になれるのです。
「行け、あなたのその力で。あなたはイスラエルをミディアン人の手から救うのだ。わたしがあなたを遣わすのではないか。」(14節)

10.祈祷・・一  同
11.献金486 雄々しくあれ(子ども)・・一  同
12.感謝祈祷 ・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.報告・・・・・・司会者

x

第34主日礼拝式順序 2021年8月22日 午前10:30?

1.黙祷・・・一 同
2.賛美2 たたえよ救い主イエスを(賛美) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美427 ただ主を(証し)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「最初のしるし」
聖句 ヨハネ2:1?11

講壇 「最初のしるし」  ヨハネ2:1?11(新約P.178)

『イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。』ヨハネ2章11節

 イエス様が救い主として公に活動を開始されて最初の奇蹟は、ガリラヤのカナにおける結婚式の中で行われました。
 イエス様のお母さんであるマリヤとイエス様、そして、弟子達もこの結婚式に招かれていました。結婚する二人にとっては一生に一度の大切な式です。しかし、その大切な式の中で問題が起こりました。十二分に用意しておいたはずのぶどう酒が足らなくなったのです。

○求めなさい(3?5節)

 予想以上に祝宴が盛り上がったのでしょうか。ぶどう酒が足りないなどとは、せっかくの祝福ムードに水を掛ける事になります。イエス様の母マリヤは、息子に相談します。しかし、あの優しく、母思いのイエス様とは思えないような答えが返ってきたのです。
「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」(5節)
 イエス様は意地悪したわけでも、機嫌が悪かったわけでもありません。公私をしっかりと分けられていたのです。すでに、イエス様は公におけるメシア(救い主)として、生きておられたのです。マリヤの素晴らしい所は、ここで二つ挙げる事ができます。

1.神様からのお告げ(みことば)を思いめぐらせつづけていた。(ルカ2:19、51(新約P.111)
 イエス様の誕生の時、御使いと羊飼いから告げられた事、そして、イエス様が12歳の時の祭りにおける出来事を、心に留め、思いめぐらし続けていたのです。
 みことばを心に留め続けていなければ、きっと、「親に対してなんて事を言うの!」となったでしょう。

2.あきらめなかった。
 マリヤはイエス様の答えを聞いて、怒りもせず、怯みもせず、あきらめないで、きっと何とかしてくれると信じて話を進めたのです。
 マリヤの信仰と求めを見られたイエス様は御手を述べられました。

〇御霊の言える如くせよ(5?8節)

「あの方が言われることは、何でもしてください。」
 マリヤが手伝いの人たちに告げた言葉です。イエス様は、100リットルは入る水瓶六つに水を満杯にするように指示し、あるタイミングでそれを汲み、宴会の世話役に持て行くように言われました。
 ただの水を600リットルも井戸から汲んでくるというのは重労働ですが、お手伝いの方は文句を言わずに従いました。すると、その水は極上のぶどう酒に変化したのです。これは、内住される聖霊の声に聞き従う者の型です。

〇神の業は完全(9?10節)

 神様が行われる事は完全です(詩篇18:30(旧約P.948))。人の想像をはるかに超える御業です。イエス様は人類が生きるか滅びるかの大問題を解決しに来られました。その優しさ故にとても個人的な世界クラスに比べるとたわいもない問題にも、完全に応えられたお方です。
 だとするならば、私たちの命をも完全にお救いになる事の出来るお方のです(へブル7:25(新約P.445))。そして、その御業は、その御声に従い、信じた者に現されるのです。

10.祈祷・・一  同
11.献金181 重荷を負いて(神の招き)・・一  同
12.感謝祈祷 ・司 会 者
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.報告・・・・・・司 会 者

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第33主日礼拝式順序 2021年8月15日 午前10:30?

1.黙祷・・・一 同
2.賛美214 イエスより流るる(神の愛) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美150 旅人なるこの身にとりて(再臨)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「来なさい。そうすれば分かります。」
聖句 ヨハネ1:35?42

講壇 「来なさい。そうすれば分かります。」  ヨハネ1:35?42(新約P.177)

『イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすれば分かります。」そこで、彼らはついて行って、イエスが泊まっておられるところを見た。そしてその日、イエスのもとにとどまった。』ヨハネ1章39節

 ヨハネがイエス様の証をした翌日、二人の人物がイエス様の弟子となりました。その二人の人物は、もとはバプテスマのヨハネの弟子でした。一人は聖書に記述があり、後の12弟子の一人でアンデレです。もう一人は記されていないのですが、ヨハネの福音書の記者であるヨハネ自身ではないかと言われています。

○ヨハネからイエスの弟子へ

 バプテスマのヨハネは、イエス様が歩いて行かれるのを見て、自分の弟子たちに「見よ、神の子羊」と言いました。その発言を聞いて、なんとその二人の弟子は、ヨハネのもとを離れて、イエス様についていったのです。普通であれば、弟子を取られたという事で大きな問題になる所でしょう。しかし、ヨハネは弟子たちが自分を離れて、イエス様についていく事を「良し」としました。自分の使命を理解していたからです。
 二人の弟子たちが後を付いて来るのを知ってイエス様は二人に問いました
「あなたがたは何を求めているのですか。」
 すると、弟子たちは答えました。
「ラビ(訳すと、先生)、どこにお泊まりですか。」
 彼らは、イエス様の宿泊場所を知りたかっただけなのでしょうか。そうではありません。これは、これからお供させ欲しいという意思表示だったのです。彼らは、ヨハネが証したイエスという人物こそ、自分たちが求めるお方、救い主ではないかと期待していたのです。

〇信仰への順序

 人は誰しも「何か」を求めて生きるものです。そして、人にとって本当に必要なものだけれども、罪によって失われてしまったもの、それは、神様との良き関係なのです。イエス様はご自分を通して、神様と罪に沈む人々を和解させるために来られたのです(コロサイ1:22(新約P.402))。
 その和解を受ける事が出来る唯一の方法は「信仰」です。そして、信仰を得る為には、順序があり、イエス様の弟子たちの言葉に大きなヒントがあるのです。
1. 来なさい
2. そうすれば分かります。
 本来ならば、物事を理解し、納得してから行動を起こすのが普通ではないでしょうか。分かってから行くのです。反対に言えば、分からない限りは行かない。しかし、信仰は少し順序が違います。神様というお方を知る事は人間の力では役不足なのです。断片を知る事が出来ても全貌を知る事は到底できません。だから、イエス様は信仰を持ちたいならば、実際にまずわたしのもとに来なさいと言われるのです。そうすればわかるようになると(霊的に理解する事ができるようになる)。

〇理解し、信じ、伝えたアンデレ

 二人の弟子は、イエス様のもとにとどまりました(39節)。そして、霊的な理解が与えられ一つの結論にたどり着いたのです。

「私たちはメシア(訳すと、キリスト)に会った」(41節)

 イエス様は待ち望んでいた「キリスト(救い主)」なのだと。そして、その事実を、伝えなくてはおられなくなり、兄弟のシモンに伝えたのです。このシモンが、あのペテロです。
 信仰を難しく考える必要はありません。主のもとに行けば、御霊が理解させてくださり、信仰へと導いてくださるのです。まず、主のもとに来てください。

10.祈祷・・一  同
11.献金177 「われに来よ」とイエス君は(神の招き)・・一  同
12.感謝祈祷 ・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.報告・・・・・・司会者

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第32主日礼拝式順序 2021年8月8日 午前10:30?

1.黙祷・・・一 同
2.賛美354 迷えるとき光を(確信) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美470 懐しき住まい(天国)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「御霊の導き、悪魔の試み」
聖句 ルカ4:1?13

講壇 「御霊の導き、悪魔の試み」  ルカ4:1?13(新約P.115)

『しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。』第一コリント15章57節(新約P.352)

 バプテスマのヨハネから洗礼を受けたイエス・キリストは聖霊に満ちてヨルダンから帰ってきました。そして、公生涯に入られる前に、御霊に導かれて荒野へ行き、悪魔の試みを受けられたのでした。

○御霊の導き

 イエス様は私たちの救い主であり、神のひとり子です。また同時に私たちと同じ人間となってくださったお方です。私たちの良き模範として、その生涯をおくってくださったのです。
 イエス様は自分の好きなように生きられたのではなく、父なる神の御心にそって生き、具体的には御霊の導きに従われたのです。本来ならば、イエス様が訓練を受ける必要などないのです。しかし、神様は私たちの為に、あえて、イエス様を荒野に御霊によって導いたのです。
 御霊の導きはいつも祝福と繁栄への大路へと続いているわけではありません。また、すぐに脱出の道へ導かれるのでもありません。あえて、試みの為に、苦難の道へと導かれる事もあるのです。それは、私たちが更に、神様を知り、成長するために、神様が必要だと知っておられるからです。

〇悪魔の試み(誘惑)

 神様があえて、荒野に私たちを導かれる時、その意図は、私たちの為であり、善意からです。しかし、それに便乗する者がいます。悪魔です。神様は悪魔が働くのをあえて全くなしにはしません。悪魔がここぞとばかりに試み、誘惑してくることでしょう。イエス様も悪魔の試みに遭われました。悪魔の試み(誘惑)の意図は神様の意図とは正反対で、私たちの挫折と滅びにおける信仰離れです。失敗を繰り返させ、神様の恵みから目を逸らし、信仰から離れさせるのです。

〇イエス様の戦い方

 悪魔は三つの誘惑をしてきました。一つ目は空腹を覚えておられるイエス様に対して神の子であれば、石をパンに変えてみなさいというものでした(3節)。二つ目は、悪魔が高い所に連れて行き、一瞬でこの世界の全てを見せて、もし自分の前にひれ伏すならば、全てあなたのものとなると誘惑しました(6、7節)。三つめは、神殿の屋根に連れて行き、神の子であれば、ここから飛び降りてみなさいと言い、聖書を引用して(詩篇91:11?12(旧約P.1031))誘惑しました(9?11節)。
 これらに対してイエス様は正しくみことばを引用して悪魔に立ち向かわれました(4節=申命記8:3(旧約P.329)、8節=申命記6:13・10:20、12節=6:16)。
 みことばこそ最大の武器です(エペソ6:17(新約P.392))。

〇試みに勝利され続けたイエス様

 荒野における悪魔の試み(誘惑)にイエス様が勝利されると、悪魔は逃げ去り、離れて行きました。こう書かれてあります。

「悪魔はあらゆる試みを終えると、しばらくの間イエスから離れた。」(13節)

 あの手この手で悪魔はイエス様を誘惑しましたが、イエス様は勝利されました。そして「しばらくの間」イエス様から離れたとあります。この後も、悪魔はイエス様を誘惑し続けたのです(マタイ16:23(新約P.34))。しかし、イエス様は私たちの為に、十字架にまで従われ、死にまでも勝利してくださったのです。

10.祈祷・・一  同
11.献金361 栄えの王にます主の(確信)・・一  同
12.感謝祈祷 ・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.報告・・・・・・司会者

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第31主日礼拝式順序 2021年8月1日 午前10:30?

1.黙祷・・・一 同
2.賛美240 我が胸は罪に(救い) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美464 汚れと争いは(再臨)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「キリストを証する人生」
聖句 ヨハネ1:15、19?34

講壇 「キリストを証する人生」  ヨハネ1:15、19?34(新約P.175)

『ヨハネはこの方について証しして、こう叫んだ。「『私の後に来られる方は、私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。」』ヨハネ1章15節

○バプテスマのヨハネ

 ザカリヤとエリサベツの子供として、バプテスマのヨハネが誕生しました。イエス・キリストの母マリアとエリサベツは親類関係にあり、同時期に奇跡的な受胎をしました。バプテスマのヨハネの方が、イエス・キリストよりも半年先に生まれています(ルカ1:36(新約P.108))。
 その風貌はラクダの毛衣をまとい、荒野でいなごと野蜜を食べているような禁欲的な生活を送っていました(マタイ3:4(新約P.4))。そして、その主な活動は、人々に「悔い改めのバプテスマ」を授ける事でした。それが、救い主を迎える道備えとなったのです(ルカ3:7?14)。

〇あなたはどなたですか?

 律法的な信仰生活をしていたイスラエルの人々に、バプテスマのヨハネはとても魅力的に映った事でしょう。当時の宗教的権威を持っていたパリサイ派から遣わされたレビ人や祭司は質問しました。
「あなたはどなたですか?」
 彼らが一番期待していたのは、バプテスマのヨハネが「キリスト(救い主)」であるという事です。そうであれば、彼らのイメージにピッタリだった事でしょう。しかし、バプテスマのヨハネは即答します。 『ヨハネはためらうことなく告白し、「私はキリストではありません」と明言した。』(ヨハネ1:20)
 その後、キリスト預言に関わる人物の名を挙げます。「エリヤ」(マラキ4:5(旧約P.1635))に「あの預言者(モーセのような預言者)」(申命記18:15(旧約P.348))です。エリヤに関してはエリヤの霊をもって活動したバプテスマのヨハネがそうなのですが、エリヤそのものではありませんから「違います」と答え、モーセが指摘した預言者はイエス・キリストそのものなのでやはり「違います」と答えたのでした。
 いや、そもそも、バプテスマのヨハネは「自分」の事ではなく、来るべき「キリスト」を証するために存在していたのです。イザヤは彼を「荒野で叫ぶ『声』」と預言したのです。

〇ヨハネの証言

.「私は水でバプテスマを授けていますが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。その方は私の後に来られる方で、私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません。」(26?27節)

.「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」(29節)

.「御霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを私は見ました。私自身もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けるようにと私を遣わした方が、私に言われました。『御霊が、ある人の上に降って、その上にとどまるのをあなたが見たら、その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者である。』私はそれを見ました。それで、この方が神の子であると証しをしているのです。」(32?34節)

〇スポットライトはキリストに

 バプテスマのヨハネはその人生を徹頭徹尾キリストにスポットライトを当てた人物でした。これは、神様の恵みと赦しを受けた者の生き方そのものです。「恥はわがもの。栄えは主のもの」と言いますが、私の罪の為に十字架にかかり、私を新しく造り変えてくださったお方に栄光を帰するものであらせていただきましょう。

10.祈祷・・一  同
11.献金428 キリストには代えられません(証し)・・一  同
12.感謝祈祷 ・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.報告・・・・・・司会者

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第30主日礼拝式順序 2021年7月25日 午前10:30?

1.黙祷・・・一 同
2.賛美34 主よ汝が前をば(悔い改め) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美150 旅人なるこの身にとりて(再臨)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「罪からの救いのプロローグ」
聖句  ルカ 1:1?17

講壇 「罪からの救いのプロローグ」   ルカ 1:1?17(新P.106)

『彼はエリヤの霊と力で、主に先立って歩みます。父たちの心を子どもたちに向けさせ、不従順な者たちを義人の思いに立ち返らせて、主のために、整えられた民を用意します。』マラキ4章2節(旧P.1635

 マラキ書の時代から約400年の空白期間があり、ついに、マラキ書の最後に預言されたみことばが成就された事から新約の時代が進みだしたのです。

「見よ。わたしは、主の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、この地を聖絶の物として打ち滅ぼすことのないようにするためである。」(マラキ4:5?6)

〇不可能から始まるプロローグ

 罪からの救いが成就される為に、イエス・キリストが誕生され、十字架の死と復活を成し遂げられました。ただ、その前に、序章(プロローグ)として、エリヤの霊と力を宿した人物が登場し、主の道を整える事を主は備えてくださっていました。
「荒野で叫ぶ者の声がする。「主の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ。」(イザヤ40:3(旧P.1230)
 荒野で叫ぶ者の声として、そして、旧約の預言者たちが預言した一番の希望である「救い主」の為に備えられた人物、それはバプテスマのヨハネでした。
 しかし、バプテスマのヨハネの誕生に至るまでも、神様の介入があり、そこには信仰のドラマが用意されていたのです。
 絶対に不可能な事柄から、希望は生まれてくることを示すために。

〇ザカリヤとエリサベツ

 祭司の家系であるザカリヤとエリサベツという敬虔で信仰深い夫婦がいました(ルカ1:5?6)。しかし、妻であるエリサベツは不妊症を患い、子供がいませんでした。そして、すでに子を宿せる年齢はとうに過ぎていたのです(ルカ1:7)。
 神様のご計画は不思議です。バプテスマのヨハネは、不妊に悩む夫婦、しかも、高齢で出産は不可能であるこの夫婦を用いて、バプテスマのヨハネは誕生してきたからなのです。

〇大切なのは信仰

 祭司は大勢いたので、ダビデの時代に24の組に分けられ(第一歴代誌24:7?19(旧P.744))、夫のザカリヤはその第八の組、アビヤの組に属していました。それぞれの組は一週ずつ宮で奉仕をしていましたが、ある日、アビヤの組の奉仕の時、聖所で香を焚く奉仕にザカリヤがくじで選ばれたのです。この奉仕に選ばれることは希で、祭司にとって光栄な奉仕でした。
 一人で聖所に入り、香を焚き、祈りをささげ、奉仕をしていたザカリヤに御使いが現れて、年老いた不妊の自分の妻、エリサベツが男の子を生み、救い主の道備えをする者となる子を生むことを告げたのです。しかし、ザカリヤは信じる事が出来ず、実際にその子が生まれるまで口がきけないようになりました。沈黙をしていた間、ザカリヤはみことばの真実さ、そして、神様の全能をもう一度、深く信じる時となったのです。子供が生まれてくるとき、親の名前にちなんで名づける事をせず、御使いが告げたヨハネという名をつける事によって、ザカリヤは信仰告白へと導かれたのでした。
 大切なのは、みことばと神様に対する信仰です。イエス・キリストに対する信仰によって救いを受ける事のプロローグがここに記されているのです。

10.祈祷・・一  同
11.献金244 信ずる者は何びとも(救い)・・一  同
12.感謝祈祷 ・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.報告・・・・・・司会者

x

第29主日礼拝式順序 2021年7月18日 午前10:30?

1.黙祷・・・一 同
2.賛美264 われ贖われて(救いの喜び) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美471 われ聞けり かなたには(天国)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「罪からの救いのエピローグ」
聖句 マラキ3:16?4:6

講壇 「罪からの救いのエピローグ」  マラキ3:16?4:6(旧P.1634)

『しかしあなたがた、わたしの名を恐れる者には、義の太陽が昇る。その翼に癒やしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のように跳ね回る。』マラキ4章2節

 マラキ書は旧約聖書の最後の預言書です。マラキと言う預言者の詳しい事は聖書には記されていません。おそらく、第二神殿が完成し、その後ネヘミヤの指導によって城壁も完成した後に、イスラエルに遣わされた預言者です。

○繰り返される罪

 ゼルバベル、大祭司ヨシュア、預言者ハガイ&ゼカリヤ、学者エズラと主に油注がれたリーダー達のもと帰還民は荒廃したエルサレムを立て直し、神様に与えられた信仰のライフスタイルを立て直して行きました。しかし、歴史は繰り返されると言いますが、マラキが預言した時には、罪の腐敗が民を侵していました。一般の信仰者もさることながら、その腐敗は、神に仕える祭司にまで及び、国中で神に喜ばれない価値観と行いがまん延していたのです(マラキ1:6)。

1. 神を汚す(最良から残り物へ)
   マラキ1:7?14

2. 結婚観の喪失(離婚問題)
   マラキ2:13?17

3. 神のものを盗む(献金問題)
   マラキ3:8?12

4. 神への信頼の欠如
   マラキ3:13?15

〇純粋な信仰者の勝利

 主を畏れ、信頼し、信じる者たちはどの時代にも少数ですが存在しました。しかし、見せかけの信仰者が、多数派となり、見える所は律法が整備され、口伝律法が幅をきかせて、御霊の自由はなくなり、自らで自らの首を絞めている事にも気付かない者たちが多数派を占めるようになっていきました。
 いや、だからこそ、イエス・キリストは来られたのです。このお方こそが、人を救い、きよめ、造り変えることの出来る方(マラキ3:1?4)。
 イエス・キリストを信じる者は「神の宝」となるのです(マラキ3:17)。
 イエス・キリストが再び来られる日、信じなかった人々にとっては恐怖の日となるでしょう(マラキ4:1)。しかし、信じて待ち望む者にとっては、暗い夜が明けて、義の太陽が昇るように、輝かしい永遠の御国が到来する希望の日になるのです(マラキ4:2)。

〇旧約のエピローグから新約のプロローグへ

「見よ。わたしは、主の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、この地を聖絶の物として打ち滅ぼすことのないようにするためである。」(マラキ4:5?6)
 旧約聖書の最後のみことばは、新約へと繋がる希望の預言で締めくくられています。
 真の神である主に心を向けさせ、多くの預言者が語り伝えた来るべきメシヤ、救い主の道備えをするために、預言者エリヤを遣わすというのです。このエリヤこそ、主の到来を公に示したバプテスマのヨハネなのです(マタイ17:9?13)。
 旧約聖書のエピローグは、新約聖書のプロローグへと繋がり、イエス・キリストの救いの物語へと紡がれていくのです。
 罪が増すところに、それ以上の神の恵みがまず増し加えられ、神の愛が罪に沈み凍った心を溶かし、暖めてくださるのです。

10.祈祷・・一  同
11.献金376 如何に汚れたる(きよめ)・・一  同
12.感謝祈祷 ・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.報告・・・・・・司会者

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第28主日礼拝式順序 2021年7月11日 午前10:30?

1.黙祷・・・一 同
2.賛美24 聖なるわれらの主(賛美) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美272 救い主の愛と(救いの喜び)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」
聖句 ゼカリヤ4:1?14

講壇 「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」  ゼカリヤ4:1?14(旧P.1615)

『彼は私にこう答えた。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。
 『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の主は言われる。』ゼカリヤ4章6節

 ゼカリヤはハガイと同時期にエルサレムへの帰還民に対して預言をした預言者でした。ハガイは神殿建設の再開に向けてイスラエルを励ましました。ゼカリヤは神殿建設が再開してから預言を通して励ましを与えたのです。ゼカリヤの預言は、8つの幻とイスラエルの回復を含む終末預言が語られています。

○そびえ立つ問題

 ハガイの預言によって霊が奮い立たせられたゼルバベルと大祭司ヨシュアと民は、神殿建設を再開したのでした。しかし、問題はなくなったわけではありません。

1. リーダーへの不信感(能力)

 主が選ばれたリーダーとしてゼルバベルと大祭司ヨシュアが立てられていましたが、帰還後、神殿の基が据えられた後、思いがけなく工事を中断しなければならなくなり、その後の、経済的な困難を歩む中で二人のリーダーとしての求心力は落ちていった事でしょう。
 3章には天の法廷でサタンに責め立てられる大祭司ヨシュアの幻描かれています。そこにはボロボロの服を来たヨシュアがいますが、神様の恵みによって、礼服を着せて頂き、頭には聖いターバンが巻かれます(ゼカリヤ3:3?5)。
 4章は金の燭台と二本のオリーブの木の預言が語られますが、金の燭台はイスラエルを指し、日本のオリーブの木はゼルバベルとヨシュアを指しているのです。(ゼカリヤ4:9?14)
 リーダーと民の間に不和がある時、勝利ある道を歩めません。そこで、主はこの二つの幻を通して、大祭司として聖別し、二人を再度選ばれたしるしとして与えられたのです。

2. ペルシャの王という山(権力)

「大いなる山よ、おまえは何者か。おまえはゼルバベルの前で平らにされる。」(ゼカリヤ4:7)
 神殿建設を再開したものの、そこには材料が圧倒的に足りません。ペルシャが口添えして供給のルートを再開しなければ、資材が手に入らないのです。しかも、周りは敵だらけです。再開した事を王に告げ口をし。妨害を図ったのです。しかし、この時不思議な事に妨害できず、再開の手を止める事が出来なかったのです。なぜなら、「主神の目が注がれていた」(エズラ5:5(旧P.822))からです。そして、さらに、知恵が与えられ、ペルシャの王ダレイオス王にキュロス王の時代に許可が確かに出された事を確かめて欲しい旨打診するや、ダレイオス王は書庫を調べ、キュロスの書簡を発見し、イスラエルの主張が正しい事を知って、全面的な支援に乗り出したのです。そして、4年の歳月を経て神殿は完成したのです(エズラ6:1?15)。
 神様は、その時代の権力者や組織をも統べ治めるお方です。

○わたしの霊によって

 第二神殿建設はゼルバベル、大祭司ヨシュア、そして、イスラエルの民の信仰と働きの功績は大きいと言えます。しかし、それ以上に、その者たちを用いたお方が聖書は描き出しているのです。大祭司をきよめ、二人のリーダーに油(聖霊)を注ぎ、時の王をも統べ治めて、主のご計画は主の霊によって進められたと言っても過言ではありません。
 今、私たちにも聖霊は注がれています。聖霊の導きと働きに信頼し、行動を起こすとき、主は私たちを豊かに用いてくださるのです。

10.祈祷・・一  同
11.献金414 主は力をわれに注ぎ(聖霊)・・一  同
12.感謝祈祷 ・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.報告・・・・・・司会者

x

第27主日礼拝式順序 2021年7月4日 午前10:30?

1.黙祷・・・一 同
2.賛美185 来たれ誰も(神の招き) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美381 朝日の光は(きよめ)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「あなたがたの歩みをよく考えよ」
聖句 ハガイ1:1?15

講壇 「あなたがたの歩みをよく考えよ」  ハガイ1:1?15(旧P.1608)

『今、万軍の主はこう言われる。「あなたがたの歩みをよく考えよ。」』ハガイ1章5節

〇絶望の中で

 ハガイはユダヤ人が捕囚からイスラエルに帰ってきてから最初の預言者です。
 前538年にバビロンに代わってペルシャが覇権を握った時、ペルシャのクロス王は神様の導きによってイスラエルへの帰還と神殿建設の為に命令を出したのです。ようやく自分たちの国に公的に帰れることが決まったのです。ユダヤ人達はダビデの子孫であるゼルバベルと祭司であるヨシュアをリーダーとしてエルサレムに帰り、一生懸命神殿の礎を定めました。それが完成した時、歓喜と泣き声が同時に上がったのです(エズラ3:11?13(旧P.820))。
 しかし、それから待っていたのは、異邦人である敵からの嫌がらせ、そして、飢饉でした。乳と蜜の流れる祝福の地であった約束の地が、その時、帰還民を拒むかのような苦難が待ち受けていたのです。それらの中で、ユダヤ人達は、意気消沈し、神殿建設を中断し、前520年まで沈黙が続きました。
 そのような中で神様はハガイを起こされ語られたのです。

○歩みをよく考えよ

 帰還民であるユダヤ人達は、荒廃したエルサレムでそれでも必死に生きていました。自分の住む場所を確保し、食べるための畑を耕し、種を蒔きました。しかし、神様は、リーダーたちにハガイを通して「あなたがたの歩みをよく考えよ」とお迫りになったのです。いったい何が悪かったのでしょうか。

○神の国とその義とを

 イエス様は「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」(マタイ6:33(新P.11))と教えられました。
 そもそもどうして、国が亡び、捕囚に連れていかれる事となったのか、それは、信仰生活の堕落と欠如です。私たちを愛してくださる神様の事を忘れて、いつの間にか神様の事を第2第3にしてしまった結果、罪に溺れて自滅したと言っても過言ではないでしょう。
 決して、ゼルバベルやヨシュア達は贅沢していたのではありません。しかし、自分の生活にいっぱいいっぱいになってしまって、まず神の国を第一とする事を怠ったのです。
「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住む時だろうか。」(ハガイ1:4)

○神様最優先の祝福

 私たちの現状も決して楽な事はありません。いや、これから更に厳しい生活になるでしょう。しかし、主は言われます。「山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、栄光を現す。─主は言われる─」(ハガイ1:8)
 信仰によって私たちの、能力、時間、財、すべてをまず主に聖別する事が最高の祝福に生きる道なのです。

10.祈祷・・一  同
11.献金291(3回) 神の国と神の義(信仰)・・一  同
12.感謝祈祷 ・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.献児式505 主われを愛す・・・・・寺東真也師
16.報告・・・・・・司会者

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第26主日礼拝式順序 2021年6月27日 午前10:30?

1.黙祷・・・一 同
2.賛美112 カルバリ山の十字架(受難) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美149 いつ主は来り給うや(再臨)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「神は救いの勇士だ」
聖句 ゼパニヤ3:14?17

講壇 「神は救いの勇士だ」  ゼパニヤ3:14?17(旧P.1606)

『その日、エルサレムは次のように言われる。「シオンよ、恐れるな。気力を失うな。あなたの神、主は、あなたのただ中にあって救いの勇士だ。主はあなたのことを大いに喜び、その愛によってあなたに安らぎを与え、高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」と。』ゼパニヤ3章16?17節

 預言者ゼパニヤはユダの王ヨシヤの治世の預言者でした。しかも、高祖父(四親等)はヒゼキヤ王で王族の親類にあたります。同世代の預言者はナホム、ハバクク、エレミヤがそうです。

〇律法における改革の限界
・罪に翻弄される南ユダ

 ヒゼキヤ王は神様を信じ、従う、信仰者として秀でた王でした。しかし、その子供のマナセは最悪王の異名を持つ王であり、南ユダが信仰的に又、倫理的に地に落ちた治世であったと言わざるを得ません。
 そして、マナセの子アモンもマナセの道を歩み、偶像礼拝を推奨し、不信仰の道を邁進します。混迷を極める最中、アモンは家来たちに謀反を起こされ殺害されます。そして、弱冠8歳で最善王と呼ばれるヨシヤが戴冠したのでした。

・罪に抗う南ユダ

 そして、ヨシヤは神様を畏れ、父や祖父の道を行かず、高祖父のヒゼキヤのように主に喜ばれる道を歩みました。主は、ヨシヤを祝福し、失われていた律法の書を宮の奥から発見させ、宗教改革を大々的に行ったのでした。

・罪に競り負ける南ユダ

 しかし、確かにヨシヤは素晴らしい評価に値する働きをなし、見える所の不信仰の芽は摘み取りましたが、マナセの蒔いた罪の種は、しつこく、人々の心に根差し、多大な影響を与えていたのです。それゆえ、聖書はヨシヤを称賛するが、その裁きの決定は揺るがないものになっていた事が記されています(第二列王記23:24?27(旧P.697))。

・律法の限界

 決してヨシヤ王のしたことは間違った事ではありませんでした。罪を悔い改め、神の律法に記されている事を、国を挙げて全力で理想の形に回復しようとしたのです。しかし、人の力と意思で神様の基準に達する事、義とされる事は不可能でした。ゼパニヤは一見、問題のないヨシヤ王の時代の南ユダの信仰のほころびを主にあって見つけ、指摘し、裁きの預言を行ったのです(ゼパニヤ1:4?6、12(旧P.1602))。律法は私たちに自分の罪深さを知るための聖なる基準とはなりますが、神の前に義とされるための決定打にはならないのです。

〇神は救いの勇士となられた

 ゼパニヤの預言は、律法を守り行うだけでは裁きを免れる事のない現実を告げただけではありませんでした。最後は神様ご自身による救いがもたらされる預言と希望が語られています。
 そう、救い主なる神を信じる信仰を持つ者たちが起こされる事が語られ(ゼパニヤ3:12)、喜び歌え!と声高々に命じられます。
 そこには、神様ご自身が私たちのただ中に来られ、救いの勇士としてご臨在くださると言うのです(ゼパニヤ3:14?17)。
 まさしく、これは、私たちの主イエス・キリストにあって成就されました。神様は私たちが神様の基準をクリアする事が出来ない事をご存じで、あえて、律法を与えられました。それは、自分たちの力を頼りとするのではなく、神様こそが私たちの力であり、救いである事を知るためだったのです。イエス・キリストが十字架の上で、罪の罰を一身に背負って下さり、その死によって清算くださった事を信じる信仰こそが、本当の命への唯一の道なのです。

10.祈祷・・一  同
11.献金260 わが胸に響く歌あり(救いの喜び)・・一  同
12.感謝祈祷 ・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.報告・・・・・・司会者

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第25主日礼拝式順序 2021年6月20日 午前10:30?

1.黙祷・・・一 同
2.賛美236 あだに世をば過ごし(救い) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美467 世の終わりのラッパ(再臨)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「信仰による生き方」
聖句 ハバクク2:1?4

講壇 「信仰による生き方」  ハバクク2:1?4(旧P.1598)

『見よ。彼の心はうぬぼれていて直ぐでない。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。』ハバクク2章4節

 ハバククは南ユダに遣わされた預言者でした。彼についての詳しい事は聖書には書かれてありませんが、カルデア人(バビロン)による侵攻の預言を受け取っている事から、ヨシヤ王からバビロン捕囚までを生きた預言者であったと思われます。

〇ハバククの疑問

 ヨシヤ王は南ユダきっての名君であり、主の律法を守り行う事を回復させた王でした。しかし、ヨシヤはアッシリアの属国となっていたエジプトが自国を通る事を赦さず、戦いを挑み戦死してしまいます(第二列王記23:29(旧P.698))。ここから、南ユダは罪に罪を重ねてゆきます。
 ヨシヤの子エホアハズが王に即位しますが、主の前に悪を行い、3か月でエジプトに連行されてしまいます(第二列王記23:31?34)。そして、エジプトの思い通りならせるために、エホヤキムがエジプトによって即位させられます。エホヤキムは親エジプトの政策をとり、その後、台頭してきたバビロンの侵攻を許し、バビロンに仕えるようになりました。
 エホアハズ(3か月)、エホヤキム(11年)とヨシヤの後、南ユダは主の目に悪を行い、道徳的にも腐敗していきました。
 ハバククは南ユダの現状を神様に対して「暴虐だ」と訴えました。南ユダの生き様が「暴虐」そのものだったからです。
 ハバククの疑問はなぜ、悪が放置されるのか?というものでした。
 ハバククは心からの叫びを主にぶつけたのです(ハバクク1:1?4)。

〇主の方法(バビロンを用いて)

 主は、ハバククに語られました。
「見よ、わたしはカルデア人を起こす。あの強暴で俊敏な国民だ。彼らは地を広く行き巡り、自分のものでない領土を占領する。それは凄惨そのもの。彼らはさばきと宣告を自ら下す。」(ハバクク1:6?7)
 主の方法は南ユダを裁くために、南ユダよりも凶悪なバビロンを用いるという事でした。ですから、「それを、告げられても信じない」と主は言われました。
 人間は時に神様の御心を知的に理解する事が難しい事があります。理不尽であるように感じる事があります。

〇ハバククの応答

 ハバククは主の方法を聞いた時に理解する事は出来ませんでした。しかし、だからと言って主から離れたり、自分の使命から逃げ出したりしなかったのです。彼は、物見やぐらに立って、主が更に何を語られるかを見続け、聞き続ける事を選択します(ハバクク2:1)そして、どのように御言葉に応答するかを決めようとしたのです(ハバクク2:1)。

〇信頼と信仰

 主はハバククにみことばを持って語られました。しかし、具体的な説明ではありませんでした。
 一つは、神の裁きと救いは必ず成就するので信頼して「待つ」こと。そして、もう一つは、自分にうぬぼれて(自己中心的に)生きるのでなく、主を信じる信仰によって生きる事です(ハバクク2:3?4、へブル10:35?39(新P.451))。
 信仰による歩みは、今もなお、私たちの足を強くし、どのような苦難の山をも超える事が出来る強さを主が与えてくださるのです(ハバクク3:16?19)。

10.祈祷・・一  同
11.献金441 望みは失せ(試練)・・一  同
12.感謝祈祷 ・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.報告・・・・・・司会者

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第24主日礼拝式順序 2021年6月13日 午前10:30?

1.黙祷・・・一 同
2.賛美358 神なく望みなく(確信) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美367 イェスよ この身を(きよめ)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「神の裁きと希望の明日」
聖句 ナホム1:1?7

講壇 「神の裁きと希望の明日」  ナホム1:1?7(旧P.1592)

『主はねたんで復讐する神。主は復讐し、憤る方。主はご自分に逆らう者に復讐し、敵に対して怒る方。主は怒るのに遅く、力強い方。決して罰せずにおかれることはない。』ナホム1章2?3節

 ナホム書は預言者ナホムによって書き記された書です。時の大国であるアッシリアの首都ニネベに対して主より裁きが宣言され、語ったのでした。そして、その預言どおりにニネベは紀元前612年に、バビロンとメディアの連合軍に陥落し、その治世は終わりを迎えたのでした。

〇一度は悔い改めたニネベ

 ナホムの100年以上前に預言者ヨナがニネベに遣わされました。やはり、その時も、アッシリアの積み上げた罪によって神より裁きがもたらされ、40日後にニネベは滅びると言う預言でした(ヨナ3:4(旧P.1579))。しかし、その時、預言を聞いたニネベの人々は、王を含む、全ての人が悔い改めて神の赦しを頂いたのでした(ヨナ3:10)。
 神様はニネベが憎くて滅ぼそうとしておられるわけではなかったのです。むしろ、神様に立ち返るならば、大きな恵みによって赦しを与えたいと心から願っておられた事をヨナに伝えています(ヨナ4:11)。

〇悔い改めという鍵が必要

 ヨナ書における恵みと赦しは無条件に与えられたものではありませんでした。
 神様は正義と校正と秩序の神です。その聖さは絶対であられます。
無秩序や不正、悪を放置されるお方ではありません。
 それと同時に神の愛のご性質のゆえに、「怒るのに遅く」(3節)「慈しみ深いお方」「ご自分に身を避ける者を知り、苦難の日には砦となってくださるお方」(7節)です。
 神様の前にへりくだり、悔い改めてくる者の、砕かれた魂をないがしろにはされません(詩篇51:17(旧P.986))。
 しかし、悔い改めず、その心が頑ななまま神を侮る者には容赦なく、神の裁きが下されるのです。
 もしかすると、ニネベは一度赦された恵みを逆手にとって、今回も裁きは下されず、預言は成就しないと高を括っていたのかもしれません。

〇慰めの視点での裁き

 ナホム書は、アッシリアそして、その首都ニネベに対する裁きの預言ではありますが、終末論的な、悪に対する神の最終的な裁きの予表でもあるのです。それは、信仰者にとっての「慰め」でもあるのです。
 主はねたんで復讐する神(1節)、決して罰せずにおかれることはない(3節)と記されていますが、それは、「敵」に対してです。この世の理不尽、不正、貧困、戦乱、全ては罪から派生しているものであり、その中心には悪の根源である敵なる悪魔が控えているのです。
 主は再び地上に再臨され、その時、猛威を振るっている、偽キリスト、偽預言者とそれに従う人々を火の池に投げ込まれます(黙示録19:11?21(新P.514))。
 そして千年王国の成就の後、悪魔も最終的に火の池へと投げ込まれるのでした(黙示録20:7?10)。
 ナホムとは「慰める者」という意味があります。神の神聖なる裁きは、罪に汚された世界を贖い、愛と正義の神が義と公正をもって統べ治められる神の国の完成へ直結しているのです。
 私たちはその素晴らしい栄光の明日を心から待ち望む者へと召されたのです。

10.祈祷・・一  同
11.献金463 喜びもて(再臨)・・一  同
12.感謝祈祷 ・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.報告・・・・・・司会者

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第23主日礼拝式順序 2021年6月6日 午前10:30?

1.黙祷・・・一 同
2.賛美263 罪 咎を赦され 神の子とせられ(救いの喜び) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美381 朝日の光は  (きよめ)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「神があなたに求めておられる事」
聖句 ミカ6:1?8

講壇 「神があなたに求めておられる事」  ミカ6:1?8(旧P.1587)

『主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか、主があなたに何を求めておられるのかを。それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。』ミカ6章8節

 預言者ミカはユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に活躍しました。彼はモレシェテ・ガテ(ミカ1:1)の出身でエルサレムより南西にある小さな町で生まれ育ったようです。イザヤと同時期の預言者で、預言の対象はユダではありましたが、北イスラエルの都サマリアの滅亡の預言もしていたのです。南ユダも、アハズの時代に偶像礼拝が持ち込まれ、世俗的な不正や、利己主義の思想が広がっていくような時代の流れの中にあったのです(ミカ6:10?12)。

〇主の訴え

 ミカ6章では神様ご自身がミカを通してユダの民に訴えています。
 イスラエルの歴史を見ても、神様の落ち度は全くありません。それどころか、何度も失敗し、不信仰に陥るイスラエルをそれでも愛し、導き続けるお方であったのです。
 まず、主は、エジプトで奴隷とされていたイスラエルの叫びを聞き、モーセを遣わし、数々の奇跡をおこし、力ある救いの御手でイスラエルをエジプトから救い出されたのです。
 そして、どのような時にも、主はイスラエルを呪うどころか祝福を与え続けてくださったのです。

 「わたしの民よ、思い起こせ。モアブの王バラクが何を企んだか。ベオルの子バラムが彼に何と答えたか。シティムからギルガルまでに何があったか。それは、あなたが主の正しいわざを知るためであった。」(ミカ6:5)
 荒野を40年間旅していた際に、モアブの地において、モアブ人の王バラクはイスラエルを恐れ、同族の占い師バラムにイスラエルを呪うために来て欲しいと懇願します。そもそも、モアブ人はアブラハムの甥ロトの子孫であったのですが、敵対関係となっています。しかし、真の神は知っており信仰のありかたは間違っていましたが、神を信じていたのです。なので、真の神を信じるイスラエルを呪って大丈夫かは、神様にお伺いをたてたのです。すると、神様はバラムにことごとく、呪ってはならない、祝福するようにとバラムに命じたのです。中途半端な信仰者であり占い師であったバラムはあわよくば、占い料をもらう事が出来るので、色々な角度からイスラエルが非難され、呪っても良いと言われる部分をバラクと共に探ったのですが、神様は、絶対に呪うな祝福せよと命じ続けたのです(民数記22?24章(旧P.279))。
 これは、神様が真実なまでに、イスラエルを愛し、恵みによって誠実を尽くし続けられた事をあらわしています。

〇主が求められる事

 ミカはこの素晴らしい神様の前に、自分たちはどのように進み出て、何をするべきかを自問自答しながら民に預言しています。
 律法の規定にあるような一歳の子牛、幾千の雄羊、幾万の油、背きの為に長子を、そしてたましいの罪の為に胎の実を献げるべきかと。
 すると主は告げられました。
「人よ、何が良いことなのか、主があなたに何を求めておられるのかを。それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。」(ミカ6:8)
 神様が求めておられるのは、公正と誠実です。それは、神を愛する愛と関係から与えられるものです。モアブ人であったが主に豊かに用いられた女性がいます。それはルツです。ルツは義母ナオミとナオミが信じる神様を愛し、神様と共に歩むことを決意し従ったのです。主はルツを豊かに祝福されました。

10.祈祷・・一  同
11.献金355 主と共に歩む (確信)・・一  同
12.感謝祈祷 ・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.報告・・・・・・司会者

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第22主日礼拝式順序 2021年5月30日 午前10:30?

1.黙祷・・・一 同
2.賛美266 罪 咎を赦され (救いの喜び) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美147 起きよ夜は明けぬ  (再臨)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「愛を知って欲しい」
聖句 ヨナ4:1?11(旧P.1579)/ ルカ15:25?32(新P.150)

講壇 「愛を知って欲しい」  ヨナ4:1?11/ ルカ15:25?32

『主は言われた。「あなたは、自分で労さず、育てもせず、一夜で生えて一夜で滅びたこの唐胡麻を惜しんでいる。ましてわたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。そこには、右も左も分からない十二万人以上の人間と、数多くの家畜がいるではないか。」』ヨナ4章10?11節

 ヨナはヤロブアム2世の時代に北イスラエルへ遣わされた預言者でした(第二列王記14:23?25(旧P.678))。しかし、神様はヨナに対して後に北イスラエルが滅ぼされる事となるアッシリアの主都であるニネベに行って預言せよと命じられたのです。
 ヨナは、神様の命令に従わず、逃亡します。なぜかと言うと、万が一、自分が預言した事で、ニネベの民が悔い改めたならば、憐みに富んでおられる神様は赦して、下そうとしておられる災いを思い直されるお方であるとヨナは知っていたからです(ヨナ4:2)。

〇神の想いより

 ヨナの悪い予感は的中し、ニネベに住む全ての者が、塵をかぶって悔い改めたのです。そして、神様は予想通りに、ニネベに住む者たちを赦されたのでした(ヨナ3章)。ヨナは、それ見たことかと不機嫌になります。神様の恵みと憐みが自分の理解を超えて大きく、受け入れる事が出来なかったからです。
 イエス様は公生涯に於いて、目を向け、愛を注がれたのは、弱く、罪深い者たちでした。そのような様子を祭司長や律法学者と言われるユダヤ教の指導者たちは良としませんでした。イエス様に対して疑念を抱き、誹謗中傷を繰り返し、非難したのでした。それに対してイエス様はこう仰いました。

「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。」(ルカ5:31?32(新P.119)

「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」(ルカ19:10)

 ヨナや新約の時代の指導者達との共通点があります。それは、神の想いよりも、自分の想いを優先し、神に成り代わって、裁いている人間の姿です。
 そして、変わる事のない、父なる神と子なるイエス・キリストの無限の愛と恵みです。

〇それでも伝える神

 不機嫌になり、怒り心頭になるヨナに対して、又、文句を言う指導者達へ、神様は身をもって体験する事と、たとえ話を通して、それでも伝えられたのです。
 ヨナには一晩で奇跡的に生え、そして、たった一日で枯れた唐胡麻の木を通して、自分で労苦もしないで生えた唐胡麻を惜しむならば、罪深い者であっても、神の作品として造られたニネベに住む12万もの人々を神様が惜しまずにいられようかという事を語られました(ヨナ4:10)。
 指導者達には、三つの例え話を通して、失われた者を愛し、何とかして救いたいと願っている事と、そして、その大きな愛を見た時に、嫉妬と憎悪をもって対応する人間の姿を放蕩息子の兄を通して自らの姿に気付いて欲しいと語られています(ルカ15:31?32)。

〇愛を知って欲しい

 主は知って欲しいのです。神があなたを愛されている事を。そして、あなたの隣人を愛しておられる事を。まず、ご自分が全てを捨てて十字架の上で、その愛を全うされたがゆえに、私たちも互いに愛し合う事が出来るようになる恵みを(第一ヨハネ4:9?12(新P.483))。

10.祈祷・・一  同
11.献金214 イエスより流るる (神の愛)・・一  同
12.感謝祈祷 ・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.報告・・・・・・司会者

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第21主日ペンテコステ記念礼拝式順序 2021年5月23日 午前10:30?

1.黙祷・・・一 同
2.賛美132 ペンテコステの日に (聖霊) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美411 御恵みの高嶺に  (聖霊)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「賜物としての聖霊」
聖句 ヨエル2:12?13、28?32/ 使徒2:37?41

講壇 「賜物としての聖霊」  ヨエル2:12?13(旧P.1554)、28?32/ 使徒2:37(新P.236)?41

「その後、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、老人は夢を見、青年は幻を見る。その日わたしは、男奴隷にも女奴隷にも、わたしの霊を注ぐ。」ヨエル2章28?29節 (旧P.1556)

 ヨエルはペトエルの子であること以外に情報が少ない預言者ですが、エルサレムやユダに対する預言を行っている事や、アモスがヨエル書を引用していると考えられる箇所がある(アモス1:2(旧P.1559)、アモス9:13)のでアモスより古い時代(ヨアシュ王の時代と考えられている)の預言者であると思われます。
 今日はペンテコステを記念する礼拝ですが、ペンテコステの日に、ペテロによってヨエル書2章28?32節が引用された事は有名です。そこで、ヨエル書とペンテコステの日に3千人が救われたペテロの説教から、ペンテコステの恵みを聖書から学びたいと思います。

1. 悔い改めて神に立ち返る

 ヨエル書の預言の前半は、悔い改めに導くための裁きが記されています。ヨエルが活動した時代は比較的、善王が治めていた時であったが、それでも、問題はあり、今後の霊的堕落を示唆するように、一つは「イナゴとバッタ」による飢饉を通して、二つ目は、隣国の脅威を通して警告を与えられ、神に立ち返る為に悔い改めるように預言をヨエルに与えたのです。
「衣ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、【主】に立ち返れ。主は情け深く、あわれみ深い。怒るのに遅く、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださる。」(ヨエル2:13)
 ペテロが説教の中で、強調したポイントの一つが、悔い改めとバプテスマです。知らずとはいえ、ダビデも主と告白し、神が与えてくださったキリスト(救い主)を、十字架につけた事を「悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい」(使徒2:38(新P.236))と勧めています。
 悔い改めとバプテスマ(神に立ち返る事)は信仰に於ける転機であり、とても重要な、神様の恵みへの応答なのです。

2. 賜物としての聖霊を受ける

 聖霊とは聖い神の霊であり、イエス・キリストの霊です。父なる神と子なるイエス・キリスト、そして聖霊なる神はこの世界の創世の前より存在しておられる三つにして唯一の神です。そして、みこころにかなった者にのみ、聖霊の油注ぎがなされ、用いられてきたのです。しかし、ヨエルによってなされた預言は当時のイスラエルの人々も度肝を抜かれるような預言であったことでしょう。それは、「すべての人」にわたしの霊を注ぐと約束されたからです。もちろん、無条件ではありません。文脈上、悔い改め、神に立ち返った者たちに対する恵みの約束です。そして、それが、ペンテコステの日から始まったのです。最初は、3千人の各地に散らされていたユダヤ人です。又、後には、コルネリウスの一件から異邦人も救われ、聖霊を受けたのです(使徒10:44?48(新P.255))。異邦人への救いの働きは、その後、使徒パウロへと引き継がれ、多くの実を結び、二千年の時を超え、現代の私たちにも、信じる者に聖霊は与えられているのです。

〇御霊によって進もう

「神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。」(ローマ8:14(新P.309)
「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。」(ガラテヤ5:16(新P.382)
「私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。」(ガラテヤ5:25)

10.祈祷・・一  同
11.献金419 起こし給え (リバイバル)・・一  同
12.感謝祈祷 ・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.報告・・・・・・司会者

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第20主日親子礼拝式順序 2021年5月16日 午前10:30?

1.黙祷・・・一 同
2.賛美225 罪の汚れを (神の愛) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美356 目には見えねども (確信)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「不信仰の流れへの勝利」
聖句 オバデヤ1?21/ エペソ6:12

講壇 「不信仰の流れへの勝利」  オバデヤ1?21/ エペソ6:12

「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。」エペソ6章12節

○エドムとは

 オバデヤ書のテーマはエドム人に対する裁きの預言です。まず、エドム人について聖書から見ていきます。
 エドム人はヤコブの双子の兄エサウの子孫を言います(創世記36章)。エサウは一杯のレンズ豆の煮物で長子の権利を売った男で、自身も全身赤い(アドム)毛衣(セアル)を着ているような体毛があったのと(創世記25:25)、一時的な食欲に負けて赤い(アドム)煮物と長子の権利を天秤にかけ、欲に負けたことで、もじってエドムと呼ばれるようになったのです(創世記25:30)。

〇反キリストの流れ

 聖書の中には、神を愛し、神の御霊によって生まれ、導かれる者たちと、神に敵対し(ないしは無関心であり)、肉によって生まれ、肉の欲に従って歩む者の流れがあります。
 それは「カインとアベル」であり、「イシュマエルとイサク」であり、「エサウとヤコブ」もそうなのです。憎悪によって弟を殺したカイン。妬みから弟をいじめたイシュマエル。そして、肉の欲に流されるエサウ。この反キリストの肉的な流れがこの世界にはあり、そして、それらは必ず滅ぼされるべきものであることが、型としてオバデヤ書にも記されてあるのです。

〇エドムの罪
1. めっきの信仰

 エサウは自分の欲望に忠実です。当時律法はまだ与えられていませんので、どのように生きるかという指針はありません。なので、エサウは好きなように生きました。見た目が美しい好きになった女性であるヒッタイト人とヒビ人を伴侶に選んで結婚したのです。しかし、その妻たちは肉に生きる者なので父イサクと母リベカにとって悩みの種となっていました(創世記27:46、28:8)。
 エサウは弟ヤコブが父から祝福を得て、リベカの親類から伴侶を得るために送り出されたのと、自分の妻たちの事を良く思っていない両親の気持ちを知り、あせって、アブラハムの子であるイシュマエルの娘を妻に迎えたのでした。神を信じて生きていく事を第一として祈りつつ妻を選んだのではなく、両親が認めてくれて、祝福と財産を分けてくれそうな人を打算的に選んだのです。それは、信仰に見せかけためっきの信仰だったのです。

2. 不信仰継承

 ヒッタイト人である妻アダはエサウにエリファズを生みます。そして、エリファズは正妻の他に現地のホリ人を側女とし、その側女ティムナによってアマレクが誕生しました。そう、あの悪名高いアマレク人の始祖です。イスラエルがエジプトを脱出した後、荒野で初めて戦ったのがアマレク人です(出エジプト17:8、申命記25:17?19))。
 南ユダがバビロンに攻め込まれ絶体絶命となっている最中、エドム人たちは「破壊せよ、破壊せよ、その基までも」と叫んだのです(詩篇137:7)。
 イエス様が誕生された時、自分の王位が危ぶまれると判断し、ベツレヘム一帯の男の子を皆殺しにしたヘロデ大王がいますが、彼はイドマヤ人(エドム人のギリシャ語よみ)です。
 肉による歩みをする反キリストの霊の流れである不信仰も残念ながら継承されるのです。

〇不信仰との決別

 イスラエルも不信仰に陥ったがゆえに捕囚となりました。しかし、主の真実な愛と恵みによって、もう一度、悔い改め、信仰に立ち返る事が出来るのです。そして、そこにこそ希望があるのです。

10.祈祷・・一  同
11.献金283 主よわがそばをば (信仰)・・一  同
12.感謝祈祷 ・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.報告・・・・・・司会者

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第19主日親子礼拝式順序 2021年5月9日 午前10:30?

1.黙祷・・・一 同
2.賛美104 十字架の上に (受難) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美466 来り給う主を (再臨)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「イエス・キリストの血こそ」
聖句 出エジプト12:21?24/ 第一ヨハネ1:7

講壇 「イエス・キリストの血こそ」  出エジプト12:21?24/ 第一ヨハネ1:7

「もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」第一ヨハネ1章7節

 イスラエルがエジプトに住むようになって430年が経った年、神様はアブラハムに約束していた通りに(創世記15:13?14)奴隷となって苦しめられていたアブラハムの子孫であるイスラエルの民を救い出すために、エジプトを裁かれました(出エジプト12:29)。

○裁きが過ぎ越す

 しかし、イスラエルの民の中には一人の犠牲者も出ませんでした。なぜでしょうか。それは、神様が仰った事を信じて、そのことば通りに準備し行っていたからです。

「さあ、羊をあなたがたの家族ごとに用意しなさい。そして過越のいけにえを屠りなさい。ヒソプの束を一つ取って、鉢の中の血に浸し、その鉢の中の血を鴨居と二本の門柱に塗り付けなさい。あなたがたは、朝までだれ一人、自分の家の戸口から出てはならない。」(21?22節)

 傷のない一歳の雄の子羊が屠られ、その血がイスラエルの民の住む家の鴨居に塗られたのです。神の霊がエジプトを裁くために、国中を行き巡られました。そして、子羊の血が塗られていない家の長子は、王族、奴隷、家畜に至るまで死に絶えたのです。

〇血を流すことがなければ(へブル9:22)

 血は命の象徴です。ゆえに、イスラエルでは肉を食べる事が許されても、血を食べる事は許されませんでした。そして、神様にささげられた動物の血をもって祭壇をきよめ、神の前に宥めをおこなったのです(レビ17:10?14)。
 人の罪が赦される為には、いのちの代価である『血』が必要とされるのです。そして、神様の救いの本質にも『血』による贖いが中心となっています。それは、創世記の時点を見ても貫かれている真理です。
1.創世記3:15
2.創世記3:21
3.創世記4:4
4.創世記8:20
5.創世記22:13

〇救いの赤いひも

 エジプトを脱出したイスラエルは40年間、荒野を旅した後に、約束の地へと導かれたのですが、その際、偵察として2名の者が最初の町エリコに遣わされました。しかし、ばれてしまい絶体絶命の状況となったのです。しかし、身を寄せた遊女ラハブはイスラエルの神を畏れ、偵察隊をかばって逃がしてあげたのです。そして、エリコがイスラエルによって攻略された時、偵察隊とラハブの間に約束が交わされていたがゆえに、ラハブとその家族、及び彼女の家にいた者たちは助かったのです。その時の約束のしるしは「赤いひも」でした(ヨシュア2:18?21)。

〇イエス・キリストの血こそ

 エジプト地を脱出する際、最後の裁きが下された時、イスラエルを救った「子羊の血」も、ラハブの窓にくくられた「赤いひも」も、イエス・キリストの十字架で流された神の子のいのちを指示しています。イエス・キリストは罪の赦しの為に、犠牲となり、宥めをなされました。イスラエルの神である、唯一の神を信じ、そのひとり子の救いを受け入れる者は救われるのです。

10.祈祷・・一  同
11.献金45 十字架の血に (洗礼)・・一  同
12.感謝祈祷 ・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.小学生祝福式・・寺東真也師
16.報告・・・・・・司会者

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第18主日礼拝式順序 2021年5月2日 午前10:30?

1.黙祷・・・一 同
2.賛美21 輝く日を仰ぐとき (賛美) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一  同
6.賛美471 われ聞けり かなたには (天国)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「けた違いの恵み」
聖句 アモス9:8?15

講壇 「けた違いの恵み」  アモス9:8?15

「その日、わたしは倒れているダビデの仮庵を起こす。その破れを繕い、その廃墟を起こし、昔の日のようにこれを建て直す。」アモス9章11節

 アモスはヨアシュの子、ヤロブアム2世の時代、北イスラエルに遣わされた預言者でした(1:1)。丁度、ホセアと同時代です。
 彼は、南ユダのテコア出身で最初から預言者を務めたわけではなく、小さな村で羊飼いとイチジク桑の木を栽培して生計を立てていた人物でした。

○当時の北イスラエルの状況

 当時の北イスラエルの状況は、南北に国が分断された後で一番栄えていた時期でもありました(3:15、6:4?7)。それと共に、信仰的、道徳的にも、下降していた時代で、貧富の差は広がり、富める者が貧しき者から搾取するような事がまかり通っていました(4:1、5:11?12)。神を礼拝し、献げものを献げる事はしていましたが、心の関心は金儲けであり詐欺行為は日常的でした(8:4?6)。それゆえ、その民の礼拝を主は喜ばれず叱責しておられます(5:21?24)。
 このような状況の中で、アモスは叫び、主の裁きの預言をしたのです。アモス書の九割九分は裁きの宣告です。

○悔い改めを望む主(第二ペテロ3:9)

 罪に罪を重ね、しかも、自分たちの事は棚に上げ、神の選びの民という座に胡坐をかいているのです。そのような中にあって正義の神はその罪を見過ごすことはできないお方です。罪に対する裁きは必ず下されなければならないのですが、民が滅びる事を願って裁きを行うのではありません。出来るならば悔い改めて主に立ち返って欲しいと切に願っておられるお方なのです(5:4?6、14?15)。実際、アモスも同胞の滅びは願っているわけではありませんでした。彼らの為に執成し、そして、その執成しが聞かれて禍を何度か主は思い直されたのですが、それでも、最終的にはアモスも執成しきれないほどにイスラエルは腐敗していたと言うのです(7:1?8)。

〇主の憐み―根絶やしにしない―

 アモス書の最後は希望と回復の預言で締めくくられています。主の裁きは避けられず、北イスラエルはアッシリアに略奪され蹂躙されます。これは歴史的な事実です。今も、連れ去られたイスラエルの10部族の行方は分かりません。しかし、主の憐みと恵みのゆえに「根絶やしにはしない」と主は仰られます。ふるいにかけられるが小石は残されるのです(9:8?9)。

〇主の約束とイエス・キリストの救い

 主は倒れたダビデの仮庵を起こすと言われます。イスラエルは主の恵みと憐みによって、主の前に立ち返る日が備えられているのです。その為にも、イエス・キリストは十字架に架かられ私たちの為、又、イスラエルの為に贖いの救いを成し遂げてくださいました。十字架刑のど真ん中、真昼に太陽は隠れ地は暗くなりました。喜びの祭りは喪に服するようになると預言されましたが(8:9?10)、それは、罪ある者に対する裁きが、罪を一身に背負ったイエス・キリストにあって成就されたのです(マルコ15:33)。

〇恵みが追ってくる

 耕す者が刈る者に、ぶどうを踏む者が蒔く者に追いつく。物理的な祝福の表現を持って神様の祝福がイエス・キリストを通して、隅々まで回復される描写が豊かに描かれています。イスラエルの全家が回復される事は主の計画であり、それに先立つ、私たちへの福音への招きは主の憐み以外の何ものでもないのです。

10.祈祷・・一  同
11.献金233 驚くばかりの (救い)・・一  同
12.感謝祈祷 ・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.報告・・・・・・司会者

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第17主日特別礼拝式(大阪聖会)順序 2021年4月25日 午前10:30?

1.黙祷・・・一 同
2.賛美376 如何に汚れたる (きよめ)・・(賛美リードあり)一同起立
3.使徒信条・・一同起立
4.主の祈り・・一同起立
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美149 いつ主は来り給うや (再臨)・・(賛美リードあり)一 同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.特別賛美391 皆献げまつり (献身)・・ 聖歌隊
10.メッセージ・寺東真也師
主題 「荒野に道を、荒れ地に川を」
聖句 イザヤ41:14?16/ 43:16?21

講壇 「荒野に道を、荒れ地に川を」  イザヤ41:14?16/ 43:16?21

「見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。あなたがたは、それを知らないのか。必ず、わたしは荒野に道を、荒れ地に川を設ける。」イザヤ書43章19節

「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない。」(イザヤ40:31)

 コロナ禍という暗い谷間の谷底で信仰者に必要なのはただ主なる神を希望とし、待ち望む事です。主は、真っ暗闇の中に差し込むまばゆい光のように、この時代においてもご自分の栄光を輝かせることを計画しておられます。

○神が戦われる(イザヤ43:16?17)

 主は待ち望む者を失望させる事のないお方です(ローマ10:11)。
 昔、エジプトからイスラエルの民は主の奇しい御業によって、奴隷から解放されました。しかし、目の前には紅海、後ろにはエジプトの軍隊という絶体絶命の危機に陥りましたが、主は海のただ中に道を設けて、イスラエルの民はその道を通って救われたのです。そして、敵であるエジプト軍は同じようにその道を通ろうとしましたが、主が戦われたので、水は元に戻り、エジプト軍は一瞬のうちに壊滅したのでした。
 主は私たちの先立ちとなり、しんがりとなって戦ってくださるお方です。

○さらなる新しい事が(イザヤ43:18?21)

 素晴らしい救いの歴史であり、決して忘れてはならない事実です。しかし、ここでは先の事を心に留めず、昔の事に目を向けるなと主は命じておられます。なぜでしょうか。当時の南ユダの人々は。北イスラエルをも滅ぼしたアッシリアが攻め込んできた際、主が奇跡を起こして守られた経験に甘んじ、自らの罪を悔い改めようとはせず、楽観的に物事を捉えていました。そこで、主はイスラエルの為に新しい計画を立てられました。それこそがバビロン捕囚という困難と苦痛を伴う計画だったのです。それは、荒野であり、荒れ地の経験です。しかし、そのただ中に主の道を設け、恵みの水で溢れる川が流れ出る経験となるというのです。
 苦しみの中にも主は共にいてくださり、私たちを整え、用いたいと願っておられます。ジャッカルやダチョウは忌み嫌われる動物の代表格ですが、そのようなものでも主をあがめる為に、神の民は主の誉れを宣べ伝える者とならせて頂けるのです。

〇虫けらから鋭い打穀機へ(イザヤ41:14?16)

 荒野には新しい道が、荒れ地には新しい川が流れるようにされるのですが、その主人公として、神の民が主は選んでおられるのです。北イスラエルも南ユダの人々も当時の信仰は頼りないばかりか、問題が山積みです。イザヤもイスラエルの人々を「虫けらのヤコブ」と呼んでいるのはその為です。しかし、神様の計画は主の恵みと憐みによって、イエス・キリストの十字架の恵みと復活の力によって虫けらが、『鋭く新しい両刃の打穀機』とすると預言されます。
 現代を生きる私たちの前にもこの素晴らしい恵みは用意されています。神のことばを人々に届ける、キリストの証人として召されているのです。この召しに応えさせていただきましょう。

11.祈祷・・一 同
12.献金371 その血もてわが身を (きよめ)・・(賛美リードあり)一 同
13.感謝祈祷 ・指 名
14.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
15.祝祷・・・・・・寺東真也師
16.報告・・・・・・司会者

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大阪聖会 プログラム 2021年4月24日 午後 2 :0 0?

賛美3 64 わが主イエスよ ひたすら (きよめ)・・(賛美リードあり)
祈祷
賛美46 5 いつかは 知らねど (再臨)・・(賛美リードあり)
三つの祈り(再臨、イスラエル、日本)
聖書・・・・哀歌 3:19?24
説教 「 谷底の希望 」寺東真也師
祈祷
献金4 41 望みは失せ (試練)・・(賛美リードあり)
頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
祝祷
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第16主日礼拝式順序 2021年4月18日 午前10:30?

1.黙祷・・・・一 同
2.賛美233 驚くばかりの (救い) ・・(賛美リードあり)一同起立
3.使徒信条・・一同起立
4.主の祈り・・一同起立
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美462 聖書も時の徴も (再臨)・・(賛美リードあり)一 同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・・司 会 者
9.メッセージ・・寺東真也師
主題 「それでも愛する神」
聖句 ホセア1:1?2:1/ エレミヤ31:1?6

講壇 「それでも愛する神」  ホセア1:1?2:1/ エレミヤ31:1?6

「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。」エレミヤ31章3節

 ホセアはヨアシュの子、ヤロブアム2世の時代、北イスラエルに遣わされた預言者でした(1節)。
 彼は神様から特異な任を命じられます。それは、「姦淫の女とその子らを引き取れ」というものです。
 昔、信仰の道を踏み外したけれども、悔い改めた女性というものではありません。現在進行形で、罪を犯している女性を娶れというのです。

○ゴメルは北イスラエルの象徴

 この姦淫の女性は北イスラエルの象徴でした。神様から愛された民であるにもかかわらず、信仰を捨て、偶像礼拝をし、自分勝手で罪に罪を重ねている状況が重なるからです。神様は「あえて」姦淫の女であるゴメルをホセアに娶らせ、又、結婚した後も裏切り続けるゴメルに対して、非を責めながらも、愛し続ける事で、神様の真実な愛をホセアが追体験するようにされたのです。

○子供達の名とその真意

 ホセアとゴメルの間には3人の子どもが与えられました。その名前には、北イスラエルを責め裁く強い思いが込められたものだったのです。

1. 長男イズレエル(4節)

 長男はイズレエルと名づけられました。それは北イスラエルの王の宮殿があった場所です。しかし、そこはいわく付きの場所でもありました。
 悪王として代表的なアハブが王であった時に、宮殿横のブドウ畑の持ち主であるナボテの領土を汚い手を使って貶め、死刑にして、自分の物としたのです。その後ろには、最悪の王女であるイゼベルが糸を引いていたのです。この時、預言者エリヤは主に遣わされ、アハブとイゼベルを糾弾し、アハブは一時的に悔い改めましたが、イゼベルは悔い改めませんでした。それがゆえに、ナボテの血がしみ込んだこの地にイゼベルは血を流して死ぬ事となるとエリヤは預言したのでした(第一列王記21:23?25)。そして、その預言を成就したのは、ヤロブアム2世の曾祖父であるエフーだったのです。アハブの息子であるヨラムを倒した後、王宮にいたイゼベルはエフーに追い詰められ、彼女の宦官に裏切られ、窓から突き落とされ、絶命します。そして、その死体のほとんどが犬に食い散らかされたのでした(第二列王記9:30?37)。
 なんと皮肉な事でしょうか。エフーが成就としての勝利を勝ち取った場所が今度は、そのひ孫が同じ不信仰の罪に陥っているがゆえに、裁かれ、その王国が絶たれるという意味でイズレエルなのです。

2. 長女ロ・ルハマ(6節)

 ロ・ルハマとは「憐れむことはない」という意味です。北イスラエルは憐れまれず、南ユダのみを憐れむというのです。

3. 次男ロ・アンミ(9節)

 ロ・アンミとは「わたしの民ではない」という意味です。もう神の民ではないと。

○回復の為に

 イズレエルとは「種を蒔く」という意味がある名前です。ゴメルがそして、北イスラエルが行っている罪は容易に赦されるものではありません。しかし、このホセア書に流れる本当のメッセージは1:10?2:1に込められているのです。神の愛の種が蒔かれた所から必ず命が生じ、回復の道が開かれると言うのです。どれほど罪深いものであっても、イエス・キリストの十字架の愛は信じる者に命と希望を与えるのです。

10.祈祷・・・・一 同
11.献金218 汚れと辱との (神の愛)・・(賛美リードあり)一 同
12.感謝祈祷 ・・指 名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.中高生祝福式・・寺東真也師
16.報告・・・・・・司会者

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第15主日礼拝式順序 2021年4月11日 午前10:30?

1.黙祷・・・一 同
2.賛美244 信ずる者は何びとも (救い) ・・一同起立
3.使徒信条・・一同起立
4.主の祈り・・一同起立
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美250 世の波風いかに荒れて (平安)・・一 同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「試練の中でも」
聖句 ダニエル1:1?20/ 第一ペテロ1:7

講壇 「試練の中でも」  ダニエル1:1?20/ 第一ペテロ1:7

「試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。」第一ペテロ1:7

 ダニエルとハナンヤ、ミシャエル、アザルヤの4人はユダ王国エホヤキム王の治世の3年目に、ネブカデネザル王率いるバビロン軍に捕囚としバビロンに連れてこられました(ダニエル1:1?3)。

○燃えるような試練

 信仰者は時に燃えるような試練を通ります。しかし、その試練を通して、その信仰は精錬され純粋で輝かしいものにされるのです。

1.誘惑の中で(ダニエル1章)

 ダニエル、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤの四人は、神様の御計画の中に、王の宮廷に仕える者として教育される事となったのです(ダニエル1:4)。捕囚の中ではありましたが、4人はエリートコースを歩むこととなって、その食事も高待遇のご馳走がならびました。しかし、4人は神に仕えるために、王と同じ食事(おそらく偶像に捧げられたもの)によって身を穢さないようにと野菜のみの食事を望み、しかもご馳走を食べている同年代の青年達よりも健康で居続けたのです。

2.迫害の中で
・燃えるカマドへ(ダニエル3章)

 ある日、ネブカデネザル王は高さ30m、幅3mの巨大な金の像を作り、様々な楽器の合図と共にすべての者はこの像を拝まなければならないと宣言しました。そして、従わない者は燃える炉の中に生きたまま投げ込まれるという罰も付け加えたのです。
 しかし、カルデヤ人達は拝もうとしないユダヤ人を訴えたので、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤは王に呼び出しを食らいます。カンカンに怒りを燃やす王を前に、三人は、信仰を打ちだし、燃える炉に投げ込まれても、神はそこから救い出すことの出来るお方である事、もし、そうでなく死ななければならなかったとしても、決して金の像を拝まない事を告げたのです。
 怒り猛った王は、炉の温度を7倍熱せよと命令します。縛られた3人は炉に投げ込まれ投げ込んだ者はその周りの熱によって焼死します。しかし、3人は炉の中で歩き回り、しかも、もう1人分の影が見えたと言います。
 王は3人に出てくるように告げ、3人の衣服や髪さえも燃えず、火の匂いもしなかったのです。王は業火の中から3人を救い出された真の神を賛美しました。

・獅子の穴へ(ダニエル6章)

 時は流れてメディア人ダリオスが王となった時代、ダニエルは王から寵愛され、3人の大臣の中の一人に抜擢されていました。しかし、残りの二人の大臣は嫉妬にかられ、30日間ダリオス以外に神にも人にも祈願する者は獅子の穴に投げ込まれると言う勅令を出すようにダリオス王をそそのかしたのです。全ては、ダニエルを亡き者にする為であり、ダリオスが気付いた時には、日に三度神様に祈りを献げるダニエルを泣く泣く、獅子の穴へ投げ込んだのでした。
 しかし、神様は御使いを遣わし、獅子の口をふさがれたのでダニエルは傷一つつきませんでした。王は大喜びし、ダニエルを穴から出し、その代わりに、ダニエルを嵌めた者たちを獅子の穴に落としました。

 試練に打ち勝つ秘訣は神様への全き信頼に拠るのです。

10.祈祷・・一 同
11.献金247 神の賜う安けさは (平安)・・一 同
12.感謝祈祷 ・指 名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・寺東真也師
15.報告・・・・司会者

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第14主日イースター礼拝式順序 2021年4月4日 午前10:30?

1.黙祷・・・一 同
2.賛美123 救いの主は (復活) ・・一同起立
3.使徒信条・・一同起立
4.主の祈り・・一同起立
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美127 墓の中に (復活)・・一 同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.うるわしの白百合(讃美歌496番) 特別賛美・・聖 歌 隊
10.メッセージ・寺東真也師
主題 「イエス・キリストの復活」
聖句 ルカ24:36?48

講壇 「イエス・キリストの復活」  ルカ24:36?48

「次のように書いてあります。」
『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』」ルカ24章46?47節

 イエス・キリストは十字架に架かられ、三日目に死から復活されました。

○概念ではなく現実

 私たちの住むこの世界は、神様の作品として最高の評価を受けた世界です(創世記1:31)。しかし、人類が犯した罪(神様に背いた)によって、この世界は呪われ、死が入り込んでしまったのです(創世記3:19)。この罪から来る死の呪いからは誰一人として自力で逃れる事は出来なくなりました(ローマ6:23)。
 しかし、天の父なる神様は、ひとり子であるイエス・キリストを世に遣わし、死からよみがえらせ、死に打ち勝ってくださることによって私たちにも死からの救いを与えてくださったのです(第一コリント15:20?22)。
 イエス・キリストの復活は概念であり、実際に復活したわけではないと言う人がいます。しかし、聖書はイエス・キリストは実際に復活され、弟子たちに現れてくださり、ご自分が生きて新しい肉体をもお持ちである事を証明されたことを語っています(38?43節)。

○預言の成就としての福音

 イエス・キリストは現実に生きておられる事を証明されただけではなく、一番大切な聖書の預言の成就としてであることを弟子たちに語られました。その内容はこうです。
『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』
 この言葉はそのままそっくり旧約聖書にあるわけではありません。キリストの福音の要約であり、旧約聖書には確かにこれらについて預言されているのです。

1. キリストの受難(イザヤ53章)

 一つ目はキリストの受難です。イザヤは救い主の受難を明確にそして真っ直ぐに預言しています。イエス・キリストは私たちの罪と咎の為に刺され、砕かれたのです(イザヤ53:5)。

2. キリストの復活(ヨナ1:17、2:2、10)

 ヨナという預言者を通して、救い主は三日目に死から復活する事を指示しています。これは、イエス・キリストご自身も「ヨナのしるし」と言って触れておられます。(マタイ12:39)

3. 福音の世界的広がり(マタイ12:40?41)

 ヨナが預言をせよと導かれた場所は「ニネベ」でした。その当時の敵国アッシリアの首都です。神を恐れず、罪の限りを尽くしている代表格の国であり都市です。そこにヨナは裁きの預言をするように導かれたのですが、なんと、一時的とはいえ、アッシリアの王様からしもべに至るまで国を挙げて悔い改めたのです。そして、神様は赦し、下そうとしていた禍を思い直されたのです(ヨナ3:10)。ここに、全人類を愛し、悔い改め、立ち返る者に与えようとされておられる福音の神髄が隠されています。

 イエス・キリスト復活によって救いは完成しました。そして、あなたにも救いの御手は伸べられ続けています。

11.祈祷・・一 同
12.献金438 悩む世人のために (宣教)・・一 同
13.感謝祈祷 ・指 名
14.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
15.祝祷・・寺東真也師
16.報告・・・・司会者

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第13主日礼拝式順序 2021年3月28日 午前10:30?

1.黙祷・・・一 同
2.賛美112 カルバリ山の十字架 (受難) ・・一同起立
3.使徒信条・・一同起立
4.主の祈り・・一同起立
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美108 丘に立てる荒削りの (受難)・・一 同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「干からびた骨でも」
聖句 エゼキエル37:1?14

講壇 「主は私に言われた。「これらの骨に預言せよ。『干からびた骨よ、主のことばを聞け。神である主はこれらの骨にこう言う。見よ。わたしがおまえたちに息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。』」  エゼキエル37章4?5節

『その方は私に言われた。「人の子よ、自分の足で立て。わたしがあなたに語る。」・・彼らは反逆の家だから、聞く聞かないに関わりなく、あなたはわたしのことばを彼らに語れ。』(エゼキエル2章1、7節)

 

○干からびた骨

 南ユダはバビロンに蹂躙され、荒廃したのでした。そのような中で、エゼキエルは御霊に導かれて、幻を見ます。その幻は、谷に無数のひどく干からびた骨が転がっている光景でした。これはまさしく、イスラエルの現状を如実に表したものでした。北イスラエルは不信の罪によりアッシリアに滅ぼされ、捕え移されました。その後、どうなったかは現在も分かっていません。南ユダも極少数の者がバビロン捕囚となっている状況です。
 まさしく、イスラエルは万事休す、絶体絶命の状態なのです。
 主はエゼキエルに、問います。
「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるだろうか。」
 普通ならば、100%不可能です。しかし、エゼキエルは含みを持たせて答えました。
「神、主よ、あなたがよくご存じです。」
 私たちは、どこかで、神なる主の力を制限してしまっているのかもしれません。

○神の新創造
・神のことばによって(4?8節)

 主はエゼキエルに神のことばを預言するように命じます(4節)。エゼキエルはその通りに、預言すると、大きな轟きと共に、骨は繋がり、筋が付き、肉が付き、皮膚で覆われて、人間の体が完成しました。神のことばには力があります(へブル4:12)。この世界の全ての物は、神のことばによって創造され、構築されました(創世記1章)。しかし、人間だけは他の被造物と比べ特別でした。

・神の息(霊)によって(9?10節)

 預言によって肉体は完成したのですが、そこに命はありませんでした。そこで、主はエゼキエルに「息」に対して預言するように命じます。すると息が四方から吹いて来て、肉体の中に入り、枯れた骨々は完全に生き返って多くの集団となったのでした。
 人間が創造された時、主なる神は、ご自分の息を吹き込まれました。そうして人間は生きものとなったのでした(創世記2:7)

・新しい命へ(ヨハネ3:3?5)

 息とは霊とも訳すことが出来、神の霊のことです。イエス様は、次のように言っておられます。 「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。」(ヨハネ3:5)。
 人は、みことばによる真実な約束を基として、御霊の働きにより、イエス・キリストを罪によって、カラカラに渇ききった骨のような絶体絶命のものをも新しい命に生まれさせてくださるというのです。これは、神の御業です。

○イスラエル全家の救い(11?14節)

 そして、この救いの醍醐味は、何度も裏切り続けた、イスラエル全家に対するものであることです。主の召命と賜物とは取り消される事がないのです(ローマ11:29)。

10.祈祷・・一 同
11.献金357 何ゆえ御神は (確信)・・一 同
12.感謝祈祷 ・指 名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・寺東真也師
15.報告・・・・司会者

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第12主日礼拝式順序 2021年3月21日 午前10:30?

1.黙祷・・・一 同
2.賛美108 丘に立てる荒削りの (受難) ・・一同起立
3.使徒信条・・一同起立
4.主の祈り・・一同起立
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美437 行きて告げよあまねく (宣教)・・一 同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「立ち上がり、語れ」
聖句 エゼキエル2:1?7

講壇 「立ち上がり、語れ」  エゼキエル2:1?7

『その方は私に言われた。「人の子よ、自分の足で立て。わたしがあなたに語る。」・・彼らは反逆の家だから、聞く聞かないに関わりなく、あなたはわたしのことばを彼らに語れ。』(エゼキエル2章1、7節)

 エホヤキン王はわずか三カ月でバビロンに降伏し、優秀な者たち一万人が第一次バンビロン捕囚として連れ行かれました。そして、5年の歳月が経ちました。捕囚の中にエゼキエルはいました。そのエゼキエルに主はバビロンの地で預言者として召しを与え、用いられました。1章から3章までは、エゼキエルの召命の詳細です。
 バビロン捕囚の中でも、すぐに神の御手が伸べられて、自分たちは帰還できるのではないかという甘い考えの中にいた者たちに、エゼキエルは神様の厳しい裁きの現実を伝えなければなりませんでした。
 状況は大きく違いますが、私たちの置かれている日本の宣教に似通っている部分があるように感じます。語れども、伝えども、救霊の実が結ばれにくい現状。しかし、神様は、立ち上がり(1節)、そして、聞いていても、いなくても、語れ(7節)と言われます。

1.みことばを蓄えよ(2:8?3:3)

 主は、エゼキエルに「あなたの口を大きく開けて、わたしがあなたに与えるものを食べよ。」と命じます。そして、エゼキエルが見るとそこには、巻物が一つありました。そこには、表裏とも「哀歌と、嘆きと、悲しみ」が記されていました。反逆の家と言われた人々は、神の御心よりも、自分の願望を優先し、神様をいつのまにか自分の下に置いていたのです。エゼキエルは、巻物を食べる事をまず命ぜられました。それは、まぎれもなく、神のことばであり、御旨が記されているものでした。神の召命に応えるために、まず必要なのは、神のことばを自分の心に蓄える事です。

2.蓄えたことばのとおりに語れ(3:4?9)

 主が望んでおられるのは、神様の御心を、神様のみことばによって、そのまま語られる事です。エゼキエルが語る相手は、異国語を話す、外国人ではなく、同胞です。しかし、この時は、そちらの方が、聞き入れる事はない事を事前に知っています。だからと言って、聞きやすいような水増しされた語り口であってはならないのです。

3.蓄えられたことばに耳を傾けよ(3:10?15)

 みことばを蓄え、主の御心をストレートに伝えなければならないという事は、エゼキエルにも理解できました。しかし、主もエゼキエルに何度も語られているように、語る相手は、反逆の家であり、鉄面皮で、心がかたくな者たちです。自分に与えられた使命の重さに、彼は茫然自失してしまったのです。神と民の狭間で苦しんだことでしょう。だからこそ、主はまず、エゼキエル自信が、みことばと向き合い、「聞く」事を求めたのです。

4.警告を与えよ(3:16?21)

 みことばを伝える者には「責任」が生じます。パウロも福音宣教を聖なる負債であると捉えていました(ローマ1:14)。エゼキエルがもしも警告しないで、滅びる者があれば、主の召しに答えなかった者として、その滅びの「血の責任」エゼキエルに問うと主は仰せられました。

5.神の臨在の中で語れ(3:22?27)

 立ち上がり、そして、語れと命じられた主は、エゼキエルを平地に導き、縄で縛り、上あごをくっつかせ語れなくなると伝えます。しかし、それは、神の臨在のもとで解かれるのです。究極の霊的体験学習です。エゼキエルは、この後、避けられぬ審判と、その向こう側にある、究極の回復を語る器として用いられたのです。

10.祈祷・・一 同
11.献金454 立ちあがれいざ (霊の戦い)・・一 同
12.感謝祈祷 ・指 名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・寺東真也師
15.報告・・・・司会者

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第11主日礼拝式順序 2021年3月14日 午前10:30?

1.黙祷・・・一 同
2.賛美101 イエスよ十字架に (受難) ・・一同起立
3.使徒信条・・一同起立
4.主の祈り・・一同起立
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美466 来り給う主を (再臨)・・一 同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「主の導きと召し」
聖句 エレミヤ1:11?19

講壇 「主の導きと召し」  エレミヤ1:11?19

「彼らはあなたと戦っても、あなたに勝てない。わたしがあなたとともにいて、
――主のことば――
あなたを救い出すからだ。」(エレミヤ1章19節)

 エレミヤは神様からの召命を与えられた際に、二つの幻を見ていました。神様がイスラエルに与えようとしておられる導きは、短期的にみるならば、「裁き」です。しかし、それは、何のための裁きかというと、最終的に回復が与えられる為なのです。二つの幻には神様の愛が込められているのです。

○二つの幻

1,煮え立った釜
 聖書に書かれている順番とは違いますが、初めは二つ目の幻である煮え立った釜から見たいと思います。
 煮え立った釜は北からこちらに傾いて来るのです。これは、まさしく、バビロンの脅威の預言です。その脅威に、イスラエルはその不信仰の故に、その災いに飲み込まれるのです。

2,アーモンドの枝
 しかし、その前にアーモンドの幻をエレミヤは見ます。これは、希望の幻です。アーモンドはヘブル語で「シャーケード」目覚めている、と言う意味で、それに続く神様の言葉が「見張っている」は「ショーケード」で言葉遊びの様なやり取りの中に、神様の恵み深い真理が込められています。
 アーモンドは1?2月に他の木々に先立って芽を出し、花を咲かせます。別名、目覚めの木と言われています。春と言ういのちの季節に先立つ植物は、よみがえりの初穂を意味します。究極的にはイエス・キリストの復活の象徴であり、イスラエルの回復の預言です。神様は、いのちの回復を成就すべく、休むことなく目覚めて、見張っておられるのです。
 神様は滅亡の為の裁きを下されようとしているのではなく、まず、アーモンドの幻をして、回復を望まれ、愛を持って導いてくださるお方である事を感謝いたしましょう。

○重ねられた召命

 神様は二つの幻をエレミヤに告げた後、もう一度、召命のチャレンジを与えられました。まず、「腰に帯を締めて立ち上がれ」です。襟を正すという言葉もありますが、それと同じような意味合いです。私たちは、長い歴史の中のほんの一部分ではありますが、神様のご計画の一部を担わせていただいているのです。もう人事や無関係のように生きるのはやめて神様の為に立ち上がりましょう。
 二つ目のチャレンジは「彼らの顔におびえるな」です。人の顔色を見ながら恐れて歩む信仰生活はやめましょう。なぜならば、神様が私たちを「要塞の町、鉄の柱、青銅の城壁とする。」と仰ってくださるからです。
 主の計画は必ず勝利へと繋がっているからです(エレミヤ29:10?11)。

10.祈祷・・一 同
11.献金436 未だ見ぬ地 (宣教)・・一 同
12.感謝祈祷 ・指 名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・寺東真也師
15.報告・・・・司会者

x

第10主日礼拝式順序 2021年3月7日 午前10:30?

1.黙祷・・・一 同
2.賛美271 ひと度はわれも (救いの喜び) ・・一同起立
3.使徒信条・・一同起立
4.主の祈り・・一同起立
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美462 聖書も時の徴も (再臨)・・一 同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「主の召しに応える」
聖句 エレミヤ1:1?10

講壇 「主の召しに応える」  エレミヤ1:1?10

「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすすべてのところへ行き、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。──主のことば。」(エレミヤ1章7?8節)

 エレミヤは南ユダ王国の末期を生きた預言者です。彼は別名「涙の預言者」と言われていて、エレミヤ書と哀歌を執筆しました。

○エレミヤの召命

 エレミヤが預言者として召命を受けた時、エレミヤは躊躇しました。その理由は「若い」からであるという事です。「若い=未熟=召命にはこたえられない」であると。謙遜にも見えますが、大きな間違いです。もちろん若い時に、年齢を重ねられたベテランの方に比べると知識も経験も技量も大きく違うでしょう。しかし、大切なことは神様が今、私に何をして欲しいと願っておられるかという事です。
 たとえ、弱く、小さく、足りない者であったとしても、主が共におられるならば、又、主が戦ってくださるならば決して役に立たない者ではないのです(第二コリント12:9)。
 しかしエレミヤと同じような間違いをすべての人が犯すことがあります。それは、自分の弱さにしがみついて、神の栄光の為に立ち上がらないという失敗です。
 パウロは愛弟子テモテに発破をかけて言います。
「あなたは、年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。むしろ、ことば、態度、愛、信仰、純潔において信者の模範となりなさい。 」(第一テモテ4:12)

○エレミヤへの約束(7?10節)

 神様は私たちに対して、何かわからないような導きをされるわけではありません。私たちに対して願いをもって迫られる時、同時に、みことばの約束を与えてくださるのです。反対に言えば、みことばの約束がない導きは導きではないと言えます。どうして聖書が私たちに必要なのでしょうか。それは聖書が生ける神のことばであり、私たちへの生ける約束がそこに記されているからです。

・インマヌエル(8節)
 エレミヤへの一つ目の約束は、「神共にいます」というインマヌエルの約束でした。主の為に立ち上がるためにすべての聖徒はこの約束がありました。

・聖化の事実(9節)
 エレミヤへの二つ目の約束は聖化の事実です。エレミは不思議な霊的体験をします。それは主の御手が伸ばされて自分の口に触れてくださるというものでした。
 人の口は開いた墓のようなものだとダビデは歌い、パウロはそれを引用しています(詩篇5:9、ローマ3:13)。しかし、十字架の血潮はその口をきよめ、賛美と証を満たし、神のことばを告げ知らせる者とならせてくださるのです。

10.祈祷・・一 同
11.献金430 われ主に従いまつらん (証し)・・一 同
12.感謝祈祷 ・指 名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・寺東真也師
15.報告・・・・司会者

x

第9主日礼拝式順序 2021年2月28日 午前10:30?

1.黙祷・・・一 同
2.賛美354 迷えるとき光りを (確信) ・・一同起立
3.使徒信条・・一 同
4.主の祈り・・一 同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美459 世びとは敵に (霊の戦い)・・一 同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「共に働かれる神」
聖句 マルコ16:19?20

講壇 「共に働かれる神」  マルコ16:19?20

「弟子たちは出て行って、いたるところで福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばを、それに伴うしるしをもって、確かなものとされた。」(マルコ16章20節)

 聖書には四つの福音書があり、主イエス・キリストの生涯について立体的に記されています。マルコ以外の福音書(マタイ、ルカ、ヨハネ)はイエス様が昇天される時までを克明に記しています。ルカに至っては、使徒の働きに続きます。
 しかし、マルコの福音書は少し違います。イエス様が昇天された後の事を一言でまとめて記してあるのです。言うなれば、使徒の働き(教会の始まり)をたった三行に凝縮しているといえるでしょう。それが今日のみことばです。

○インマヌエル

 預言者イザヤは救い主について預言をしました。
「それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」(イザヤ7:14)
 マタイはこの予言が成就されたことを記しています(マタイ1:23)
 イエス様は私たちを捨てて孤児にはしないと言われました(ヨハネ14:18)。イエス様を信じる者には聖霊が与えられ聖霊を通してイエス様を見続けることが出来るのです。
 主が共におられる事は勝利の秘訣です。

○共に働かれる主

 使徒の働きでは、イエス様が昇天された後、御霊に満たされて弟子たちが全世界に福音を宣べ伝えていく様子が記されています。見えるところにおいては弟子たちの活躍が目立ちます。しかし、使徒の働きは別名「聖霊行伝(聖霊の働き)」ということが出来ます。イエスの御霊である聖霊は使徒たちと共に働かれているのです。聖霊の働きは内への働きと外への働きの二種類の働きがあります。

・内への働き(第二コリント3:18)

 聖霊の働きは私たちの内側に働きかけてくださいます。イエス様の弟子たちは決して立派な方々ではありませんでした。今日の御言葉の著者のマルコはパウロとバルナバに連れられて伝道旅行に出かけますが、途中で脱落して一人で帰ってしまうのです(使徒13:13)。これにはパウロもあきれてしまって、第二回伝道旅行の際、マルコをもう一度同行させるかで激しい反目となってしまったほどです。しかしマルコは後に聖霊によって磨かれ、パウロから役に立つと絶賛されるようになるのです(第二テモテ4:11)。

・外への働き(使徒9:31)

 主は私たちに対して一つの命令をお与えになりました。それは大宣教命令と言われています(マタイ28:18?20)。
 福音を宣べ伝え、バプテスマを授け、聖書を教え、弟子とするのです。  聖霊が共に働かれるがゆえに福音は前進し、時には道を閉ざし行くべき道を示されます。

 主は今も私たちと共に戦ってくださいます。ゆえに恐れるなと励ましてくださるのです。主は私たちを通してみことばが真実なことを確かとされるのです。

10.祈祷・・一 同
11.献金435 罪に沈む汝が友に (宣教)
12.感謝祈祷 ・司会者
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・寺東真也師
15.報告・・・・司会者

x

第8主日礼拝式順序 2021年2月21日 午前10:30?

1.黙祷・・・一 同
2.賛美112 カルバリ山の十字架 (受難) ・・一同起立
3.使徒信条・・一 同
4.主の祈り・・一 同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美471 われ聞けり かなたには (天国)・・一 同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「永遠を与える神」
聖句 伝道者3:11

講壇 「永遠を与える神」  伝道者3:11

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」(伝道者の書3章11節)

 伝道者の書は箴言と同じく、ダビデの子であり、最高の知恵を神様から頂いたソロモン王がしたためた書です。

○すべては空しい

 神様から与えられた知恵と知識を持って、人間の人生を再評価したソロモンの結論であり、伝道者の書を貫く、一つの真理は、「すべては空」という事です(伝道者1:2、14)。
 快楽にふけっても、財を成しても、事業を拡大しても、それは風を追いかける様なものでむなしいのだと言うのです(2:1?11)。

○「日の下」と「天の下」

 ソロモンが伝道者の書を記すにあたって、苦労したことが1:13に記されています。それは、人生の現実である「日の下」に生きている視点と、現実は神様の摂理の中にあるという「天の下」にある視点の違いから、日の下にある現実を、神の視点から解き明かすという作業です。この事に関しては、この世の知恵、力ではどうしても解き明かすことが出来なかったのですが(第一コリント1:21)、とても大切な糸口は見出しているのが、今日のみことばです。

○天の下では

 日の下の現実は、先に記したように、人生にプラスと思えるようなものであったとしても、実は空しく、過ぎ去ってしまうものに過ぎないというのが、ソロモンの出した結論です。
 しかし、3章1節?8節まで、天の下(神の摂理の下)では、定められた時があるとソロモンは記します。それは、日の下でも同じでしょう。しかし、そのようなこの世の中の営みであっても、神が人の子らに与えたもの(3:10)であるならば、それは、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」(3:11)と受け止めえるのです。

○限りある肉体と人生

 モーセは私たちの肉体的人生歌っています(詩篇90:10)。この肉体における人生は、永遠に続くのではなく、必ず、終わり、死があります。
 多くの人は、この地上の生涯のみに焦点をおいて過ごしています。しかし、そのような人も、死を間近に控えると死んだら私はどうなるのだろうと考え出すのです。私たちの人生は、この地上の生涯だけではないのです。
「神はまた、人の心に永遠を与えられた。」(3:11)
その先にある世界こそ永遠です。人生は長くても80年?100年ほどでしょう。しかし、死の後に過ごす世界は永遠です。この永遠をどう過ごすのかは、この地上の生涯で決まるのです。

〇永遠を与える神

 イエス・キリストは「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)と言われました。
 日の下にある肉体は死んでちりに帰るべきものですが、その魂は、神の前に生かされ、もう一度、イエスキリストが来られる時、ご自身と同じ栄光の体をくださり(ピリピ3:20?21)、永遠に主のもとで過ごす事の出来る祝福に入れられるのです(第一ヨハネ2:17)。

10.祈祷・・一 同
11.献金517 はるかに仰ぎ見る (永遠)
12.感謝祈祷 ・司会者
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・寺東真也師
15.報告・・・・司会者

x

第7主日礼拝式順序 2021年2月14日 午前10:30?

1.黙祷・・・一 同
2.賛美272 救い主の愛と (救いの喜び) ・・一同起立
3.使徒信条・・一 同
4.主の祈り・・一 同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美463 喜びもて (再臨)・・一 同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「一つとなるために」
聖句 ピリピ 2:2

講壇 「一つとなるために」  ピリピ 2:2

「あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。」(ピリピ2章2節)

 パウロはピリピの信者に一致を保って欲しいと願っています。それは、いつも喜びが心にあるためです。パウロは投獄され、牢屋の中よりこの手紙を書きました。このような苦しみと同じような苦しみがピリピの人達にもあった事が、1:29、30に書かれてあります。苦しみの中でも喜べる真の喜びを持つためにパウロは一つになることを勧めているのです。

1.愛の心を合わせる(ヨハネ13:1?15)

 愛の心とは何でしょうか。5節にこのような心構えでいなさいと書かれてありますが、文語訳ではここを「汝らキリストイエス様の心を心とせよ」と訳されています。イエス・キリストの心こそ愛の心ではないでしょうか。
 イエス様が十字架に架かられる前の晩、愛する弟子たちに残るところなく愛を示されたとあります。

・へりくだりの愛(3節)

 イエス様はおもむろに、席を立ち上がり、上着を脱いで手ぬぐいを腰につけられます。弟子たちはいったい何をなさろうというのだろうと、イエス様の行動を沈黙の中で見守ったでしょう。するとなんと弟子たちの足を拭き始められたのです。弟子が師の足を拭くのは当たり前です。しかしイエス様はその愛の心ゆえにへりくだられ、師が弟子の足をお拭きになったのです。

・仕える愛(7節)

 足を拭く仕事は奴隷のする仕事です。主であるイエス様は弟子に仕えられたのです。してもらう精神ではなくしてあげる精神を持っておられたのです。イエス様は、天の父の御心に従い父に仕えられて十字架の死にまで至ったのです。

 私達は互いに主イエス様の心のように互いにへりくだり、仕える事により愛の心を一つにしさせていただきましょう。

2.思いを一つに(13節)

 人は色々な考えをそれぞれに持っています。多くの人が一つとされるには、同じ志を持つ事です。志がないとそれぞれがバラバラになり大きな力になりません。志を与えてくださるのは神です。神が与えてくださるビジョン又計画を皆で心に留めそれに心を向けなければなりません。主にある共同体が主の栄光を表すために喜びを持つ為です。

〇イエス様の祈り

 パウロの願いと同様に、イエス様も弟子たちが一つとなる事を心から願われ、十字架に架かる直前、弟子たちの為に祈られたのです(ヨハネ17:11、21?23)。
 教会が互いに心から愛し合い、一つとなる事で、神様の栄光は表されるのです。
 喜べないような、信じる事が難しいような状況の中で、神の愛が確かに現実であることを、教会が一つとなることで証明されるのです。

10.祈祷・・一 同
11.献金414 主は力をわれに注ぎ (聖霊)
12.感謝祈祷 ・司会者
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・寺東真也師
15.報告・・・・司会者

x

第6主日礼拝式順序 2021年2月7日 午前10:30?

1.黙祷・・・一 同
2.賛美103 わがためイエス君 (受難) ・・一同起立
3.使徒信条・・一 同
4.主の祈り・・一 同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美467 世の終りのラッパ (再臨)・・一 同
 再   臨
 イスラエル
 日   本
7.三大祷告
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「国籍を天に持つ者」
聖句 ピリピ3:20?21

講壇 「国籍を天に持つ者」  ピリピ3:20?21

「しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。」(ピリピ3章20?21節)

 イエス・キリストを信じた者には神の子供とされる特権が付与され(ヨハネ1:12)、そして、天に国籍を持つ者とされるのです。これは、全て、神様が与えてくださるもので、私たちの功績に依存するものではありません。全て恵みとして受ける事ができるのです。

〇天国人の望みと歩み

 天に国籍を持つ者として、パウロ先生は共通の望みがあると言います。それは、イエス・キリストが再びこの世界に来てくださるという再臨の希望です。
 詩篇の記者もへブル書の記者も共に自分の事を「地では旅人」であると告白しています(詩篇119:19、へブル11:13)。この世界は罪によって有限な存在となってしまっており、いずれ滅ぶべき存在です。神様の計画を知り、永遠こそが私たちの本来払うべき最高の関心事であると理解した時、人は、地においては旅人なのだと自覚するのです。

〇再び来られる主

「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」(使徒1:11)
 救い主はクリスマスに神の在り方を捨てられないとは考えず、人の姿となってこの世に生まれてくださいました(ピリピ2:6?7)。それは私たちの罪から救い出すために十字架と復活に於いて救いを成就する為でした。そして、再び主が来られるのは、この救いの完成のために来られるのです(へブル9:28)。

〇神のわざ

 神様がこの世で行われたわざを数え上げたらきりがなく、どれも人間の測りを超えています。天地、宇宙を創造したのも神のわざですし、御子は嵐を叱りつけ凪にされました。数多くのしるしを行われたのですが、一番大切で崇高なしるしは、ヨナのしるしであり(マタイ12:39?40)、一番、偉大な神のわざは、人がイエス様を信じるようになる事だというのです(ヨハネ6:29)。

〇天国民に与えられる救い

 天の父なる神様は、御子イエス様の十字架のゆえに、信じる者に永遠の命を与えてくださいます。しかし、福音の素晴らしさは霊的な祝福に留まるのではありません。永遠に生きる命に加えて、主イエス様が再臨される時、イエス様が復活された時に与えられた栄光に輝く体を頂くことが出来ると言うのです。
 この体は、霊体ではありません。復活のイエス様は弟子たちと食事もされました。確かに生きているのです。そして、その体は死ぬことも、病むことも、けがをする事さえありません。
 そして、古い天と地は過ぎ去って、新しい天と新しい地が到来します。そこで、永遠に主を褒めたたえ、安息と喜びのうちに生きる事になるのです。
 私たち与えられた救いは、霊、魂、体、全てに及ぶのです。

10.祈祷・・一 同
11.献金150 旅人なるこの身にとりて (再臨)
12.感謝祈祷 ・司会者
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・寺東真也師
15.報告・・・・司会者

x

第5主日礼拝式順序 2021年1月31日 午前10:30?

1.黙祷・・・一 同
2.賛美323 この世の旅路に (信頼) ・・一同起立
3.使徒信条・・一 同
4.主の祈り・・一 同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美468 やがて天にて (天国)・・一 同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「残された平安」
聖句 ヨハネ14:27

講壇 「残された平安」  ヨハネ14:27

「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。」(ヨハネ14章27節)

 イエス様は十字架に架かって世を去ることを知っていました。そして、その事実を受け止めきれない弟子たちのこともご存じでした。だから、イエス様は弱い弟子たちにイエス様の平安を残すと言って下さったのです。

・世が与える平安
 この平安は、「一時的な平安」です。私たちが心を静めて平安でいられるのは、周りの状況に大きく左右されます。何も問題がなく良い状況ならば、心が平安であるのは容易いことです。自分の計画通りに事は進み、多少の問題も、許容範囲内であれば、大丈夫かもしれません。
 しかし予定外の問題にぶつかってしまったり、許容範囲を大きく超えてしまうような事が起これば世が与える平安であるならば、あっという間に崩れてしまうでしょう。

・イエス様が残された平安
 イエスキリストが残された平安は世が与えるようには与えられない平安だと言います。イエス様はどのように平安を持たれ、そして、私たちに与えてくださるのでしょうか。

1.信仰による平安
‐船上でのイエス様‐(マタイ8:23?27)

 イエス様が弟子たちと共に船に乗ってガリラヤ湖を渡っておられた時に、突風が吹き荒れ危険な状況に陥ったのです。弟子たちの中には元プロの漁師がいたのですが、その漁師でも根を上げてしまう程の突風であったのです。しかし、イエス様はそのような中でもぐっすりと眠っておられたのでした。焦ってイエス様を起こした弟子たちに「信仰はどこにあるのですか
と問われました。神様を信じ、いかなる時にも共におられるイエス様を信じる時、平安はもたらされます。

2.愛による平安
‐十字架を目前に控えたイエス様‐

 今日の御言葉の箇所の背景は、イエス様が十字架で処刑される前日の出来事です。イエス様を裏切ったイスカリオテのユダはイエス様に裏切りを見抜かれ裏切りを実行しに去ってしまいます。他の弟子たちは、まだ何のことか良く分かっていないでイエス様の最後の説教を聞いているのです。その説教の中で今日の御言葉が語られました。イエス様は目の前に死が迫っているのですが、イエス様は平安で包まれています。なぜでしょうか。それは、弟子たちを心から愛し、その愛が恐れを上回っていたからです(第一ヨハネ4:18)。

3.勝利に基づいた平安(ヨハネ16:33)

 イエス様の平安は勝利に基づいています。失望、不安、悪意、病、死、全てにイエス様は勝利を取ってくださり、完全なる生涯をおくってくださったのです。そして、私たちの不完全な生涯の身代わりとして十字架につけられ、その身代わりを信じるものには、イエス様と同じ勝利の人生をおくったものとしてくださるのです。(ローマ8:35?39)

10.祈祷・・一 同
11.献金246 奇しきものの音 (平安)
12.感謝祈祷 ・司会者
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・寺東真也師
15.報告・・・・司会者

x

第4主日礼拝式順序 2021年1月24日 午前10:30?

1.黙祷・・・一 同
2.賛美259 聖いふみは教える (救いの喜び) ・・一同起立
3.使徒信条・・一 同
4.主の祈り・・一 同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美151 永久の安き来りて (再臨)・・一 同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「足のともしび、道の光」
聖句 詩篇119:105

講壇 「足のともしび、道の光」  詩篇119:105

「あなたのみことばは私の足のともしび私の道の光です。」(詩篇119篇105節)

 信仰生活というのは、クリスチャンになったからといって完全になったわけではありません。反対に、霊的なスタート地点に立ったと考えるべきです。私達には「走るべき道のり」が与えられているのです(使徒20:24、第二テモテ4:7)。
 神様は私たちに聖書を与えてくださいました。それは、誤りなき神のことばです。人生の羅針盤、偽りなき基準であります。信仰生活には欠かせないものであり、唯一無二のものです。
 コロナ禍という100年に一度の感染病における危機が世界を襲っている最中にあります。真っ暗闇のただ中を進んでいるように感じる人も少なくありません。

1.足のともしび

 私達の周りはさらに暗くよどんでいくことでしょう。今、自分がどこを歩んでいるのか、正しい道か、間違った道か、知るよしもないという状態ではクリスチャンでも途中で息絶えてしまいます。神様は私たちの人生の足元を照らす光としてみことばを与えてくださいました。ともしびというのは決して大きな光ではありません。自分が歩いていく数十メートル先、数百メートル先まで見通すことが出来ればスピードを上げて歩くことが出来ます。しかし、神様は人生を「速く」歩くことを重要視するのではなく、「誠実」に歩むことを願っておられます。みことばは今歩いている足元を照らす光であることは大切な真理なのです。一歩一歩を主のみことばによって大切に歩みましょう。

2.道の光

 イエス様を信じる信仰者は「この道の者」と呼ばれました(使徒9:2)。人が生きていく道それが人生といえます。日本には「?道」というものがあります。そこで大切にされる共通のものは技術だけではなく「心」です。
 みことばは、私たちの心をもとりあつかってくださるのです。みことばは私達をキリストに似たものとして整えてくださるのです。
「みことばの戸が開くと光が差し浅はかな者に悟りを与えます。」(詩篇119:130)

 ペテロはイエス・キリストの来臨の時まで、みことばに目を留めるようにと勧めています。主の言葉は生きていて私たちに働きかけてくださるのです。
「また私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜が明けて、明けの明星があなたがたの心に昇るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。」(第二ペテロ1:19)

10.祈祷・・一 同
11.献金316 御言葉なる (信頼)
12.感謝祈祷 ・司会者
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・寺東真也師
15.報告・・・・司会者

x

第3主日礼拝式順序 2021年1月17日 午前10:30?

1.黙祷・・・一 同
2.賛美185 来れ誰も (神の招き) ・・一同起立
3.使徒信条・・一 同
4.主の祈り・・一 同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美468 やがて天にて (天国)・・一 同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「強くあれ。雄々しくあれ。」
聖句 ヨシュア記 1:1?9

講壇 「強くあれ。雄々しくあれ。」  ヨシュア記1:9

「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにおられるのだから。」(ヨシュア記 1:9)

 ヨシュア記のテーマは「勝利」と言うことが出来ます。エジプトより脱出したイスラエルの民は、40年もの年月を経て、約束の地「カナン」に到着します。
 ヨシュア記はそのイスラエルが神様に与えると言われた地を獲得していく様子を記しているのです。
 ヨシュア記の中には勝利ある人生を送るための要素がぎっしりと詰まっています。

○勝利ある人生

 神様はイスラエルに一人のリーダーを決められました。初代リーダーの名前は「モーセ」です。モーセは誰よりも柔和で(民数記12:3)しかも力あるリーダーでした。聖書も絶賛しています。
 しかし偉大なリーダーといえども人間です。モーセは約束の地の一歩手前で地上の生涯を終えます。そこで2代目のリーダーとして立てられたのがモーセの側近であったヨシュアでした。
 今日の御言葉は神様がヨシュアに対して直接語られた言葉です

○強くあれ雄々しくあれ

 信仰者が勝利を得るために神様から求められるのは、主にあって強く、雄々しくある事です。臆病であってはいけません。
 ヨシュアが神様から二代目のリーダーとして任命された時は、モーセの死の直後でした。この時のヨシュアの気持ちは聖書に記されていませんが、畏れにも似た緊張が張りつめていたのではないかと思います。偉大なリーダーの後を継ぐというのはある意味、光栄な事ではありますが、それ以上に責任と期待がのしかかります。その状態で、リーダーとして立ち上がるという勇気が必要になるのです。
 どのように、強く雄々しく荒れるのでしょうか。それは、主が共におられると言う約束と、その約束を信じる信仰のゆえにです(5節、9節)。
 そして、ヨシュアには二つの使命が与えられました。

1.約束の地を民に受け継がせる使命(6節)

 神様は既にイスラエルの民に約束の地を与えていると仰いました(3節)ただし、信仰もって実際にその足で踏みしめ勝ち取るならばです。そして、それをヨシュア単独ではなく、イスラエルという共同体として行う必要があり、皆が、心を一つにして信仰の歩みをする必要がありました。ヨシュアは民に既に与えられている地を信仰もって受け継がせる使命を帯びたのです。

2.神の栄光を表す使命(7?8節)

 2つ目の使命は神の栄光を表す事です。どのように、栄光を表すのでしょうか。それは、神のことばに聞き従う時、その人は栄え、繁栄し、主の栄光を表すのです。人は自分を神とする生き方をしてしまう愚かさを持っています。自分の考えで歩んでも勝利の人生は送れません。真理なる神様の言葉に耳を傾け、神様の言葉に従って行くときに勝利の人生は花開くのです。

10.祈祷・・一 同
11.献金486 雄々しくあれ (子ども)
12.感謝祈祷 ・司会者
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・寺東真也師
15.報告・・・・司会者

x

第2主日礼拝式順序 2020年1月10日 午前10:30?

1.黙祷・・・一 同
2.賛美18 おお御神を褒め奉れ (賛美) ・・一同起立
3.使徒信条・・司会者
4.主の祈り・・司会者
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美381 朝日の光は (きよめ)・・賛美リーダー
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.賛美・・・・聖 歌 隊
10.メッセージ・寺東真也師
主題 「キリストに聞き従う」
聖句 ヨハネ2:1?11

講壇 「キリストに聞き従う」  ヨハネ2:1?11

「さあ、それを汲んで、宴会の世話役のところに持って行きなさい。」(ヨハネ2章8節)

 イエス様が最初に行われた奇跡は、カナと言う場所で行われた結婚式の中で行われました。

○ぶどう酒がない(1?3節)

 結婚式はその家族、特に花婿と花嫁にとっては一生に一度の晴れ舞台です。その祝いを誰もが祝い、又、心地よく過ごしてもらおうと家族も念入りな用意をしておくものです。その中で不測の事態が起こります。祝いのぶどう酒が底をついてしまったのです。
 そこでイエス様の母であるマリアはイエス様になんとかして欲しいと思いぶどう酒が無くなった事を伝えました。

○イエス様の時(4節)

 しかし、イエス様の返答は一見冷たいものでした。「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」(4節)自分の母親に対しての言葉とはとても思えませ。この返答は不良息子のものではありませんでした。
 イエス様はマリアの子供でしたが、聖霊によって身ごもった救い主でした。そして、すでに救いの瞬間を目指して歩み始められていたのです。もう既にマリアの子供の「時」は終わったのです。
 ではイエス様の言われた「わたしの時」とはなんなのでしょうか。
 それをイエス様は「栄光を受ける時」(ヨハネ12:23)と言われている時です。それは十字架に上げられる時であり、復活される時でした。イエス様はご自分の命をもって人類の救いとなられたのです。

○聞き従う(5?8節)

 神様に対して、お祈りし、願い事を伝える事は悪い事ではありません。しかし、神様を自分の願い事をかなえる時だけに求めるのは間違っています。マリアは、イエス様に願った後、「あの方が言われることは、何でもしてください。」(5節)と言いました。私たちは神様の栄光の為に存在するのであって、神様が私たちの為に存在しいているのではない事を知らなければなりません。

○聞き従う者は知る(9?11節)

 イエス様は6つの水がめ(一つ80?100リットル)に水を満たせと言われました。今、必要なのは水ではなく祝いのぶどう酒です。しかし、手伝いの者は文句を言わずイエス様に言われるとおりに聞き従い、約600リットルもの水を井戸から汲んでかめに満たしたのでした。そしてイエス様に言われるとおりに、宴会の世話役の所に持っていくとそれは、極上のぶどう酒へと変貌したのです。この記念すべき最初の奇跡を知っていたのは聞き従って黙々と労した手伝いの者たちと弟子たちだけでした。
 あなたを愛し、あなたに命を与えてくださったお方は、全てを満たす事の出来るお方です。そのお方の御声を聞くものとさせていただきましょう。

11.祈祷(黙祷)・・一 同
12.献金384 主よ御手もて (献身) 賛美リーダー
13.感謝祈祷 ・指 名
14.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
15.祝祷・・寺東真也師
16.成人祝福式・・・賛美388 いとも良きものを (献身)
17.報告・・・・司会者

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第1主日礼拝式順序 2021年1月3日 午前10:30?

1.黙祷・・・一 同
2.賛美2 諸 (クリ) ・・一同起立
3.使徒信条・・司会者
4.主の祈り・・司会者
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美356  (クリ)・・賛美リーダー
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「キリストにあって歩みなさい」
聖句 コロサイ2:6?7

講壇 「キリストにあって歩みなさい」  コロサイ2:6?7

「このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい。キリストのうちに根ざし、建てられ、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかりに感謝しなさい。」(コロサイ2章6?7節)

 基督兄弟団の2021年の標語は本日の御言葉の7節になります。この御言葉からキリストにあって歩むという事を学びたいと思います。
 イエス様の別名はイムマヌエル(主が共におられる)です(マタイ1:23)。そして、私たちの歩調に合わせ、楽しい時も、苦しい時も、順調な時も、逆境の時も共に歩んでくださるお方なのです(ルカ24:15)。
 そして、私たちもキリストにある歩みをすることが大切です。

1.キリストのうちに根差し、建てられる。

 キリストにあって歩むための最初の秘訣はキリストのうちに「根差し」「建てられる」ことです。 昨年までの教団標語は「下に根を張り、上に実を結ぶ」(イザヤ37:31)でした。実を結ぶためには、見えない所が大切になります。木で言うならば根ですね。そして、もっと大切なのは、どこに根を張るかです。
 建物を建てる時にも同じことが言えます。上物がどんなに立派でも基礎がしっかりしていなければ、危険な建築物でしかありません。イエス・キリストこそが私たちのいのちの源であり、救いの唯一の道です。この世に溢れる、すぐに枯れてしまう土壌や、一見掘りやすい砂場に根差し、建ててはなりません。

2.教えられたとおり信仰を堅くする。

 キリストにあって歩むための二番目の秘訣は教えられたとおり信仰を堅くすることです。
「教えられたとおり」というところが重要です。
 教会はキリストの体でありますが、すでに完全にされているわけではありません。主が私たちを迎えに来られるまで、完全に向かって成長する群れです。今日の御言葉のコロサイの教会にも問題がありました。それは、教え伝えられたイエス・キリストの福音によって信仰を堅くするのではなく、「空しいだましごとの哲学」に耳を傾けていたと言うのです。それはキリストから出たものではなく、「人間の言い伝え」であり、この世の霊によるものだと聖書は言います(8節)。それは、旧約の律法と融合し(16節)、禁欲主義に走らせました(20?30節)。また、御使い礼拝なるものも取り入れ、「超自然的な不思議体験」を信仰の拠り所としていました(18?19節)。
 大切なのは、聖霊が語られる聖書の御言葉が語る福音である教えられた通りの信仰を堅く保つことです。

3.あふれるばかりに感謝しなさい。

 キリストにあって歩むための最後の秘訣は、あふれるばかりに感謝することです。
 人は長所よりも短所に目が行き、受けた恵みや善行よりも、攻撃された痛みや悪行が記憶に残るものです。その結果、裁くことは容易にできますが、感謝する事は意識しなければできません。まず、イエス様は私たちになしてくださった救いの御業をいつも思い、その上で、隣人への感謝を忘れず、見つけ出して感謝してみましょう。感謝は感謝を生み出し溢れ流れるようになるのです。

10.祈祷(黙祷)・・一 同
11.献金323 この世の旅路に (信頼) 賛美リーダー
12.感謝祈祷 ・指 名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・寺東真也師
15.報告・・・・司会者

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元旦礼拝式順序 2021年1月1日 午前10:30?

1.黙祷・・・一 同
2.賛美24 聖なるわれらの主 (賛美・感謝) ・・一同起立
3.使徒信条・・司会者
4.主の祈り・・司会者
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美250 世の波風いかに荒れて (平安)・・賛美リーダー
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「無駄になる事がない労苦」
聖句 第一コリント15:58

講壇 「無駄になる事がない労苦」  第一コリント15:58

「ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」(第一コリント15:58)

 新型コロナウイルスが猛威をふるい現在もコロナ禍のただ中にあります。最初の緊急事態宣言が発令された時、日本中で自粛が行われ、日頃、人々で大きく賑わう、繁華街からも人影が消えました。それは世界でも同じで異様な光景でした。しかし、その効果からか一時的ではあったものの感染者数は大幅に減り、大阪においては感染者数0人という日も珍しくありませんでした。しかし、相手は目に見えないウイルスです。気をつけてはいても日常が戻れば、再び感染の波がやってくるという事を三度繰り返し今に至ります。勝負の三週間と言われた12月頭前後、春の緊急事態宣言の時とは大きく違う事がありました。それは、人出です。このままでは医療が危ないと言われている中、年末に向けて、人出は増加していったと言うのです。一つの理由として、「報われない努力」という事があるように感じます。努力をしただけ、効果があると感じる事が出来れば人は努力します。しかし、やったとしても、結局また同じことの繰り返しと感じるならば、努力を止めてしますのです。

〇コリントの教会の脅威

 コリントの教会は危機的な状況に陥っていました。分裂分派(1:11)、不品行(5:1)、禁欲主義(7:1)偶像にささげた肉問題(8:1)等。
 信仰生活は短距離走競技ではなくマラソン競技に似ています。その競技中は果てしなく、終わりが見えないような錯覚に陥るのです。一時的なものならば、力と勢いで勝負できるでしょうが、そうはいきません。ある者は、諦めてリタイアし、ある者は失速します。
 特に信仰生活はにおいては、鍛えぬいた精神でなんとかなるものではないのです。コリントの教会は、その信仰生活が時間と共に変質していったのです。

○無駄にならない為に

 パウロはコリントの教会の現状に危機感を覚え、手紙を書きました。その問題一つ一つに答えていくのですが、最終的にもう一度自分たちがよって立っている福音に目を向けさせます。霊的なマラソンである信仰生活に必要なのは恵みなのです(15:1)。2020年からコロナ禍にある現状は、信仰生活にとって逆風であり、限りなく続く上り坂のようなものです。そのような状況はゴールを見失わせがちです。
 コリントの教会も実際、死者の復活を否定する人たちがいました(15:12)。イエス様の死と復活はワンセットです。そして、それがもたらす希望は、永遠の御国であり、私たちの信仰生活もそこに焦点があっていく時に福音の全貌が明らかになり、より神様の恵みへと導かれるのです。

○主の業に励もう

 今、私たちを取り巻く状況は、結果が出ず、失望へと駆り立てる状況です。しかし、神の愛は常に私たちに注がれており、神の愛がギュッと詰まっている福音に立っていくならば、ゴールを見失うことなく主のわざに励むことが出来ます。どのような時にも、堅く立って、動かされることなく主のわざに励みましょう。

10.祈祷(黙祷)・・一 同
11.献金461 苦きを忍びて (霊の戦い) 賛美リーダー
12.感謝祈祷 ・指 名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・寺東真也師
15.報告・・・・司会者

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第52主日年末感謝礼礼拝式順序 2020年12月27日 午前10:30?

1.黙祷・・・一 同
2.賛美22 御神の愛をば (賛美・感謝) ・・一同起立
3.使徒信条・・司会者
4.主の祈り・・司会者
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美100 御国をも御座をも (生涯)・・賛美リーダー
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「臨在の旅路」
聖句 出エジプト40:34?38 / 民数記9:15?23

講壇 「臨在の旅路」  出エジプト40:34?38 / 民数記9:15?23

「二日でも、一月でも、あるいは一年でも、雲が幕屋の上にとどまって、去らなければ、イスラエルの子らは宿営を続けて旅立たなかった。しかし、雲が上ったときは旅立った。」(民数記9:22)

 出エジプトの一つのテーマは「臨在」です。神が共におられるという事、その幸いをみことばから聞きたいと思います。

○最初のモーセの反応

 モーセが神の山ホレブで最初に召命を頂いた時のことです。

「わたしが、あなたとともにいる。これが、あなたのためのしるしである。このわたしがあなたを遣わすのだ。あなたがこの民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で神に仕えなければならない。」(3:12)

 と神様は仰ってくださいました。神様が臨在くださる。その旅を守り、成功へと導き、目的を果たさせてくださると言うのです。しかし、負け癖がついていた当初のモーセは、神様の名前はなんだとか(3:13)、神様から遣わされたなんて信じてもらえないとか(4:1)、自分は口下手だとか(4:10)とさんざん言い訳をしました。見えない神様の臨在では納得いかず、実の兄のアロンの協力を得ることが出来て初めて召命に応える事ができたのです。
 しかし、モーセは神様との信仰の旅路の中で研ぎ澄まされていきました。

○私の臨在が共に行く

 金の子牛事件によってイスラエルは及第点にも及ばない結果となり、その時は神様の怒りと憐みから神様の代わりに御使いが遣わされようとしていました。しかし、モーセは霊的に覚めていたので、それでは意味がないと「どうかあなたの道を教えてください。」(33:13)と祈ったのでした。すると、神様はイスラエルと共に約束の地への旅路に同行しないと言っておられた事を変更され「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」(33:14)と臨在の確約を頂いたのでした。

○幕屋に臨在が宿る

「そのとき、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。」(40:34)
 35章からはモーセが主に命じられたとおりに幕屋を立てたことが記されています。結果から言うとその幕屋に主の臨在が満ち溢れます。そこには、民の悔い改めと感謝と進んで献げる献げものが存在したのです。そして、民の心のこもった献げものは、幕屋こ建設に奉仕する者の目から見てもあり余り、これ以上持ってこられても困るほどになったと言うのです。(35:4?36:7)。
 心を見られる主は、民の心のこもった献げものによって建てあげられた幕屋に濃厚な臨在を表わしてくださったのです。それは、昼は雲の柱、夜は火の柱となって臨在が可視化されたのです。

〇主の臨在と共に(36?38)

 人生は旅に似ています。聖書も信仰者を旅人と呼びます(?ペテロ2:11)。イスラエルの民は、主の臨在が進むと進み、留まると留まりました。主の臨在は民を守り、育み、行く道を示してくださるのです。人生の旅路を主と共に歩ませて頂きましょう。

10.祈祷(黙祷)・・一 同
11.献金275 信仰こそ (信仰) 賛美リーダー
12.感謝祈祷 ・指 名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・寺東真也師
15.報告・・・・司会者

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第51主日クリスマス親子礼拝式順序 2020年12月20日 午前10:30?

1.黙祷・・・一 同
2.賛美76 諸人こぞりて (クリスマス) ・・一同起立
3.使徒信条・・司会者
4.主の祈り・・司会者
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美87 入れまつる家あらず (クリスマス)・・賛美リーダー
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.証・・・・・・・・ 澤村悦子姉 9.聖書・・・・司 会 者
10.メッセージ・寺東真也師
主題 「神の御旨と導き」
聖句 マタイ2:1?12

講壇 「神の御旨と導き」  マタイ2章1?12節

「まことに、主は私たちをさばく方、主は私たちに法を定める方、主は私たちの王、この方が私たちを救われる。」(イザヤ33:22)

○東方の博士たち

 聖書には「東方」としか記されていませんが、おそらく、ペルシャ地方(現在のイラク・イランのあたり)だと言われています。バビロン帝国、ペルシャ帝国において覇者となった事のある地方です。イスラエルも捕囚の時代をそこで過ごしていました。
 博士という言葉は「マーゴイ」で賢者とも訳せます。当時は天文学が最高の科学であり、宗教的な占星術も取り入れられたものでした。聖書的には、占いは忌み嫌われるべきものであり、異邦人の業の最たるものです(申命記18:9?12)。要するに、この東方の博士たちは、忌み嫌うべき異邦人の代表的な人物たちだったのです。
 このような人達でしたが、聖書は博士たちを、羊飼い達に次いで、幼子イエスを礼拝するように導かれた人々として記しています。

○全ての人に開かれる救い

「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。」(第一テモテ2:4)
 なぜ、イエス・キリストの御降誕を似つかわしくない者たちが祝うように導かれたのでしょうか。それは、全ての人への神の愛の情熱ゆえなのです。
 ちなみに羊飼い(ルカ2:8?20)は、貧しい、何も持たない者たちの象徴であり、特にユダヤ人を指します。博士たちは、羊飼いの正反対であり、裕福で、神よりも自分たちの知識と世俗に溺れる異邦人の象徴です。そのどちらもが、救い主へと招かれているのです。

○神の導き
1.みことばとの出会い

 博士たちは当時の賢者であり、学も、立場も、色んな物を持っていました。実際にイエス様に素晴らしい高価な献げ物(黄金、乳香、没薬)をしています。信奉する星を頼りにイスラエルの首都エルサレムまで来ましたが、その先が見えてきません。そこで、当時の王、ヘロデを尋ねたのです。
 現代の私たちを取囲む環境は、イエス様の時代よりも、科学が飛躍的に進歩し、この世で人類に並ぶものは何もないと言う程栄華を極めている状況です。しかし、永遠に変わらない真理、本当の愛など科学では届きえない部分が存在するのも確かです。
 博士たちは、自分たちの天文学、占星術の限界を感じて、ヘロデを尋ねたのですが、そこで開かれたのは、聖書のことば、預言者のことばでした。預言者の指し示す地ベツレヘムに導かれ、そこで救い主を礼拝したのです。

2.従いへの導き

 神のことばなる主イエス・キリストに出会った博士たちは、礼拝者となり、喜び溢れます。そして、この世的な利害関係や、世渡りのうまさというしがらみを超えた、神の御声に聞き従う大切さを学びます。
 ヘロデは博士たちを利用しようと、嘘のお願いをして、幼子を亡き者にしようとしました。しかし、神様は夢で博士たちにヘロデのもとに戻る事を禁じました。すると博士たちは、権力者にゴマをすることなく、神の御声に聴き従い、別の道から帰って行ったのです。
そう、キリストに出会って彼らは変えられたのです。

11.祈祷(黙祷)・・一 同
12.献金86 み使いのたたえ歌う (クリスマス) 賛美リーダー
13.感謝祈祷 ・指 名
14.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
15.祝祷・・寺東真也師
16.報告・・・・司会者

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第50主日礼拝式順序(アドベント第三週) 2020年12月13日 午前10:30?

1.黙祷・・・一 同
2.賛美79 天には栄え (クリスマス) ・・一同起立
3.使徒信条・・司会者
4.主の祈り・・司会者
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美99 馬槽の中に (生涯)・・賛美リーダー
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「栄光から栄光へと」
聖句 出エジプト34:29?33/ 第二コリント3:12?18

講壇 「栄光から栄光へと」  出エジプト34:29?33/ 第二コリント3:12?18

「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(第二コリント3:18)

 モーセはもう一度、シナイ山へと登るように主に導かれました。イスラエルの裏切りで、破棄されてしまった契約の板をもう一度手に入れる為です。モーセはこの度も40日40夜主と共にシナイ山の上で教えを頂いたのでした。新しい十戒の石板を携えて山から下りてきたモーセの顔は主の輝き反映して輝いていたのです。

○主の栄光の輝き

 モーセの祈りは大胆なものでした。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」(33:18)。身の程知らずでありながら、純粋なモーセの祈りに神様は、神様の栄光の一部(後姿)を見せてくださったのです。それだけでも、モーセの顔は霊的に、そして物理的に輝いたのでした。
 しかし、モーセは主の栄光を反射させたにすぎません。その元なる栄光の輝きは、神様にあります。私たちの主イエス様は変貌山にてモーセとエリヤとエルサレムにおける十字架について栄光の輝きの中で話し合いました。その姿は、顔が太陽のように輝き、衣は光のように白く輝いたのでした(マタイ17:2)。又、ヨハネは黙示を受けた時、復活のキリストの栄光を見てその足元に死んだように倒れこんでしまうのでした(黙示録1:12?19)。
「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。」(へブル1:3)

○輝きに覆いを

 モーセの顔が輝いているのを見て民は恐れました(34:30)。主の栄光の前に、自分の責任で立とうとする時、人は恐れを覚えます。どれほど真面目で良い人と評判の人でも、神様の前には罪人であり、義であることは出来ないからです。又、モーセ自身も民の為と共に、神の律法を聞き、臨在に触れた経験によって輝いていた顔は一時的なものでしたので、その輝きは時間と共に無くなっていく事に寂しさを覚えたのでしょう。自ら輝く顔に覆いをしたのです(第二コリント3:13)。
 この栄光の輝きに覆いをかけるという行為は、真理に目を背けて神のことばに向き合っている状態です。イエス様を通して、神様の栄光が現わされ、律法による死で終わる契約から、恵みと信仰によるいのちの契約に移っている事に気が付かないのです。今も、多くのイスラエルの人々は覆いがかけられている状態でイエス様の救いを受け入れることが出来ません。

○覆いを取り除くキリスト

 「しかし、イスラエルの子らの理解は鈍くなりました。今日に至るまで、古い契約が朗読されるときには、同じ覆いが掛けられたままで、取りのけられていません。それはキリストによって取り除かれるものだからです。・・・しかし、人が主に立ち返るなら、いつでもその覆いは除かれます。」(3:14、16)
 イエス様は十字架によって神と人とを隔てる覆いを取り去ってくださいました。このお方を信じる時に、聖霊が与えられます。そして、信じた者たち造り変えて、栄光から栄光へと主と同じかたちに変えられていく恵みを与えてくださるのです(3:18)。

10.祈祷(黙祷)・・一 同
11.献金411 御恵みの高嶺に (聖霊) 賛美リーダー
12.感謝祈祷 ・指 名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・寺東真也師
15.報告・・・・司会者

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第49主日礼拝式順序(アドベント第二週) 2020年12月6日 午前10:30?

1.黙祷・・・一 同
2.賛美75 神の御子は  (クリスマス) ・・一同起立
3.使徒信条・・司会者
4.主の祈り・・司会者
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美68 久しく待ちにし (アドベント)・・賛美リーダー
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「祈りの語らい」
聖句 出エジプト33:7?11

講壇 「祈りの語らい」  出エジプト33章7?11節

「主は、人が自分の友と語るように、顔と顔を合わせてモーセと語られた。」(出エジプト33:11)

 神様との祈りは語らいの時です。しかし、当時の祈りのスタイルは儀礼的でありました。宿営(民が寝食をするテント群)の外に神様と語らう専用のテントを張り、そこを会見の天幕と呼んでいました。今は私たちが主を求めて祈ると時、どこでも、会見の天幕となります。それは、イエス様が神様との懸け橋となってくださったがゆえに、イエスの名によって祈る祈りは、すべて父なる神様に届くからです。モーセは民を代表し(民がそう願った部分も強いが)、神様の前にいつも出ていたのです。そして、神様ご自身もモーセを選び、愛し、特別に扱われていたのです。

○友と語るように

 神様はモーセが祈る時、人が友と語らうように、顔と顔を合わせて語られました。これは、何の忖度もなく、分かりやすく、真っ直ぐに語られたという事です。
 イエス様は弟子たちに対してこう言われました。

「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。」(ヨハネ15:13?15)

 イエス様は私たちをも友と呼んでくださるお方です。親友ラザロを友と呼ぶのは当たり前だとして(ヨハネ11:11)、中風で寝たきりの人に対しても(ルカ5:20)、極めつけは、ご自分を裏切った直後のイスカリオテ・ユダに対しても、「友よ」と呼んでくださるのです。
 神様は罪を許容されるお方ではありません。しかし、どこまでも愛のお方であり、人が悔い改め、立ち返ってくるのを待っていてくださり、受け入れられるように、唯一の道である主イエス様の救いをなしとげてくださったのです。

○モーセの率直な祈りに応えてくださる神様

 金の子牛事件の後、神様はイスラエルの民に対して悲報を告げられます。それは、約束の地に上っていく時、神様ご自身は共に行かないと言うもので、その代わりに、一人の使いを遣わすというものです(1?3節)。
 それに対して、モーセは必死に訴え祈ったのです。確かに神様の提案は理に適っており、約束の地を手に入れる事の可能性は跳ね上がるでしょう。ただし、あまりにも神様との距離があり、モーセは納得できないのです(12?13)。それに対して、モーセに対する神の臨在を約束くださいました(14節)。
 更にモーセは、自分だけでなく、民全体と共にいてくださいと願います(15?16節)。すると、その事もしようと前言を撤回してくださるではありませんか(17節)。
 最後にモーセはとても厚かましい願いを祈ります。「あなたの栄光を私に見せてください。」(18節)。要するに神様の全てを知り、見たいと願ったのです。神様はそんなモーセに顔を見る事は、人間には無理だが、後姿(栄光の片鱗)を見せてあげようと約束してくださったのです(20?23節)。
 神様は純粋な信仰の祈りを無下になさらず耳を傾けてくださるお方なのです。

10.祈祷(黙祷)・・一 同
11.献金195 イエスの許に (祈り) 賛美リーダー
12.感謝祈祷 ・指 名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・寺東真也師
15.報告・・・・司会者

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第44主日召天者記念礼拝式順序 2021年10月31日 午前10:30?

1.黙祷・・・一 同
2.賛美233 驚くばかりの (救い) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美468 やがて天にて(天国)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
☆.賛美471 われ聞けり かなたには(天国)・・聖歌隊
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「再会の希望」
聖句 第一テサロニケ4:13?18

講壇 「再会の希望」  第一テサロニケ4:13?18新約P.412

『すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。』 テサロニケ人への手紙 第一 4章16?17節

 人間にとって最大の謎であり恐怖は「死」ではないでしょうか。人はどんなに優秀であろうと、美しかろうと、時間の前には無力であり、いずれ死んでいきます。
 身内の、又は親しい方の死を経験した人は死の力の強大さを知っていると思います。人間は死に対してあまりにも無力です。

○死は人間が招いたもの

 死は人間が自ら招いたものなのです。聖書には「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6:23新約P.307)と記されています。私たちには自由が与えられています。しかし反対に言うならば、責任が伴うのです。日本国の法律に触れるような事も罪ですが、人間にとって一番の罪は、造り主なる唯一の神様を信じないで背を向けることです。
 罪によって人は死を招いてしまったのです。自業自得といえるでしょう。

○死の種類

 聖書には二種類の死が記されています。第一の死は「肉体の死」を意味します。私たちの心臓が止まり、脳の活動が停止する事を指します。
 第二の死は「永遠の滅び」を意味します(黙示録20:14新約P.516)。肉体の死の後に人は審判を受けなければなりません。罪を犯したものは永遠の滅びに入らなければならないのです。

○死に打ち勝たれたイエス

 しかし、イエス様は死に打ち勝ってくださいました。罪を犯した人間を救うために自ら犠牲になって十字架のうえで私たちの罪の罰を受けてくださったのです。
 しかもそれだけにとどまらず、三日目に死に打ち勝ちよみがえってくださいました。
 イエス様の身代わりの十字架を信じる事で人は救われて、第二の死を免れ、天国に入る事が許されるのです。

○キリストにある死者

 『また私は、天からの声がこう言うのを聞いた。「書き記せ、『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである』と。」御霊も言われる。「しかり。その人たちは、その労苦から解き放たれて安らぐことができる。彼らの行いが、彼らとともについて行くからである。」』(黙示録14:13)「死は勝利に?み込まれた。」(第一コリント15:54新約P.352)と聖書は言います。
 イエス様を信じて死んだ人はもう第二の死を味わうことがありません(黙示録2:11)

○再会の時

 クリスチャンにとって死は恐怖ではなくなるのです。なぜならば、死んだ後主の御許で安らぐことが出来るからです。イエス様の救いなしでは、もう一度死ななければならない私たちですが、主の完全なる救いの故に、体は死んでも命を得るのです。そして、いつか再会の時が訪れます。
その時はイエス様がもう一度この地上に来てくださいます時です。
 その時、死んだ者も、生きている者も、空中に引き上げられて、私たちの救い主なるイエス様とお会いできるのです。私たちはもう二度と死ぬことのない栄光の体に変えられて、二度と愛する方々と、又、何より愛する主と分かたれることなく永遠に過ごす事が出来るのです。

 私たちの希望は、終わることのない、くすぶることのない真の希望です。再会の希望を胸に信仰の馳せ場を走らせていただこうではありませんか。

10.祈祷・・一  同
11.献金518 きよき岸辺に(永遠)・・一  同
12.感謝祈祷 ・・司会者
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.報告・・・・・・司会者

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第43主日礼拝式順序 2021年10月24日 午前10:30?

1.黙祷・・・一 同
2.賛美453 ガリラヤ湖の岸にて(いやし) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美148 夕べ雲焼くる(再臨)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「イエス様の心」
聖句 マルコ1:40?45

講壇 「イエス様の心」  マルコ1:40?45新約P.67

『イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。』 マルコの福音書1章41節

 イエス様はガリラヤ地方において、福音を宣べ伝え、病を癒やし、悪霊を追い出し、神の栄光を現わされました。
 ある町で、イエス様のもとに一人の人が来て跪いて懇願しました。彼は「ツァラアト」に冒されていたのです。

○ツァラアト

 ツァラアトを昔の日本語の聖書では「らい病」と訳していました。しかし、ツァラアトはらい病とは違うのと、らい病自体が差別的な扱いを受けてきた歴史を鑑み、しかも、ツァラアトという病は宗教的にも忌み嫌われており、らい病を患っておられる方への差別を助長する事にもなりかねない事から、他の聖書では「重い皮膚病」や「規定の病」と訳すようになりました。
 この病の特徴は皮膚や表面に現れる事です。人(レビ13:1?46旧約P.196)だけにとどまらず、衣服(レビ13:47?59)や家屋(レビ14:34?53)も感染する病です。そして何より病というよりも、神様との関係の中で「汚れている」とされたのです。なので、患部か改善された時に癒されたというよりも「きよめられた」とされるのです。
 ツァラアトの感染者は町の中に住むことは許されず、町の外で生活し、人と接触する可能性がある場合は、警告の為に自ら、「汚れている!」と大きな声で叫ばなければならないのでした(レビ13:45?46)。感染者は生ける屍のような人生が待ち受けていました。

○お心ひとつで

「お心一つで、私をきよくすることがおできになります。」(40節)
 ツァラアトに冒された人はひれ伏して言いました。
 これは、ツァラアトに冒された人の精一杯の信仰告白でした。ツァラアトはただの病ではないので改善し、きよめられる事はありましたが、それは神の御業でしかあり得ない事だったのです(第二列王記5:7旧約P.657)。言わば、イエス様を神と同等に信じ、期待したわけです。

○深く憐れまれるイエス様

 このツァラアトに冒された人を見てイエス様は深く憐れまれたのです。この憐みは感情で終わるものではありませんでした。「汚れている」この人に「触れ」たのです。ツァラアトに冒された人に触れる事は自身も汚れる事であり、律法違反です。しかし、イエス様はあえてその患部にさわったのです。もちろん、願いの通りにお心一つ、願い、権威のことばをもってきよめる事もできたでしょう。しかし、この人の心にふれる為に、愛の手は延ばされるのです。

○イエス様のきよさにふれる

「わたしの心だ。きよくなれ」
 イエス様こそ、私たちの汚れをすべてきよめてくださるお方です。ツァラアトに冒された人の体は一瞬のうちにきよめられ、ツァラアトは消えてなくなりました。これは私たちの罪をきよめてくださるイエス様の救いの型です。

○そこにイエス様はいますか?

 最後に、ツァラアトをきよめられ、救われたこの人は、イエス様のいいつけを破り、人々に言いふらしてしまいます。悪気はなかったのかもしれません。しかし、時に悪気のない自分本位の行動や言動は、イエス様の為になると思っても、イエス様を外に追いやるような事かも知れません。私たちの内におられる御霊の声を、いつも聞き、従う者であらせていただきましょう。

10.祈祷・・一  同
11.献金382 心から願うのは(きよめ)・・一  同
12.感謝祈祷 ・・司会者
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.報告・・・・・・司会者

x

第42主日礼拝式順序 2021年10月17日 午前10:30?

1.黙祷・・・一 同
2.賛美244 信ずる者は何びとも(救い) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美466 来り給う主を(再臨)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「権威ある新しい教え」
聖句 マルコ1:21?28

講壇 「権威ある新しい教え」  マルコ1:21?28新約P.66

『「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」』 マルコ1章15節

 イエス様がガリラヤ地方において一番活動された町はカペナウムでした。故郷のナザレでもそうでしたが、安息日にイエス様は会堂に行かれてそこで神を礼拝し、聖書を読み、それを解き明かされたのでした。そして、イエス様のメッセージには一貫した中心的な教えがありました。

「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)

 そして、その教えには権威があり、今までにないような新しい教えであって多くの人が驚き感動を与えるものだったのです。

○律法学者たちのようではなく

 イエス様の教えは、律法学者たちのようではなかったと聖書に記されています(22節)。律法学者たちの教えとはどのようなものだったのでしょうか。それは、先達の教えや、伝統的な考え方を論理立てたものでした。聖書に書かれている律法を基盤としているのですが、「A先生はこういった」とか「伝統的な教えによればこうすべきだ」と言ったような教えだったのです。決してそのような教えがダメだったというのではありません。ある意味、先達の教えや伝統は軽んぜられるべきではないのですが、イエス様は父なる「神」を解き明かすお方であり(ヨハネ1:18新約P.176)、又聞き的な教えではなく、神の御心を真っ直ぐに、そして、違えることなく、語られたのです。

○教えの真理

 礼拝中に一つの事件が起こりました。会堂にいた一人の男が叫びながらイエス様に絡んで来たのです。

「ナザレの人イエスよ、私たちと何の関係があるのですか。私たちを滅ぼしに来たのですか。私はあなたがどなたなのか知っています。神の聖者です。」(24節)

 この男性は汚れた霊につかれていたのです。イエス様は、汚れた霊を権威あることばでしかりつけられました(25節)。すると、汚れた霊は大声をあげて男性から出ていったのです。そこにいた人々はこの奇跡を目の当たりにして称賛し、イエス様の評判はガリラヤ一帯に広がるほどでした。しかし、イエス様は称賛を受ける為にこの世界に来られたわけではありません。見える業だけで称賛したカペナウムの人々は救いの真理に至る事はなかったのです(マタイ11:20?24新約P.21)。

 汚れた霊はイエス様の「福音=罪の赦しと新しいいのちへの招き」を薄める為に、大声を出し、イエス様の正体を明かします。イエス様こそ神のひとり子で救い主であるという事を知っているだけでは救われません。悪霊でも「神」を正しく知ってはいるからです(ヤコブ2:19新約P.460)。知って、その救いは自分の為であるという事を信じる事がとても大切なのです。

10.祈祷・・一  同
11.献金185 来れ誰も(神の招き)・・一  同
12.感謝祈祷 ・・司会者
13.受洗50年祝福式・ 寺東真也師
14.献児式・・・・寺東真也師
15.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
16.祝祷・・・・・・寺東真也師
17.報告・・・・・・司会者

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第41主日礼拝式順序 2021年10月10日 午前10:30?

1.黙祷・・・一 同
2.賛美185 来れ誰も(神の招き) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美147 起きよ夜は明けぬ(再臨)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「イエス様の招き」
聖句 ルカ5:1?11

講壇 「イエス様の招き」  ルカ5:1?11新約P.117

『「恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕るようになるのです。」』 ルカ5章10節

 神様は私たちを、招いていてくださいます。私たちの自覚があるなしに関わらず、その手は伸ばし続けられているのです。12弟子のペテロはイエス様の恵みの招きによって人生が180度変えられました。

○最初の出会い

 ペテロの本名はシモンと言います。イエス様と最初の出会いの時にペテロというニックネームをイエス様につけていただいたのですが、イエス様に出会うきっかけとなったのは、バプテスマのヨハネの弟子であった弟、アンデレの紹介に拠りました。

・神の子羊

 アンデレは、バプテスマのヨハネが「見よ、神の小羊」(ヨハネ1:36新約P.177)とイエス様を指して言っているのを聞いて、イエス様について行ったのです。イエス様は「神の小羊」と呼ばれました。それは、私たちの罪の為のいけにえとして御自身を十字架で身代わりになる事を指しているのです(第一ペテロ1:18?19新約P.466)。

・ペテロ(岩)と呼ばれる。

 イエス様はシモンに目を留められました。イエス様に私たちは隠し事や、嘘は通用しません。全てをお見通しのその眼は、ペテロの全てを知った上でペテロ(岩)と御名づけになったのです。岩のように頑固な部分があったのかもしれませんが、ペテロが将来大切な信仰告白をします。それは「イエスとは誰か?」という問いに対してのもので、「あなたは生ける神の子キリストです。」(マタイ16:16新約P.33)と答えたのです。この信仰告白の上にイエス様は私の教会を建てるとおっしゃったのです(マタイ16:17?19)。

〇ガリラヤ湖畔における招き

 ルカの5章におけるガリラヤ湖畔における出会いは、福音書の記事としては、二度目の出会でした。しかし、この出会いが、ペテロの人生を大きく変えるものとなったのです。

1.深みに漕ぎ出しなさい

 イエス様は漁を終えたペテロの舟を演台にして、港に溢れかえる群衆に教えを説かれたのです。その後、イエス様はペテロにプロの漁師からすると無意味で馬鹿げた事を御命じになられました。
「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」(ルカ5:4)
 漁業は基本的に深夜から明け方に行うものです。すでに、漁の後、網の片づけまでし、イエス様の説教が終わった時間に、漁をしても魚は一匹も取れる時間帯ではない事をペテロは分かっていたのです。しかし、ペテロは、イエス様がおっしゃるのであればと、その「ことば」通りにしたのです。すると、考えらえないほどの魚がとれて助けを呼んで2艘の舟が沈みそうになったのです。

・罪深さを知る

 イエス様の奇蹟を目の当たりに見て、ペテロが示されたのはイエス様の偉大さだけではありませんでした。それは、自分の罪深さだったのです(ルカ5:8)。

2.こわがらなくてもよい

 イエス様は自分の罪と、イエス様の聖さのギャップに震えおののいている者を正式に弟子としてお招きになりました(ルカ5:10)。
 罪に沈んでいた者が、神の命と使命に生きる者とされたのです。

10.祈祷・・一  同
11.献金395 主はガリラヤ湖の(献身)・・一  同
12.感謝祈祷 ・・司会者
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.報告・・・・・・司会者

x

第40主日礼拝式順序 2021年10月3日 午前10:30?

1.黙祷・・・一 同
2.賛美338 山行くも 海行くも(恵の成長) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美460 こは世の末の徴なるべし(霊の戦い)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「信仰と不信仰」
聖句 ルカ4:16?30

講壇 「信仰と不信仰」  ルカ4:16?30新約P.115

『イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」』 ヨハネ20章29節

 イエス様の働きの中心はイスラエル北部地方のガリラヤでした。イエス様の育った町ナザレもガリラヤ地方にありました。今日の聖書箇所の舞台はイエス様が育った町ナザレです。

○いつもしているとおり

 イスラエルにはシナゴーグ(会堂)が地域に存在し、毎週安息日にはそこに集い、礼拝をささげるのです。そして、その礼拝の中心は、聖書の朗読とメッセージでした。イエス様もまた、この集いを大切にされ、毎週、集っていたことが次のように書かれています。

「・・・いつもしているとおり安息日に会堂に入り朗読しようとして立たれた。」(16節)

 当たり前だけれども大切な事です。それは、礼拝がクリスチャンの生活の中心であるという事です。

〇聖書のメッセージはイエス・キリストご自身(ヨハネ5:39)

 ナザレの会堂において、イエス様はいつものようにみことばを朗読するために立たれました。そして、手渡されたイザヤ書の61章冒頭部分を朗読されました(18?19節)。そして、そのみことばを解き明かして語られました。

「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」(21節)

 このメッセージを切り口に、イエス様は神の権威によって恵みを語られたのです。
 直接的に自分は救い主キリストであるとは語られませんでしたが、そのメッセージを素直に聞き、受け入れるとご自分が救い主であると宣言されたのと同じでした。そして、実際に、ガリラヤのカペナウムとエルサレムにおいて力あるしるしを行っていたことがナザレにも伝わっていたのです。そもそも、聖書はイエス様を証している書なのです。

〇ナザレの不信仰

 イエス様は故郷を愛していた事でしょう。しかし、心の距離が近過ぎるがゆえに、致命的な欠点を抱えている事もご存じでした。ナザレの人々はイエス様を幼子の時から知っており、父母兄弟も知っています。その現状の知識が、邪魔をして不信仰を生み出してしまったのです。

「・・・この人はヨセフの子ではないか・・・」(22節)

 イエス様のメッセージを聞いて感動し褒め、驚きました。しかし、この人は、ヨセフの子でそれ以上でもそれ以下でもないと頭をよぎるのです。
 また、イエス様は彼らの心の本心を見抜いて、目に見えるしるしを欲している事を指摘しされました。 ナザレの不信仰の原因は、目に見えるものに囚われてしまったことです。

〇信仰は見えない神を信じ従う事

 イエス様は預言者が遣わされた先について皮肉を込めながらも、信仰の大切さを伝えようとされました。一つ目の例は「エリヤとやもめ」(第一列王記17:9?16旧約P.631)二つ目の例は「エリシャとナアマン将軍」(第二列王記5:1?19旧約P.657)です。どちらも神様を信じ、預言者を信頼してそのことばに聞き従った者達です。そこに神は神の恵みと栄光、癒しを現わされたのです。

「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」(ヨハネ20:29)

「さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(へブル11:1新約P.451

10.祈祷・・一  同
11.献金282 見ゆるところによらず(信仰)・・一  同
12.感謝祈祷 ・・司会者
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.報告・・・・・・司会者

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第39主日礼拝式順序 2021年9月26日 午前10:30?

1.黙祷・・・一 同
2.賛美433 天つ真清水(宣教) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美467 世の終わりのラッパ(再臨)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨・・オンライン指名
 イスラエル・・オンライン指名
 日   本・・オンライン指名
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「イエス様が与える水」
聖句 ヨハネ4:3?15

講壇 「イエス様が与える水」  ヨハネ4:3?15新約P.181

『この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。』 ヨハネ4章13?14節

 人間の体の約60%は水です。その5%が体内から奪われただけでも、人は瀕死の状態になるといわれています。私たちにとって水は無くてはならぬものです。しかし聖書にはこの水よりも、もっと大切な生ける水がある事を述べています。

○心の渇き

 私たちの心はとても繊細にできています。美しいものに感動し、喜びの出来事に心躍ります。しかし、鋭い批判の言葉に傷ついたり、罪によって汚い思いが心を鈍らせる事もあります。
 肉体的な乾きは、水を摂取する事によって潤されますが、心の渇きはいくら水分をとったからと言って潤される事はありません。

〇心の渇きを潤す生ける水

 今日のテキストの一文は、サマリヤの女とイエス様の会話の中から出てきます。心の渇きを潤す水はイエスキリスト様のみが与えうるのです。この生ける水の特徴を2点あげてみましょう。

1.存在価値を与える水

 当時、ユダヤ人とサマリヤ人は敵対関係にありました。しかし今日の物語の中でユダヤ人であるイエス様が、敵国の女に親しげに頼み事をしている所から始まるのです。
 普通、仲の悪いもの同士が鉢合わせた場合は、無視するか、争いごとが起きます。それは相手を認めていないからです。人から認めてもらえない事は人にとって大きな痛みとなるでしょう。しかしイエス様は、敵味方関係なく、全ての人を愛されその人の価値を認められました。
 イエス様が与える水は、私たちに存在価値を与えてくれるのです。そうあなたは高価で尊いと。

2.心を癒す水

 このサマリヤの女は結婚を5回失敗して、現在は男と同棲中でありました。聖書は離婚も不貞も姦淫の罪にあたります。この時代背景からすればこの女は大罪人です。ユダヤ人であれば石打刑で処刑されなければなりません。そこでこの女はひっそり暮らしていたのでしょう。
 イエス様はこの女の事を全て御存知で女と会話をしておられました。女は自分が全て知られており、それでも、一人の人として認めて下さっているイエス様に心を開いたのです。それだけにとどまらず、町の人にイエス様の事を知らせに行ったのです。もし心の傷が癒されなければ自分の恥を他人に伝える事はできないでしょう。イエス様が与える水は、心の傷を癒して下さいます。

〇泉となって湧きでます

 この水で心を潤された者は、その人の心から生ける水が湧いてくるというのです。イエスキリストによる、喜び、平安、愛、希望が湧き出でます。
 この生ける水はあなただけでなく、あなたの周りの方々をも潤す水となるのです。一人の罪深い女からサマリヤの町の方々がイエス様を信じて心が潤されました。そして永遠のいのちへの水が湧き出るものへと変えられたのでした。
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」(ヨハネ7:37、38)

10.祈祷・・一  同
11.献金267 渇けるわれは上より賜う(救いの喜び)・・一  同
12.感謝祈祷 ・・司会者
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.報告・・・・・・司会者

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第38主日礼拝式順序 2021年9月19日 午前10:30?

1.黙祷・・・一 同
2.賛美171 今日まで守られ(感謝) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美331 今日まで来たのは(信頼)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨・・オンライン指名
 イスラエル・・オンライン指名
 日   本・・オンライン指名
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「年をとっても大丈夫」
聖句 創世記18:9?15

講壇 「年をとっても大丈夫」  創世記18:9?15旧約P.26

『主にとって不可能なことがあるだろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子が生まれている。」』創世記18章14節

 人生100年時代と言われていますが、健康寿命という事も課題で叫ばれています。年を重ねるうえで、これからは健康で長生きする事が一つの目標になっています。
 年をとると今まで出来ていたことが出来なくなってきます。すると、考え方や発想が消極的になるものです。しかし、聖書は、年をとる事を悲観的には捉えていません。反対に、年老いた信仰者たちが、用いられている姿を聖書の中に見る事ができます。

○アブラハム100歳サラ90歳

 アブラハムが99歳の時、神様はアブラハムに現われてくださり、サラによって子孫が繁栄する事を語られました(創世記17:1、15?16)。その翌年、サラが出産する時にはアブラハム100歳、サラ90歳という年齢になります。
 信仰の父アブラハムと言えど、その事をすぐに受け入れる事は出来ず、その時すでに女奴隷によって与えられていたイシュマエルが頭をよぎり、イシュマエルの祝福を願ったのです(創世記17:17?18)。しかし、主が用意されていた計画は人知を超えたもので、既に与えられているイシュマエルではなく、100歳と90歳の夫婦に与えられる子どもを通して、約束の祝福は紡がれていく事だったのです。

〇三人の人の姿をもって主が

 主は、その年のうちにこの世の罪の縮図であるソドムとゴモラを審判するために三人の人の姿を持って地上に下り立たれました。そして、その前にもう一度、アブラハムを訪問し、再度、子供が与えられる事を告げたのです。
 そして聖書はその時の現実を明確に記しています。

「アブラハムとサラは年を重ねて老人になっていて、サラには女の月のものがもう止まっていた。」(11節)

 そして、サラもアブラハム同様同じように自分たちの現実を見て心の中でつぶやきます。

「年老いてしまったこの私に、何の楽しみがあるでしょう。それに主人も年寄りで。」(12節)

 年を重ねるという事は祝福であり、経験と知識が積み重ねられ、人格的にも成熟してゆきます。しかし、それと同時に、現実を見る目が養われている事が災いし、霊的な事を見る事を忘れてしまう時、神様の祝福を見過ごしてしまう危険もあるのです。

〇冷笑から笑顔へ

 アブラハムもサラも主が語られる人知を超えた祝福を受け止めきれず、悪い冗談のように聞こえたことでしょう。しかし、神様は悪い冗談を言われるお方ではないのです。神様への二人の反応は隠れたところで「冷笑」したのでした(創世記17:17、18:12)。
 これに対して、神様は指摘されています。
「主はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑って、『私は本当に子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに』と言うのか。」(13節)
 信仰を持ちきれないアブラハムとサラに、それでも神様は男の子が与えられると恵みの言葉を残されました(14節)。
 そして、本当にサラに男の子が与えられ、その名を「イサク(笑う)」と名付けたのです。それは、主への悔い改めと心からの感謝、そして喜びを込めた「笑」だったのです。神には不可能な事はありません。年をとっていても大丈夫です。神様があなたを用いたいと願って下さっていますから。

10.祈祷・・一  同
11.献金275 信仰こそ(信仰)・・一  同
12.感謝祈祷 ・・司会者
13.敬老祝福祈祷 ・・寺東真也師
14.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
15.祝祷・・・・・・寺東真也師
16.報告・・・・・・司会者

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第37主日礼拝式順序 2021年9月12日 午前10:30?

1.黙祷・・・一 同
2.賛美109 友よ読みしや(受難) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美204 わが友にます(臨在)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨・・オンライン指名
 イスラエル・・オンライン指名
 日   本・・オンライン指名
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「新しく生まれる」
聖句 ヨハネ3:1?15

講壇 「新しく生まれる」  ヨハネ3:1?15新約P.179

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』ヨハネ3章16節

 イエス様が公生涯に入られて最初の過ぎ越しの祭りを祝われた時、宮きよめをされた後、様々なしるしを行われ、その奇跡を体験し、見た人々は、表面的とはいえ信じる者が沢山起こされました。しかし、ユダヤ教の指導者たちには目をつけられ、敵対視されるようになりました。しかし、指導者の中でも、教師と呼ばれ、特に律法を厳格に守る事を大事にするパリサイ人で、議会の一員であったニコデモという人は、イエス様に好感を持ち、教えをもっと聞きたいと訪問してきたのです。

○ニコデモの隠れた悩み

 ニコデモは他のパリサイ人たちに比べて心が柔らかく、霊的にも鋭い人であったのでしょう。イエス様に対して次のように言いました。

「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」(2節)

 イエス様は弱冠30歳、ニコデモは年を重ねている大ベテランの域です。そのニコデモが遜ってイエス様に語り掛けているのですが、それに対して、イエス様はニコデモの心を見抜き、次のように語り掛けられました。

「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(3節)

 ニコデモは経験もある優秀なパリサイ人でした。しかし、その心の奥の部分においては、神の国を見、そして、そこに入る為の確信がなかったのでしょう。

〇肉の事、霊の事

 肉の事、霊の事  ニコデモは聖書の全てを信じる信仰熱心なユダヤ教の指導者でした。しかし、人間(肉)の限界がここにあります。例え、聖書を穴が開くほど読み、勉強したとしても、神の霊によらなければ、霊的な事柄を理解する事も、信じる事もできないのです。
 イエス様の言葉を肉的な事としか理解できず、老いてから、母の胎にもう一度入る事は出来ないと考えたからです。しかし、イエス様は霊の事を語っておられたのです(エゼキエル36:26旧約P.1480)。

〇新しく生まれる為に

1. 水と御霊によって生まれる(原則)
 「水」とは信仰告白であり、バプテスマ(洗礼)を指します。そして、御霊とは神の霊の事であり、神を信じる信仰によって救われる事を指しています。

2. イエスを仰ぎ見る(方法)
 唯一、天から下ってこられた救い主(13節)。人間は自力で天国に入れるものはいません。しかし、神の子は天から地に下り、救いを成し遂げる為に、人間になられたのです。
 出エジプトの際の荒野に於ける救い(14節、民数記21:9旧約P.278)。これはイエス様の十字架の救いの型です。

3. 信じる者は永遠の命を持つ(結果)
 イエス様の十字架は、人類の罪の身代わりとして罰を受ける為でした。この事を信じる者には、もれなく永遠の命が与えられるのです。(15節)

10.祈祷・・一  同
11.献金31 豊けき主の愛(賛美)・・一  同
12.感謝祈祷 ・・司会者
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.報告・・・・・・司会者

x

第36主日礼拝式順序 2021年9月5日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美220 恵みの光は(神の愛) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美471 われ聞けり かなたには(天国)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「真のしるし」
聖句 ヨハネ2:13〜25

講壇 「真のしるし」  ヨハネ2:13〜25新約P.178

『イエスは彼らに答えられた。
  「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。」』ヨハネ2章19節

 イスラエルでは年に三回、エルサレムにのぼり、神殿にて神様を礼拝し祭り(過ぎ越しの祭り、七週の祭り、過越しの祭り)を祝う事が律法で定められていました。
 過越しの祭りが近づいた時、イエス様もこの事を大切にされ、エルサレムに上られました。

○妥協の産物

 イエス様が神殿に来られて見た光景は怒りを覚えるようなものでした。
「宮の中で、牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを見て」(14節)

1.いけにえの商店
 牛、羊、鳩とは神様への献げ物であり、神殿に於ける礼拝では欠かせないものでした。この動物の献げものを祭壇に献げる事で、罪が赦され、受け入れられるからです。遠方から家畜を連れてくるのは至難の業です。だから、エルサレムにて神様に献げるいけにえを購入するのは理に適っていたと言えるでしょう。

2.両替所
 又、両替人がいました。当時のイスラエルはローマの属州になっていましたから、通貨はユダヤ貨幣ではなく、ローマ貨幣であり、皇帝カエサルの肖像画が刻まれていました。神殿に献げるお金は律法に記されているユダヤ貨幣(シェケル)にする必要がありました。それで、両替所が必要になったのです。

3.神の為?神殿運営の為?
 イエス様は神殿にてこのような事が行われているのを見て行動に移されました。
「細縄でむちを作って、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らして、その台を倒し」(15節)
 そして、言われました。
「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家にしてはならない。」(16節)
 イエス様は商売を否定されたのではありません。神殿を治めていた祭司やレビ人達が、商売人と結託して、当時の神殿運営の為に資金集めの手段にした事に異を唱えたのです。又、それだけにとどまらず、聖職者たちは私腹を肥やし、贅沢な暮らしをしていたと言われています。イエス様はその事を見抜き、十字架にかかられる直前にも、同じことをされ、次のように言われました。
「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしている。」(マタイ21:13新約P.43

〇真のしるし

 祭司たちは、制度を否定された事に腹を立て、そこまでの事を言い、行動したのなら、しかるべき「しるし」を見せろと迫りました(18節)。その事に対して、イエス様は
「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。」(19節)と応えられました。祭司たちは当時の神殿が46年建築にかかった事を指摘しましたが、イエス様はご自分の最後であり真のしるしとしての、十字架の死と、葬り、そして、復活を指して発言されたのでした(21節、第一コリント15:3〜4新約P.349)。

〇人のうちにあるもの

 イエス様は、この後、エルサレムにおいて様々な「しるし」を行われ、その事で信仰を持った人々が沢山おこりました。しかし、その人々にご自分をお任せにならなかったのです。それは、人の中にある罪(自己利益主義)の故でした。

10.祈祷・・一  同
11.献金378 罪の世人らに(きよめ)・・一  同
12.感謝祈祷 ・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.報告・・・・・・司会者

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第35主日親子礼拝式順序 2021年8月29日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美474 主がわたしの手を(子ども) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美475 まもなくかなたの(子ども)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「弱くても勇士に」
聖句 士師記6:11〜40

講壇 「弱くても勇士に」  士師記6:11〜40(旧約P.436)

『主の使いが彼に現れて言った。「力ある勇士よ、主があなたとともにおられる。」』士師記6章12節

 神様はどのような人物を用いられるのでしょうか?力の強い人、頭の賢い人、特技を持っている人、特別な人。私は無関係と感じている人が多いと思います。しかし、聖書には次のように書いてあります。

「しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。」(第一コリント1:27〜28(新約P.327)

 今日は、士師の時代、弱虫であったギデオンという人が選ばれた事からみことばに聞きたいと思います。

○士師の時代

 モーセの次世代を率いたヨシュアは百十歳で召されました。それまでは、イスラエルの人々は完璧ではありませんでしたが、神様を信じ、従順に歩んでいたのです。しかし、ヨシュアの死後、枷が外れたかのように、イスラエルの人々は好き勝手なことをやりだし、ついには、異邦人が拝み、信仰している土着の偶像であるバアルやアシェラ、アシュタロテを拝み、仕えるようになったのです。その結果、約束の地に住む異邦人たちの手に主はイスラエルを引き渡し、略奪され、立ち向かう事ができなくなったのです(士師記2:8〜15)。
 すると、イスラエルの民はその境遇に叫び声をあげて助けを求め出したのです。神様は憐れんで、彼らに救いをもたらす「裁き司」を送られたのです。ギデオンもその裁き司の一人です。

〇力ある勇士よ?

 ギデオンが聖書に登場するシーンはぶどうの踏み場で小麦を打っているというものです。これは略奪者と化したミディアン人に見つからないようにコソコソ隠れて作業していたのです。そこに、神の使いが現れて告げます。
「力ある勇士よ、主があなたとともにおられる。」(12節)
 敵に恐れをなして、隠れながら作業をしている男に向かっていう言葉ではないと感じませんか?

1. 言い訳(15節)

2. 証拠であるしるしの要求(17節)

3. 隠れてミッション実行(25〜27)

4. 再度のしるし要求(36〜38節)

5. 再々度しるし要求(39〜40)

〇あなたのその力で

 神様はご自分の栄光を現わすためにあえて弱いものを用いられるお方です。そこに必要なのは力ではありません。信仰における勇気なのです。主が共におられるがゆえに、私たちは勇士になれるのです。
「行け、あなたのその力で。あなたはイスラエルをミディアン人の手から救うのだ。わたしがあなたを遣わすのではないか。」(14節)

10.祈祷・・一  同
11.献金486 雄々しくあれ(子ども)・・一  同
12.感謝祈祷 ・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.報告・・・・・・司会者

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第34主日礼拝式順序 2021年8月22日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美2 たたえよ救い主イエスを(賛美) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美427 ただ主を(証し)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「最初のしるし」
聖句 ヨハネ2:1〜11

講壇 「最初のしるし」  ヨハネ2:1〜11(新約P.178)

『イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。』ヨハネ2章11節

 イエス様が救い主として公に活動を開始されて最初の奇蹟は、ガリラヤのカナにおける結婚式の中で行われました。
 イエス様のお母さんであるマリヤとイエス様、そして、弟子達もこの結婚式に招かれていました。結婚する二人にとっては一生に一度の大切な式です。しかし、その大切な式の中で問題が起こりました。十二分に用意しておいたはずのぶどう酒が足らなくなったのです。

○求めなさい(3〜5節)

 予想以上に祝宴が盛り上がったのでしょうか。ぶどう酒が足りないなどとは、せっかくの祝福ムードに水を掛ける事になります。イエス様の母マリヤは、息子に相談します。しかし、あの優しく、母思いのイエス様とは思えないような答えが返ってきたのです。
「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」(5節)
 イエス様は意地悪したわけでも、機嫌が悪かったわけでもありません。公私をしっかりと分けられていたのです。すでに、イエス様は公におけるメシア(救い主)として、生きておられたのです。マリヤの素晴らしい所は、ここで二つ挙げる事ができます。

1.神様からのお告げ(みことば)を思いめぐらせつづけていた。(ルカ2:19、51(新約P.111)
 イエス様の誕生の時、御使いと羊飼いから告げられた事、そして、イエス様が12歳の時の祭りにおける出来事を、心に留め、思いめぐらし続けていたのです。
 みことばを心に留め続けていなければ、きっと、「親に対してなんて事を言うの!」となったでしょう。

2.あきらめなかった。
 マリヤはイエス様の答えを聞いて、怒りもせず、怯みもせず、あきらめないで、きっと何とかしてくれると信じて話を進めたのです。
 マリヤの信仰と求めを見られたイエス様は御手を述べられました。

〇御霊の言える如くせよ(5〜8節)

「あの方が言われることは、何でもしてください。」
 マリヤが手伝いの人たちに告げた言葉です。イエス様は、100リットルは入る水瓶六つに水を満杯にするように指示し、あるタイミングでそれを汲み、宴会の世話役に持て行くように言われました。
 ただの水を600リットルも井戸から汲んでくるというのは重労働ですが、お手伝いの方は文句を言わずに従いました。すると、その水は極上のぶどう酒に変化したのです。これは、内住される聖霊の声に聞き従う者の型です。

〇神の業は完全(9〜10節)

 神様が行われる事は完全です(詩篇18:30(旧約P.948))。人の想像をはるかに超える御業です。イエス様は人類が生きるか滅びるかの大問題を解決しに来られました。その優しさ故にとても個人的な世界クラスに比べるとたわいもない問題にも、完全に応えられたお方です。
 だとするならば、私たちの命をも完全にお救いになる事の出来るお方のです(へブル7:25(新約P.445))。そして、その御業は、その御声に従い、信じた者に現されるのです。

10.祈祷・・一  同
11.献金181 重荷を負いて(神の招き)・・一  同
12.感謝祈祷 ・司 会 者
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.報告・・・・・・司 会 者

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第33主日礼拝式順序 2021年8月15日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美214 イエスより流るる(神の愛) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美150 旅人なるこの身にとりて(再臨)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「来なさい。そうすれば分かります。」
聖句 ヨハネ1:35〜42

講壇 「来なさい。そうすれば分かります。」  ヨハネ1:35〜42(新約P.177)

『イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすれば分かります。」そこで、彼らはついて行って、イエスが泊まっておられるところを見た。そしてその日、イエスのもとにとどまった。』ヨハネ1章39節

 ヨハネがイエス様の証をした翌日、二人の人物がイエス様の弟子となりました。その二人の人物は、もとはバプテスマのヨハネの弟子でした。一人は聖書に記述があり、後の12弟子の一人でアンデレです。もう一人は記されていないのですが、ヨハネの福音書の記者であるヨハネ自身ではないかと言われています。

○ヨハネからイエスの弟子へ

 バプテスマのヨハネは、イエス様が歩いて行かれるのを見て、自分の弟子たちに「見よ、神の子羊」と言いました。その発言を聞いて、なんとその二人の弟子は、ヨハネのもとを離れて、イエス様についていったのです。普通であれば、弟子を取られたという事で大きな問題になる所でしょう。しかし、ヨハネは弟子たちが自分を離れて、イエス様についていく事を「良し」としました。自分の使命を理解していたからです。
 二人の弟子たちが後を付いて来るのを知ってイエス様は二人に問いました
「あなたがたは何を求めているのですか。」
 すると、弟子たちは答えました。
「ラビ(訳すと、先生)、どこにお泊まりですか。」
 彼らは、イエス様の宿泊場所を知りたかっただけなのでしょうか。そうではありません。これは、これからお供させ欲しいという意思表示だったのです。彼らは、ヨハネが証したイエスという人物こそ、自分たちが求めるお方、救い主ではないかと期待していたのです。

〇信仰への順序

 人は誰しも「何か」を求めて生きるものです。そして、人にとって本当に必要なものだけれども、罪によって失われてしまったもの、それは、神様との良き関係なのです。イエス様はご自分を通して、神様と罪に沈む人々を和解させるために来られたのです(コロサイ1:22(新約P.402))。
 その和解を受ける事が出来る唯一の方法は「信仰」です。そして、信仰を得る為には、順序があり、イエス様の弟子たちの言葉に大きなヒントがあるのです。
1. 来なさい
2. そうすれば分かります。
 本来ならば、物事を理解し、納得してから行動を起こすのが普通ではないでしょうか。分かってから行くのです。反対に言えば、分からない限りは行かない。しかし、信仰は少し順序が違います。神様というお方を知る事は人間の力では役不足なのです。断片を知る事が出来ても全貌を知る事は到底できません。だから、イエス様は信仰を持ちたいならば、実際にまずわたしのもとに来なさいと言われるのです。そうすればわかるようになると(霊的に理解する事ができるようになる)。

〇理解し、信じ、伝えたアンデレ

 二人の弟子は、イエス様のもとにとどまりました(39節)。そして、霊的な理解が与えられ一つの結論にたどり着いたのです。

「私たちはメシア(訳すと、キリスト)に会った」(41節)

 イエス様は待ち望んでいた「キリスト(救い主)」なのだと。そして、その事実を、伝えなくてはおられなくなり、兄弟のシモンに伝えたのです。このシモンが、あのペテロです。
 信仰を難しく考える必要はありません。主のもとに行けば、御霊が理解させてくださり、信仰へと導いてくださるのです。まず、主のもとに来てください。

10.祈祷・・一  同
11.献金177 「われに来よ」とイエス君は(神の招き)・・一  同
12.感謝祈祷 ・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.報告・・・・・・司会者

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第32主日礼拝式順序 2021年8月8日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美354 迷えるとき光を(確信) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美470 懐しき住まい(天国)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「御霊の導き、悪魔の試み」
聖句 ルカ4:1〜13

講壇 「御霊の導き、悪魔の試み」  ルカ4:1〜13(新約P.115)

『しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。』第一コリント15章57節(新約P.352)

 バプテスマのヨハネから洗礼を受けたイエス・キリストは聖霊に満ちてヨルダンから帰ってきました。そして、公生涯に入られる前に、御霊に導かれて荒野へ行き、悪魔の試みを受けられたのでした。

○御霊の導き

 イエス様は私たちの救い主であり、神のひとり子です。また同時に私たちと同じ人間となってくださったお方です。私たちの良き模範として、その生涯をおくってくださったのです。
 イエス様は自分の好きなように生きられたのではなく、父なる神の御心にそって生き、具体的には御霊の導きに従われたのです。本来ならば、イエス様が訓練を受ける必要などないのです。しかし、神様は私たちの為に、あえて、イエス様を荒野に御霊によって導いたのです。
 御霊の導きはいつも祝福と繁栄への大路へと続いているわけではありません。また、すぐに脱出の道へ導かれるのでもありません。あえて、試みの為に、苦難の道へと導かれる事もあるのです。それは、私たちが更に、神様を知り、成長するために、神様が必要だと知っておられるからです。

〇悪魔の試み(誘惑)

 神様があえて、荒野に私たちを導かれる時、その意図は、私たちの為であり、善意からです。しかし、それに便乗する者がいます。悪魔です。神様は悪魔が働くのをあえて全くなしにはしません。悪魔がここぞとばかりに試み、誘惑してくることでしょう。イエス様も悪魔の試みに遭われました。悪魔の試み(誘惑)の意図は神様の意図とは正反対で、私たちの挫折と滅びにおける信仰離れです。失敗を繰り返させ、神様の恵みから目を逸らし、信仰から離れさせるのです。

〇イエス様の戦い方

 悪魔は三つの誘惑をしてきました。一つ目は空腹を覚えておられるイエス様に対して神の子であれば、石をパンに変えてみなさいというものでした(3節)。二つ目は、悪魔が高い所に連れて行き、一瞬でこの世界の全てを見せて、もし自分の前にひれ伏すならば、全てあなたのものとなると誘惑しました(6、7節)。三つめは、神殿の屋根に連れて行き、神の子であれば、ここから飛び降りてみなさいと言い、聖書を引用して(詩篇91:11〜12(旧約P.1031))誘惑しました(9〜11節)。
 これらに対してイエス様は正しくみことばを引用して悪魔に立ち向かわれました(4節=申命記8:3(旧約P.329)、8節=申命記6:13・10:20、12節=6:16)。
 みことばこそ最大の武器です(エペソ6:17(新約P.392))。

〇試みに勝利され続けたイエス様

 荒野における悪魔の試み(誘惑)にイエス様が勝利されると、悪魔は逃げ去り、離れて行きました。こう書かれてあります。

「悪魔はあらゆる試みを終えると、しばらくの間イエスから離れた。」(13節)

 あの手この手で悪魔はイエス様を誘惑しましたが、イエス様は勝利されました。そして「しばらくの間」イエス様から離れたとあります。この後も、悪魔はイエス様を誘惑し続けたのです(マタイ16:23(新約P.34))。しかし、イエス様は私たちの為に、十字架にまで従われ、死にまでも勝利してくださったのです。

10.祈祷・・一  同
11.献金361 栄えの王にます主の(確信)・・一  同
12.感謝祈祷 ・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.報告・・・・・・司会者

x

第30主日礼拝式順序 2021年7月25日 午前10:30?

1.黙祷・・・一 同
2.賛美34 主よ汝が前をば(悔い改め) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美150 旅人なるこの身にとりて(再臨)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「罪からの救いのプロローグ」
聖句  ルカ 1:1〜17

講壇 「罪からの救いのプロローグ」   ルカ 1:1〜17(新P.106)

『彼はエリヤの霊と力で、主に先立って歩みます。父たちの心を子どもたちに向けさせ、不従順な者たちを義人の思いに立ち返らせて、主のために、整えられた民を用意します。』マラキ4章2節(旧P.1635

 マラキ書の時代から約400年の空白期間があり、ついに、マラキ書の最後に預言されたみことばが成就された事から新約の時代が進みだしたのです。

「見よ。わたしは、主の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、この地を聖絶の物として打ち滅ぼすことのないようにするためである。」(マラキ4:5〜6)

〇不可能から始まるプロローグ

 罪からの救いが成就される為に、イエス・キリストが誕生され、十字架の死と復活を成し遂げられました。ただ、その前に、序章(プロローグ)として、エリヤの霊と力を宿した人物が登場し、主の道を整える事を主は備えてくださっていました。
「荒野で叫ぶ者の声がする。「主の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ。」(イザヤ40:3(旧P.1230)
 荒野で叫ぶ者の声として、そして、旧約の預言者たちが預言した一番の希望である「救い主」の為に備えられた人物、それはバプテスマのヨハネでした。
 しかし、バプテスマのヨハネの誕生に至るまでも、神様の介入があり、そこには信仰のドラマが用意されていたのです。
 絶対に不可能な事柄から、希望は生まれてくることを示すために。

〇ザカリヤとエリサベツ

 祭司の家系であるザカリヤとエリサベツという敬虔で信仰深い夫婦がいました(ルカ1:5〜6)。しかし、妻であるエリサベツは不妊症を患い、子供がいませんでした。そして、すでに子を宿せる年齢はとうに過ぎていたのです(ルカ1:7)。
 神様のご計画は不思議です。バプテスマのヨハネは、不妊に悩む夫婦、しかも、高齢で出産は不可能であるこの夫婦を用いて、バプテスマのヨハネは誕生してきたからなのです。

〇大切なのは信仰

 祭司は大勢いたので、ダビデの時代に24の組に分けられ(第一歴代誌24:7〜19(旧P.744))、夫のザカリヤはその第八の組、アビヤの組に属していました。それぞれの組は一週ずつ宮で奉仕をしていましたが、ある日、アビヤの組の奉仕の時、聖所で香を焚く奉仕にザカリヤがくじで選ばれたのです。この奉仕に選ばれることは希で、祭司にとって光栄な奉仕でした。
 一人で聖所に入り、香を焚き、祈りをささげ、奉仕をしていたザカリヤに御使いが現れて、年老いた不妊の自分の妻、エリサベツが男の子を生み、救い主の道備えをする者となる子を生むことを告げたのです。しかし、ザカリヤは信じる事が出来ず、実際にその子が生まれるまで口がきけないようになりました。沈黙をしていた間、ザカリヤはみことばの真実さ、そして、神様の全能をもう一度、深く信じる時となったのです。子供が生まれてくるとき、親の名前にちなんで名づける事をせず、御使いが告げたヨハネという名をつける事によって、ザカリヤは信仰告白へと導かれたのでした。
 大切なのは、みことばと神様に対する信仰です。イエス・キリストに対する信仰によって救いを受ける事のプロローグがここに記されているのです。

10.祈祷・・一  同
11.献金244 信ずる者は何びとも(救い)・・一  同
12.感謝祈祷 ・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.報告・・・・・・司会者

x

第29主日礼拝式順序 2021年7月18日 午前10:30?

1.黙祷・・・一 同
2.賛美264 われ贖われて(救いの喜び) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美471 われ聞けり かなたには(天国)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「罪からの救いのエピローグ」
聖句 マラキ3:16?4:6

講壇 「罪からの救いのエピローグ」  マラキ3:16?4:6(旧P.1634)

『しかしあなたがた、わたしの名を恐れる者には、義の太陽が昇る。その翼に癒やしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のように跳ね回る。』マラキ4章2節

 マラキ書は旧約聖書の最後の預言書です。マラキと言う預言者の詳しい事は聖書には記されていません。おそらく、第二神殿が完成し、その後ネヘミヤの指導によって城壁も完成した後に、イスラエルに遣わされた預言者です。

○繰り返される罪

 ゼルバベル、大祭司ヨシュア、預言者ハガイ&ゼカリヤ、学者エズラと主に油注がれたリーダー達のもと帰還民は荒廃したエルサレムを立て直し、神様に与えられた信仰のライフスタイルを立て直して行きました。しかし、歴史は繰り返されると言いますが、マラキが預言した時には、罪の腐敗が民を侵していました。一般の信仰者もさることながら、その腐敗は、神に仕える祭司にまで及び、国中で神に喜ばれない価値観と行いがまん延していたのです(マラキ1:6)。

1. 神を汚す(最良から残り物へ)
   マラキ1:7?14

2. 結婚観の喪失(離婚問題)
   マラキ2:13?17

3. 神のものを盗む(献金問題)
   マラキ3:8?12

4. 神への信頼の欠如
   マラキ3:13?15

〇純粋な信仰者の勝利

 主を畏れ、信頼し、信じる者たちはどの時代にも少数ですが存在しました。しかし、見せかけの信仰者が、多数派となり、見える所は律法が整備され、口伝律法が幅をきかせて、御霊の自由はなくなり、自らで自らの首を絞めている事にも気付かない者たちが多数派を占めるようになっていきました。
 いや、だからこそ、イエス・キリストは来られたのです。このお方こそが、人を救い、きよめ、造り変えることの出来る方(マラキ3:1?4)。
 イエス・キリストを信じる者は「神の宝」となるのです(マラキ3:17)。
 イエス・キリストが再び来られる日、信じなかった人々にとっては恐怖の日となるでしょう(マラキ4:1)。しかし、信じて待ち望む者にとっては、暗い夜が明けて、義の太陽が昇るように、輝かしい永遠の御国が到来する希望の日になるのです(マラキ4:2)。

〇旧約のエピローグから新約のプロローグへ

「見よ。わたしは、主の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、この地を聖絶の物として打ち滅ぼすことのないようにするためである。」(マラキ4:5?6)
 旧約聖書の最後のみことばは、新約へと繋がる希望の預言で締めくくられています。
 真の神である主に心を向けさせ、多くの預言者が語り伝えた来るべきメシヤ、救い主の道備えをするために、預言者エリヤを遣わすというのです。このエリヤこそ、主の到来を公に示したバプテスマのヨハネなのです(マタイ17:9?13)。
 旧約聖書のエピローグは、新約聖書のプロローグへと繋がり、イエス・キリストの救いの物語へと紡がれていくのです。
 罪が増すところに、それ以上の神の恵みがまず増し加えられ、神の愛が罪に沈み凍った心を溶かし、暖めてくださるのです。

10.祈祷・・一  同
11.献金376 如何に汚れたる(きよめ)・・一  同
12.感謝祈祷 ・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.報告・・・・・・司会者

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第28主日礼拝式順序 2021年7月11日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美24 聖なるわれらの主(賛美) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美272 救い主の愛と(救いの喜び)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」
聖句 ゼカリヤ4:1〜14

講壇 「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」  ゼカリヤ4:1〜14(旧P.1615)

『彼は私にこう答えた。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。
 『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の主は言われる。』ゼカリヤ4章6節

 ゼカリヤはハガイと同時期にエルサレムへの帰還民に対して預言をした預言者でした。ハガイは神殿建設の再開に向けてイスラエルを励ましました。ゼカリヤは神殿建設が再開してから預言を通して励ましを与えたのです。ゼカリヤの預言は、8つの幻とイスラエルの回復を含む終末預言が語られています。

○そびえ立つ問題

 ハガイの預言によって霊が奮い立たせられたゼルバベルと大祭司ヨシュアと民は、神殿建設を再開したのでした。しかし、問題はなくなったわけではありません。

1. リーダーへの不信感(能力)

 主が選ばれたリーダーとしてゼルバベルと大祭司ヨシュアが立てられていましたが、帰還後、神殿の基が据えられた後、思いがけなく工事を中断しなければならなくなり、その後の、経済的な困難を歩む中で二人のリーダーとしての求心力は落ちていった事でしょう。
 3章には天の法廷でサタンに責め立てられる大祭司ヨシュアの幻描かれています。そこにはボロボロの服を来たヨシュアがいますが、神様の恵みによって、礼服を着せて頂き、頭には聖いターバンが巻かれます(ゼカリヤ3:3〜5)。
 4章は金の燭台と二本のオリーブの木の預言が語られますが、金の燭台はイスラエルを指し、日本のオリーブの木はゼルバベルとヨシュアを指しているのです。(ゼカリヤ4:9〜14)
 リーダーと民の間に不和がある時、勝利ある道を歩めません。そこで、主はこの二つの幻を通して、大祭司として聖別し、二人を再度選ばれたしるしとして与えられたのです。

2. ペルシャの王という山(権力)

「大いなる山よ、おまえは何者か。おまえはゼルバベルの前で平らにされる。」(ゼカリヤ4:7)
 神殿建設を再開したものの、そこには材料が圧倒的に足りません。ペルシャが口添えして供給のルートを再開しなければ、資材が手に入らないのです。しかも、周りは敵だらけです。再開した事を王に告げ口をし。妨害を図ったのです。しかし、この時不思議な事に妨害できず、再開の手を止める事が出来なかったのです。なぜなら、「主神の目が注がれていた」(エズラ5:5(旧P.822))からです。そして、さらに、知恵が与えられ、ペルシャの王ダレイオス王にキュロス王の時代に許可が確かに出された事を確かめて欲しい旨打診するや、ダレイオス王は書庫を調べ、キュロスの書簡を発見し、イスラエルの主張が正しい事を知って、全面的な支援に乗り出したのです。そして、4年の歳月を経て神殿は完成したのです(エズラ6:1〜15)。
 神様は、その時代の権力者や組織をも統べ治めるお方です。

○わたしの霊によって

 第二神殿建設はゼルバベル、大祭司ヨシュア、そして、イスラエルの民の信仰と働きの功績は大きいと言えます。しかし、それ以上に、その者たちを用いたお方が聖書は描き出しているのです。大祭司をきよめ、二人のリーダーに油(聖霊)を注ぎ、時の王をも統べ治めて、主のご計画は主の霊によって進められたと言っても過言ではありません。
 今、私たちにも聖霊は注がれています。聖霊の導きと働きに信頼し、行動を起こすとき、主は私たちを豊かに用いてくださるのです。

10.祈祷・・一  同
11.献金414 主は力をわれに注ぎ(聖霊)・・一  同
12.感謝祈祷 ・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.報告・・・・・・司会者

x

第27主日礼拝式順序 2021年7月4日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美185 来たれ誰も(神の招き) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美381 朝日の光は(きよめ)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「あなたがたの歩みをよく考えよ」
聖句 ハガイ1:1〜15

講壇 「あなたがたの歩みをよく考えよ」  ハガイ1:1〜15(旧P.1608)

『今、万軍の主はこう言われる。「あなたがたの歩みをよく考えよ。」』ハガイ1章5節

〇絶望の中で

 ハガイはユダヤ人が捕囚からイスラエルに帰ってきてから最初の預言者です。
 前538年にバビロンに代わってペルシャが覇権を握った時、ペルシャのクロス王は神様の導きによってイスラエルへの帰還と神殿建設の為に命令を出したのです。ようやく自分たちの国に公的に帰れることが決まったのです。ユダヤ人達はダビデの子孫であるゼルバベルと祭司であるヨシュアをリーダーとしてエルサレムに帰り、一生懸命神殿の礎を定めました。それが完成した時、歓喜と泣き声が同時に上がったのです(エズラ3:11〜13(旧P.820))。
 しかし、それから待っていたのは、異邦人である敵からの嫌がらせ、そして、飢饉でした。乳と蜜の流れる祝福の地であった約束の地が、その時、帰還民を拒むかのような苦難が待ち受けていたのです。それらの中で、ユダヤ人達は、意気消沈し、神殿建設を中断し、前520年まで沈黙が続きました。
 そのような中で神様はハガイを起こされ語られたのです。

○歩みをよく考えよ

 帰還民であるユダヤ人達は、荒廃したエルサレムでそれでも必死に生きていました。自分の住む場所を確保し、食べるための畑を耕し、種を蒔きました。しかし、神様は、リーダーたちにハガイを通して「あなたがたの歩みをよく考えよ」とお迫りになったのです。いったい何が悪かったのでしょうか。

○神の国とその義とを

 イエス様は「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」(マタイ6:33(新P.11))と教えられました。
 そもそもどうして、国が亡び、捕囚に連れていかれる事となったのか、それは、信仰生活の堕落と欠如です。私たちを愛してくださる神様の事を忘れて、いつの間にか神様の事を第2第3にしてしまった結果、罪に溺れて自滅したと言っても過言ではないでしょう。
 決して、ゼルバベルやヨシュア達は贅沢していたのではありません。しかし、自分の生活にいっぱいいっぱいになってしまって、まず神の国を第一とする事を怠ったのです。
「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住む時だろうか。」(ハガイ1:4)

○神様最優先の祝福

 私たちの現状も決して楽な事はありません。いや、これから更に厳しい生活になるでしょう。しかし、主は言われます。「山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、栄光を現す。─主は言われる─」(ハガイ1:8)
 信仰によって私たちの、能力、時間、財、すべてをまず主に聖別する事が最高の祝福に生きる道なのです。

10.祈祷・・一  同
11.献金291(3回) 神の国と神の義(信仰)・・一  同
12.感謝祈祷 ・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.献児式505 主われを愛す・・・・・寺東真也師
16.報告・・・・・・司会者

x

第26主日礼拝式順序 2021年6月27日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美112 カルバリ山の十字架(受難) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美149 いつ主は来り給うや(再臨)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「神は救いの勇士だ」
聖句 ゼパニヤ3:14〜17

講壇 「神は救いの勇士だ」  ゼパニヤ3:14〜17(旧P.1606)

『その日、エルサレムは次のように言われる。「シオンよ、恐れるな。気力を失うな。あなたの神、主は、あなたのただ中にあって救いの勇士だ。主はあなたのことを大いに喜び、その愛によってあなたに安らぎを与え、高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」と。』ゼパニヤ3章16〜17節

 預言者ゼパニヤはユダの王ヨシヤの治世の預言者でした。しかも、高祖父(四親等)はヒゼキヤ王で王族の親類にあたります。同世代の預言者はナホム、ハバクク、エレミヤがそうです。

〇律法における改革の限界
・罪に翻弄される南ユダ

 ヒゼキヤ王は神様を信じ、従う、信仰者として秀でた王でした。しかし、その子供のマナセは最悪王の異名を持つ王であり、南ユダが信仰的に又、倫理的に地に落ちた治世であったと言わざるを得ません。
 そして、マナセの子アモンもマナセの道を歩み、偶像礼拝を推奨し、不信仰の道を邁進します。混迷を極める最中、アモンは家来たちに謀反を起こされ殺害されます。そして、弱冠8歳で最善王と呼ばれるヨシヤが戴冠したのでした。

・罪に抗う南ユダ

 そして、ヨシヤは神様を畏れ、父や祖父の道を行かず、高祖父のヒゼキヤのように主に喜ばれる道を歩みました。主は、ヨシヤを祝福し、失われていた律法の書を宮の奥から発見させ、宗教改革を大々的に行ったのでした。

・罪に競り負ける南ユダ

 しかし、確かにヨシヤは素晴らしい評価に値する働きをなし、見える所の不信仰の芽は摘み取りましたが、マナセの蒔いた罪の種は、しつこく、人々の心に根差し、多大な影響を与えていたのです。それゆえ、聖書はヨシヤを称賛するが、その裁きの決定は揺るがないものになっていた事が記されています(第二列王記23:24〜27(旧P.697))。

・律法の限界

 決してヨシヤ王のしたことは間違った事ではありませんでした。罪を悔い改め、神の律法に記されている事を、国を挙げて全力で理想の形に回復しようとしたのです。しかし、人の力と意思で神様の基準に達する事、義とされる事は不可能でした。ゼパニヤは一見、問題のないヨシヤ王の時代の南ユダの信仰のほころびを主にあって見つけ、指摘し、裁きの預言を行ったのです(ゼパニヤ1:4〜6、12(旧P.1602))。律法は私たちに自分の罪深さを知るための聖なる基準とはなりますが、神の前に義とされるための決定打にはならないのです。

〇神は救いの勇士となられた

 ゼパニヤの預言は、律法を守り行うだけでは裁きを免れる事のない現実を告げただけではありませんでした。最後は神様ご自身による救いがもたらされる預言と希望が語られています。
 そう、救い主なる神を信じる信仰を持つ者たちが起こされる事が語られ(ゼパニヤ3:12)、喜び歌え!と声高々に命じられます。
 そこには、神様ご自身が私たちのただ中に来られ、救いの勇士としてご臨在くださると言うのです(ゼパニヤ3:14〜17)。
 まさしく、これは、私たちの主イエス・キリストにあって成就されました。神様は私たちが神様の基準をクリアする事が出来ない事をご存じで、あえて、律法を与えられました。それは、自分たちの力を頼りとするのではなく、神様こそが私たちの力であり、救いである事を知るためだったのです。イエス・キリストが十字架の上で、罪の罰を一身に背負って下さり、その死によって清算くださった事を信じる信仰こそが、本当の命への唯一の道なのです。

10.祈祷・・一  同
11.献金260 わが胸に響く歌あり(救いの喜び)・・一  同
12.感謝祈祷 ・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.報告・・・・・・司会者

x

第24主日礼拝式順序 2021年6月13日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美358 神なく望みなく(確信) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美367 イェスよ この身を(きよめ)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「神の裁きと希望の明日」
聖句 ナホム1:1〜7

講壇 「神の裁きと希望の明日」  ナホム1:1〜7(旧P.1592)

『主はねたんで復讐する神。主は復讐し、憤る方。主はご自分に逆らう者に復讐し、敵に対して怒る方。主は怒るのに遅く、力強い方。決して罰せずにおかれることはない。』ナホム1章2〜3節

 ナホム書は預言者ナホムによって書き記された書です。時の大国であるアッシリアの首都ニネベに対して主より裁きが宣言され、語ったのでした。そして、その預言どおりにニネベは紀元前612年に、バビロンとメディアの連合軍に陥落し、その治世は終わりを迎えたのでした。

〇一度は悔い改めたニネベ

 ナホムの100年以上前に預言者ヨナがニネベに遣わされました。やはり、その時も、アッシリアの積み上げた罪によって神より裁きがもたらされ、40日後にニネベは滅びると言う預言でした(ヨナ3:4(旧P.1579))。しかし、その時、預言を聞いたニネベの人々は、王を含む、全ての人が悔い改めて神の赦しを頂いたのでした(ヨナ3:10)。
 神様はニネベが憎くて滅ぼそうとしておられるわけではなかったのです。むしろ、神様に立ち返るならば、大きな恵みによって赦しを与えたいと心から願っておられた事をヨナに伝えています(ヨナ4:11)。

〇悔い改めという鍵が必要

 ヨナ書における恵みと赦しは無条件に与えられたものではありませんでした。
 神様は正義と校正と秩序の神です。その聖さは絶対であられます。
無秩序や不正、悪を放置されるお方ではありません。
 それと同時に神の愛のご性質のゆえに、「怒るのに遅く」(3節)「慈しみ深いお方」「ご自分に身を避ける者を知り、苦難の日には砦となってくださるお方」(7節)です。
 神様の前にへりくだり、悔い改めてくる者の、砕かれた魂をないがしろにはされません(詩篇51:17(旧P.986)))。
 しかし、悔い改めず、その心が頑ななまま神を侮る者には容赦なく、神の裁きが下されるのです。
 もしかすると、ニネベは一度赦された恵みを逆手にとって、今回も裁きは下されず、預言は成就しないと高を括っていたのかもしれません。

〇慰めの視点での裁き

 ナホム書は、アッシリアそして、その首都ニネベに対する裁きの預言ではありますが、終末論的な、悪に対する神の最終的な裁きの予表でもあるのです。それは、信仰者にとっての「慰め」でもあるのです。
 主はねたんで復讐する神(1節)、決して罰せずにおかれることはない(3節)と記されていますが、それは、「敵」に対してです。この世の理不尽、不正、貧困、戦乱、全ては罪から派生しているものであり、その中心には悪の根源である敵なる悪魔が控えているのです。
 主は再び地上に再臨され、その時、猛威を振るっている、偽キリスト、偽預言者とそれに従う人々を火の池に投げ込まれます(黙示録19:11〜21(新P.514)))。
 そして千年王国の成就の後、悪魔も最終的に火の池へと投げ込まれるのでした(黙示録20:7〜10)。
 ナホムとは「慰める者」という意味があります。神の神聖なる裁きは、罪に汚された世界を贖い、愛と正義の神が義と公正をもって統べ治められる神の国の完成へ直結しているのです。
 私たちはその素晴らしい栄光の明日を心から待ち望む者へと召されたのです。

10.祈祷・・一  同
11.献金463 喜びもて(再臨)・・一  同
12.感謝祈祷 ・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.報告・・・・・・司会者

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第22主日礼拝式順序 2021年5月30日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美266 罪 咎を赦され (救いの喜び) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美147 起きよ夜は明けぬ  (再臨)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「愛を知って欲しい」
聖句 ヨナ4:1〜11(旧P.1579)/ ルカ15:25〜32(新P.150)

講壇 「愛を知って欲しい」  ヨナ4:1〜11/ ルカ15:25〜32

『主は言われた。「あなたは、自分で労さず、育てもせず、一夜で生えて一夜で滅びたこの唐胡麻を惜しんでいる。ましてわたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。そこには、右も左も分からない十二万人以上の人間と、数多くの家畜がいるではないか。」』ヨナ4章10〜11節

 ヨナはヤロブアム2世の時代に北イスラエルへ遣わされた預言者でした(第二列王記14:23〜25(旧P.678))。しかし、神様はヨナに対して後に北イスラエルが滅ぼされる事となるアッシリアの主都であるニネベに行って預言せよと命じられたのです。
 ヨナは、神様の命令に従わず、逃亡します。なぜかと言うと、万が一、自分が預言した事で、ニネベの民が悔い改めたならば、憐みに富んでおられる神様は赦して、下そうとしておられる災いを思い直されるお方であるとヨナは知っていたからです(ヨナ4:2)。

〇神の想いより

 ヨナの悪い予感は的中し、ニネベに住む全ての者が、塵をかぶって悔い改めたのです。そして、神様は予想通りに、ニネベに住む者たちを赦されたのでした(ヨナ3章)。ヨナは、それ見たことかと不機嫌になります。神様の恵みと憐みが自分の理解を超えて大きく、受け入れる事が出来なかったからです。
 イエス様は公生涯に於いて、目を向け、愛を注がれたのは、弱く、罪深い者たちでした。そのような様子を祭司長や律法学者と言われるユダヤ教の指導者たちは良としませんでした。イエス様に対して疑念を抱き、誹謗中傷を繰り返し、非難したのでした。それに対してイエス様はこう仰いました。

「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。」(ルカ5:31〜32(新P.119)

「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」(ルカ19:10)

 ヨナや新約の時代の指導者達との共通点があります。それは、神の想いよりも、自分の想いを優先し、神に成り代わって、裁いている人間の姿です。
 そして、変わる事のない、父なる神と子なるイエス・キリストの無限の愛と恵みです。

〇それでも伝える神

 不機嫌になり、怒り心頭になるヨナに対して、又、文句を言う指導者達へ、神様は身をもって体験する事と、たとえ話を通して、それでも伝えられたのです。
 ヨナには一晩で奇跡的に生え、そして、たった一日で枯れた唐胡麻の木を通して、自分で労苦もしないで生えた唐胡麻を惜しむならば、罪深い者であっても、神の作品として造られたニネベに住む12万もの人々を神様が惜しまずにいられようかという事を語られました(ヨナ4:10)。
 指導者達には、三つの例え話を通して、失われた者を愛し、何とかして救いたいと願っている事と、そして、その大きな愛を見た時に、嫉妬と憎悪をもって対応する人間の姿を放蕩息子の兄を通して自らの姿に気付いて欲しいと語られています(ルカ15:31〜32)。

〇愛を知って欲しい

 主は知って欲しいのです。神があなたを愛されている事を。そして、あなたの隣人を愛しておられる事を。まず、ご自分が全てを捨てて十字架の上で、その愛を全うされたがゆえに、私たちも互いに愛し合う事が出来るようになる恵みを(第一ヨハネ4:9〜12(新P.483))。

10.祈祷・・一  同
11.献金214 イエスより流るる (神の愛)・・一  同
12.感謝祈祷 ・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.報告・・・・・・司会者

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第21主日ペンテコステ記念礼拝式順序 2021年5月23日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美132 ペンテコステの日に (聖霊) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美411 御恵みの高嶺に  (聖霊)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「賜物としての聖霊」
聖句 ヨエル2:12〜13、28〜32/ 使徒2:37〜41

講壇 「賜物としての聖霊」  ヨエル2:12〜13(旧P.1554)、28〜32/ 使徒2:37(新P.236)〜41

「その後、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、老人は夢を見、青年は幻を見る。その日わたしは、男奴隷にも女奴隷にも、わたしの霊を注ぐ。」ヨエル2章28〜29節 (旧P.1556)

 ヨエルはペトエルの子であること以外に情報が少ない預言者ですが、エルサレムやユダに対する預言を行っている事や、アモスがヨエル書を引用していると考えられる箇所がある(アモス1:2(旧P.1559)、アモス9:13)のでアモスより古い時代(ヨアシュ王の時代と考えられている)の預言者であると思われます。
 今日はペンテコステを記念する礼拝ですが、ペンテコステの日に、ペテロによってヨエル書2章28〜32節が引用された事は有名です。そこで、ヨエル書とペンテコステの日に3千人が救われたペテロの説教から、ペンテコステの恵みを聖書から学びたいと思います。

1. 悔い改めて神に立ち返る

 ヨエル書の預言の前半は、悔い改めに導くための裁きが記されています。ヨエルが活動した時代は比較的、善王が治めていた時であったが、それでも、問題はあり、今後の霊的堕落を示唆するように、一つは「イナゴとバッタ」による飢饉を通して、二つ目は、隣国の脅威を通して警告を与えられ、神に立ち返る為に悔い改めるように預言をヨエルに与えたのです。
「衣ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、【主】に立ち返れ。主は情け深く、あわれみ深い。怒るのに遅く、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださる。」(ヨエル2:13)
 ペテロが説教の中で、強調したポイントの一つが、悔い改めとバプテスマです。知らずとはいえ、ダビデも主と告白し、神が与えてくださったキリスト(救い主)を、十字架につけた事を「悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい」(使徒2:38(新P.236))と勧めています。
 悔い改めとバプテスマ(神に立ち返る事)は信仰に於ける転機であり、とても重要な、神様の恵みへの応答なのです。

2. 賜物としての聖霊を受ける

 聖霊とは聖い神の霊であり、イエス・キリストの霊です。父なる神と子なるイエス・キリスト、そして聖霊なる神はこの世界の創世の前より存在しておられる三つにして唯一の神です。そして、みこころにかなった者にのみ、聖霊の油注ぎがなされ、用いられてきたのです。しかし、ヨエルによってなされた預言は当時のイスラエルの人々も度肝を抜かれるような預言であったことでしょう。それは、「すべての人」にわたしの霊を注ぐと約束されたからです。もちろん、無条件ではありません。文脈上、悔い改め、神に立ち返った者たちに対する恵みの約束です。そして、それが、ペンテコステの日から始まったのです。最初は、3千人の各地に散らされていたユダヤ人です。又、後には、コルネリウスの一件から異邦人も救われ、聖霊を受けたのです(使徒10:44〜48(新P.255))。異邦人への救いの働きは、その後、使徒パウロへと引き継がれ、多くの実を結び、二千年の時を超え、現代の私たちにも、信じる者に聖霊は与えられているのです。

〇御霊によって進もう

「神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。」(ローマ8:14(新P.309)
「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。」(ガラテヤ5:16(新P.382)
「私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。」(ガラテヤ5:25)

10.祈祷・・一  同
11.献金419 起こし給え (リバイバル)・・一  同
12.感謝祈祷 ・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.報告・・・・・・司会者

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第20主日親子礼拝式順序 2021年5月16日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美225 罪の汚れを (神の愛) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美356 目には見えねども (確信)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「不信仰の流れへの勝利」
聖句 オバデヤ1〜21/ エペソ6:12

講壇 「不信仰の流れへの勝利」  オバデヤ1〜21/ エペソ6:12

「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。」エペソ6章12節

○エドムとは

 オバデヤ書のテーマはエドム人に対する裁きの預言です。まず、エドム人について聖書から見ていきます。
 エドム人はヤコブの双子の兄エサウの子孫を言います(創世記36章)。エサウは一杯のレンズ豆の煮物で長子の権利を売った男で、自身も全身赤い(アドム)毛衣(セアル)を着ているような体毛があったのと(創世記25:25)、一時的な食欲に負けて赤い(アドム)煮物と長子の権利を天秤にかけ、欲に負けたことで、もじってエドムと呼ばれるようになったのです(創世記25:30)。

〇反キリストの流れ

 聖書の中には、神を愛し、神の御霊によって生まれ、導かれる者たちと、神に敵対し(ないしは無関心であり)、肉によって生まれ、肉の欲に従って歩む者の流れがあります。
 それは「カインとアベル」であり、「イシュマエルとイサク」であり、「エサウとヤコブ」もそうなのです。憎悪によって弟を殺したカイン。妬みから弟をいじめたイシュマエル。そして、肉の欲に流されるエサウ。この反キリストの肉的な流れがこの世界にはあり、そして、それらは必ず滅ぼされるべきものであることが、型としてオバデヤ書にも記されてあるのです。

〇エドムの罪
1. めっきの信仰

 エサウは自分の欲望に忠実です。当時律法はまだ与えられていませんので、どのように生きるかという指針はありません。なので、エサウは好きなように生きました。見た目が美しい好きになった女性であるヒッタイト人とヒビ人を伴侶に選んで結婚したのです。しかし、その妻たちは肉に生きる者なので父イサクと母リベカにとって悩みの種となっていました(創世記27:46、28:8)。
 エサウは弟ヤコブが父から祝福を得て、リベカの親類から伴侶を得るために送り出されたのと、自分の妻たちの事を良く思っていない両親の気持ちを知り、あせって、アブラハムの子であるイシュマエルの娘を妻に迎えたのでした。神を信じて生きていく事を第一として祈りつつ妻を選んだのではなく、両親が認めてくれて、祝福と財産を分けてくれそうな人を打算的に選んだのです。それは、信仰に見せかけためっきの信仰だったのです。

2. 不信仰継承

 ヒッタイト人である妻アダはエサウにエリファズを生みます。そして、エリファズは正妻の他に現地のホリ人を側女とし、その側女ティムナによってアマレクが誕生しました。そう、あの悪名高いアマレク人の始祖です。イスラエルがエジプトを脱出した後、荒野で初めて戦ったのがアマレク人です(出エジプト17:8、申命記25:17〜19))。
 南ユダがバビロンに攻め込まれ絶体絶命となっている最中、エドム人たちは「破壊せよ、破壊せよ、その基までも」と叫んだのです(詩篇137:7)。
 イエス様が誕生された時、自分の王位が危ぶまれると判断し、ベツレヘム一帯の男の子を皆殺しにしたヘロデ大王がいますが、彼はイドマヤ人(エドム人のギリシャ語よみ)です。
 肉による歩みをする反キリストの霊の流れである不信仰も残念ながら継承されるのです。

〇不信仰との決別

 イスラエルも不信仰に陥ったがゆえに捕囚となりました。しかし、主の真実な愛と恵みによって、もう一度、悔い改め、信仰に立ち返る事が出来るのです。そして、そこにこそ希望があるのです。

10.祈祷・・一  同
11.献金283 主よわがそばをば (信仰)・・一  同
12.感謝祈祷 ・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.報告・・・・・・司会者

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第19主日親子礼拝式順序 2021年5月9日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美104 十字架の上に (受難) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美466 来り給う主を (再臨)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「イエス・キリストの血こそ」
聖句 出エジプト12:21〜24/ 第一ヨハネ2:7

講壇 「イエス・キリストの血こそ」  出エジプト12:21〜24/ 第一ヨハネ2:7

「もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」第一ヨハネ1章7節

 イスラエルがエジプトに住むようになって430年が経った年、神様はアブラハムに約束していた通りに(創世記15:13〜14)奴隷となって苦しめられていたアブラハムの子孫であるイスラエルの民を救い出すために、エジプトを裁かれました(出エジプト12:29)。

○裁きが過ぎ越す

 しかし、イスラエルの民の中には一人の犠牲者も出ませんでした。なぜでしょうか。それは、神様が仰った事を信じて、そのことば通りに準備し行っていたからです。

「さあ、羊をあなたがたの家族ごとに用意しなさい。そして過越のいけにえを屠りなさい。ヒソプの束を一つ取って、鉢の中の血に浸し、その鉢の中の血を鴨居と二本の門柱に塗り付けなさい。あなたがたは、朝までだれ一人、自分の家の戸口から出てはならない。」(21〜22節)

 傷のない一歳の雄の子羊が屠られ、その血がイスラエルの民の住む家の鴨居に塗られたのです。神の霊がエジプトを裁くために、国中を行き巡られました。そして、子羊の血が塗られていない家の長子は、王族、奴隷、家畜に至るまで死に絶えたのです。

〇血を流すことがなければ(へブル9:22)

 血は命の象徴です。ゆえに、イスラエルでは肉を食べる事が許されても、血を食べる事は許されませんでした。そして、神様にささげられた動物の血をもって祭壇をきよめ、神の前に宥めをおこなったのです(レビ17:10〜14)。
 人の罪が赦される為には、いのちの代価である『血』が必要とされるのです。そして、神様の救いの本質にも『血』による贖いが中心となっています。それは、創世記の時点を見ても貫かれている真理です。
? 創世記3:15
? 創世記3:21
? 創世記4:4
? 創世記8:20
? 創世記22:13

〇救いの赤いひも

 エジプトを脱出したイスラエルは40年間、荒野を旅した後に、約束の地へと導かれたのですが、その際、偵察として2名の者が最初の町エリコに遣わされました。しかし、ばれてしまい絶体絶命の状況となったのです。しかし、身を寄せた遊女ラハブはイスラエルの神を畏れ、偵察隊をかばって逃がしてあげたのです。そして、エリコがイスラエルによって攻略された時、偵察隊とラハブの間に約束が交わされていたがゆえに、ラハブとその家族、及び彼女の家にいた者たちは助かったのです。その時の約束のしるしは「赤いひも」でした(ヨシュア2:18〜21)。

〇イエス・キリストの血こそ

 エジプト地を脱出する際、最後の裁きが下された時、イスラエルを救った「子羊の血」も、ラハブの窓にくくられた「赤いひも」も、イエス・キリストの十字架で流された神の子のいのちを指示しています。イエス・キリストは罪の赦しの為に、犠牲となり、宥めをなされました。イスラエルの神である、唯一の神を信じ、そのひとり子の救いを受け入れる者は救われるのです。

10.祈祷・・一  同
11.献金45 十字架の血に (洗礼)・・一  同
12.感謝祈祷 ・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.小学生祝福式・・寺東真也師
16.報告・・・・・・司会者

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第18主日礼拝式順序 2021年5月2日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美21 輝く日を仰ぐとき (賛美) ・・一同起立
3.使徒信条・・一  同
4.主の祈り・・一  同
5.祈祷・・・・一  同
6.賛美471 われ聞けり かなたには (天国)・・一  同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「けた違いの恵み」
聖句 アモス9:8〜15

講壇 「けた違いの恵み」  アモス9:8〜15

「その日、わたしは倒れているダビデの仮庵を起こす。その破れを繕い、その廃墟を起こし、昔の日のようにこれを建て直す。」アモス9章11節

 アモスはヨアシュの子、ヤロブアム2世の時代、北イスラエルに遣わされた預言者でした(1:1)。丁度、ホセアと同時代です。
 彼は、南ユダのテコア出身で最初から預言者を務めたわけではなく、小さな村で羊飼いとイチジク桑の木を栽培して生計を立てていた人物でした。

○当時の北イスラエルの状況

 当時の北イスラエルの状況は、南北に国が分断された後で一番栄えていた時期でもありました(3:15、6:4〜7)。それと共に、信仰的、道徳的にも、下降していた時代で、貧富の差は広がり、富める者が貧しき者から搾取するような事がまかり通っていました(4:1、5:11〜12)。神を礼拝し、献げものを献げる事はしていましたが、心の関心は金儲けであり詐欺行為は日常的でした(8:4〜6)。それゆえ、その民の礼拝を主は喜ばれず叱責しておられます(5:21〜24)。
 このような状況の中で、アモスは叫び、主の裁きの預言をしたのです。アモス書の九割九分は裁きの宣告です。

○悔い改めを望む主(第二ペテロ3:9)

 罪に罪を重ね、しかも、自分たちの事は棚に上げ、神の選びの民という座に胡坐をかいているのです。そのような中にあって正義の神はその罪を見過ごすことはできないお方です。罪に対する裁きは必ず下されなければならないのですが、民が滅びる事を願って裁きを行うのではありません。出来るならば悔い改めて主に立ち返って欲しいと切に願っておられるお方なのです(5:4〜6、14〜15)。実際、アモスも同胞の滅びは願っているわけではありませんでした。彼らの為に執成し、そして、その執成しが聞かれて禍を何度か主は思い直されたのですが、それでも、最終的にはアモスも執成しきれないほどにイスラエルは腐敗していたと言うのです(7:1〜8)。

〇主の憐み―根絶やしにしない―

 アモス書の最後は希望と回復の預言で締めくくられています。主の裁きは避けられず、北イスラエルはアッシリアに略奪され蹂躙されます。これは歴史的な事実です。今も、連れ去られたイスラエルの10部族の行方は分かりません。しかし、主の憐みと恵みのゆえに「根絶やしにはしない」と主は仰られます。ふるいにかけられるが小石は残されるのです(9:8〜9)。

〇主の約束とイエス・キリストの救い

 主は倒れたダビデの仮庵を起こすと言われます。イスラエルは主の恵みと憐みによって、主の前に立ち返る日が備えられているのです。その為にも、イエス・キリストは十字架に架かられ私たちの為、又、イスラエルの為に贖いの救いを成し遂げてくださいました。十字架刑のど真ん中、真昼に太陽は隠れ地は暗くなりました。喜びの祭りは喪に服するようになると預言されましたが(8:9〜10)、それは、罪ある者に対する裁きが、罪を一身に背負ったイエス・キリストにあって成就されたのです(マルコ15:33)。

〇恵みが追ってくる

 耕す者が刈る者に、ぶどうを踏む者が蒔く者に追いつく。物理的な祝福の表現を持って神様の祝福がイエス・キリストを通して、隅々まで回復される描写が豊かに描かれています。イスラエルの全家が回復される事は主の計画であり、それに先立つ、私たちへの福音への招きは主の憐み以外の何ものでもないのです。

10.祈祷・・一  同
11.献金233 驚くばかりの (救い)・・一  同
12.感謝祈祷 ・指  名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.報告・・・・・・司会者

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第17主日特別礼拝式(大阪聖会)順序 2021年4月25日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美376 如何に汚れたる (きよめ) ・・一同起立
3.使徒信条・・一同起立
4.主の祈り・・一同起立
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美149 いつ主は来り給うや (再臨)・・一 同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.特別賛美・・ 聖歌隊
10.メッセージ・寺東真也師
主題 「荒野に道を、荒れ地に川を」
聖句 イザヤ41:14〜16/ 43:16〜21

講壇 「荒野に道を、荒れ地に川を」  イザヤ41:14〜16/ 43:16〜21

「見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。あなたがたは、それを知らないのか。必ず、わたしは荒野に道を、荒れ地に川を設ける。」イザヤ書43章19節

「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない。」(イザヤ40:31)

 コロナ禍という暗い谷間の谷底で信仰者に必要なのはただ主なる神を希望とし、待ち望む事です。主は、真っ暗闇の中に差し込むまばゆい光のように、この時代においてもご自分の栄光を輝かせることを計画しておられます。

○神が戦われる(イザヤ43:16〜17)

 主は待ち望む者を失望させる事のないお方です(ローマ10:11)。
 昔、エジプトからイスラエルの民は主の奇しい御業によって、奴隷から解放されました。しかし、目の前には紅海、後ろにはエジプトの軍隊という絶体絶命の危機に陥りましたが、主は海のただ中に道を設けて、イスラエルの民はその道を通って救われたのです。そして、敵であるエジプト軍は同じようにその道を通ろうとしましたが、主が戦われたので、水は元に戻り、エジプト軍は一瞬のうちに壊滅したのでした。
 主は私たちの先立ちとなり、しんがりとなって戦ってくださるお方です。

○さらなる新しい事が(イザヤ43:18〜21)

 素晴らしい救いの歴史であり、決して忘れてはならない事実です。しかし、ここでは先の事を心に留めず、昔の事に目を向けるなと主は命じておられます。なぜでしょうか。当時の南ユダの人々は。北イスラエルをも滅ぼしたアッシリアが攻め込んできた際、主が奇跡を起こして守られた経験に甘んじ、自らの罪を悔い改めようとはせず、楽観的に物事を捉えていました。そこで、主はイスラエルの為に新しい計画を立てられました。それこそがバビロン捕囚という困難と苦痛を伴う計画だったのです。それは、荒野であり、荒れ地の経験です。しかし、そのただ中に主の道を設け、恵みの水で溢れる川が流れ出る経験となるというのです。
 苦しみの中にも主は共にいてくださり、私たちを整え、用いたいと願っておられます。ジャッカルやダチョウは忌み嫌われる動物の代表格ですが、そのようなものでも主をあがめる為に、神の民は主の誉れを宣べ伝える者とならせて頂けるのです。

〇虫けらから鋭い打穀機へ(イザヤ41:14〜16)

 荒野には新しい道が、荒れ地には新しい川が流れるようにされるのですが、その主人公として、神の民が主は選んでおられるのです。北イスラエルも南ユダの人々も当時の信仰は頼りないばかりか、問題が山積みです。イザヤもイスラエルの人々を「虫けらのヤコブ」と呼んでいるのはその為です。しかし、神様の計画は主の恵みと憐みによって、イエス・キリストの十字架の恵みと復活の力によって虫けらが、『鋭く新しい両刃の打穀機』とすると預言されます。
 現代を生きる私たちの前にもこの素晴らしい恵みは用意されています。神のことばを人々に届ける、キリストの証人として召されているのです。この召しに応えさせていただきましょう。

11.祈祷・・一 同
12.献金371 その血もてわが身を (きよめ)・・一 同
13.感謝祈祷 ・指 名
14.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
15.祝祷・・・・・・寺東真也師
16.報告・・・・・・司会者

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大阪聖会 プログラム 2021年4月24日 午後 2 :0 0〜

賛美3 64 わが主イエスよ ひたすら (きよめ)
祈祷
賛美46 5 いつかは 知らねど (再臨)
三つの祈り(再臨、イスラエル、日本)
聖書・・・・哀歌 3:19〜24
説教 「 谷底の希望 」寺東真也師
祈祷
献金4 41 望みは失せ (試練)
頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
祝祷
アナウンスとご案内

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第16主日礼拝式順序 2021年4月18日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美233 驚くばかりの (救い) ・・一同起立
3.使徒信条・・一同起立
4.主の祈り・・一同起立
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美462 聖書も時の徴も (再臨)・・一 同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「それでも愛する神」
聖句 ホセア1:1〜2:1/ エレミヤ31:1〜6

講壇 「それでも愛する神」  ホセア1:1〜2:1/ エレミヤ31:1〜6

「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。」エレミヤ31章3節

 ホセアはヨアシュの子、ヤロブアム2世の時代、北イスラエルに遣わされた預言者でした(1節)。
 彼は神様から特異な任を命じられます。それは、「姦淫の女とその子らを引き取れ」というものです。
 昔、信仰の道を踏み外したけれども、悔い改めた女性というものではありません。現在進行形で、罪を犯している女性を娶れというのです。

○ゴメルは北イスラエルの象徴

 この姦淫の女性は北イスラエルの象徴でした。神様から愛された民であるにもかかわらず、信仰を捨て、偶像礼拝をし、自分勝手で罪に罪を重ねている状況が重なるからです。神様は「あえて」姦淫の女であるゴメルをホセアに娶らせ、又、結婚した後も裏切り続けるゴメルに対して、非を責めながらも、愛し続ける事で、神様の真実な愛をホセアが追体験するようにされたのです。

○子供達の名とその真意

 ホセアとゴメルの間には3人の子どもが与えられました。その名前には、北イスラエルを責め裁く強い思いが込められたものだったのです。

1. 長男イズレエル(4節)

 長男はイズレエルと名づけられました。それは北イスラエルの王の宮殿があった場所です。しかし、そこはいわく付きの場所でもありました。
 悪王として代表的なアハブが王であった時に、宮殿横のブドウ畑の持ち主であるナボテの領土を汚い手を使って貶め、死刑にして、自分の物としたのです。その後ろには、最悪の王女であるイゼベルが糸を引いていたのです。この時、預言者エリヤは主に遣わされ、アハブとイゼベルを糾弾し、アハブは一時的に悔い改めましたが、イゼベルは悔い改めませんでした。それがゆえに、ナボテの血がしみ込んだこの地にイゼベルは血を流して死ぬ事となるとエリヤは預言したのでした(第一列王記21:23〜25)。そして、その預言を成就したのは、ヤロブアム2世の曾祖父であるエフーだったのです。アハブの息子であるヨラムを倒した後、王宮にいたイゼベルはエフーに追い詰められ、彼女の宦官に裏切られ、窓から突き落とされ、絶命します。そして、その死体のほとんどが犬に食い散らかされたのでした(第二列王記9:30〜37)。
 なんと皮肉な事でしょうか。エフーが成就としての勝利を勝ち取った場所が今度は、そのひ孫が同じ不信仰の罪に陥っているがゆえに、裁かれ、その王国が絶たれるという意味でイズレエルなのです。

2. 長女ロ・ルハマ(6節)

 ロ・ルハマとは「憐れむことはない」という意味です。北イスラエルは憐れまれず、南ユダのみを憐れむというのです。

3. 次男ロ・アンミ(9節)

 ロ・アンミとは「わたしの民ではない」という意味です。もう神の民ではないと。

○回復の為に

 イズレエルとは「種を蒔く」という意味がある名前です。ゴメルがそして、北イスラエルが行っている罪は容易に赦されるものではありません。しかし、このホセア書に流れる本当のメッセージは1:10〜2:1に込められているのです。神の愛の種が蒔かれた所から必ず命が生じ、回復の道が開かれると言うのです。どれほど罪深いものであっても、イエス・キリストの十字架の愛は信じる者に命と希望を与えるのです。

10.祈祷・・一 同
11.献金218 汚れと辱との (神の愛)・・一 同
12.感謝祈祷 ・指 名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・・・・・寺東真也師
15.中高生祝福式・・寺東真也師
16.報告・・・・・・司会者

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第15主日礼拝式順序 2021年4月11日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美244 信ずる者は何びとも (救い) ・・一同起立
3.使徒信条・・一同起立
4.主の祈り・・一同起立
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美250 世の波風いかに荒れて (平安)・・一 同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「試練の中でも」
聖句 ダニエル1:1〜20/ 第一ペテロ1:7

講壇 「試練の中でも」  ダニエル1:1〜20/ 第一ペテロ1:7

「試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。」第一ペテロ1:7

 ダニエルとハナンヤ、ミシャエル、アザルヤの4人はユダ王国エホヤキム王の治世の3年目に、ネブカデネザル王率いるバビロン軍に捕囚としバビロンに連れてこられました(ダニエル1:1〜3)。

○燃えるような試練

 信仰者は時に燃えるような試練を通ります。しかし、その試練を通して、その信仰は精錬され純粋で輝かしいものにされるのです。

1.誘惑の中で(ダニエル1章)

 ダニエル、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤの四人は、神様の御計画の中に、王の宮廷に仕える者として教育される事となったのです(ダニエル1:4)。捕囚の中ではありましたが、4人はエリートコースを歩むこととなって、その食事も高待遇のご馳走がならびました。しかし、4人は神に仕えるために、王と同じ食事(おそらく偶像に捧げられたもの)によって身を穢さないようにと野菜のみの食事を望み、しかもご馳走を食べている同年代の青年達よりも健康で居続けたのです。

2.迫害の中で
・燃えるカマドへ(ダニエル3章)

 ある日、ネブカデネザル王は高さ30m、幅3mの巨大な金の像を作り、様々な楽器の合図と共にすべての者はこの像を拝まなければならないと宣言しました。そして、従わない者は燃える炉の中に生きたまま投げ込まれるという罰も付け加えたのです。
 しかし、カルデヤ人達は拝もうとしないユダヤ人を訴えたので、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤは王に呼び出しを食らいます。カンカンに怒りを燃やす王を前に、三人は、信仰を打ちだし、燃える炉に投げ込まれても、神はそこから救い出すことの出来るお方である事、もし、そうでなく死ななければならなかったとしても、決して金の像を拝まない事を告げたのです。
 怒り猛った王は、炉の温度を7倍熱せよと命令します。縛られた3人は炉に投げ込まれ投げ込んだ者はその周りの熱によって焼死します。しかし、3人は炉の中で歩き回り、しかも、もう1人分の影が見えたと言います。
 王は3人に出てくるように告げ、3人の衣服や髪さえも燃えず、火の匂いもしなかったのです。王は業火の中から3人を救い出された真の神を賛美しました。

・獅子の穴へ(ダニエル6章)

 時は流れてメディア人ダリオスが王となった時代、ダニエルは王から寵愛され、3人の大臣の中の一人に抜擢されていました。しかし、残りの二人の大臣は嫉妬にかられ、30日間ダリオス以外に神にも人にも祈願する者は獅子の穴に投げ込まれると言う勅令を出すようにダリオス王をそそのかしたのです。全ては、ダニエルを亡き者にする為であり、ダリオスが気付いた時には、日に三度神様に祈りを献げるダニエルを泣く泣く、獅子の穴へ投げ込んだのでした。
 しかし、神様は御使いを遣わし、獅子の口をふさがれたのでダニエルは傷一つつきませんでした。王は大喜びし、ダニエルを穴から出し、その代わりに、ダニエルを嵌めた者たちを獅子の穴に落としました。

 試練に打ち勝つ秘訣は神様への全き信頼に拠るのです。

10.祈祷・・一 同
11.献金247 神の賜う安けさは (平安)・・一 同
12.感謝祈祷 ・指 名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・寺東真也師
15.報告・・・・司会者

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第14主日イースター礼拝式順序 2021年4月4日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美123 救いの主は (復活) ・・一同起立
3.使徒信条・・一同起立
4.主の祈り・・一同起立
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美127 墓の中に (復活)・・一 同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.うるわしの白百合(讃美歌496番) 特別賛美・・聖 歌 隊
10.メッセージ・寺東真也師
主題 「イエス・キリストの復活」
聖句 ルカ24:36〜48

講壇 「イエス・キリストの復活」  ルカ24:36〜48

「次のように書いてあります。」
『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』」ルカ24章46〜47節

 イエス・キリストは十字架に架かられ、三日目に死から復活されました。

○概念ではなく現実

 私たちの住むこの世界は、神様の作品として最高の評価を受けた世界です(創世記1:31)。しかし、人類が犯した罪(神様に背いた)によって、この世界は呪われ、死が入り込んでしまったのです(創世記3:19)。この罪から来る死の呪いからは誰一人として自力で逃れる事は出来なくなりました(ローマ6:23)。
 しかし、天の父なる神様は、ひとり子であるイエス・キリストを世に遣わし、死からよみがえらせ、死に打ち勝ってくださることによって私たちにも死からの救いを与えてくださったのです(第一コリント15:20〜22)。
 イエス・キリストの復活は概念であり、実際に復活したわけではないと言う人がいます。しかし、聖書はイエス・キリストは実際に復活され、弟子たちに現れてくださり、ご自分が生きて新しい肉体をもお持ちである事を証明されたことを語っています(38〜43節)。

○預言の成就としての福音

 イエス・キリストは現実に生きておられる事を証明されただけではなく、一番大切な聖書の預言の成就としてであることを弟子たちに語られました。その内容はこうです。
『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』
 この言葉はそのままそっくり旧約聖書にあるわけではありません。キリストの福音の要約であり、旧約聖書には確かにこれらについて預言されているのです。

1. キリストの受難(イザヤ53章)

 一つ目はキリストの受難です。イザヤは救い主の受難を明確にそして真っ直ぐに預言しています。イエス・キリストは私たちの罪と咎の為に刺され、砕かれたのです(イザヤ53:5)。

2. キリストの復活(ヨナ1:17、2:2、10)

 ヨナという預言者を通して、救い主は三日目に死から復活する事を指示しています。これは、イエス・キリストご自身も「ヨナのしるし」と言って触れておられます。(マタイ12:39)

3. 福音の世界的広がり(マタイ12:40〜41)

 ヨナが預言をせよと導かれた場所は「ニネベ」でした。その当時の敵国アッシリアの首都です。神を恐れず、罪の限りを尽くしている代表格の国であり都市です。そこにヨナは裁きの預言をするように導かれたのですが、なんと、一時的とはいえ、アッシリアの王様からしもべに至るまで国を挙げて悔い改めたのです。そして、神様は赦し、下そうとしていた禍を思い直されたのです(ヨナ3:10)。ここに、全人類を愛し、悔い改め、立ち返る者に与えようとされておられる福音の神髄が隠されています。

 イエス・キリスト復活によって救いは完成しました。そして、あなたにも救いの御手は伸べられ続けています。

11.祈祷・・一 同
12.献金438 悩む世人のために (宣教)・・一 同
13.感謝祈祷 ・指 名
14.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
15.祝祷・・寺東真也師
16.報告・・・・司会者

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第13主日礼拝式順序 2021年3月28日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美112 カルバリ山の十字架 (受難) ・・一同起立
3.使徒信条・・一同起立
4.主の祈り・・一同起立
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美108 丘に立てる荒削りの (受難)・・一 同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「干からびた骨でも」
聖句 エゼキエル37:1〜14

講壇 「主は私に言われた。「これらの骨に預言せよ。『干からびた骨よ、主のことばを聞け。神である主はこれらの骨にこう言う。見よ。わたしがおまえたちに息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。』」  エゼキエル37章4〜5節

『その方は私に言われた。「人の子よ、自分の足で立て。わたしがあなたに語る。」・・彼らは反逆の家だから、聞く聞かないに関わりなく、あなたはわたしのことばを彼らに語れ。』(エゼキエル2章1、7節)

 

○干からびた骨

 南ユダはバビロンに蹂躙され、荒廃したのでした。そのような中で、エゼキエルは御霊に導かれて、幻を見ます。その幻は、谷に無数のひどく干からびた骨が転がっている光景でした。これはまさしく、イスラエルの現状を如実に表したものでした。北イスラエルは不信の罪によりアッシリアに滅ぼされ、捕え移されました。その後、どうなったかは現在も分かっていません。南ユダも極少数の者がバビロン捕囚となっている状況です。
 まさしく、イスラエルは万事休す、絶体絶命の状態なのです。
 主はエゼキエルに、問います。
「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるだろうか。」
 普通ならば、100%不可能です。しかし、エゼキエルは含みを持たせて答えました。
「神、主よ、あなたがよくご存じです。」
 私たちは、どこかで、神なる主の力を制限してしまっているのかもしれません。

○神の新創造
・神のことばによって(4〜8節)

 主はエゼキエルに神のことばを預言するように命じます(4節)。エゼキエルはその通りに、預言すると、大きな轟きと共に、骨は繋がり、筋が付き、肉が付き、皮膚で覆われて、人間の体が完成しました。神のことばには力があります(へブル4:12)。この世界の全ての物は、神のことばによって創造され、構築されました(創世記1章)。しかし、人間だけは他の被造物と比べ特別でした。

・神の息(霊)によって(9〜10節)

 預言によって肉体は完成したのですが、そこに命はありませんでした。そこで、主はエゼキエルに「息」に対して預言するように命じます。すると息が四方から吹いて来て、肉体の中に入り、枯れた骨々は完全に生き返って多くの集団となったのでした。
 人間が創造された時、主なる神は、ご自分の息を吹き込まれました。そうして人間は生きものとなったのでした(創世記2:7)

・新しい命へ(ヨハネ3:3〜5)

 息とは霊とも訳すことが出来、神の霊のことです。イエス様は、次のように言っておられます。 「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。」(ヨハネ3:5)。
 人は、みことばによる真実な約束を基として、御霊の働きにより、イエス・キリストを罪によって、カラカラに渇ききった骨のような絶体絶命のものをも新しい命に生まれさせてくださるというのです。これは、神の御業です。

○イスラエル全家の救い(11〜14節)

 そして、この救いの醍醐味は、何度も裏切り続けた、イスラエル全家に対するものであることです。主の召命と賜物とは取り消される事がないのです(ローマ11:29)。

10.祈祷・・一 同
11.献金357 何ゆえ御神は (確信)・・一 同
12.感謝祈祷 ・指 名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・寺東真也師
15.報告・・・・司会者

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第12主日礼拝式順序 2021年3月21日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美108 丘に立てる荒削りの (受難) ・・一同起立
3.使徒信条・・一同起立
4.主の祈り・・一同起立
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美437 行きて告げよあまねく (宣教)・・一 同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「立ち上がり、語れ」
聖句 エゼキエル2:1〜7

講壇 「立ち上がり、語れ」  エゼキエル2:1〜7

『その方は私に言われた。「人の子よ、自分の足で立て。わたしがあなたに語る。」・・彼らは反逆の家だから、聞く聞かないに関わりなく、あなたはわたしのことばを彼らに語れ。』(エゼキエル2章1、7節)

 エホヤキン王はわずか三カ月でバビロンに降伏し、優秀な者たち一万人が第一次バンビロン捕囚として連れ行かれました。そして、5年の歳月が経ちました。捕囚の中にエゼキエルはいました。そのエゼキエルに主はバビロンの地で預言者として召しを与え、用いられました。1章から3章までは、エゼキエルの召命の詳細です。
 バビロン捕囚の中でも、すぐに神の御手が伸べられて、自分たちは帰還できるのではないかという甘い考えの中にいた者たちに、エゼキエルは神様の厳しい裁きの現実を伝えなければなりませんでした。
 状況は大きく違いますが、私たちの置かれている日本の宣教に似通っている部分があるように感じます。語れども、伝えども、救霊の実が結ばれにくい現状。しかし、神様は、立ち上がり(1節)、そして、聞いていても、いなくても、語れ(7節)と言われます。

1.みことばを蓄えよ(2:8〜3:3)

 主は、エゼキエルに「あなたの口を大きく開けて、わたしがあなたに与えるものを食べよ。」と命じます。そして、エゼキエルが見るとそこには、巻物が一つありました。そこには、表裏とも「哀歌と、嘆きと、悲しみ」が記されていました。反逆の家と言われた人々は、神の御心よりも、自分の願望を優先し、神様をいつのまにか自分の下に置いていたのです。エゼキエルは、巻物を食べる事をまず命ぜられました。それは、まぎれもなく、神のことばであり、御旨が記されているものでした。神の召命に応えるために、まず必要なのは、神のことばを自分の心に蓄える事です。

2.蓄えたことばのとおりに語れ(3:4〜9)

 主が望んでおられるのは、神様の御心を、神様のみことばによって、そのまま語られる事です。エゼキエルが語る相手は、異国語を話す、外国人ではなく、同胞です。しかし、この時は、そちらの方が、聞き入れる事はない事を事前に知っています。だからと言って、聞きやすいような水増しされた語り口であってはならないのです。

3.蓄えられたことばに耳を傾けよ(3:10〜15)

 みことばを蓄え、主の御心をストレートに伝えなければならないという事は、エゼキエルにも理解できました。しかし、主もエゼキエルに何度も語られているように、語る相手は、反逆の家であり、鉄面皮で、心がかたくな者たちです。自分に与えられた使命の重さに、彼は茫然自失してしまったのです。神と民の狭間で苦しんだことでしょう。だからこそ、主はまず、エゼキエル自信が、みことばと向き合い、「聞く」事を求めたのです。

4.警告を与えよ(3:16〜21)

 みことばを伝える者には「責任」が生じます。パウロも福音宣教を聖なる負債であると捉えていました(ローマ1:14)。エゼキエルがもしも警告しないで、滅びる者があれば、主の召しに答えなかった者として、その滅びの「血の責任」エゼキエルに問うと主は仰せられました。

5.神の臨在の中で語れ(3:22〜27)

 立ち上がり、そして、語れと命じられた主は、エゼキエルを平地に導き、縄で縛り、上あごをくっつかせ語れなくなると伝えます。しかし、それは、神の臨在のもとで解かれるのです。究極の霊的体験学習です。エゼキエルは、この後、避けられぬ審判と、その向こう側にある、究極の回復を語る器として用いられたのです。

10.祈祷・・一 同
11.献金454 立ちあがれいざ (霊の戦い)・・一 同
12.感謝祈祷 ・指 名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・寺東真也師
15.報告・・・・司会者

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第11主日礼拝式順序 2021年3月14日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美101 イエスよ十字架に (受難) ・・一同起立
3.使徒信条・・一同起立
4.主の祈り・・一同起立
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美466 来り給う主を (再臨)・・一 同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「主の導きと召し」
聖句 エレミヤ1:11〜19

講壇 「主の導きと召し」  エレミヤ1:11〜19

「彼らはあなたと戦っても、あなたに勝てない。わたしがあなたとともにいて、
――主のことば――
あなたを救い出すからだ。」(エレミヤ1章19節)

 エレミヤは神様からの召命を与えられた際に、二つの幻を見ていました。神様がイスラエルに与えようとしておられる導きは、短期的にみるならば、「裁き」です。しかし、それは、何のための裁きかというと、最終的に回復が与えられる為なのです。二つの幻には神様の愛が込められているのです。

○二つの幻

?煮え立った釜
 聖書に書かれている順番とは違いますが、初めは二つ目の幻である煮え立った釜から見たいと思います。
 煮え立った釜は北からこちらに傾いて来るのです。これは、まさしく、バビロンの脅威の預言です。その脅威に、イスラエルはその不信仰の故に、その災いに飲み込まれるのです。

?アーモンドの枝
 しかし、その前にアーモンドの幻をエレミヤは見ます。これは、希望の幻です。アーモンドはヘブル語で「シャーケード」目覚めている、と言う意味で、それに続く神様の言葉が「見張っている」は「ショーケード」で言葉遊びの様なやり取りの中に、神様の恵み深い真理が込められています。
 アーモンドは1〜2月に他の木々に先立って芽を出し、花を咲かせます。別名、目覚めの木と言われています。春と言ういのちの季節に先立つ植物は、よみがえりの初穂を意味します。究極的にはイエス・キリストの復活の象徴であり、イスラエルの回復の預言です。神様は、いのちの回復を成就すべく、休むことなく目覚めて、見張っておられるのです。
 神様は滅亡の為の裁きを下されようとしているのではなく、まず、アーモンドの幻をして、回復を望まれ、愛を持って導いてくださるお方である事を感謝いたしましょう。

○重ねられた召命

 神様は二つの幻をエレミヤに告げた後、もう一度、召命のチャレンジを与えられました。まず、「腰に帯を締めて立ち上がれ」です。襟を正すという言葉もありますが、それと同じような意味合いです。私たちは、長い歴史の中のほんの一部分ではありますが、神様のご計画の一部を担わせていただいているのです。もう人事や無関係のように生きるのはやめて神様の為に立ち上がりましょう。
 二つ目のチャレンジは「彼らの顔におびえるな」です。人の顔色を見ながら恐れて歩む信仰生活はやめましょう。なぜならば、神様が私たちを「要塞の町、鉄の柱、青銅の城壁とする。」と仰ってくださるからです。
 主の計画は必ず勝利へと繋がっているからです(エレミヤ29:10〜11)。

10.祈祷・・一 同
11.献金436 未だ見ぬ地 (宣教)・・一 同
12.感謝祈祷 ・指 名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・寺東真也師
15.報告・・・・司会者

x

第10主日礼拝式順序 2021年3月7日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美271 ひと度はわれも (救いの喜び) ・・一同起立
3.使徒信条・・一同起立
4.主の祈り・・一同起立
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美462 聖書も時の徴も (再臨)・・一 同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「主の召しに応える」
聖句 エレミヤ1:1?10

講壇 「主の召しに応える」  エレミヤ1:1?10

「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすすべてのところへ行き、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。──主のことば。」(エレミヤ1章7?8節)

 エレミヤは南ユダ王国の末期を生きた預言者です。彼は別名「涙の預言者」と言われていて、エレミヤ書と哀歌を執筆しました。

○エレミヤの召命

 エレミヤが預言者として召命を受けた時、エレミヤは躊躇しました。その理由は「若い」からであるという事です。「若い=未熟=召命にはこたえられない」であると。謙遜にも見えますが、大きな間違いです。もちろん若い時に、年齢を重ねられたベテランの方に比べると知識も経験も技量も大きく違うでしょう。しかし、大切なことは神様が今、私に何をして欲しいと願っておられるかという事です。
 たとえ、弱く、小さく、足りない者であったとしても、主が共におられるならば、又、主が戦ってくださるならば決して役に立たない者ではないのです(第二コリント12:9)。
 しかしエレミヤと同じような間違いをすべての人が犯すことがあります。それは、自分の弱さにしがみついて、神の栄光の為に立ち上がらないという失敗です。
 パウロは愛弟子テモテに発破をかけて言います。
「あなたは、年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。むしろ、ことば、態度、愛、信仰、純潔において信者の模範となりなさい。 」(第一テモテ4:12)

○エレミヤへの約束(7?10節)

 神様は私たちに対して、何かわからないような導きをされるわけではありません。私たちに対して願いをもって迫られる時、同時に、みことばの約束を与えてくださるのです。反対に言えば、みことばの約束がない導きは導きではないと言えます。どうして聖書が私たちに必要なのでしょうか。それは聖書が生ける神のことばであり、私たちへの生ける約束がそこに記されているからです。

・インマヌエル(8節)
 エレミヤへの一つ目の約束は、「神共にいます」というインマヌエルの約束でした。主の為に立ち上がるためにすべての聖徒はこの約束がありました。

・聖化の事実(9節)
 エレミヤへの二つ目の約束は聖化の事実です。エレミは不思議な霊的体験をします。それは主の御手が伸ばされて自分の口に触れてくださるというものでした。
 人の口は開いた墓のようなものだとダビデは歌い、パウロはそれを引用しています(詩篇5:9、ローマ3:13)。しかし、十字架の血潮はその口をきよめ、賛美と証を満たし、神のことばを告げ知らせる者とならせてくださるのです。

10.祈祷・・一 同
11.献金430 われ主に従いまつらん (証し)・・一 同
12.感謝祈祷 ・指 名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・寺東真也師
15.報告・・・・司会者

x

第9主日礼拝式順序 2021年2月28日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美354 迷えるとき光りを (確信) ・・一同起立
3.使徒信条・・一 同
4.主の祈り・・一 同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美459 世びとは敵に (霊の戦い)・・一 同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「共に働かれる神」
聖句 マルコ16:19〜20

講壇 「共に働かれる神」  マルコ16:19〜20

「弟子たちは出て行って、いたるところで福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばを、それに伴うしるしをもって、確かなものとされた。」(マルコ16章20節)

 聖書には四つの福音書があり、主イエス・キリストの生涯について立体的に記されています。マルコ以外の福音書(マタイ、ルカ、ヨハネ)はイエス様が昇天される時までを克明に記しています。ルカに至っては、使徒の働きに続きます。
 しかし、マルコの福音書は少し違います。イエス様が昇天された後の事を一言でまとめて記してあるのです。言うなれば、使徒の働き(教会の始まり)をたった三行に凝縮しているといえるでしょう。それが今日のみことばです。

○インマヌエル

 預言者イザヤは救い主について預言をしました。
「それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」(イザヤ7:14)
 マタイはこの予言が成就されたことを記しています(マタイ1:23)
 イエス様は私たちを捨てて孤児にはしないと言われました(ヨハネ14:18)。イエス様を信じる者には聖霊が与えられ聖霊を通してイエス様を見続けることが出来るのです。
 主が共におられる事は勝利の秘訣です。

○共に働かれる主

 使徒の働きでは、イエス様が昇天された後、御霊に満たされて弟子たちが全世界に福音を宣べ伝えていく様子が記されています。見えるところにおいては弟子たちの活躍が目立ちます。しかし、使徒の働きは別名「聖霊行伝(聖霊の働き)」ということが出来ます。イエスの御霊である聖霊は使徒たちと共に働かれているのです。聖霊の働きは内への働きと外への働きの二種類の働きがあります。

・内への働き(第二コリント3:18)

 聖霊の働きは私たちの内側に働きかけてくださいます。イエス様の弟子たちは決して立派な方々ではありませんでした。今日の御言葉の著者のマルコはパウロとバルナバに連れられて伝道旅行に出かけますが、途中で脱落して一人で帰ってしまうのです(使徒13:13)。これにはパウロもあきれてしまって、第二回伝道旅行の際、マルコをもう一度同行させるかで激しい反目となってしまったほどです。しかしマルコは後に聖霊によって磨かれ、パウロから役に立つと絶賛されるようになるのです(第二テモテ4:11)。

・外への働き(使徒9:31)

 主は私たちに対して一つの命令をお与えになりました。それは大宣教命令と言われています(マタイ28:18〜20)。
 福音を宣べ伝え、バプテスマを授け、聖書を教え、弟子とするのです。  聖霊が共に働かれるがゆえに福音は前進し、時には道を閉ざし行くべき道を示されます。

 主は今も私たちと共に戦ってくださいます。ゆえに恐れるなと励ましてくださるのです。主は私たちを通してみことばが真実なことを確かとされるのです。

10.祈祷・・一 同
11.献金435 罪に沈む汝が友に (宣教)
12.感謝祈祷 ・司会者
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・寺東真也師
15.報告・・・・司会者

x

第8主日礼拝式順序 2021年2月21日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美112 カルバリ山の十字架 (受難) ・・一同起立
3.使徒信条・・一 同
4.主の祈り・・一 同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美471 われ聞けり かなたには (天国)・・一 同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「永遠を与える神」
聖句 伝道者3:11

講壇 「永遠を与える神」  伝道者3:11

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」(伝道者の書3章11節)

 伝道者の書は箴言と同じく、ダビデの子であり、最高の知恵を神様から頂いたソロモン王がしたためた書です。

○すべては空しい

 神様から与えられた知恵と知識を持って、人間の人生を再評価したソロモンの結論であり、伝道者の書を貫く、一つの真理は、「すべては空」という事です(伝道者1:2、14)。
 快楽にふけっても、財を成しても、事業を拡大しても、それは風を追いかける様なものでむなしいのだと言うのです(2:1〜11)。

○「日の下」と「天の下」

 ソロモンが伝道者の書を記すにあたって、苦労したことが1:13に記されています。それは、人生の現実である「日の下」に生きている視点と、現実は神様の摂理の中にあるという「天の下」にある視点の違いから、日の下にある現実を、神の視点から解き明かすという作業です。この事に関しては、この世の知恵、力ではどうしても解き明かすことが出来なかったのですが(第一コリント1:21)、とても大切な糸口は見出しているのが、今日のみことばです。

○天の下では

 日の下の現実は、先に記したように、人生にプラスと思えるようなものであったとしても、実は空しく、過ぎ去ってしまうものに過ぎないというのが、ソロモンの出した結論です。
 しかし、3章1節〜8節まで、天の下(神の摂理の下)では、定められた時があるとソロモンは記します。それは、日の下でも同じでしょう。しかし、そのようなこの世の中の営みであっても、神が人の子らに与えたもの(3:10)であるならば、それは、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」(3:11)と受け止めえるのです。

○限りある肉体と人生

 モーセは私たちの肉体的人生歌っています(詩篇90:10)。この肉体における人生は、永遠に続くのではなく、必ず、終わり、死があります。
 多くの人は、この地上の生涯のみに焦点をおいて過ごしています。しかし、そのような人も、死を間近に控えると死んだら私はどうなるのだろうと考え出すのです。私たちの人生は、この地上の生涯だけではないのです。
「神はまた、人の心に永遠を与えられた。」(3:11)
その先にある世界こそ永遠です。人生は長くても80年〜100年ほどでしょう。しかし、死の後に過ごす世界は永遠です。この永遠をどう過ごすのかは、この地上の生涯で決まるのです。

〇永遠を与える神

 イエス・キリストは「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)と言われました。
 日の下にある肉体は死んでちりに帰るべきものですが、その魂は、神の前に生かされ、もう一度、イエスキリストが来られる時、ご自身と同じ栄光の体をくださり(ピリピ3:20〜21)、永遠に主のもとで過ごす事の出来る祝福に入れられるのです(第一ヨハネ2:17)。

10.祈祷・・一 同
11.献金517 はるかに仰ぎ見る (永遠)
12.感謝祈祷 ・司会者
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・寺東真也師
15.報告・・・・司会者

x

第7主日礼拝式順序 2021年2月14日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美272 救い主の愛と (救いの喜び) ・・一同起立
3.使徒信条・・一 同
4.主の祈り・・一 同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美463 喜びもて (再臨)・・一 同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「一つとなるために」
聖句 ピリピ 2:2

講壇 「一つとなるために」  ピリピ 2:2

「あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。」(ピリピ2章2節)

 パウロはピリピの信者に一致を保って欲しいと願っています。それは、いつも喜びが心にあるためです。パウロは投獄され、牢屋の中よりこの手紙を書きました。このような苦しみと同じような苦しみがピリピの人達にもあった事が、1:29、30に書かれてあります。苦しみの中でも喜べる真の喜びを持つためにパウロは一つになることを勧めているのです。

1.愛の心を合わせる(ヨハネ13:1〜15)

 愛の心とは何でしょうか。5節にこのような心構えでいなさいと書かれてありますが、文語訳ではここを「汝らキリストイエス様の心を心とせよ」と訳されています。イエス・キリストの心こそ愛の心ではないでしょうか。
 イエス様が十字架に架かられる前の晩、愛する弟子たちに残るところなく愛を示されたとあります。

・へりくだりの愛(3節)

 イエス様はおもむろに、席を立ち上がり、上着を脱いで手ぬぐいを腰につけられます。弟子たちはいったい何をなさろうというのだろうと、イエス様の行動を沈黙の中で見守ったでしょう。するとなんと弟子たちの足を拭き始められたのです。弟子が師の足を拭くのは当たり前です。しかしイエス様はその愛の心ゆえにへりくだられ、師が弟子の足をお拭きになったのです。

・仕える愛(7節)

 足を拭く仕事は奴隷のする仕事です。主であるイエス様は弟子に仕えられたのです。してもらう精神ではなくしてあげる精神を持っておられたのです。イエス様は、天の父の御心に従い父に仕えられて十字架の死にまで至ったのです。

 私達は互いに主イエス様の心のように互いにへりくだり、仕える事により愛の心を一つにしさせていただきましょう。

2.思いを一つに(13節)

 人は色々な考えをそれぞれに持っています。多くの人が一つとされるには、同じ志を持つ事です。志がないとそれぞれがバラバラになり大きな力になりません。志を与えてくださるのは神です。神が与えてくださるビジョン又計画を皆で心に留めそれに心を向けなければなりません。主にある共同体が主の栄光を表すために喜びを持つ為です。

〇イエス様の祈り

 パウロの願いと同様に、イエス様も弟子たちが一つとなる事を心から願われ、十字架に架かる直前、弟子たちの為に祈られたのです(ヨハネ17:11、21〜23)。
 教会が互いに心から愛し合い、一つとなる事で、神様の栄光は表されるのです。
 喜べないような、信じる事が難しいような状況の中で、神の愛が確かに現実であることを、教会が一つとなることで証明されるのです。

10.祈祷・・一 同
11.献金414 主は力をわれに注ぎ (聖霊)
12.感謝祈祷 ・司会者
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・寺東真也師
15.報告・・・・司会者

x

第6主日礼拝式順序 2021年2月7日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美103 わがためイエス君 (受難) ・・一同起立
3.使徒信条・・一 同
4.主の祈り・・一 同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美467 世の終りのラッパ (再臨)・・一 同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「国籍を天に持つ者」
聖句 ピリピ3:20〜21

講壇 「国籍を天に持つ者」  ピリピ3:20〜21

「しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。」(ピリピ3章20〜21節)

 イエス・キリストを信じた者には神の子供とされる特権が付与され(ヨハネ1:12)、そして、天に国籍を持つ者とされるのです。これは、全て、神様が与えてくださるもので、私たちの功績に依存するものではありません。全て恵みとして受ける事ができるのです。

〇天国人の望みと歩み

 天に国籍を持つ者として、パウロ先生は共通の望みがあると言います。それは、イエス・キリストが再びこの世界に来てくださるという再臨の希望です。
 詩篇の記者もへブル書の記者も共に自分の事を「地では旅人」であると告白しています(詩篇119:19、へブル11:13)。この世界は罪によって有限な存在となってしまっており、いずれ滅ぶべき存在です。神様の計画を知り、永遠こそが私たちの本来払うべき最高の関心事であると理解した時、人は、地においては旅人なのだと自覚するのです。

〇再び来られる主

「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」(使徒1:11)
 救い主はクリスマスに神の在り方を捨てられないとは考えず、人の姿となってこの世に生まれてくださいました(ピリピ2:6〜7)。それは私たちの罪から救い出すために十字架と復活に於いて救いを成就する為でした。そして、再び主が来られるのは、この救いの完成のために来られるのです(へブル9:28)。

〇神のわざ

 神様がこの世で行われたわざを数え上げたらきりがなく、どれも人間の測りを超えています。天地、宇宙を創造したのも神のわざですし、御子は嵐を叱りつけ凪にされました。数多くのしるしを行われたのですが、一番大切で崇高なしるしは、ヨナのしるしであり(マタイ12:39〜40)、一番、偉大な神のわざは、人がイエス様を信じるようになる事だというのです(ヨハネ6:29)。

〇天国民に与えられる救い

 天の父なる神様は、御子イエス様の十字架のゆえに、信じる者に永遠の命を与えてくださいます。しかし、福音の素晴らしさは霊的な祝福に留まるのではありません。永遠に生きる命に加えて、主イエス様が再臨される時、イエス様が復活された時に与えられた栄光に輝く体を頂くことが出来ると言うのです。
 この体は、霊体ではありません。復活のイエス様は弟子たちと食事もされました。確かに生きているのです。そして、その体は死ぬことも、病むことも、けがをする事さえありません。
 そして、古い天と地は過ぎ去って、新しい天と新しい地が到来します。そこで、永遠に主を褒めたたえ、安息と喜びのうちに生きる事になるのです。
 私たち与えられた救いは、霊、魂、体、全てに及ぶのです。

10.祈祷・・一 同
11.献金150 旅人なるこの身にとりて (再臨)
12.感謝祈祷 ・司会者
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・寺東真也師
15.報告・・・・司会者

x

第5主日礼拝式順序 2021年1月31日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美323 この世の旅路に (信頼) ・・一同起立
3.使徒信条・・一 同
4.主の祈り・・一 同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美468 やがて天にて (天国)・・一 同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「残された平安」
聖句 ヨハネ14:27

講壇 「残された平安」  ヨハネ14:27

「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。」(ヨハネ14章27節)

 イエス様は十字架に架かって世を去ることを知っていました。そして、その事実を受け止めきれない弟子たちのこともご存じでした。だから、イエス様は弱い弟子たちにイエス様の平安を残すと言って下さったのです。

・世が与える平安
 この平安は、「一時的な平安」です。私たちが心を静めて平安でいられるのは、周りの状況に大きく左右されます。何も問題がなく良い状況ならば、心が平安であるのは容易いことです。自分の計画通りに事は進み、多少の問題も、許容範囲内であれば、大丈夫かもしれません。
 しかし予定外の問題にぶつかってしまったり、許容範囲を大きく超えてしまうような事が起これば世が与える平安であるならば、あっという間に崩れてしまうでしょう。

・イエス様が残された平安
 イエスキリストが残された平安は世が与えるようには与えられない平安だと言います。イエス様はどのように平安を持たれ、そして、私たちに与えてくださるのでしょうか。

1.信仰による平安
‐船上でのイエス様‐(マタイ8:23〜27)

 イエス様が弟子たちと共に船に乗ってガリラヤ湖を渡っておられた時に、突風が吹き荒れ危険な状況に陥ったのです。弟子たちの中には元プロの漁師がいたのですが、その漁師でも根を上げてしまう程の突風であったのです。しかし、イエス様はそのような中でもぐっすりと眠っておられたのでした。焦ってイエス様を起こした弟子たちに「信仰はどこにあるのですか
と問われました。神様を信じ、いかなる時にも共におられるイエス様を信じる時、平安はもたらされます。

2.愛による平安
‐十字架を目前に控えたイエス様‐

 今日の御言葉の箇所の背景は、イエス様が十字架で処刑される前日の出来事です。イエス様を裏切ったイスカリオテのユダはイエス様に裏切りを見抜かれ裏切りを実行しに去ってしまいます。他の弟子たちは、まだ何のことか良く分かっていないでイエス様の最後の説教を聞いているのです。その説教の中で今日の御言葉が語られました。イエス様は目の前に死が迫っているのですが、イエス様は平安で包まれています。なぜでしょうか。それは、弟子たちを心から愛し、その愛が恐れを上回っていたからです(第一ヨハネ4:18)。

3.勝利に基づいた平安(ヨハネ16:33)

 イエス様の平安は勝利に基づいています。失望、不安、悪意、病、死、全てにイエス様は勝利を取ってくださり、完全なる生涯をおくってくださったのです。そして、私たちの不完全な生涯の身代わりとして十字架につけられ、その身代わりを信じるものには、イエス様と同じ勝利の人生をおくったものとしてくださるのです。(ローマ8:35〜39)

10.祈祷・・一 同
11.献金246 奇しきものの音 (平安)
12.感謝祈祷 ・司会者
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・寺東真也師
15.報告・・・・司会者

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第4主日礼拝式順序 2021年1月24日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美259 聖いふみは教える (救いの喜び) ・・一同起立
3.使徒信条・・一 同
4.主の祈り・・一 同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美151 永久の安き来りて (再臨)・・一 同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「足のともしび、道の光」
聖句 詩篇119:105

講壇 「足のともしび、道の光」  詩篇119:105

「あなたのみことばは私の足のともしび私の道の光です。」(詩篇119篇105節)

 信仰生活というのは、クリスチャンになったからといって完全になったわけではありません。反対に、霊的なスタート地点に立ったと考えるべきです。私達には「走るべき道のり」が与えられているのです(使徒20:24、第二テモテ4:7)。
 神様は私たちに聖書を与えてくださいました。それは、誤りなき神のことばです。人生の羅針盤、偽りなき基準であります。信仰生活には欠かせないものであり、唯一無二のものです。
 コロナ禍という100年に一度の感染病における危機が世界を襲っている最中にあります。真っ暗闇のただ中を進んでいるように感じる人も少なくありません。

1.足のともしび

 私達の周りはさらに暗くよどんでいくことでしょう。今、自分がどこを歩んでいるのか、正しい道か、間違った道か、知るよしもないという状態ではクリスチャンでも途中で息絶えてしまいます。神様は私たちの人生の足元を照らす光としてみことばを与えてくださいました。ともしびというのは決して大きな光ではありません。自分が歩いていく数十メートル先、数百メートル先まで見通すことが出来ればスピードを上げて歩くことが出来ます。しかし、神様は人生を「速く」歩くことを重要視するのではなく、「誠実」に歩むことを願っておられます。みことばは今歩いている足元を照らす光であることは大切な真理なのです。一歩一歩を主のみことばによって大切に歩みましょう。

2.道の光

 イエス様を信じる信仰者は「この道の者」と呼ばれました(使徒9:2)。人が生きていく道それが人生といえます。日本には「〜道」というものがあります。そこで大切にされる共通のものは技術だけではなく「心」です。
 みことばは、私たちの心をもとりあつかってくださるのです。みことばは私達をキリストに似たものとして整えてくださるのです。
「みことばの戸が開くと光が差し浅はかな者に悟りを与えます。」(詩篇119:130)

 ペテロはイエス・キリストの来臨の時まで、みことばに目を留めるようにと勧めています。主の言葉は生きていて私たちに働きかけてくださるのです。
「また私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜が明けて、明けの明星があなたがたの心に昇るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。」(第二ペテロ1:19)

10.祈祷・・一 同
11.献金316 御言葉なる (信頼)
12.感謝祈祷 ・司会者
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・寺東真也師
15.報告・・・・司会者

x

第3主日礼拝式順序 2021年1月17日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美185 来れ誰も (神の招き) ・・一同起立
3.使徒信条・・一 同
4.主の祈り・・一 同
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美468 やがて天にて (天国)・・一 同
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「強くあれ。雄々しくあれ。」
聖句 ヨシュア記 1:1〜9

講壇 「強くあれ。雄々しくあれ。」  ヨシュア記1:9

「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにおられるのだから。」(ヨシュア記 1:9)

 ヨシュア記のテーマは「勝利」と言うことが出来ます。エジプトより脱出したイスラエルの民は、40年もの年月を経て、約束の地「カナン」に到着します。
 ヨシュア記はそのイスラエルが神様に与えると言われた地を獲得していく様子を記しているのです。
 ヨシュア記の中には勝利ある人生を送るための要素がぎっしりと詰まっています。

○勝利ある人生

 神様はイスラエルに一人のリーダーを決められました。初代リーダーの名前は「モーセ」です。モーセは誰よりも柔和で(民数記12:3)しかも力あるリーダーでした。聖書も絶賛しています。
 しかし偉大なリーダーといえども人間です。モーセは約束の地の一歩手前で地上の生涯を終えます。そこで2代目のリーダーとして立てられたのがモーセの側近であったヨシュアでした。
 今日の御言葉は神様がヨシュアに対して直接語られた言葉です

○強くあれ雄々しくあれ

 信仰者が勝利を得るために神様から求められるのは、主にあって強く、雄々しくある事です。臆病であってはいけません。
 ヨシュアが神様から二代目のリーダーとして任命された時は、モーセの死の直後でした。この時のヨシュアの気持ちは聖書に記されていませんが、畏れにも似た緊張が張りつめていたのではないかと思います。偉大なリーダーの後を継ぐというのはある意味、光栄な事ではありますが、それ以上に責任と期待がのしかかります。その状態で、リーダーとして立ち上がるという勇気が必要になるのです。
 どのように、強く雄々しく荒れるのでしょうか。それは、主が共におられると言う約束と、その約束を信じる信仰のゆえにです(5節、9節)。
 そして、ヨシュアには二つの使命が与えられました。

1.約束の地を民に受け継がせる使命(6節)

 神様は既にイスラエルの民に約束の地を与えていると仰いました(3節)ただし、信仰もって実際にその足で踏みしめ勝ち取るならばです。そして、それをヨシュア単独ではなく、イスラエルという共同体として行う必要があり、皆が、心を一つにして信仰の歩みをする必要がありました。ヨシュアは民に既に与えられている地を信仰もって受け継がせる使命を帯びたのです。

2.神の栄光を表す使命(7〜8節)

 2つ目の使命は神の栄光を表す事です。どのように、栄光を表すのでしょうか。それは、神のことばに聞き従う時、その人は栄え、繁栄し、主の栄光を表すのです。人は自分を神とする生き方をしてしまう愚かさを持っています。自分の考えで歩んでも勝利の人生は送れません。真理なる神様の言葉に耳を傾け、神様の言葉に従って行くときに勝利の人生は花開くのです。

10.祈祷・・一 同
11.献金486 雄々しくあれ (子ども)
12.感謝祈祷 ・司会者
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・寺東真也師
15.報告・・・・司会者

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第2主日礼拝式順序 2020年1月10日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美18 おお御神を褒め奉れ (賛美) ・・一同起立
3.使徒信条・・司会者
4.主の祈り・・司会者
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美381 朝日の光は (きよめ)・・賛美リーダー
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.賛美・・・・聖 歌 隊
10.メッセージ・寺東真也師
主題 「キリストに聞き従う」
聖句 ヨハネ2:1〜11

講壇 「キリストに聞き従う」  ヨハネ2:1〜11

「さあ、それを汲んで、宴会の世話役のところに持って行きなさい。」(ヨハネ2章8節)

 イエス様が最初に行われた奇跡は、カナと言う場所で行われた結婚式の中で行われました。

○ぶどう酒がない(1〜3節)

 結婚式はその家族、特に花婿と花嫁にとっては一生に一度の晴れ舞台です。その祝いを誰もが祝い、又、心地よく過ごしてもらおうと家族も念入りな用意をしておくものです。その中で不測の事態が起こります。祝いのぶどう酒が底をついてしまったのです。
 そこでイエス様の母であるマリアはイエス様になんとかして欲しいと思いぶどう酒が無くなった事を伝えました。

○イエス様の時(4節)

 しかし、イエス様の返答は一見冷たいものでした。「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」(4節)自分の母親に対しての言葉とはとても思えませ。この返答は不良息子のものではありませんでした。
 イエス様はマリアの子供でしたが、聖霊によって身ごもった救い主でした。そして、すでに救いの瞬間を目指して歩み始められていたのです。もう既にマリアの子供の「時」は終わったのです。
 ではイエス様の言われた「わたしの時」とはなんなのでしょうか。
 それをイエス様は「栄光を受ける時」(ヨハネ12:23)と言われている時です。それは十字架に上げられる時であり、復活される時でした。イエス様はご自分の命をもって人類の救いとなられたのです。

○聞き従う(5〜8節)

 神様に対して、お祈りし、願い事を伝える事は悪い事ではありません。しかし、神様を自分の願い事をかなえる時だけに求めるのは間違っています。マリアは、イエス様に願った後、「あの方が言われることは、何でもしてください。」(5節)と言いました。私たちは神様の栄光の為に存在するのであって、神様が私たちの為に存在しいているのではない事を知らなければなりません。

○聞き従う者は知る(9〜11節)

 イエス様は6つの水がめ(一つ80〜100リットル)に水を満たせと言われました。今、必要なのは水ではなく祝いのぶどう酒です。しかし、手伝いの者は文句を言わずイエス様に言われるとおりに聞き従い、約600リットルもの水を井戸から汲んでかめに満たしたのでした。そしてイエス様に言われるとおりに、宴会の世話役の所に持っていくとそれは、極上のぶどう酒へと変貌したのです。この記念すべき最初の奇跡を知っていたのは聞き従って黙々と労した手伝いの者たちと弟子たちだけでした。
 あなたを愛し、あなたに命を与えてくださったお方は、全てを満たす事の出来るお方です。そのお方の御声を聞くものとさせていただきましょう。

11.祈祷(黙祷)・・一 同
12.献金384 主よ御手もて (献身) 賛美リーダー
13.感謝祈祷 ・指 名
14.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
15.祝祷・・寺東真也師
16.成人祝福式・・・賛美388 いとも良きものを (献身)
17.報告・・・・司会者

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第1主日礼拝式順序 2021年1月3日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美2 諸 (クリ) ・・一同起立
3.使徒信条・・司会者
4.主の祈り・・司会者
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美356  (クリ)・・賛美リーダー
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「キリストにあって歩みなさい」
聖句 コロサイ2:6〜7

講壇 「キリストにあって歩みなさい」  コロサイ2:6〜7

「このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい。キリストのうちに根ざし、建てられ、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかりに感謝しなさい。」(コロサイ2章6〜7節)

 基督兄弟団の2021年の標語は本日の御言葉の7節になります。この御言葉からキリストにあって歩むという事を学びたいと思います。
 イエス様の別名はイムマヌエル(主が共におられる)です(マタイ1:23)。そして、私たちの歩調に合わせ、楽しい時も、苦しい時も、順調な時も、逆境の時も共に歩んでくださるお方なのです(ルカ24:15)。
 そして、私たちもキリストにある歩みをすることが大切です。

1.キリストのうちに根差し、建てられる。

 キリストにあって歩むための最初の秘訣はキリストのうちに「根差し」「建てられる」ことです。 昨年までの教団標語は「下に根を張り、上に実を結ぶ」(イザヤ37:31)でした。実を結ぶためには、見えない所が大切になります。木で言うならば根ですね。そして、もっと大切なのは、どこに根を張るかです。
 建物を建てる時にも同じことが言えます。上物がどんなに立派でも基礎がしっかりしていなければ、危険な建築物でしかありません。イエス・キリストこそが私たちのいのちの源であり、救いの唯一の道です。この世に溢れる、すぐに枯れてしまう土壌や、一見掘りやすい砂場に根差し、建ててはなりません。

2.教えられたとおり信仰を堅くする。

 キリストにあって歩むための二番目の秘訣は教えられたとおり信仰を堅くすることです。
「教えられたとおり」というところが重要です。
 教会はキリストの体でありますが、すでに完全にされているわけではありません。主が私たちを迎えに来られるまで、完全に向かって成長する群れです。今日の御言葉のコロサイの教会にも問題がありました。それは、教え伝えられたイエス・キリストの福音によって信仰を堅くするのではなく、「空しいだましごとの哲学」に耳を傾けていたと言うのです。それはキリストから出たものではなく、「人間の言い伝え」であり、この世の霊によるものだと聖書は言います(8節)。それは、旧約の律法と融合し(16節)、禁欲主義に走らせました(20〜30節)。また、御使い礼拝なるものも取り入れ、「超自然的な不思議体験」を信仰の拠り所としていました(18〜19節)。
 大切なのは、聖霊が語られる聖書の御言葉が語る福音である教えられた通りの信仰を堅く保つことです。

3.あふれるばかりに感謝しなさい。

 キリストにあって歩むための最後の秘訣は、あふれるばかりに感謝することです。
 人は長所よりも短所に目が行き、受けた恵みや善行よりも、攻撃された痛みや悪行が記憶に残るものです。その結果、裁くことは容易にできますが、感謝する事は意識しなければできません。まず、イエス様は私たちになしてくださった救いの御業をいつも思い、その上で、隣人への感謝を忘れず、見つけ出して感謝してみましょう。感謝は感謝を生み出し溢れ流れるようになるのです。

10.祈祷(黙祷)・・一 同
11.献金323 この世の旅路に (信頼) 賛美リーダー
12.感謝祈祷 ・指 名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・寺東真也師
15.報告・・・・司会者

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元旦礼拝式順序 2021年1月1日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美24 聖なるわれらの主 (賛美・感謝) ・・一同起立
3.使徒信条・・司会者
4.主の祈り・・司会者
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美250 世の波風いかに荒れて (平安)・・賛美リーダー
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「無駄になる事がない労苦」
聖句 第一コリント15:58

講壇 「無駄になる事がない労苦」  第一コリント15:58

「ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」(第一コリント15:58)

 新型コロナウイルスが猛威をふるい現在もコロナ禍のただ中にあります。最初の緊急事態宣言が発令された時、日本中で自粛が行われ、日頃、人々で大きく賑わう、繁華街からも人影が消えました。それは世界でも同じで異様な光景でした。しかし、その効果からか一時的ではあったものの感染者数は大幅に減り、大阪においては感染者数0人という日も珍しくありませんでした。しかし、相手は目に見えないウイルスです。気をつけてはいても日常が戻れば、再び感染の波がやってくるという事を三度繰り返し今に至ります。勝負の三週間と言われた12月頭前後、春の緊急事態宣言の時とは大きく違う事がありました。それは、人出です。このままでは医療が危ないと言われている中、年末に向けて、人出は増加していったと言うのです。一つの理由として、「報われない努力」という事があるように感じます。努力をしただけ、効果があると感じる事が出来れば人は努力します。しかし、やったとしても、結局また同じことの繰り返しと感じるならば、努力を止めてしますのです。

〇コリントの教会の脅威

 コリントの教会は危機的な状況に陥っていました。分裂分派(1:11)、不品行(5:1)、禁欲主義(7:1)偶像にささげた肉問題(8:1)等。
 信仰生活は短距離走競技ではなくマラソン競技に似ています。その競技中は果てしなく、終わりが見えないような錯覚に陥るのです。一時的なものならば、力と勢いで勝負できるでしょうが、そうはいきません。ある者は、諦めてリタイアし、ある者は失速します。
 特に信仰生活はにおいては、鍛えぬいた精神でなんとかなるものではないのです。コリントの教会は、その信仰生活が時間と共に変質していったのです。

○無駄にならない為に

 パウロはコリントの教会の現状に危機感を覚え、手紙を書きました。その問題一つ一つに答えていくのですが、最終的にもう一度自分たちがよって立っている福音に目を向けさせます。霊的なマラソンである信仰生活に必要なのは恵みなのです(15:1)。2020年からコロナ禍にある現状は、信仰生活にとって逆風であり、限りなく続く上り坂のようなものです。そのような状況はゴールを見失わせがちです。
 コリントの教会も実際、死者の復活を否定する人たちがいました(15:12)。イエス様の死と復活はワンセットです。そして、それがもたらす希望は、永遠の御国であり、私たちの信仰生活もそこに焦点があっていく時に福音の全貌が明らかになり、より神様の恵みへと導かれるのです。

○主の業に励もう

 今、私たちを取り巻く状況は、結果が出ず、失望へと駆り立てる状況です。しかし、神の愛は常に私たちに注がれており、神の愛がギュッと詰まっている福音に立っていくならば、ゴールを見失うことなく主のわざに励むことが出来ます。どのような時にも、堅く立って、動かされることなく主のわざに励みましょう。

10.祈祷(黙祷)・・一 同
11.献金461 苦きを忍びて (霊の戦い) 賛美リーダー
12.感謝祈祷 ・指 名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・寺東真也師
15.報告・・・・司会者

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第52主日年末感謝礼礼拝式順序 2020年12月27日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美22 御神の愛をば (賛美・感謝) ・・一同起立
3.使徒信条・・司会者
4.主の祈り・・司会者
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美100 御国をも御座をも (生涯)・・賛美リーダー
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「臨在の旅路」
聖句 出エジプト40:34〜38 / 民数記9:15〜23

講壇 「臨在の旅路」  出エジプト40:34〜38 / 民数記9:15〜23

「二日でも、一月でも、あるいは一年でも、雲が幕屋の上にとどまって、去らなければ、イスラエルの子らは宿営を続けて旅立たなかった。しかし、雲が上ったときは旅立った。」(民数記9:22)

 出エジプトの一つのテーマは「臨在」です。神が共におられるという事、その幸いをみことばから聞きたいと思います。

○最初のモーセの反応

 モーセが神の山ホレブで最初に召命を頂いた時のことです。

「わたしが、あなたとともにいる。これが、あなたのためのしるしである。このわたしがあなたを遣わすのだ。あなたがこの民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で神に仕えなければならない。」(3:12)

 と神様は仰ってくださいました。神様が臨在くださる。その旅を守り、成功へと導き、目的を果たさせてくださると言うのです。しかし、負け癖がついていた当初のモーセは、神様の名前はなんだとか(3:13)、神様から遣わされたなんて信じてもらえないとか(4:1)、自分は口下手だとか(4:10)とさんざん言い訳をしました。見えない神様の臨在では納得いかず、実の兄のアロンの協力を得ることが出来て初めて召命に応える事ができたのです。
 しかし、モーセは神様との信仰の旅路の中で研ぎ澄まされていきました。

○私の臨在が共に行く

 金の子牛事件によってイスラエルは及第点にも及ばない結果となり、その時は神様の怒りと憐みから神様の代わりに御使いが遣わされようとしていました。しかし、モーセは霊的に覚めていたので、それでは意味がないと「どうかあなたの道を教えてください。」(33:13)と祈ったのでした。すると、神様はイスラエルと共に約束の地への旅路に同行しないと言っておられた事を変更され「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」(33:14)と臨在の確約を頂いたのでした。

○幕屋に臨在が宿る

「そのとき、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。」(40:34)
 35章からはモーセが主に命じられたとおりに幕屋を立てたことが記されています。結果から言うとその幕屋に主の臨在が満ち溢れます。そこには、民の悔い改めと感謝と進んで献げる献げものが存在したのです。そして、民の心のこもった献げものは、幕屋こ建設に奉仕する者の目から見てもあり余り、これ以上持ってこられても困るほどになったと言うのです。(35:4〜36:7)。
 心を見られる主は、民の心のこもった献げものによって建てあげられた幕屋に濃厚な臨在を表わしてくださったのです。それは、昼は雲の柱、夜は火の柱となって臨在が可視化されたのです。

〇主の臨在と共に(36〜38)

 人生は旅に似ています。聖書も信仰者を旅人と呼びます(?ペテロ2:11)。イスラエルの民は、主の臨在が進むと進み、留まると留まりました。主の臨在は民を守り、育み、行く道を示してくださるのです。人生の旅路を主と共に歩ませて頂きましょう。

10.祈祷(黙祷)・・一 同
11.献金275 信仰こそ (信仰) 賛美リーダー
12.感謝祈祷 ・指 名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・寺東真也師
15.報告・・・・司会者

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第51主日クリスマス親子礼拝式順序 2020年12月20日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美76 諸人こぞりて (クリスマス) ・・一同起立
3.使徒信条・・司会者
4.主の祈り・・司会者
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美87 入れまつる家あらず (クリスマス)・・賛美リーダー
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.証・・・・・・・・ 澤村悦子姉 9.聖書・・・・司 会 者
10.メッセージ・寺東真也師
主題 「神の御旨と導き」
聖句 マタイ2:1〜12

講壇 「神の御旨と導き」  マタイ2章1〜12節

「まことに、主は私たちをさばく方、主は私たちに法を定める方、主は私たちの王、この方が私たちを救われる。」(イザヤ33:22)

○東方の博士たち

 聖書には「東方」としか記されていませんが、おそらく、ペルシャ地方(現在のイラク・イランのあたり)だと言われています。バビロン帝国、ペルシャ帝国において覇者となった事のある地方です。イスラエルも捕囚の時代をそこで過ごしていました。
 博士という言葉は「マーゴイ」で賢者とも訳せます。当時は天文学が最高の科学であり、宗教的な占星術も取り入れられたものでした。聖書的には、占いは忌み嫌われるべきものであり、異邦人の業の最たるものです(申命記18:9〜12)。要するに、この東方の博士たちは、忌み嫌うべき異邦人の代表的な人物たちだったのです。
 このような人達でしたが、聖書は博士たちを、羊飼い達に次いで、幼子イエスを礼拝するように導かれた人々として記しています。

○全ての人に開かれる救い

「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。」(第一テモテ2:4)
 なぜ、イエス・キリストの御降誕を似つかわしくない者たちが祝うように導かれたのでしょうか。それは、全ての人への神の愛の情熱ゆえなのです。
 ちなみに羊飼い(ルカ2:8〜20)は、貧しい、何も持たない者たちの象徴であり、特にユダヤ人を指します。博士たちは、羊飼いの正反対であり、裕福で、神よりも自分たちの知識と世俗に溺れる異邦人の象徴です。そのどちらもが、救い主へと招かれているのです。

○神の導き
1.みことばとの出会い

 博士たちは当時の賢者であり、学も、立場も、色んな物を持っていました。実際にイエス様に素晴らしい高価な献げ物(黄金、乳香、没薬)をしています。信奉する星を頼りにイスラエルの首都エルサレムまで来ましたが、その先が見えてきません。そこで、当時の王、ヘロデを尋ねたのです。
 現代の私たちを取囲む環境は、イエス様の時代よりも、科学が飛躍的に進歩し、この世で人類に並ぶものは何もないと言う程栄華を極めている状況です。しかし、永遠に変わらない真理、本当の愛など科学では届きえない部分が存在するのも確かです。
 博士たちは、自分たちの天文学、占星術の限界を感じて、ヘロデを尋ねたのですが、そこで開かれたのは、聖書のことば、預言者のことばでした。預言者の指し示す地ベツレヘムに導かれ、そこで救い主を礼拝したのです。

2.従いへの導き

 神のことばなる主イエス・キリストに出会った博士たちは、礼拝者となり、喜び溢れます。そして、この世的な利害関係や、世渡りのうまさというしがらみを超えた、神の御声に聞き従う大切さを学びます。
 ヘロデは博士たちを利用しようと、嘘のお願いをして、幼子を亡き者にしようとしました。しかし、神様は夢で博士たちにヘロデのもとに戻る事を禁じました。すると博士たちは、権力者にゴマをすることなく、神の御声に聴き従い、別の道から帰って行ったのです。
そう、キリストに出会って彼らは変えられたのです。

11.祈祷(黙祷)・・一 同
12.献金86 み使いのたたえ歌う (クリスマス) 賛美リーダー
13.感謝祈祷 ・指 名
14.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
15.祝祷・・寺東真也師
16.報告・・・・司会者

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第50主日礼拝式順序(アドベント第三週) 2020年12月13日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美79 天には栄え (クリスマス) ・・一同起立
3.使徒信条・・司会者
4.主の祈り・・司会者
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美99 馬槽の中に (生涯)・・賛美リーダー
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「栄光から栄光へと」
聖句 出エジプト34:29〜33/ 第二コリント3:12〜18

講壇 「栄光から栄光へと」  出エジプト34:29〜33/ 第二コリント3:12〜18

「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(第二コリント3:18)

 モーセはもう一度、シナイ山へと登るように主に導かれました。イスラエルの裏切りで、破棄されてしまった契約の板をもう一度手に入れる為です。モーセはこの度も40日40夜主と共にシナイ山の上で教えを頂いたのでした。新しい十戒の石板を携えて山から下りてきたモーセの顔は主の輝き反映して輝いていたのです。

○主の栄光の輝き

 モーセの祈りは大胆なものでした。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」(33:18)。身の程知らずでありながら、純粋なモーセの祈りに神様は、神様の栄光の一部(後姿)を見せてくださったのです。それだけでも、モーセの顔は霊的に、そして物理的に輝いたのでした。
 しかし、モーセは主の栄光を反射させたにすぎません。その元なる栄光の輝きは、神様にあります。私たちの主イエス様は変貌山にてモーセとエリヤとエルサレムにおける十字架について栄光の輝きの中で話し合いました。その姿は、顔が太陽のように輝き、衣は光のように白く輝いたのでした(マタイ17:2)。又、ヨハネは黙示を受けた時、復活のキリストの栄光を見てその足元に死んだように倒れこんでしまうのでした(黙示録1:12〜19)。
「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。」(へブル1:3)

○輝きに覆いを

 モーセの顔が輝いているのを見て民は恐れました(34:30)。主の栄光の前に、自分の責任で立とうとする時、人は恐れを覚えます。どれほど真面目で良い人と評判の人でも、神様の前には罪人であり、義であることは出来ないからです。又、モーセ自身も民の為と共に、神の律法を聞き、臨在に触れた経験によって輝いていた顔は一時的なものでしたので、その輝きは時間と共に無くなっていく事に寂しさを覚えたのでしょう。自ら輝く顔に覆いをしたのです(第二コリント3:13)。
 この栄光の輝きに覆いをかけるという行為は、真理に目を背けて神のことばに向き合っている状態です。イエス様を通して、神様の栄光が現わされ、律法による死で終わる契約から、恵みと信仰によるいのちの契約に移っている事に気が付かないのです。今も、多くのイスラエルの人々は覆いがかけられている状態でイエス様の救いを受け入れることが出来ません。

○覆いを取り除くキリスト

 「しかし、イスラエルの子らの理解は鈍くなりました。今日に至るまで、古い契約が朗読されるときには、同じ覆いが掛けられたままで、取りのけられていません。それはキリストによって取り除かれるものだからです。・・・しかし、人が主に立ち返るなら、いつでもその覆いは除かれます。」(3:14、16)
 イエス様は十字架によって神と人とを隔てる覆いを取り去ってくださいました。このお方を信じる時に、聖霊が与えられます。そして、信じた者たち造り変えて、栄光から栄光へと主と同じかたちに変えられていく恵みを与えてくださるのです(3:18)。

10.祈祷(黙祷)・・一 同
11.献金411 御恵みの高嶺に (聖霊) 賛美リーダー
12.感謝祈祷 ・指 名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・寺東真也師
15.報告・・・・司会者

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第49主日礼拝式順序(アドベント第二週) 2020年12月6日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美75 神の御子は  (クリスマス) ・・一同起立
3.使徒信条・・司会者
4.主の祈り・・司会者
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美68 久しく待ちにし (アドベント)・・賛美リーダー
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「祈りの語らい」
聖句 出エジプト33:7〜11

講壇 「祈りの語らい」  出エジプト33章7〜11節

「主は、人が自分の友と語るように、顔と顔を合わせてモーセと語られた。」(出エジプト33:11)

 神様との祈りは語らいの時です。しかし、当時の祈りのスタイルは儀礼的でありました。宿営(民が寝食をするテント群)の外に神様と語らう専用のテントを張り、そこを会見の天幕と呼んでいました。今は私たちが主を求めて祈ると時、どこでも、会見の天幕となります。それは、イエス様が神様との懸け橋となってくださったがゆえに、イエスの名によって祈る祈りは、すべて父なる神様に届くからです。モーセは民を代表し(民がそう願った部分も強いが)、神様の前にいつも出ていたのです。そして、神様ご自身もモーセを選び、愛し、特別に扱われていたのです。

○友と語るように

 神様はモーセが祈る時、人が友と語らうように、顔と顔を合わせて語られました。これは、何の忖度もなく、分かりやすく、真っ直ぐに語られたという事です。
 イエス様は弟子たちに対してこう言われました。

「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。」(ヨハネ15:13〜15)

 イエス様は私たちをも友と呼んでくださるお方です。親友ラザロを友と呼ぶのは当たり前だとして(ヨハネ11:11)、中風で寝たきりの人に対しても(ルカ5:20)、極めつけは、ご自分を裏切った直後のイスカリオテ・ユダに対しても、「友よ」と呼んでくださるのです。
 神様は罪を許容されるお方ではありません。しかし、どこまでも愛のお方であり、人が悔い改め、立ち返ってくるのを待っていてくださり、受け入れられるように、唯一の道である主イエス様の救いをなしとげてくださったのです。

○モーセの率直な祈りに応えてくださる神様

 金の子牛事件の後、神様はイスラエルの民に対して悲報を告げられます。それは、約束の地に上っていく時、神様ご自身は共に行かないと言うもので、その代わりに、一人の使いを遣わすというものです(1〜3節)。
 それに対して、モーセは必死に訴え祈ったのです。確かに神様の提案は理に適っており、約束の地を手に入れる事の可能性は跳ね上がるでしょう。ただし、あまりにも神様との距離があり、モーセは納得できないのです(12〜13)。それに対して、モーセに対する神の臨在を約束くださいました(14節)。
 更にモーセは、自分だけでなく、民全体と共にいてくださいと願います(15〜16節)。すると、その事もしようと前言を撤回してくださるではありませんか(17節)。
 最後にモーセはとても厚かましい願いを祈ります。「あなたの栄光を私に見せてください。」(18節)。要するに神様の全てを知り、見たいと願ったのです。神様はそんなモーセに顔を見る事は、人間には無理だが、後姿(栄光の片鱗)を見せてあげようと約束してくださったのです(20〜23節)。
 神様は純粋な信仰の祈りを無下になさらず耳を傾けてくださるお方なのです。

10.祈祷(黙祷)・・一 同
11.献金195 イエスの許に (祈り) 賛美リーダー
12.感謝祈祷 ・指 名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・寺東真也師
15.報告・・・・司会者

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第48主日親子礼拝式順序 2020年11月29日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美275 信仰こそ (信仰) ・・一同起立
3.使徒信条・・司会者
4.主の祈り・・司会者
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美455 み民よ戦え (霊の戦い)・・賛美リーダー
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「信仰に生きた人マリア」
聖句 ルカ1:26〜56

講壇 「信仰に生きた人マリア」  ルカ1章26〜56節

「神にとって不可能なことは何もありません。」(ルカ1:37)

○処女マリアへの受胎告知

 マリアはヨセフの許嫁で将来結婚する事となっていました。しかし、御使いガブリエルが告げたものは、これ以上ない祝福であると同時に、マリアにとって意外で、過酷なものでした。それは、受胎告知であり、救い主の母となるという内容のものでした。既婚で不妊のエリサベツにとっての妊娠は、吉報以外の何ものでもありません(24〜25節)。しかし、未婚のマリアにとって、妊娠は不品行と不貞の結果でしかないのです。それに対して、マリアは驚きと戸惑いを隠すことが出来ませんでした(34節)。

○みことば信仰に生きたマリア

 神様の計画は時に、チャレンジを大きく含みます。マリアは不品行や不貞を犯したわけではありませんが、どう考えても、現実的には誤解を与えかねない方法を神様は、選択され(イザヤ7:14)、マリアにそれを受け入れるように迫ったのです。
 御使いは「聖霊があなたの上に臨み」、「いと高き方の力があなたをおおう」そして、「神にとって不可能なことは何もありません。」と言うのです。
 マリアの信仰の素晴らしい所はその純真さです。世間体や、しがらみに縛られることなく、マリアの信仰告白が宣言されたのです。
「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」(38節)

〇エリサベツの証言

 受胎告知を受けたマリアは、同じく、奇跡的に身ごもった親戚エリサベツを尋ねて、3カ月間そこで過ごしました。互いに神様の素晴らしさ、大きさ、信仰の大切さ、様々な事を話し合い、慰め合い、励まし合ったのでしょう。その生活が始まる初めの瞬間を聖書は記録しています。
「エリサベツがマリアのあいさつを聞いたとき、子が胎内で躍り、エリサベツは聖霊に満たされた。」(41節)
 エリサベツは聖霊に満たされて挨拶と祝福の言葉を贈りました。その締めくくりに、マリアの信仰についてこう証言しています。
「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」(45節)

〇信仰で生きる

 マリアが純真に、神様のしもべであるが故に従順に従う事が出来た一つの秘訣は、主のみことばと御旨に対して、日頃の様々な出来事や導きに思いを巡らし、心にとめる事をしていたことです(2:19、2:51)。
 イエス様の献児式の際、エルサレムの宮でシメオンに聖霊が預言を与えた時、その預言は母にとって厳しいものでした。
「剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現れるためです。」(ルカ2:35)
 イエス様が十字架におかかりになった時、母は、その下にヨハネと女性の弟子たちと共に涙に暮れていたのです。預言は現実となりました。しかし、ヨハネに母を託し、そしてご自分は、救い主としての御業である贖罪と救済を全うされました(ヨハネ19:26〜27)。
 そして、イエス様が復活、昇天された後、聖霊を待ち望む教会のメンバーの祈りの中にマリアは座していました(使徒1:12〜14)。「息子」から「わが主」へと信仰によって導かれたのです。

10.祈祷(黙祷)・・一 同
11.献金324 主と主の言葉に (信頼) 賛美リーダー
12.感謝祈祷 ・指 名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・寺東真也師
15.報告・・・・司会者

x

第47主日礼拝式順序 2020年11月22日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美3 天地の御神をば (賛美・感謝) ・・一同起立
3.使徒信条・・司会者
4.主の祈り・・司会者
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美437 行きて告げよあまねく (宣教)・・賛美リーダー
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「破れ口でとりなす者」
聖句 出エジプト記32:30〜32
   第一テモテ2:1

講壇 「神と人との仲介者」  出エジプト記20:18〜21 / へブル12:18〜24

「そこで、私は何よりもまず勧めます。すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。」(第一テモテ2:1)

 モーセはホレブ山で40日40夜を過ごし、神のことばを聞き、律法を聞き学びました。その教えを民に神様に代わって伝える為です。そして、神様ご自身が直々にその指で記された石板二枚の十戒を携えて下山しようとした時、神様から衝撃の事実を聞くことになりました。

「さあ、下りて行け。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまった。彼らは早くも、わたしが彼らに命じた道から外れてしまった。彼らは自分たちのために鋳物の子牛を造り、それを伏し拝み、それにいけにえを献げ、『イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ』と言っている。」(出エジプト32:7〜8)

○モーセのとりなし(その1)

 神様はイスラエルの民があまりにも早い堕落をした姿を見て、モーセに計画変更を告げられました。それは、山のふもとにいるイスラエルの民をすべて打ち滅ぼし、その代わりに、モーセの子孫を大いなる国民にすると言うものでした。
 それに対して、モーセは神様の御名の為にも、又、アブラハム、イサク、ヤコブ(イスラエル)に誓われた約束の為にも、もう一度、思い直してくださるように懇願しました。すると、主はイスラエルに下そうとしておられた裁きを思い直されたのです(出エジプト32:11〜14)。

〇モーセのとりなし(その2)

 イスラエルの民の罪はモーセが想像するよりももっと深刻なものでした。民は主のご臨在よりも、目に見える安心を選び取り、この世の富と主の栄光をすり替えてしまいました。モーセは激怒し、首謀者の3千人を処分します。それでも、神様をあり得ない方法で裏切り、取り返しのつかない所まで来てしまっていた事を覚えたモーセは最後の手段としてのとりなしをする覚悟をしました。

「ああ、この民は大きな罪を犯しました。自分たちのために金の神を造ったのです。今、もしあなたが彼らの罪を赦してくださるなら──。しかし、もし、かなわないなら、どうかあなたがお書きになった書物から私の名を消し去ってください。」(出エジプト32:31)

 そうです。モーセは自分の命をかけてイスラエルの民の為のとりなしを行ったのです。しかも、肉体の命だけでなく、「あなたがお書きになった書物」(いのちの書)から自分の名を消すと言っているので、救いから除外されることによって民が救われるならばと、とりなしているのです。
 モーセのとりなしはイエス・キリストのとりなしの型です。モーセのとりなしによって、イスラエルの民の処罰は保留になりました(出エジプト32:33〜34)。
 しかし、イエス様は神でありながら完全な人となってくださり、その上、罪を一度も犯されない完全な者として生涯を送られました。そして、その命を罪人たちの代わりに裁きと呪いに引き渡され、罪の許しと救いを成就されたのです(第一ヨハネ3:5)。

〇破れ口に立つキリスト者

 イエス様にとりなされ、救われた者たちは、とりなす側に立つものとされています。破れ口に立って全ての人々のためにとりなし祈る者とされましょう。

10.祈祷(黙祷)・・一 同
11.献金196 祈れ物事 (祈り) 賛美リーダー
12.感謝祈祷 ・指 名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・寺東真也師
15.報告・・・・司会者

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第46主日礼拝式順序 2020年11月15日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美244(救い) 信ずる者は何びとも ・・一同起立
3.使徒信条・・司会者
4.主の祈り・・司会者
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美454(前進) 立ちあがれいざ ・・賛美リーダー
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「神と人との仲介者」
聖句 出エジプト記20:18〜21
   へブル12:18〜24

講壇 「神と人との仲介者」  出エジプト記20:18〜21 / へブル12:18〜24

「神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。」(第一テモテ2:5)

 シナイ山のふもとで三日かけて身を聖別し、その後、モーセだけがシナイ山に登り、そこで十戒を教えられました。まず、一度下山を命じられたモーセは、山のふもとにいる民のところまで戻り、十戒を民に語ったのです(出エジプト20:1〜17)。今日は十戒を語り終えた直後のみことばから学びたいと思います。

○聖なる臨在の中で

 モーセがシナイ山に登る前、身を聖別して三日目の朝、目の前のシナイ山は一変していました。
「三日目の朝、雷鳴と稲妻と厚い雲が山の上にあって、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。」(出エジプト19:16)
 その恐れは、シナイ山を前にずっと続いていたのです(出エジプト20:18。へブル人への手紙を書いた著者もその時のことを引用して書いています(へブル12:18〜21)。
 神様の聖なる臨在に触れた時、人間が畏怖の念を覚え、恐怖する事は当然と言えば当然です。罪を全く持たない神の前に、神に造られ愛されたのにもかかわらず、神から離れてしまった罪深い者が何も感じない方がおかしいのです。
 しかし、この時、恐怖を感じさせた神様の目的は、人間いじめではありませんでした。神の代理人であり仲介者であるモーセのことば(=神様より受けたことば)を信じるようになる為だったのです(出エジプト19:9)。

〇仲介者モーセ

 民は神様の聖なる臨在に圧倒され、神様ご自身が語られる事のないように(直接聞いたら死んでしまうと民は恐れた)モーセが代わりに聞いて、モーセの口から神様が語られたことを聞きたいと懇願したのです(出エジプト20:19)。
 モーセは神様が直々にお選びになり、ご自分の民を導くために召しだされた者です。そして、モーセはその任を忠実に果たしていくのでした。
 しかし、この事も、イエス様の型であると言えます。

〇真の仲介者イエス

「神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。」(第一テモテ2:5)
 前述にへブル人への手紙を引用させて頂きましたが、そこでの論点は、仲介者モーセと共に近づいたのは、古い契約であり、神の聖なる律法であり基準です。その戒めを守るという事を選びの民でさえ達成する事が出来ませんでした。しかし、今や、私たちが近づいているのは、
「シオンの山、生ける神の都である天上のエルサレム、無数の御使いたちの喜びの集い、天に登録されている長子たちの教会、すべての人のさばき主である神、完全な者とされた義人たちの霊」(へブル12:22〜23)
であり、何よりも、新しい契約の仲介者としてイエス様が、信仰と恵みによる救いを成し遂げてくださいました。義人アベルの血(訴えの叫び)より優れた、注ぎかけられたイエスの血(贖いと執成しの叫び)によって(へブル12:24)。
 神様は人にはできない事を、神であり人となってくださったイエス・キリストの犠牲を通して、真の仲介を成し遂げてくださったのです。

10.祈祷(黙祷)・・一 同
11.献金373(きよめ) 主ひとり 賛美リーダー
12.感謝祈祷 ・指 名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・寺東真也師
15.報告・・・・司会者

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第45主日礼拝式順序 2020年11月8日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美264(救いの喜び) われ贖われて ・・一同起立
3.使徒信条・・司会者
4.主の祈り・・司会者
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美467(再臨) 世の終りのラッパ・・賛美リーダー
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「隣人のものを欲してはならない」
聖句 出エジプト記20:17
   マタイ6:31〜33

講壇 「隣人のものを欲してはならない」  出エジプト20:17 / マタイ6:31〜34

「あなたの隣人の家を欲してはならない。あなたの隣人の妻、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを欲してはならない。」(出エジプト20:17)
「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」(マタイ6:33)

 第十戒は「隣人のものを欲してはならない」です。十戒最後の戒めは、今までの戒めの全てにかかっていると言っても過言ではありません。全ての罪の根、根源は欲望が暴走する貪欲です。第一戒から四戒までは神様と私たちとの関係の中に於いての戒めですが、この関係を壊すもとは貪欲です。神様を愛する以上に他のものを追い求めていく時、それは、具体的な罪に直結してゆき、それこそ、「偶像礼拝」なのだと聖書は断言します(コロサイ3:5)。
 又、第五戒から十戒までは隣人と自分との関係における戒めなのですが、父母を敬わない事、殺人、姦淫、盗み、偽証は貪欲の罪から出ています。

○何を求めているのか

「あなたがたの間の戦いや争いは、どこから出て来るのでしょうか。ここから、すなわち、あなたがたのからだの中で戦う欲望から出て来るのではありませんか。あなたがたは、欲しても自分のものにならないと、人殺しをします。熱望しても手に入れることができないと、争ったり戦ったりします。自分のものにならないのは、あなたがたが求めないからです。求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです。」(ヤコブ4:1〜2)
 人間は外側、うわべしか見ることができません。しかし、神様は内側を、心をみられるお方です。そして、その人の心根がどうあるかを一番気にかけておられる方です。どのような動機で何を求めているのかという事が大事なのです。
 本来、人がまず求めるべきものは神様ご自身です。私たちを創造してくださったお方が私たちをどのように見ておられるのかを知ることが私たちの価値観を形成する上で大きく影響を与えます。しかし、人は罪を持っている故に、本来、一番求めるべ気お方ではなく、周りの人々を見てしまい、しかも、自分本位な隣の庭は青く見えてしまうのです。神様の絶対的な愛に満たされる前に、相対的な人の愛を求め、快楽を求め、満たされるはずのない行為において一時的な満たしを永遠と求め続けていかなければならなくなるのです。

〇神の国とその義を求めなさい(マタイ6:31〜34)

「わたしの民は二つの悪を行った。いのちの水の泉であるわたしを捨て、多くの水溜めを自分たちのために掘ったのだ。水を溜めることのできない、壊れた水溜めを。」(エレミヤ2:13)
 預言者エレミヤはイスラエルの民が犯した罪の根本原因を二つ挙げています。一つ目は、命の泉の源泉である神ご自身(イエス・キリスト)を捨てた事。そして、それに代わる壊れた水溜を自らが設けた事です。
 この世を私たちが生きていくのに綺麗ごとだけでは生きていけない事を神様は御存じです。衣食住が必要ですし、生きがいを感じる趣味や特技を磨く事は素晴らしい事です。しかし、求めなければならない優先順位を間違うと、良いものもたちまちに偶像化してしまうと言うのです。もし、あなたが本当に必要な神の愛をまず受け取り、神の国と神の義を求めるならば、神様はあなたの心を満たし、癒し、救いを与えてくださいます。そして、それらに加えて、古い人が求めていたものをも必要に応じて与えてくださるお方なのです。

10.祈祷(黙祷)・・一 同
11.献金291(信仰) 神の国と神の義(三回繰り返し) 賛美リーダー
12.感謝祈祷 ・指 名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・寺東真也師
15.報告・・・・司会者

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第44主日礼拝式順序 2020年11月1日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美317(信頼) わが友 主イエスは ・・一同起立
3.使徒信条・・司会者
4.主の祈り・・司会者
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美462(再臨) 聖書も時の徴も・・賛美リーダー
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「偽りの証言をしてはならない」
聖句 出エジプト記20:16
   コロサイ4:6

講壇 「偽りの証言をしてはならない」  出エジプト20:16 / コロサイ4:6

「あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない。」(出エジプト20:16)
「あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味の効いたものであるようにしなさい。」(コロサイ4:6)

 第九戒は「偽りの証言をしてはならない」です。簡単に言葉で言うならば「嘘をついてはならない」という事ですが、このみことばが言わんとすることを学ぶ為に、何のために人は嘘をつくのかという視点で、みことばと向き合いたいと思います。

○偽りの出所(ヨハネ8:44)

「あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています。悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。彼のうちには真理がないからです。悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。」
 この言葉は、宗教の指導者たちに語られた言葉です。神のことばを語り、教える立場の人が、どうして、このような厳しいことばを受けたのでしょうか。それは、イエス様を偽物と決めつけ、社会的にも、あわよくば実際に亡き者にしようと画策していたからです。反対に、イエス様はというと、真実を語りながらも、誰をも裁かず、父の御心である人々の救いの為に、父の業を行い続けておられたのです。一見、正義と真実の執行者のように見えるのですが、その実は、自己保身と見栄のカタマリでしかないことをイエス様は見抜いておられ、悪魔を彼らの父と呼んだのです。
 偽りは悪魔から出ています。

〇対人関係中で犯す罪(申命記19:15〜21)

 ここで、もう一度、「偽りの証言」という事を深く掘り下げてみたいのですが、この言葉は厳密に言うと裁判用語です。真実を明らかにするために語る時、真実を捻じ曲げ、真実でないことを真実かのように語る事です。聖書の時代、真実を証明する為に今のような化学的なDNA鑑定や監視カメラ、ボイスレコーダーなどはもちろんありません。そこで、重要視されたのは人による証言です。罪を訴える者は一人ではなく二人か三人で訴えなければならず、しかも、その証言も吟味され、もし、その証言が偽りで人を陥れる為のものであったことが明らかになれば、訴えたものが、その罰を受けなければなりませんでした(申命記19:15〜21)。
 裁判は訴訟を起こす人と訴えられる人で成り立ちます。要するに、人間関係の中で、嘘、偽りは、罪の実を豊かに結ぶという事が出来ます。人は、自己保身に走る時、自分に有利なことを語り(言い訳し)、不利な事はひた隠すのです。ここで、守れるものは、自分だけです。

〇言葉を何のために使うのか。(コロサイ4:6)

 偽りの証言を行う事で何が起こるのか。それは、隣人を傷つけ、害を及ぼし、最悪、死に至らしめるということです。例え、その人に悪気はなかったにせよ言葉は時に暴力よりもひどい結果をもたらすことになるのです。イエス様はこのような罪の渦巻く世界の中で唯一、愛を持って、人々の救いの為に命をかけられました。このイエス様にこそ救いがあるのです。
 神様が私たちに期待される事はただ、正しく嘘偽りない事を語るだけではなく、積極的な面で、人を生かすことばを語る器として用いたいと願っておられます。
 私たちが互いに愛し合う為に、イエス様の愛を中心とした、親切で塩味の効いたことばをもって人間関係を建てあげさせ頂きましょう。

10.祈祷(黙祷)・・一 同
11.献金382(きよめ) 心から願うのは 賛美リーダー
12.感謝祈祷 ・指 名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・寺東真也師
15.報告・・・・司会者

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第43主日召天者記念礼拝式順序 2020年10月25日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美518(永遠) きよき岸辺に ・・一同起立
3.使徒信条・・司会者
4.主の祈り・・司会者
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美516(永遠) ヨルダンの彼方に・・賛美リーダー
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.賛美・・・・聖 歌 隊
10.メッセージ・寺東真也師
主題 「永遠への分かれ道」
聖句 ルカ16:19〜31

講壇 「永遠への分かれ道」  ルカ16:19〜31

「アブラハムは彼に言った。『モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」(ルカ16:31)

 当時の宗教の指導者達はほとんどがイエス様を斜め上から見て、その教えの本質を知ろうとはせず、理解する事が出来ませんでした。それもそのはず、口では信仰者としての模範的な事を語ってはいるのですが、お金を愛し、この世的な祝福にどっぷりと浸かって堕落してしまっていたのです。

○死後の世界の例え話

 イエス様の教えを聞いて、あざ笑っていた指導者たちにイエス様は例え話をされました。それは、死んだ後の世界の例え話でした。
 この例え話を通して人は何をどのように信じる事によって救いを得るのかという事が皮肉を込めて伝えられています。
 私たちは愛する人々を天に送りました。しかし、そこには悲しみに優る希望があるのです。それを逆説的に学び聞いていきたいと思います。

・金持ちの罪人と貧しき信仰者

 まず、このたとえ話に二人の主だった登場人物がいます。それは「金持ちの罪人」と「貧しき信仰者のラザロ」の二人です。
 金持ちの罪人は、貧しく困窮する同胞が自分の家の前に座っているのを知っていても、貧しい信仰者に対して、声もかけず、助けの手も差し伸べませんでした。神を畏れず、自分勝手に生きたのです。
 貧しき信仰者のラザロは、極度の貧困とそこから来る体調不良の中で神様に向かって文句も言わず、自分に出来る事(物乞い)をして過ごしました。

・「アブラハムの懐」と「よみ」

 金持ちはこの世の富に溺れて正を全うして死に、貧しいラザロは、この世のおいて報いを受けずに死にました。
 その行先はそれぞれ違いました。金持ちは燃える炎が渦巻く「よみ」に行きました。一般的には地獄言われます。
 ラザロは、イスラエル人の始祖であり信仰者の代表であるアブラハムの懐に行きました。ここは別名パラダイス(楽園)とも言われます(ルカ23:43)。一般的には天国と言われます。
 このように、死後の世界には二つの行き先があるという事です。

・死後の世界のルール

 死後の世界に一つのルールがあります。それは、天国と地獄お互いの行き来は出来ないという事です(26節)。どちらに行くかでその人の永遠は大きく変わり、その永遠は決して覆る事はないという事です。

・永遠への分かれ道

 永遠は生きている時の信仰かかっています。自分が神様の前に罪人である事を悔い改め、救いはイエス・キリストにある事を信じる事です。
 金持ちはよみに落ちて初めて後悔しました。この様な所にせめて、家族は来て欲しくないと願い、天国にいるラザロを生き返らせて、自分の家族に警告を与えるように懇願します。しかし、アブラハムはあっさりと断ってしまいます。なぜならば、人は例え死人が生き返るような奇跡を見たからと言って本当の信仰を持てないからです。イエス様が復活された時も、指導者たちは、ローマの兵士に金を握らせ嘘の証言をさせました(マタイ28:11〜15)。しかし、イエス様から愛され、赦された者たちは、罪を悔い改め、イエス様を救い主として信じ受け入れたのです(ルカ7:36〜50、19:1〜10)。あなたは、備えが出来ていますか?

11.祈祷(黙祷)・・一 同
12.献金414(聖霊) 主は力をわれに注ぎ 賛美リーダー
13.感謝祈祷 ・指 名
14.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
15.祝祷・・寺東真也師
16.報告・・・・司会者

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第42主日礼拝式順序 2020年10月18日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美354(確信) 迷えるとき光りを ・・一同起立
3.使徒信条・・司会者
4.主の祈り・・司会者
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美517(永遠) はるかに仰ぎ見る・・賛美リーダー
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「盗んではならない」
聖句 出エジプト記 20:15/ マタイ 7:12

講壇 「盗んではならない」  出エジプト記 20:15/ マタイ 7:12

「盗んではならない」(出エジプト20:15)
「ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。」(マタイ7:12)

 第八戒は「盗んではならない」です。この戒めも倫理的に理解しやすいものです。この戒めからさらに深い主の御心を求めてみことばに聞きましょう。

○盗みの罪

 聖書の時代、盗むなという事で一番深刻だったのは人を盗むこと(誘拐)でした。それは命をもって償わなければならないものです(出エジプト21:16)。人を人として見ず、物のように扱ってしまうのは、人とのかかわりにおいて、愛における結びつきが希薄だったと言わざるを得ません。
 そして、その愛のなさは、自分が得をするために、人の所有物であったとしても、ばれなければ、自分のものにしてもかまわないという考え方に偏っていったのでしょう。

○所有する事

 そもそも、盗むという行為は、人対人の関係のみで成り立つ世界観ゆえに起こりえる罪という事が出来ます。聖書は、人が財産や物を所有する事を禁じていませんし、神様ご自身が人に対して、所有権を与えています(土地や家畜、自分自身)。もっと言えば、本当の所有者は神ご自身であって、私たちは委ねられた者であるという事です。
 イスラエルの民も形的には神様を敬い、信じ、従っていましたが、その本質においては、神様から遠く離れた心に支配されていました。そして、その事を、預言者マラキは神のものを盗んでいると強く悔い改めを迫っています。それは、神様への献げ物において、明白に表れていたというのです。私たちの信仰は霊的なもので目に見えるものではありません。しかし、その心のありようはその行動や価値観に現われてくるという事ができます(マラキ3:7〜11)。
 本来、全てのものを造られ、支配し、与える事も取り上げる事も出来るお方を畏れるならばそこには盗むどころか感謝が生まれるのです。

○黄金律としての価値観

 父なる神を愛し、愛され、このお方の御心に生きる事を幸いとされた主イエス様は次のように弟子たちに教えられました。
『受けるよりも与えるほうが幸いである』(使徒20:35)
 傲慢と貪欲の先には、破滅が口を開けています。愛と恵みの先には、思いやりと平和が満ち足りていることでしょう。
 人のものを盗み奪う事で、一時的に自分の所有物が増えるように感じ、満足するかもしれません。しかし、罪の行動からもたらされる満たしは、直ぐに、物足りなさを感じ、悪い意味で飢え、渇くようになるのです。
 しかし、神を愛し、人を愛し、奪うよりも与える事で、一時的には所有物が減少するように感じるかも知れませんが、心の幸福感は倍増していく事でしょう。
「ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。」(マタイ7;12)
 イエス様は与えに与え、ご自分のいのちを注ぎだして、私たちに救いの道を成就してくださいました。そこには後悔の一遍もありません。
 悪魔に心を盗まれてはいけません。主イエス様の愛に心を満たされ、盗み奪う者から与える者へと変えていただきましょう。

10.祈祷(黙祷)・・一 同
11.献金379(きよめ) 主よわが罪と汚れをきよめ 賛美リーダー
12.感謝祈祷 ・指 名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・寺東真也師
15.報告・・・・司会者

x

第41主日礼拝式順序 2020年10月11日 午前10:30〜

第40主日礼拝式順序 2020年10月4日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美231(救い) いさおなき われを ・・一同起立
3.使徒信条・・司会者
4.主の祈り・・司会者
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美467(再臨) 世の終わりのラッパ・・賛美リーダー
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「殺してはならない」
聖句 出エジプト記 20:13/ マタイ 5:21〜26

講壇 「殺してはならない」  出エジプト記 20:13/ マタイ 5:21〜26

「これらのことはすべて、神から出ています。神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。」(第二コリント 5:18)

 第六戒は「殺してはならない」です。
 人間関係の中で人を殺す事が非倫理的であるという事を理解するのは良心的に難しくないでしょう。しかし、これは人間の「感覚」の問題ではありません。大切なのは神様が「殺してはならない」と定められた事です。

○「殺人」イエス様の理解

 イエス様は「殺してはならない」という教えを本質的に解き明かし、山上の説教の中で教えられました。

1. 否定(無視)→殺人

 イエス様は言われました。

 兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。」(マタイ5:22)

 「殺人」と「悪口」では、罪の重みが大きく違うように感じます。しかし、その根は隣人を「否定」する所から始まり、最終的に名実ともに相手を亡き者にする殺人へと変貌を遂げるのです。
 マザーテレサは「愛の反対は、憎しみではなく無関心である」と言いました。憎しみを通り越したところにあるのは、相手に対する人格の否定、あるものをないもののように扱う姿勢です。
 世界で最初の殺人事件の加害者と被害者は、アダムとエバの二人の子供達でした。兄のカインは弟のアベルを嫉妬のゆえに憎み、そして殺したのです。誰もが、この物語の最悪の頂点は殺人であるように思いますが、その先にあるように思えます。神様は兄カインに知っていながら弟アベルの居場所を尋ねます。その時、カインは弟を手に掛けてしまった事を悲しむことも、悔いる事もなく、
「私は知りません。私は弟の番人なのでしょうか。」(創世記4:9)
 と開き直り無関心を決め込んだのです。
 しかし、そんなカインには負いきれない罰が待っていました。今後、カインの為には大地は実りをもたらさず、さすらい人になると言うのです。誰も守ってくれる人はおらず、反対に神から捨てられた者として、人として扱われることなく、やはり、自分も殺されると悟り、カインは神様に泣きつきます。すると、神様はカインを憐れんで、一つのしるしを与えられたのです。そして、こう誓われました。カインを殺す者は7倍の復讐を受ける(創世記4:15)。こうして、カインは守られ、後に家族も持てて、玄孫の子レメクまで記されています。罪の連鎖は爆発的に悪化していきます。「やられたらやり返す」の精神がこじれ、カインが7倍の復讐ならばレメクは77倍だ!と意気込むのです。その後、地上は悪が増大し、ノアの大洪水に至るのです。

2. 憎しみから和解へ

 イエス様は人を憎み、否定する事を忌み嫌われました。もはや、それは殺人と変わりないと。そして、そうではなく、憎しみから和解に努めるようにチャレンジを与えてくださったのです。神様に礼拝をささげ和解の供え物をささげる前に、兄弟姉妹とわだかまりがあるならば、その人と仲直りし、和解をしてからにしなさいと言われます(マタイ5:24)。イエス様は和解の初穂として、十字架で人を贖い、神と和解させ、そして、和解の務めを私たちに与えてくださったのです。
 殺す事の反対があるならば、それは人を受け入れ、愛し、和解する事です(第二コリント5:18〜21)。

10.祈祷(黙祷)・・一 同
11.献金414(聖霊) 主は力をわれに注ぎ 賛美リーダー
12.感謝祈祷 ・指 名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・寺東真也師
15.報告・・・・司会者

x

第39主日礼拝式順序 2020年9月27日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美89(降誕) 神は独り子を ・・一同起立
3.使徒信条・・司会者
4.主の祈り・・司会者
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美147(再臨) 起きよ夜は明けぬ・・賛美リーダー
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「あなたの父と母を敬え」
聖句 出エジプト記 20:12

講壇 「あなたの父と母を敬え」  出エジプト 20:12

「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。」(出エジプト20:8)

 第五戒は「あなたの父と母を敬え」です。
 第五戒から第十戒の6つの戒めは人と人との関係における戒めなのですが、その最初に命じられるのは親子関係における子供が親に対する尊敬を扱っています。人は、自分の子供はいなくとも、両親は存在します。神様は、等しく、父と母を通して私たちを形作られたお方なのです。

○約束を伴った第一の戒め

『子どもたちよ。主にあって自分の両親に従いなさい。これは正しいことなのです。「あなたの父と母を敬え。」これは約束を伴う第一の戒めです。「そうすれば、あなたは幸せになり、その土地であなたの日々は長く続く」という約束です。』(エペソ6:1〜3)
 新約時代、パウロもこの第五戒を引用して子どもたちに正しい事として語っています。しかも、この戒めには祝福が伴う戒めとしては一番目である事を強調しています。その祝福の約束は「幸せ」と「長寿」です(申命記5:16)。これは、両親を敬う事は、神様を信じ受け入れる事につながり、信仰者が与えられる永遠の命に与る者となる型と言えます。では、どうして、父、母を敬う事が、神を受け入れる事につながるのでしょうか。

○両親を敬う事の意味

 子供は、両親に育てられて大人になって行きます。それと同時に、親は子供によって親となって行くと言われます。要するに、最初から親として完全な人など存在せず、親とて人の子であり、不完全な存在であると言えるのです。しかし、聖書は「父と母を敬え」と命じる条件に、「尊敬に値する」とか「優秀な」とかを付け加えていません。時には、親として失格であるような両親だって存在します。そのような親の不敬虔の真似をしたり、同じように生きる事は違います(エゼキエル20:18〜19)。しかし、どのような親でも「敬う」事はするようにと聖書は命じるのです。なぜでしょうか。それは、神が立てられた器と権威を認め、受け入れる従順が求められているからです。要するに、人として、両親を無条件に敬う事を通して、神様のご采配を受け入れ、神様の前に従順であることを意味するのです。

○両親に聞き従ったイエス様と神様に聞き従っているように見せかけたパリサイ人

 イエス様は、肉の父と母のヨセフとマリアに公生涯に入られる前まで、30年間仕えられました(ルカ2:51)。そして、なにより、イエス様は、父なる神様の御心を行うためにご自分の命をもお捨てになるために人となられたのです。そこに、イエス様の従順が輝いています。
 それと対照的なのは、イエス様を批判したパリサイ人でした。小さな出来事に目くじらを立て、本質的な大切な事には無頓着だったのです。その一つの例として、父母を敬う事を例に挙げて、自分の財は神様への献げものになったので親の面倒は見られないと平気で言ってのける当時のパリサイ人を糾弾されました(マタイ15:3〜9)。

○人を愛する事を

 神は愛です(第一ヨハネ4:16)。神様の戒めを守る動機は愛にあるのです。そして、まず、神様に与えられた両親を愛し、敬う事からすべての人間関係は構築されていくのです。

10.祈祷(黙祷)・・一 同
11.献金404(献身) 弟子となし給え 賛美リーダー
12.感謝祈祷 ・指 名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・寺東真也師
15.報告・・・・司会者

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第38主日敬老祝福礼拝式順序 2020年9月20日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美199(臨在・霊の交わり) 主を仰ぎ見れば ・・一同起立
3.使徒信条・・司会者
4.主の祈り・・司会者
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美471(天国) われ聞けり かなたには・・賛美リーダー
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.特別賛美・・聖 歌 隊
10.メッセージ・寺東真也師
主題 「敬老の秘訣」
聖句 レビ記記 19:32

講壇 「敬老の秘訣」  レビ記19:32

「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。」(レビ記19:32)

 明日は敬老の日です。例年ならば、その前の日曜日である本日に、昼食を共にしながら、敬老感謝会を持つのですが、今年は敬老祝福礼拝として、高齢の愛兄姉の祝福を祈るひと時を礼拝の中で持たせていただきます。せっかくの機会なので、みことばから、老いるという事、その意味と祝福を聖書から学びたいと思います。

○老いるという事

 人は生まれてから年齢を経て老いていきます。例え、絶世の美女や、屈強な男性であったとしても、容姿は劣化し、思うように体を動かせなくなります。しかし、神様の目から見て、老いるという事は、決して否定的な事ではありません。聖書には老いの象徴として「白髪」が扱われています。

「白髪は栄えの冠。それは正義の道に見出される。」(箴言16:31)
「若い男の栄誉は彼らの力。老人の輝きはその白髪。」(箴言20:29)

 若さには若さの素晴らしさがあり、年を経た者には年を経た者の素晴らしさがあるのです。青年、壮年期においては、神様からの豊かな賜物と力が備えられて、主の為にバリバリ働き、生きる事ができます。しかし、老いてくると今まで出来ていた事が、出来なくなるのですが、霊的、人格的、本質的に成熟へと向かうのです。色々なことが出来なくなった高齢者はお荷物なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。老いる事は栄えの冠りであり、その人にとって輝きとなるのです。高齢者を敬いましょう、尊敬しましょうと言われますが、主は命じられます。「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い」なさいと。それは、神を畏れ、敬う事にもつながるのです。

○尊敬すべき理由

 高齢者を尊敬し、敬うべき理由を二つ挙げます。

1.謙遜

 老いるという事は、若い時に持っていたものが取り去られ、強制的に手放させられることです。そして、そこで神様の恵みをもう一度再確認し、深められる存在になるのです。自分で出来る事はもちろん積極的にする必要はあります。しかし、出来なくなった自分、助けてもらう必要がある自分を素直に受け入れる事は、プライドが高いと困難になります。イエス・キリストの救いを受け入れる事が出来ない大きな障壁は、この誤ったプライドが大きく起因します。愛するが故に延ばされた手を、余計なお世話といって払いのけてしまうからです。人からの愛と親切を「ありがとう」と受け入れる事が出来るようになることは、遜らなければできない事なのです。

2.成熟

 人にとって大切な事は、「何をするか」とか「何を成し遂げたか」という『doing』 ではなく、「どのような存在であるか」という『beIng』が一番大切です。人は老いる事によって、出来なくなっていきます。しかし、その人格は、御霊と時間の流れによって、角が落とされ丸く、イエス・キリストの似姿へと変えられていくのです(第二コリント3:18)。

「ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」(第二コリント4:16)

11.祈祷(黙祷)・・一 同
12.献金382(きよめ) 心から願うのは 賛美リーダー
13.感謝祈祷 ・指 名
14.敬老祝福祝祷・・寺東真也師
15.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
16.祝祷・・寺東真也師
17.報告・・・・司会者

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第37主日礼拝式順序 2020年9月13日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美266(救いの喜び) 罪 咎を赦され ・・一同起立
3.使徒信条・・司会者
4.主の祈り・・司会者
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美463(再臨) 喜びもて ・・賛美リーダー
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「安息日を聖なるものとせよ」
聖句 出エジプト記 20:8〜11

講壇 「あなたはどこにいるのか」  創世記3:1〜24

「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。」(出エジプト20:8)

 第四戒は「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。」です。
 安息日を規定することにより、神様を礼拝する日、そして、心身共に休息を得る日として安息日を定められました。

〇安息日の意味

 安息日を定められた意味をみことばから学びましょう。

1. 人間の為に設けられたもの

 この規定の詳細の最初に記されているのは、 「六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。」(9節)
です。人は働くように創造されました。この世界の管理を主より任されたのです(創世記1:26〜28)。そして、働きの内容は罪を犯したゆえに過酷になりました(創世記3:17〜19)。「働かざる者食うべからず」ということわざがありますが、聖書にも初代教会時代にパウロが戒めをもって働く事について書き送っています(第一テサロニケ3:10〜13)。
 働くことは大切なのですが、神様は働くと同じように休息もまた人間には必要であることをご存じでした。故に、休む必要もない神ご自身がこの世界を6日間で造られた後、休息されたことによって、生活のリズムのモデルを示してくださったのです。十戒は守るべき規定ですが、それが設けられた目的は、人間を縛る為のものではなく、人間のためのものであるのです。

2. 創造と救いの御業を記念して (申命記5:15)

 安息日が設けられた二つ目の意味は、創造主、救い主なる主を覚える(礼拝する)為です。
 身体の休息は、栄養のあるものを食べ、体を休めれば回復するでしょう。しかし、人間は肉体だけではなく、霊と魂の安息も必要なのです。そして、その安息を得ることが出来るのは、創造主が私たちの唯一の救い主であることを知り、このお方のもとに身を寄せる事なのです。
 出エジプト記の中で記されている切り口は創造主による創造とそのモデルによる肉体的安息を、申命記の中で記されている切り口は、エジプトの地で奴隷となっていた所から導き救い出された事を覚える事により、救い主なるお方より霊的安息を得ることが出来るのです。

〇日曜日に礼拝する教会(ローマ7:6、第二コリント3:6)

 多くのキリスト教会は日曜日に礼拝を行っています。今日のみことばのみを考えますと、礼拝するのは週の終わりの日である土曜日(金曜日の日暮れから土曜日の日暮れまで)が安息日です。イエス様は十字架と復活によって律法の成就者となられ、イエス様を信じる者たちには新しい戒めが与えられました。そして、イスラエルに与えられた律法の規定、特に安息日や食物規定に関しては適用されなくなったのです。ただし、普遍的な神を愛し、神を礼拝する生活様式は私たちにとって必要な事なので生きています。では、いつ礼拝するかという時に、教会は主イエス・キリストが復活され、聖霊が降臨された日曜日を覚えて、主を礼拝するにふさわしい日と決めて礼拝するようになりました。
 規則にあるから守らなければならないではなくて、自分には主が必要で、主に栄光を帰したいと願う聖なる愛が動機となるのです。

10.祈祷(黙祷)・・一 同
11.献金411(聖霊) 御恵みの高嶺に  賛美リーダー
12.感謝祈祷 ・指 名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・寺東真也師
15.報告・・・・司会者

x

第36主日礼拝式順序 2020年9月6日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美342(恵みの成長) 神の子なるイエス ・・一同起立
3.使徒信条・・司会者
4.主の祈り・・司会者
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美151(再臨) 永遠の安き来たりて・・賛美リーダー
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「主の名をみだりに口にしてはならない」
聖句 出エジプト記 20:7

講壇 「あなたはどこにいるのか」  創世記3:1〜24

「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。
   主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。」 (出エジプト20:7)

 第三戒は「主の名をみだりに口にしてはならない」です。
 名は体を表すということわざがあります。名前がそのものの実体を表わしている事の意ですが、聖書の世界でもその事は言えます。名前はとても大事なものと言えます。
 要するに、神様の名前をみだりに口にするという事は、神様ご自身を蔑む行為であり、馬鹿にしている事だというのです。

〇神様の名前は何?

 日本語の聖書にはほとんど神様の名前は出てきません。しかし、本来は記されているのです。ヘブル語で「yhwh」です。ヘブル語は子音のみが表記され、母音は表記されないのです。しかし、それではどう読むか分からないので、後世になって母音記号が考案され下につける場合があります。原則、子音表記の文字だけで、発音もセットで覚えるのですが、神様の名前を大切にするあまり、まったく口にしなくなり、どのような発音か分からなくなってしまったのです。一昔前までは、神様の名前をエホバと記されていました。しかし、これは、「yhwh」の子音に、神の名前を呼ばなければならない場合に使っていた「わが主(アドナイ)」の母音記号を付けた時の発音であり、本来の発音とは異なるという事が分かってきたのです。現在は「ヤハウェ―」と発音するのではないかというのが一番有力です。しかし、絶対ではありません。

〇神様の名前を呼んではいけない?

 神様の名前をユダヤ人はとても大切にしてきました。それは大変大切なことです。では、名前を呼んではいけないのでしょうか。

「地を造った【主】、それを形造って堅く立てた【主】、その名が【主】である方が言われる。『わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。』」(エレミヤ33:2〜3)

 神様は私たちを愛し、私たちが神様を呼び、求める事を願ってくださっておられます。
 エリヤはアハブ王おかかえのバアルとアシェラの預言者と勝負をする時、自分の信じる神様の名を呼び、それに火をもって答えられた神こそが真のかみであるとしました。そして、エリヤは主の御名を呼び、主はエリヤの祈りに応えて天より火をもってご自分が真の神であることを証明されたのです。

〇正しく畏れ、尊敬をもって主を求めよう。

 残念ながら主の名前の正式な呼び方は分かりません。しかし、主を呼び求める事は本質的に出来るのです。 主を呼び求める際に大切なのは、呼び求める人の心のありようです。過剰に恐れて、その名を忘れてしまうのではなく、軽率に御名を面白半分、冗談で言うのでもなくです。畏怖と尊敬を持って主を求めましょう。

「・・・【主】を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で記憶の書が記された。「彼らは、わたしのものとなる。──万軍の【主】は言われる──わたしが事を行う日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。」(マラキ3:16〜17)

10.祈祷(黙祷)・・一 同
11.献金283(信仰) 主よわがそばを 賛美リーダー
12.感謝祈祷 ・指 名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・寺東真也師
15.報告・・・・司会者

x

第35主日礼拝式順序 2020年8月30日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美505(幼児祝福) 主われを愛す ・・一同起立
3.使徒信条・・司会者
4.主の祈り・・司会者
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美475(子ども) まもなくかなたの・・賛美リーダー
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「あなたはどこにいるのか」
聖句 創世記 3:1〜24

講壇 「あなたはどこにいるのか」  創世記3:1〜24

「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」 (ローマ6:23)

 「あなたはどこにいるのか」という質問は、世界の初め、エデンの園で神様がアダムとエバにされた質問です。
 アダムとエバはこれ以上に素晴らしい世界はないという世界に造られ、住み、治める権利を与えられていました。何不自由ない生活と、最高のパートナーに恵まれ、神様との深い交わりの中で暮らしていました。しかし、人間は神様を捨て、神様のしてはならないと言っていた善悪の知識の木から実をとって食べ、罪を犯してしまったのです。

〇人間の傲慢の結果

 よくある質問に「どうして神様は人間に罪を犯させる機会(善悪の知識の木)を造っていたのか」という質問があります。
 神様はあなたを御自分に「似せて」造られました(創世記1章26、17節)。その出来栄えは「非常に良かった」(創世記1章31節)と書かれてある通りです。神様は私たちをロボットのような存在に造られたのではなく、一人の「人格」と「人権」を持つ存在として造ってくださいました。神様は私たちの「権利」を尊重してくださったのです。そこには、「神様に聞き従うか従わないか」も含まれています。
 神様は人間と「愛と信仰と信頼」で結ばれる関係を造られたのです。しかし愚かなるは人間です。その関係を自ら放棄してしまったのです。

〇愛の質問

 命を与えてくださった方に恩を仇で返した形になったのにも関わらず神様は、人間に対して「あなたはどこにいるのか」と問うてくださいました。
 神様は全知全能なるお方です。アダムとエバが罪を犯したことは御存知だったでしょう。そうだとすれば普通は「あなたは何をしたのか」と強い口調で責めてもおかしくは無いと思います。しかし、神様はどうしようもないような者をも「あなたはどこにいるのか」と探し求めてくださったのです。

〇捜し求めて下さる方 (ルカ15:8〜10)

 善悪の知識の実を食べて目が開かれた(創世記3:7)ものの、その時見えた自分たちの姿は、罪にまみれた痛ましい姿でした。そこで、聖なるお方から身を隠したのです。私たちは神様から離れ、隠れる事しか出来ないものかも知れません。でも神様はそのような者を捜し出し、救ってくださるのです。
 イエス様がされた銀貨の例えも私たちの事を指して言っています。もし銀貨が人の所有では無くなってしまうなら価値はありません。人が銀というものを評価し価値を見出すのです。人間も神様のもとに帰ってこそ本来の姿なのです。その為に神様は失われた罪人を捜し出しイエスキリストの十字架によって救ってくださるのです。

〇あなたはどこにいるのか?

 今も神様は語り続けていてくださいます。「あなたはどこにいるのか」。私たちの本当の居場所は神様の御そば以外にないのです。あなたは今、どこにいますか?

10.祈祷(黙祷)・・一 同
11.献金483(子ども) 両手いっぱいの愛 賛美リーダー
12.感謝祈祷 ・指 名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・寺東真也師
15.報告・・・・司会者

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第34主日礼拝式順序 2020年8月23日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美360(確信) まどいの雲消えて ・・一同起立
3.使徒信条・・司会者
4.主の祈り・・司会者
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美150(再臨) 旅人なるこの身にとりて・・賛美リーダー
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「偶像を造ってはならない。」
聖句 出エジプト 20:4〜6

講壇 「偶像を造ってはならない」  出エジプト20:4〜6

「あなたは自分のために偶像を造ってはならない。」(出エジプト20:4)

 十戒の第二戒は「偶像を造ってはならない」です。

〇偶像の始まりは自分中心

 そもそも、人はなぜ偶像を造るのでしょうか。それは「自分のため」だと聖書は言います。そもそも、人間は神の為に造られた存在です。もちろん、神は愛なるお方なので、神様ご自身は私利私欲の為に人間やこの世界を造ったのではありません。反対に、この世界を最良のもととして創造し、愛する対象として人間を造られたのです。しかし、人間は自分の為に、神様を裏切り、その愛の関係をぶち壊しました。そして、自分たちに都合の良い神々を考え、形にし、造り上げていったのです。

〇目に見えるという安心感の罠

 「百聞は一見にしかず」ということわざがありますが、人間が得る情報の8割は視覚からであるといわれます。それほどに見えるという事は人間にとって大事であると言えます。しかし、信仰の世界においては、見える事に縛られてしまって、信仰の目は曇ってしまうという事がよくあるのです。

〇目に見える神々を求めたイスラエル(出エジプト32章)

 モーセが山に登り、律法を受け取っていた時、時間にして40日間にも及びました。イスラエルの民は、待てど暮らせど帰ってこないモーセに不安を募らせます。そして、ついに、その不満はアロンに向かって爆発し、自分たちに先立って行く神々を造って欲しいと嘆願したのです。
 神様は霊ですから目で見る事は出来ません。イスラエルの民は先立ちとなりしんがりとなってくださっていた神様を見えないがゆえに、見えるモーセに依存してでしか感じる事ができなかったのでしょう。また、都度、助け、戦い、必要を満たしてくださったのに、不満を抱いていたようです。イスラエルが持っていた神観はエジプトや他の民のような、御利益をもたらしてくださる神であって、信仰と信頼で結ばれた関係を大切にする神ではなかったのです。

〇見えないものにこそ

 目に見えるものは一時的なものです。しかし、見えないものにこそ本質が問われ、大切なものが隠されています(第二コリント4:18)。いつまでも残る者それは、信仰と希望と愛です(第一コリント13:13)。

〇恵みを千代にまで

「わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」(5節)
 咎の報いという代償と恵みの賜物の比較が書かれています。罪の代償は有耶無耶にされる事はありません。罪と咎には代償が必ず伴うのです。ただし、恵みと比較する時にその数の桁が違う事に目を向けましょう。罪の代償は関係のない子や孫が負わなければならないという事で書かれているのではなく、千代にまで及ぶ、恵みを強調するものなのです。神様の妥協しない厳しさの中に、それを上回る恵みが存在するということです。
 モーセがもう一度山に登り主の前に出た時、主はモーセに憐みを語られます(出エジプト34:6〜10)。
 恵みとまことに満ちておられるお方イエス・キリスト(ヨハネ1:14)において主の愛は成就されたのです。

10.祈祷(黙祷)・・一 同
11.献金282(信仰) 見ゆるところによらず 賛美リーダー
12.感謝祈祷 ・指 名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・寺東真也師
15.報告・・・・司会者

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第33主日礼拝式順序 2020年8月16日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美267(救いの喜び) 渇けるわれは上より賜う ・・一同起立
3.使徒信条・・司会者
4.主の祈り・・司会者
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美462(再臨) 聖書も時の徴も・・賛美リーダー
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「他の神があってはならない」
聖句 出エジプト20:2〜3

講壇 「他の神があってはならない」  出エジプト20:2〜3

「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。
 あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」(出エジプト20:2〜3)

 今週から、十戒をみことばから聞き学ばせていただきます。

○生きておられる主

 第一戒は「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」です。
 そもそも、神と言われるお方は、唯一の存在であり、聖書の神以外に神はなく、永遠に生きておられるお方です(申命記32:39〜40)。

〇「が」の神と「を」の神

 日本で神様と言うと八百万(やおよろず)の神々を指します。しかし、聖書は「真の神」の存在を記しています。日本語で書くと神という字は同じですが、英語ではこの「神々」と聖書の「真の神」は書き方の表記が違います。「神々」はアルファベットを小文字表記複数形で「gods」と書き、「真の神」は頭文字が大文字表記、単数形で「God」と書きます。どう違うのでしょうか。分かりやすく、「が」の神と「を」の神として説明します。
 「が」の神とは、「人間が作った神」をいいます。これを聖書は偶像といい「神々」の事を指します。自らの手で作ったり、動物や石、紙切れを神として祭ったものです。
 「を」の神とは「人間を造った神」をいます。これは聖書のいう「唯一の真の神」です。人間を含めこの全世界を創造された神です。

〇存在しない神々

 多くの人は、人が作り出した神々を目に見える形を持っているが故にそれを実在する神として崇めています。しかし聖書は「神々」は存在しない神といいます(第一コリント8:4)。目に見える神々が本当の実在する神ではありません。
 目に見える神々は私たちの助けなくしては動くこともできません。自分自身をどうにも出来ない神が、人間を助けたり、ご利益を与えてくれると言うのは、実に良く出来た嘘です。

〇運ばれる神と運んで下さる主

 イスラエル(南ユダ)は真の神なるお方を信仰していましたが、民の中には、近隣諸国の神々に心が傾いていました。しかし、主は言われます。
「ベルはひざまずき、ネボはかがむ。彼らの像は獣と家畜に載せられる。あなたがたの荷物は、疲れた動物の重荷となって運ばれる。彼らはともにかがみ、ひざまずく。重荷を解くこともできず、自分自身も捕らわれの身となって行く。」(イザヤ46:1〜2)
 ベルは敵国バビロンの主神、ネボはその子供という設定の偶像です。立派な神々の像はバビロンの繁栄が終わりを告げ、ペルシャ帝国にとって代わられた時、この預言は成就したのです。そう。偽の神々はただのお荷物の他ならないものだと。
 しかし、聖書の真の神は違います。
「ヤコブの家よ、わたしに聞け。イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。」(イザヤ46:3〜4)
 真の神は、私たちを背負い、助け出し、救ってくださるお方です。神の子イエス様は、私たちの救いの為に、命まで捨ててくださったお方なのです。

10.祈祷(黙祷)・・一 同
11.献金357(確信) 何ゆえ御神は 賛美リーダー
12.感謝祈祷 ・指 名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・寺東真也師
15.報告・・・・司会者

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第32主日礼拝式順序 2020年8月9日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美244(救い) 信ずる者は何びとも ・・一同起立
3.使徒信条・・司会者
4.主の祈り・・司会者
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美147(再臨) 起きよ夜は明けぬ・・賛美リーダー
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「選ばれし者」
聖句 出エジプト19:1〜6/第一ペテロ2:9〜10

講壇 「祈りの戦い」  出エジプト17:8〜16

「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。」(第一ペテロ2:9)

 エジプトを出て二か月が経ち、イスラエルの民はシナイの荒野にあるシナイ山を眼前にする所まで来ました。ここは以前にモーセが燃え尽きない木を前に召命を受けたホレブの山々です(出エジプト3:1〜5)。神様は、弱い何度もごねたモーセを選び、召し、用いられました。今は、徒歩の壮年男子だけで約60万人にもなる(女性や子供を入れると軽く100万人を超す)民と共にこの場所に帰ってきたのです。神様は真実なお方で、必ず主の救いは成就するのです(出エジプト3:12)。神様はモーセを通して、イスラエルの民にいつも語られました。そして、この後、シナイ山において十戒を始めとして、律法を与えられるのです(20章〜31章)。
 律法を与えられる前に、まず、イスラエルに語られた事を通して、主が私たちに語られている事に聞きましょう。

○恵みによって

イスラエルは二つの事を体験し、見ました。それは、エジプトへの裁きとイスラエルへの慈しみです。これは、一つにまとめると「神の恵み」に他なりません。神様はイスラエルを愛するが故に、恵みを施し、敵対するエジプトに裁きを与え、イスラエルをその御手で守り、大いなる翼に乗せて救い出されたのです。

〇宝の民となる

 主の素晴らしさを見て、体験したイスラエルの民の前に、神様はチャレンジを与えます。それは 「もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる」(5節)
というものでした。神の声に聞き従い、契約を守るならば、神様の宝の民となれるというのです。民の答えは二つ返事で「はい!」でした(8節)。
 では、宝の民とは具体的にどのような民でしょうか。

1.祭司の王国

 祭司は、神様に仕える者です。神様と民との間に立って執成し、仲介する聖別された特別の職業と言えます。イスラエルは全人類の祭司として選び分けられ、大きな大切な使命を帯びた民なのです。

2.聖なる国民

「わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であるからだ。あなたがたは聖なる者とならなければならない。わたしが聖だからである。」(レビ記11:45)
 特別に聖別された聖い民。神様が聖いように、聖い民。

〇選ばれた人たちへ

 残念ながら、現在もイスラエルはその頑なさ故に、律法の成就者であり、救い主なるイエス様を受け入れることが出来ずにいます。しかし、その失敗さえも神様は異邦人の富としてくださって、恵みによる選びを与えてくださいました。ペテロは選ばれた者に手紙を書き記し(第一ペテロ1:2)、私たちを選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民と呼んでいます。それは、神の栄誉を告げ知らせる為です(第一ペテロ2:9)。

10.祈祷(黙祷)・・一 同
11.献金425(証し) 灯台は遙か 賛美リーダー
12.感謝祈祷 ・指 名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・寺東真也師
15.報告・・・・司会者

x

第31主日礼拝式順序 2020年8月2日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美260(救いの喜び) わが胸に響く歌あり ・・一同起立
3.使徒信条・・司会者
4.主の祈り・・司会者
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美381(きよめ) 朝日の光は・・賛美リーダー
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「祈りの戦い」
聖句 出エジプト17:8〜16

講壇 「祈りの戦い」  出エジプト17:8〜16

モーセが手を高く上げているときは、イスラエルが優勢になり、 手を下ろすとアマレクが優勢になった。」(出エジプト記17:11)

 祈りは教会の原動力と言っても過言ではないでしょう。具体的な方策を練って対処する事は悪い事ではありません。しかし、そこに祈りがないと命がありません。

○アマレク

 レフィディムという地でモーセのとりなしにより、岩から水が湧き出ました。その直後アマレクはやってきたのです。荒野での貴重な水です。それを奪おうとしたのでしょうか。
 アマレクはヤコブ(イスラエル)の双子の兄エサウの孫です。その子孫がアマレク人なのですが、神を畏れない者の象徴としても聖書に記されています。(申命記25:17〜19)。アマレクとの因縁は信仰的にその後も続いています。サウル王はアマレクの王を捕らえ(第一サムエル記15章)、ダビデはアマレクの略奪隊から奪われた人々と品を奪還します(第一サムエル記30章)。一番有名なものは、エステル記のハマンです。ハマンはアマレク人の王アガグの子孫として聖書に登場し、ユダヤ人を皆殺しにする計画を立てるのですが、王妃に選ばれたユダヤ人エステルによる命がけの作戦によりハマンが破れ、ユダヤ人は救われたのでした。

○アマレクとの戦い

 モーセはアマレクとの戦いを決意し、軍の長としてヨシュアを選びました。イスラエル軍とアマレクとの戦いは拮抗状態にありました。どちらが勝利、敗北してもおかしくない状況です。しかし、勝利を決めた決定打は、ヨシュアの戦術でも、軍隊の大きさでもありませんでした。モーセの背後の祈りによってその勝敗は分かれたのです。

1.神の杖(臨在)

 モーセは神の杖をもって丘の頂に立ったと記されています。この杖は数々の奇跡をもたらした杖です。杖が蛇になったり(出エジ4:1〜5)、ナイル川の水を血に変えたり(出エジ7:17〜20)、今回の岩から水を出したのもこの杖で岩を打ったからです。モーセはいつも神様が共におられる臨在のうちに祈り行動をしているのです。

2.祈りの手(祈り続ける)

 モーセはヨシュアが戦っている間、丘の頂に登り、祈りの手を上げていました。祈りの手があがっているときはイスラエルが優勢になり、祈りの手が下がるとアマレクが優勢になったと記されています。全てに勝る祈りの重要性がここに記されています。祈りは一時的なものではく、継続的なものでなくてはなりません。

3.祈りの支え手(援護の祈り)

 人は一人で生きていくように造られてはいません。祈りも神との交わりの祈りを除いては、祈り合わなくてはなりません。モーセも祈りつかれてその手は下がってきたのです。しかし、その祈りの手を支える手(祈り)がありました。アロンとフルがその手を支えたのです。

〇アドナイ・ニシ

 祈りによってイスラエルはアマレクに勝利しました。そしてそこに祭壇を築き、アドナイ・ニシ(主は旗)と名づけました。この旗は軍旗です(出エジプト17:15〜16)。勝利した地に、高々と掲げられ、勝利をその地に知らせるものです。主は祈る者に勝利を与えてくださるお方なのです。

10.祈祷(黙祷)・・一 同
11.献金461(霊の戦い) 苦きを忍びて 賛美リーダー
12.感謝祈祷 ・指 名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・寺東真也師
15.報告・・・・司会者

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第30主日礼拝式順序 2020年7月26日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美221(神の愛) ああ主の瞳 ・・一同起立
3.使徒信条・・司会者
4.主の祈り・・司会者
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美465(再臨) いつかは知らねど・・賛美リーダー
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「満たしてくださる主」
聖句 出エジプト16:1〜12

講壇 「癒し主なるお方」  出エジプト15:22〜27

「わたしはイスラエルの子らの不平を聞いた。彼らに告げよ。『あなたがたは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンで満ち足りる。こうしてあなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であることを知る。』」(出エジプト記15:26)

 人生の中で時に経済的であれ、精神的であれ、欠乏を経験する事があります。貧しさの中を通る時、それは、神様を経験する大きなチャンスとなります。

〇不平の集団

 マラからエリムの経験を経て、第二の月の15日にシンの荒野に入りました。エジプトを出発したのが過越しの第一の月の15日なので、丸一ヶ月が経っていました。少なく見積もっても、保存用に持ってきた食料は底をつき、周りは広陵とした荒れ地が広がるのみのシンの荒野です。イスラエルの民は集団で、リーダーであるモーセとアロンに不平をぶつけ始めました。

「エジプトの地で、肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていたときに、われわれは主の手にかかって死んでいたらよかったのだ。事実、あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出し、この集団全体を飢え死にさせようとしている。」(3節)
 恩を仇で返すような表現をする民の姿が記されています。今ある危機を目の前にした時に、この危機に自分はどのように向き合うのかという事よりも、他人に刃を向ける事で保身を図るのです。

〇誰に対して?

 無責任に不平を言う事は簡単です。ただし、その不平は誰に向かって吐き捨てられているのかを考えなくてはなりません。
 なんと、私たちが漏らす不平は私たちに良くしてくださっておられる主に対するものであるというのです(8節)。
 小さい者たちに良くしたことは、主に対してした事と同じで、反対に何もしなかったことも主にしなかった事とおなじとみなされます(マタイ25:40、45)。そして、他人をさばく基準で自分も裁かれます(マタイ7:1〜2)。

〇必要を満たし訓練くださる方

 不平を漏らすイスラエルの民とは正反対なのが主なる神です。不平を漏らすのは神を信頼できていない結果であることは明白です。信仰とは何であるかを理解できず、御利益信仰に近い形の関係を主に対して抱いているのです。主はそのような民に対して、その不平を聞き、パンを与える事を約束します。荒野に於いて何もない所で、毎朝定期的にです。しかも、そこには信仰のチャレンジも加えられていました。それは、採取するルールを決められた事です。主の誠実さを信じ、その結果、主から与えられるパンをルール通りに集めるという信仰の訓練の為でした(ルカ12:13〜34)。

〇いのちのパンであるイエス(ヨハネ6:31〜35)

 朝露とともに与えられるパンをマナと名づけました。このパンはイエス・キリストの型です。神が与えてくださるパンは私たちの為に、天から下ってきて世にいのちを与えるものなのです。イエス・キリストは神の子でありながら、人となってくださり、私たちの為に、十字架の上で救いを成就してくださいました。日常の必要も大切ですが、本当に大切なものを見失わないようにしましょう。

10.祈祷(黙祷)・・一 同
11.献金346(恵みの成長) かつてはわれ 賛美リーダー
12.感謝祈祷 ・指 名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・寺東真也師
15.報告・・・・司会者

x

第29主日礼拝式順序 2020年7月19日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美338(恵みの成長) 山行くも 海行くも ・・一同起立
3.使徒信条・・司会者
4.主の祈り・・司会者
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美471(天国) われ聞けり かなたには・・賛美リーダー
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「癒し主なるお方」
聖句 出エジプト15:22〜27

講壇 「癒し主なるお方」  出エジプト15:22〜27

『もし、あなたの神、主の御声にあなたが確かに聞き従い、主の目にかなうことを行い、また、その命令に耳を傾け、その掟をことごとく守るなら、わたしがエジプトで下したような病気は何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたを癒やす者だからである。』(出エジプト記15:26)

 神様は私たちを癒してくださるお方です。癒しと一口で言っても、様々です。身体的な病の癒しもありますし、精神的にリラックスを与えられる癒しもあります。心身ともに私たちの神様は癒してくださるお方です。そして、最も大切も大切なのは、霊的な魂の癒しです。聖書が伝える神の癒しは、これらの全てを包括した癒しと言えます。

○マラでの出来事

 前には葦の海、後ろにはエジプトの軍隊という絶体絶命の窮地にあったイスラエルを主は大いなる御腕をのべてくださり、海が二つに割れ、海の底の渇いた地を進んで救われました。モーセをはじめとするイスラエルの民は、神様に向かって賛美を歌い、ほめたたえました(1〜21節)。その後、イスラエルは三日の道のりを歩いて、マラに到着したのです。

1.苦い水

 マラとは苦いとか苦しいという言葉です。その名の通り、その地の水は苦くて飲めたものではありませんでした。三日前には、賛美を歌っていた民が一変し、モーセに対して不平不満を口々にしました(24節)。
 私たちの心は罪に蝕まれており、思い通りにならず、少し試みに合うと、苦い思いが心を満たしてしまうのです。

2.癒しの木

 民に不平をぶつけられたモーセは主に向かって叫び祈ります。すると、主はモーセに一本の木をお示しになりました。そして、その木を水の中に投げ込むと、不思議なように水は甘く変化し、飲み水となったのです。
 私たちの心は人間がどんなに努力しても癒されない代物です。しかし、神様は苦くて飲めないマラの水を飲み水に変えられたように、私たちの心も変えてくださるお方なのです。
 この木は、イエス・キリストの十字架を象徴するものです。
「木にかけられた者は神にのろわれた者だからである。」(申命記21:23)
 イエス・キリストは苦く呪われた罪の道を歩んでいる私たちの代わりに、その代償としての、死と呪いを十字架の上で負われ、救いを成就してくださいました。それ故に私たちは救われ、癒されるのです。

「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」(イザヤ53:5)

○エリムへの道

 癒された水を飲んだ民は、その後、荒野のオアシスであるエリムに到着します。そこには12の泉と70本のなつめ椰子がありました。
 この最初の試みは、クリスチャンの人生をよく表しています。信仰の道を歩み続けるならば、主はその者に御国を備えていてくださいます。そして、その歩み方は、主に「従う」「御心を行う」「耳を傾ける」「守る」歩みです(26節)。
 主は私たちを癒されるお方です。癒やされた者として相応しい歩みをなす者へと造り変えていただきましょう。

10.祈祷(黙祷)・・一 同
11.献金451(いやし) カルバリ山より 賛美リーダー
12.感謝祈祷 ・指 名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・寺東真也師
15.報告・・・・司会者

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第28主日礼拝式順序 2020年7月12日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美4(賛美・感謝) 子羊をば ・・一同起立
3.使徒信条・・司会者
4.主の祈り・・司会者
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美427(証し) ただ主を・・賛美リーダー
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「信仰の成長の為に」
聖句 出エジプト14:1〜14

講壇 「過越しの意味」  出エジプト12:21〜33

『「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。あなたがたは、今日見ているエジプト人をもはや永久に見ることはない。主があなたがたのために戦われるのだ。あなたがたは、ただ黙っていなさい。」』(出エジプト記14:13〜14)

 神様は私たちの事を私たち以上によくご存じでいてくださいます(マタイ10:30)。あなたが今まで信仰者としてどのようにして歩み、そして、どれほど神様を信頼しているのかをもご存じです。全てを知って尚、私たちを高価で尊く、価値があると主は言ってくださるのです。例え、私たちが諦めてしまっても神様は決して私たちを諦めないお方です。

○今のあなたへのチャレンジ

 イスラエルは430年を経てようやくエジプトの奴隷生活から脱出することが出来ました。それも、すべて神様のおかげであります。主の力ある御業を目の当たりにしたイスラエルですが、まだまだ信仰的に成長する必要がありました。そこで、神様は約束の地までの最短ルート(地中海沿いを北上する道)ではなく、葦の海に出る道(南下する回り道)する道に導かれました。最短ルートにはペリシテ人が住んでおり、戦いに確実に巻き込まれ、その戦いに耐えられる信仰を持っていないと主は判断されたからです(13:17)。急がば回れと言いますし、主のご配慮だったのでしょう。
 しかし、この後、エジプトを脱出した後、最大の危機に見舞われることになるのですが、その要因となったのも主の導きでした。シュルの荒野の端にあるエタムまでに来た時、そこから荒野の道にすぐにイスラエルを行かせるのではなく、バアル・ツェフォンの手前で海辺に宿営するように指示されました。これは、葦の海(スエズ湾の西側に当たり、目指すべき約束の地に行くには、海を超えなければならない方向に進んでいたと言えます。この事を知ったファラオは、あれほど痛い目に遭ったのにもかかわらず、もう一度心を頑なにし、荒野にも行けずに迷ってしまったダメなイスラエルをもう一度奴隷にしようと、当時の最強を誇るエジプトの戦車隊を率いてイスラエルを追い詰めたのでした。
 この事を通して、主は、イスラエルの為に主が戦われる事を知り信仰を成長させようとしていたのです。神様はその時に適ったチャレンジを与えられるお方です。

○つぶやきの民

 イスラエルは迫りくるエジプト軍を見て、口々に文句を言います。偉大な神様の臨在に触れてもなお、目に映る脅威に翻弄されて、神様を見失い、目に見えるモーセにありったけの非難と叫びをぶつける民の姿があります(10〜12節)。なるほど、これでは、約束の地には到底たどり着けなかったでしょう。そこで、神様は海を割り、海底の渇いた地を歩かせ、敵であるエジプト軍を海の藻屑にして見せる事によって、神が共におられ、戦われることを体験させたのです。

○モーセの告白(13〜14節)

 モーセはエジプト軍とイスラエルの民に挟まれながら、恐れてはならないと宣言します。モーセも恐怖が無かったわけではありません。しかし、信仰に立ったのです。主の救いをこの目で見る為に、今、この瞬間があるのだと信仰の確信を与えられたのです。
 私たちも民のように信仰を見失うのでなく、主の救いの御業に目を留め、信仰告白に生きましょう。

10.祈祷(黙祷)・・一 同
11.献金339(恵みの成長) 恵みの高き嶺 賛美リーダー
12.感謝祈祷 ・指 名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・寺東真也師
15.報告・・・・司会者

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第27主日礼拝式順序 2020年7月5日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美201(臨在・霊の交わり) イエスはわがいのち ・・一同起立
3.使徒信条・・司会者
4.主の祈り・・司会者
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美367(きよめ) イエスよ この身を・・賛美リーダー
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「過越しの意味」
聖句 出エジプト12:21〜33

講壇 「過越しの意味」  出エジプト12:21〜33

『主はエジプトを打つために行き巡られる。しかし、鴨居と二本の門柱にある血を見たら、主はその戸口を過ぎ越して、滅ぼす者があなたがたの家に入って打つことのないようにされる。』(出エジプト記12:23)

 エジプトに下された10の災いの10番目の災いを通して、イスラエルの民は、430年の奴隷生活から解放されて自由となり、エジプトを脱出する事となります。その10番目の災いは、今までの災いとは、一味も二味も違います。この事を記念して、イスラエルの年始はこの月であるアビブ(ニサン)に主によって制定されます(2節)。

○最初の過越しの祭り

 第10の災いから免れる唯一の方法として、過越しの方法が主より説明されています。これが、世界で初めての過越しの祭りになりました。1節から20節までは、過越しの祭りの方法が記されています。大まかに言うと
? 10日に子羊(やぎでも可)を選定する。
? 14日まで羊を見守る
? 14日の夕暮れに羊を屠る
? 羊の血を家の門柱と鴨居に塗る
? 夕食に羊の肉、種なしパン、苦菜を添えて食べる。(生食、煮付け禁止。残った物は朝燃やさなければならない)
? 食べる時、帯を固く締め、履物を履き、手に杖を持って急いで食べる。

○過越しは型

? 子羊
 過越しの祭りの際に子羊が屠られました。しかも、その子羊は「傷のない一歳の雄でなければならない。」(5節)と定められています。
 この子羊はまさしく、罪も咎もない神の子であり、神の子羊なるイエス・キリストの型なのです(ヨハネ1:29)。イエス・キリストは私たちの罪の為に、十字架の上で屠られるためにお生まれ下さり、受肉してくださったのです。

?血
 神の霊が裁きをもたらさず、過越して頂くためには、屠られた羊の血を、自分の家の玄関にある鴨居と門柱に塗っておくことが条件でした。血は肉体のいのちを表すもので、罪は血によってのみ贖われるのです(レビ17:11、へブル9:22)。

?ヒソプできよめる
 屠られた羊の血を鉢で受け、その血を家の鴨居と門柱に塗りつけました。その時、使用されたのはヒソプの束でした。ヒソプは罪を洗いきよめる為に用いられる植物です(レビ14:4〜6、民数記19:16〜18、詩篇51:7)。
 イエス・キリストは私たちの罪を洗いきよめ、神の御前に立ちうる者としてくださるお方なのです(へブル9:12〜14)。

 今は恵みの時です。イエス・キリストが究極的な過越しを十字架の上で成就してくださいました。イエス・キリストこそ、神が遣わしてくださった救い主であり、その血潮は私の罪の為であったと信じるならば、私たちの心にある罪の汚れはぬぐい取られ、きよめられます。そして、その者は、裁きに遭う事が無く、永遠の御国へと入れられるのです。

10.祈祷(黙祷)・・一 同
11.献金244(救い) 信ずる者は何びとも 賛美リーダー
12.感謝祈祷 ・指 名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・寺東真也師
15.報告・・・・司会者

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第26主日礼拝式順序 2020年6月28日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美343(恵の成長) 罪に満てる世界 ・・一同起立
3.使徒信条・・司会者
4.主の祈り・・司会者
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美329(信頼) 御国への道 歩むとき・・賛美リーダー
7.三大祷告
 再   臨
 イスラエル
 日   本
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「頑なさと不信仰」
聖句 出エジプト10:1〜2

講壇 「頑なさと不信仰」  出エジプト10:1〜2

『主はモーセに言われた。「ファラオのところに行け。わたしは彼とその家臣たちの心を硬くした。それは、わたしが、これらのしるしを彼らの中で行うためである。また、わたしがエジプトに対して力を働かせたあのこと、わたしが彼らの中で行ったしるしを、あなたが息子や孫に語って聞かせるためである。こうしてあなたがたは、わたしが主であることを知る。」』(出エジプト記10:1〜2)

 今週は、ファラオの持つ頑なさと不信仰にスポットライトを当て、反面教師的に不信仰の愚かさをみことばから学びます。
 ファラオは、目に見えるモーセと対決しているように感じているかもしれませんが、ファラオが敵対し、戦っているのは、この世界を創造された真の神です。そして、エジプトが始まって以来の災いを7つも経験しながら、都度、悔いたかと思えば、すぐに心を頑なにする始末でした(7:23、8:15、19、32、9:7、12、34)。

1. 喉元過ぎれば熱さ忘れる

 モーセたちが第八の災いの宣告をした後、帰路に就こうとした時、呼び止められ、呼び戻されたのです。なぜかというと、ファラオの家臣の中から、少なからず、神を恐怖から認めて、戦う相手が悪い事をファラオに談判する者が現れたからです(7節)。
 しかし、ファラオは、その頑な故に、自分の立場をわきまえられず、「喉元過ぎれば熱さ忘れる」で自分優位なことしか言えないのでした。頑なさは、人の正常な判断能力を鈍らせます。

2.悪意のカタマリ

 ファラオはタダ同然の労働力を失いたくない一心で、実質的な人質をとる方策にでます。しかし、モーセは一文たりとも負ける気はありません。ファラオは言いました。
 「だが、見ろ。悪意がおまえたちの顔に表れている。」(10節)
 その言葉はファラオにとって特大のブーメランになります。
 結局、悪意のカタマリと化したファラオに神の第八の災いと第九の災いが襲います。そして、どこまでも頑なであったファラオとモーセの交渉は、家畜を置いていくか否かという事でも決裂してしまします。ファラオの往生際の悪さが際立ちます。

3.自分勝手な命乞い

 ファラオの頑なさで一番、致命的であった事は、「自分勝手」なことです。自分本位な姿勢は自分のみならず、国にも大きな打撃を受ける事になります。
 今までの九つの災いの中で、ファラオは悔い改めもどきを4回しています。それは、第二の災い蛙(8:8)、第四の災いアブ(8:28)、第七の災い雹(9:27〜28)、第八の災いイナゴ(10:16〜17)です。『祈れ→祈ってくれ→間違った、悪かった→過ちを犯した。罪を見逃してくれ』と言葉的には、謙遜になって行っているように見えますが、実は、自分に直接痛みを覚える時に命乞いをしているに過ぎないのです。

 モーセはそのようなファラオの頑なさを実感し言っています。
「しかし、あなたとあなたの家臣はまだ、神である主を恐れていないことを、私はよく知っています。」(9:30)

 ファラオの頑なさと不信仰、それに反比例するように真の神の偉大さを間近で見たイスラエルの民は何と幸せな民でしょうか。この事だけでも、主は子々孫々に語り継げるにふさわしいお方なのです。

10.祈祷(黙祷)・・一 同
11.献金301(信頼) わが行く道 いついかに 賛美リーダー
12.感謝祈祷 ・指 名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・寺東真也師
15.報告・・・・司会者

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第25主日礼拝式順序 2020年6月21日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美367(きよめ) イエスよ この身を ・・一同起立
3.使徒信条・・司会者
4.主の祈り・・司会者
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美467(子ども) ダビデは野原で・・賛美リーダー
7.三大祷告
 再  臨・・新土美香姉
 イスラエル・澤村美香姉
 日  本・・堀内善也兄
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「主を畏れる幸い」
聖句 出エジプト9:13〜26

講壇 「主を知るため」  出エジプト8:1〜15

「ファラオの家臣のうちで主のことばを恐れた者は、しもべたちと家畜を家に避難させた。」(出エジプト9:20)

 モーセは神様の指示通りに、エジプトへの裁きの災いを行いました。(1)ナイル川を血に変え、(2)蛙、(3)ブヨ(4)アブを大発生させ、(5)家畜を疫病で打ち、(6)家臣、臣民に膿の出る腫れものができました。しかし、ファラオは心を頑なにしてイスラエルを開放しませんでした。

○災いの目的の再確認

 イスラエルの民を自由にするために一番手っ取り早い方法は、元凶であるエジプトの王ファラオを亡き者にすればいいだけです。それもしようと思えば出来ることを、神様はファラオに語ります(15節)。
 しかし、そうしないのは、ファラオ自身と、全地に主の御名を知らしめるためであるというのです(14、16節)。主を知り、主を畏れる者が起こされ、救われる者が起こされるためなのです。

○第七の災い

 第七の災いは「雹」の災いです。しかも、エジプトが始まって以来経験したことのない雹害であるというのです。その雹は、野にいる人間、家畜、農作物に容赦なく襲い掛かかったのです(25節)。
 非常にひどい災害でこれにはファラオも一時的にモーセに泣きついて赦しを乞うほどでした(27節)。

○助かる選択肢

 ほかの災いもみな、経験したくないような災いばかりですが、この七つ目の災いの特異点を一つ上げることができます。そもそも、四つ目の災いからイスラエルの民は被害を受けていません。しかし、今回は、モーセの警告のことばによく耳を傾け、そして、それに従うならば、エジプトの民であったとしても、この災いからは免れることが出来たという事です。

「さあ今、使いを送って、あなたの家畜と、野にいるあなたのすべてのものを避難させよ。野に残されて家に連れ戻されなかった人や家畜はみな、雹に打たれて死ぬ。」(19節)

 野にいるすべてものを非難させよと宣告されて二通りの反応がありました。 それは、「主のことばを恐れた者」と「主のことばを心に留めなかった者」です。主を正しく恐れた者、すなわち畏れた者は人的物的被害は最小限で留められました。しかし、心に留めなかった者、すなわち、主を畏れず、聞き流した者は、大きな被害を受けたのです。

○光を信じ受け入れなさい

 これには大きな教訓があります。物理的な被害があるのは、まだやり直しがききます。しかし、霊的な危機が私たちには存在し、罪の中に沈んでいる者たちにイエス様は言われました。

「自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」(ヨハネ12:36)。

 聞き流すのではなく、真の神を畏れ、みことばに耳を傾けま受け入れましょう。

10.祈祷(黙祷)・・一 同
11.献金310(信頼) 愛するイエスよ 賛美リーダー
12.感謝祈祷 ・指 名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・寺東真也師
15.報告・・・・司会者

x

第24主日礼拝式順序 2020年6月14日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美2(賛美・感謝) たたえよ救い主イエスを ・・一同起立
3.使徒信条・・司会者
4.主の祈り・・司会者
5.祈祷・・・・一同着席
6.賛美516(永遠) ヨルダンの彼方に・・賛美リーダー
7.三大祷告
 再  臨・・澤村偕子姉
 イスラエル・澤村剛士兄
 日  本・・日野愛恵姉
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「主を知るため」
聖句 出エジプト8:1〜15

講壇 「主を知るため」  出エジプト8:1〜15

「それは、あなたが、私たちの神、主のような方はほかにいないことを知るためです。」(出エジプト8:10)

 主はモーセをエジプトに遣わし、イスラエルを導き出す使命を与えられました。

○第二の災い

 二つ目の災いは「蛙(カエル)」を大量に発生させるというものでした。蛙は家の中にまで溢れ、寝室、ベッド、キッチン、鉢の中にまでいるようにすると言うのです。そして、アロンは川、池、水の上に手を伸ばすと、まさしくそのようになりました。
 エジプト神話の中に水の女神のヘケトという神が描かれています。ヘケトの顔は蛙の顔をしています。古代エジプトにおいて蛙は、その姿から胎児の象徴であり、また多くの卵を産むことから多産の象徴でもありました。オタマジャクシを描いた象形文字が大きな数である「十万」を意味した程です。
 多産と豊穣の神の象徴である蛙が災いになるとは何とも皮肉です。しかも、子の災いが過ぎ去った後、水の中の蛙以外は、全て、陸上で死んでしまい、蛙の死骸が山となって臭くなったのです。命の象徴とされていたものが実は被造物に過ぎず、死といのちは主が支配しておられるという事をエジプトは痛感する事になりました。

○人の限界

 少し話は戻りますが、蛙の災いをエジプトにもたらされた時、ファラオのお抱えの呪法師たちは、モーセとアロンに対抗し、自分たちも秘術で、蛙をさらに水の中から呼び出し這い上がらせました。一つ目の奇跡のナイル川の水を血に変えるという奇跡の時もそうだったのですが、呪法師たちは水を血に変えます自分たちの力を示すために、自分の首をさらに締め上げている事に気付いていないのです。第三者の目で見ると滑稽に映る、呪法師の「自分もできるぞ」アピールですが、現代社会においてのヒューマニズム(人間至上主義)の限界を聖書は見事に描き出しているのです。

○主のような方は他にいないことを知るため

 神様は10の災いを通して、人より神の方が優れている事を見せつける為に行っているのではありません。
「わたしが主であることを知る。」(出エジプト7:5)
 印である災いを行う前に、モーセに告げた主のことばです。
 いかに、エジプトが神話を作り上げて被造物を拝んでいることが無益で、的外れであるのか。そして、真の神に選ばれし、イスラエルに対する仕打ちは神に対する仕打ちと同等であり、神は侮られるお方ではなく、唯一無二のお方であることを、しるしを通して知らせる為だというのです(出エジプト8:10)。第三の災いは地の塵がブヨになりましたが、呪法師はこれ以降のしるしを真似ることは出来ませんでした。
「主を恐れることは知識の初め。愚か者は知恵と訓戒を蔑む。」(箴言1:7)

10.祈祷(黙祷)・・一 同
11.献金420(リバイバル) 雨を降り注ぎ 賛美リーダー
12.感謝祈祷 ・指 名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・寺東真也師
15.花の日感謝・・ 教会学校
16.報告・・・・司会者

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第23主日礼拝式順序 2020年6月7日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美317(信頼) わが友 主イエスは ・・一同起立
3.使徒信条・・司会者
4.主の祈り・・司会者
5.祈祷・・・・指 名
6.賛美462(再臨) 聖書(みふみ)も時の徴(しるし)も・・一同着席
7.三大祷告
 再  臨・・澤村俟子姉
 イスラエル・二木喜代子姉
 日  本・・花井美鶴兄
8.聖書・・・・司 会 者
9.メッセージ・寺東真也師
主題 「モーセの気付き」
聖句 出エジプト7:1〜13

講壇 「モーセの気付き」  出エジプト7:1〜13

そこでモーセとアロンはそのように行った。主が彼らに命じられたとおりに行った。」(出エジプト7:6)

 主の猛プッシュにより、兄アロンの協力を経てようやく、モーセはエジプトに帰り、イスラエルの民の救出に向かうのでした。しかし、モーセの本質的な状況は変わっておらず自分の口下手さに甘んじ、以前の失敗が尾を引いている状況です。イスラエルの民は受け入れてくれるだろうか、エジプトの王ファラオは聞き入れてくれるだろうか、甚だ疑問です。

○不安的中

 モーセの不安は的中しました。ファラオへの直談判は、ファラオの怒りに、油を注ぐ形となり、イスラエルの民は「怠け者」の烙印を押され、レンガ造りの労役を課されていましたが、それに加えてレンガ造りの材料である藁の供給をストップされ、自分たちで調達する苦役まで課されるようになったのです(出エジプト5章)。そして、イスラエルの民は藪蛇になってしまったモーセたちの行動を責め、モーセによって告げられる言葉に耳を傾けなくなってしまったのです(出エジプト6:9)。それ見た事かと、モーセは誠心誠意、主に向かって自分の口下手さと役不足を訴えたのです(出エジプト6:12、30)。

○使命のゴールはどこか?

 私たちにもよくある事ですが、思い込みという事があります。一度、経験した事や、見聞きした事が記憶に残っている時、同じような事を頼まれた際に、依頼者の本当の意図を勘違いして、以前と同じであると勝手に思い違いしてしまうのです。
 モーセにとって若かりし時、一度は自分で同胞を助けたいと思い、救出の為に行動したのですが失敗に終わりました。そして、今回、神様からの使命を与えられた事を以前自分がなそうとした「救い出す」事であると思い込んでいたのでしょう。しかし、神様は「救い出す」のではなく「導き出せ」と命じられていました(出エジプト3:10)。モーセの役割は「導く」のであって「救う」のではないのです。「救う」のは主の御業であるのです(出エジプト3:8)。
 実は、クリスチャンの使命である伝道も同じことが言えます。私たちが、救うのではありません。罪から救う事が出来るのは神のみです。私たちは、イエス・キリストを伝え、導く事しかできません。その先は主の御業なのです。

○主の戦いである事の気付き

 愚痴るモーセに、主は何度も同じような事を伝えてきました。そして、今一度、語られるのです。そして、ようやく、モーセの中に主のみことばと御心がストンとおちる瞬間が訪れたのです。それが今日の箇所です。主は初めからモーセが語っただけでファラオが聞き従うなど考えておられませんでした。モーセを神の代役として遣わし、その言葉に従わないエジプトを主が裁き、主がイスラエルを導き出し、救い出すのであると。
 モーセは気付きます。信仰とは主に従う事である事に。そこに主の御業と救いは輝きを増すのです。

10.祈祷(黙祷)・・一 同
11.献金275(信仰) 信仰こそ 賛美リーダー
12.感謝祈祷 ・指 名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.祝祷・・寺東真也師
15.報告・・・・司会者

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第22主日ペンテコステ記念家庭礼拝式順序 2020年5月31日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美132(聖霊・ペンテコステ) ペンテコステの日に ・・一同起立
3.祈り・・・一同起立
4.使徒信条・一同起立
 
 我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこよりきたりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。   アーメン
 
5.賛美411(聖霊) 御恵みの高嶺に・・一同着席
6.三大祷告
 再 臨・有 志
 イスラエル・有 志
 日 本・・・有 志
7.聖書・・・有 志
8.証・・・ 一 同
9.説教・・・寺東真也師

講壇 「聖霊の消えない火」  使徒8:1〜8、26〜40

「散らされた人たちは、みことばの福音を伝えながら巡り歩いた。」(使徒の働き8:4)

 モーセにシナイ山の燃えつきない柴の中であらわれてくださった神は、その火なる聖霊をイエス・キリストを信じる者のうちに与えてくださるという破格の恵みを成してくださいました。
 聖霊による火のバプテスマを受けた者たちは、燃える信仰をもって、迫害の中、それぞれが散らされた先でも燃え続け、福音は大きく前進していったのです。今日もその火は私たちに与えられています。

〇消えない信仰の火

 信仰の火に燃やされた人々は、諸地方に散らされただけでは、その火は消えませんでした。それどころか、散らされた方々で、みことばの福音が語り宣べ伝えられていったのです(4節)。やはり、エルサレム教会の役員の一人であったピリポも、散らされてたどり着いたサマリアで、福音を語り、主の癒しの業を見たサマリアの人々は、こぞって福音に耳を方向けました(6〜8節)。その後、サマリアの町で大リバイバルが起こり、多くの者が救われて、クリスチャンとなったのです(12節)。

○火の広がり

 サマリアにリバイバルが起こり、主の栄光が表されました。これから教会が形成され、さらなる働きが期待されているような状況です。ピリポも、信仰に燃えて、次の一手を考えていた事でしょう。その時、主の使いがピリポに意外な導きを与えました。

「さて、主の使いがピリポに言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」そこは荒野である。」(26節)

 神様は、これからいよいよ用いられるであろうサマリアを後にして、ガザに下る道、といっても、そこは荒野で何もない場所にピリポを導きました。

○マッチ一本でも

 人間的な事を思えば、可能性に満ちているサマリアを後にして、何もない荒野に行くなんて馬鹿げています。99匹の羊を野に残して、見つかるか分からない、迷子の一匹の羊を探しに行くなんて、非効率的です。しかし、イエス様はそのようなお方です(マタイ18:12〜14)。効率で物事を考えるのではなく、愛の動機で全ては導かれるのです。
 ピリポは、すぐさま、ガザへの道に下りました。すると、真の神を求めて、エルサレムに礼拝に来ていたエチオピアの宦官が帰路にありました。宦官は、みことばを求めていながらもそれを理解できずに悩んでいたのです。すると、聖霊は、ピリポに宦官と共に行くように命じました。そして、聖書のみことばから、イエス・キリストについて語り、伝えたのです(35節)。すると宦官はイエス様を信じ、水のある場所まで来ると、ピリポに頼んで洗礼を授けてもらったのです(36、38節)。
 宦官は喜びに満たされて帰路につきました(39節)。たったマッチ一本でも火のついたマッチは大きな家を燃やすことができます。
 一人の火のついた信仰者の働きが一人の人を燃やし、そこから燎原の火のように増え広がるのです。

10.祈祷・・一 同
11.献金415(聖霊) 恵み深き御神よ 一 同
12.感謝祈祷 ・指 名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.主の祈り・一 同
 
天にまします我らの父よ
ねがわくは 御名〔みな〕をあがめさせたまえ
御国〔みくに〕を来たらせたまえ
御心の天になるごとく
地にもなさせたまえ
我らの日用の糧〔かて〕を 今日〔きょう〕も与えたまえ
我らに罪をおかす者を 我らがゆるすごとく
我らの罪をもゆるしたまえ
我らをこころみにあわせず
悪より救いだしたまえ
国とちからと栄えとは
限りなくなんじのものなればなり   アーメン

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第21主日家庭礼拝式順序 2020年5月24日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美270(救いの喜び) 歌えど尽きせぬ主の誉れ 一同起立
3.祈り・・・一同起立
4.使徒信条・一同起立
 
 我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこよりきたりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。   アーメン
 
5.賛美468(天国) やがて天にて(過去の礼拝録音です) 一同着席
6.三大祷告
 再 臨・有 志
 イスラエル・有 志
 日 本・・・有 志
7.聖書・・・有 志
8.証・・・ 一 同
9.説教・・・寺東真也師

講壇 「弱き者こそ」  出エジプト4:1〜20/第二コリント12:9

「しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(第二コリント12:9)

 神様の召しは不思議です。有能で力ある者を用いることをせず、あえて弱い存在を用いられるお方です。モーセもその全盛期の時、同胞を救い出す独自の方法は破綻しました。神様はその時沈黙を守られたのです。
 それから40年。心身ともに、弱くなった一介の羊飼いにすぎなくなったモーセを神様はご自分を現わされて召命を与えたのです。

〇モーセの拒否

 しかし、モーセはあの手この手で神様からの召命を断ろうとします。なぜならば、自分にはそのような力も知恵も経験も、全てなくなっていたからです。

言い訳?臨在が証明できない(1節)

 モーセにとって40年前の出来事はトラウマになっていた事でしょう。意気揚々と自分の手を汚し、危険を冒してさえも、同胞を守ろうとした。しかし、その結果、同胞からは裏切られ、神様も沈黙される。また、独りぼっちの戦いに駆り出され、敗走しなければならないのか、いや、今回は逃げる力さえも残っていない。
 しかし、今回の戦いは自分勝手に始めた戦いではなく、主の召しです。主は共におられることを約束してくださいました。

言い訳? 能力がない(10節)

 モーセは自分の事を、以前からの口下手であると言います。確かに、便が経たなかったが故に、失敗してエジプト人を殺してしまい、イスラエル人同士の仲裁もうまくいかなかったのかもしれません。
 それにしても、その能力が持っていなかったにしても、神様が「わたしがあなたの口とともにあって、あなたが語るべきことを教える。」(10節)と仰っておられるにもかかわらず、その後に及んで「ああ、わが主よ、どうかほかの人を遣わしてください。」(13節)と言ってしまう。これは謙遜ではなく、頑なな自己卑下です。

〇『杖』弱さの象徴から神の臨在に

 主は頑なになるモーセに対して、怒りながらも、モーセの兄アロンを補佐につける事を提案します。そして、ようやくモーセは首を縦に振ります。
 エジプトへと旅立つ時、モーセは信仰的な意味で、自分の弱さに甘んじていました。身体的にも杖を必要とするほど、実際に弱さもあったのでしょう。しかし、神様はその弱さの象徴の杖をもって、神様の臨在の象徴としての御業を行うと約束してくださいました(2〜4節)。実際に10の禍の半分は杖のアクションを聖書は描いています。又、紅海を二つに割る(14:16)、アマレクとの戦い(17:9)でも神の杖はモーセによって掲げられました。
 確かに、私たちは弱いかもしれません。しかし、私たちと臨在くださる神は強いお方です。その神が、私たちと共にいてくださるという臨在信仰に生きる者としていただきましょう。

10.祈祷・・一 同
11.献金330(信頼) 幸い薄く見ゆる日に  一 同
12.感謝祈祷 ・指 名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.主の祈り・一 同
 
天にまします我らの父よ
ねがわくは 御名〔みな〕をあがめさせたまえ
御国〔みくに〕を来たらせたまえ
御心の天になるごとく
地にもなさせたまえ
我らの日用の糧〔かて〕を 今日〔きょう〕も与えたまえ
我らに罪をおかす者を 我らがゆるすごとく
我らの罪をもゆるしたまえ
我らをこころみにあわせず
悪より救いだしたまえ
国とちからと栄えとは
限りなくなんじのものなればなり   アーメン

x

第20主日家庭礼拝式順序 2020年5月17日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美441(試練) 望みは失せ 一同起立
3.祈り・・・一同起立
4.使徒信条・一同起立
 
 我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこよりきたりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。   アーメン
 
5.賛美149(再臨) いつ主は来り給うや 一同着席
6.三大祷告
 再 臨・有 志
 イスラエル・有 志
 日 本・・・有 志
7.聖書・・・有 志
8.証・・・ 一 同
9.説教・・・寺東真也師

講壇 「燃え尽きない柴」  出エジプト3:1〜5/第二コリント4:7〜10

「私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。」(第二コリント4:7)

 一昔前に「燃え尽き症候群(バーンアウト)」という言葉が良く使われました。強い使命感や責任感を持って、人並み以上に仕事に取り組んでいた人が、あるときを境に、ちょうど燃え盛っていた火が消えるように、急に意欲を低下させ投げやりになったりする一連の症候群をさします。
 ちょうどモーセもエジプトの王子からミディアンの羊飼いに成り下がってしまい、全ての事において燃え尽き40歳から80歳までの間生きている意味も見いだせないまま生きてきたのかもしれません。すべての事が人並み以上に与えられ、なんでも自分で出来ると感じていた若かりし頃とは大違いです。

〇燃え尽きない柴

 しゅうとの羊を飼って生計を立てていたモーセですが、ある日、神の山ホレブで不思議な光景に出くわします。それは、柴が燃えているのですが、燃え尽きず、ずっと燃え続けているのです。これは次の事の象徴です。

1.永遠の神の属性

 主なる神はモーセに対してご自分の事をこう仰いました。
「わたしは『わたしはある』という者である。」(14節)
 黙示録にもこうあります。
「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」(黙示録22:13)

2.選民イスラエル

 アブラハムの正妻に後継ぎが生まれたのは百歳の時です。しかし、アブラハムは神の約束と契約を信じてやみませんでした。その信仰の系譜が、その子イサク、そして、イスラエルとなるヤコブに連なり、ヤコブの子供達からイスラエル民族が大きく増え広がったのです。神様はモーセに言いました。
「神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエルの子らに、こう言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、あなたがたのところに私を遣わされた』と。これが永遠にわたしの名である。これが代々にわたり、わたしの呼び名である。」(15節)
 この民は神様に選ばれたがゆえに、例え、エジプトに奴隷として、不当な扱いを受け虐待されても反対に燃え尽きず、増え広がりました(出エジプト1:12)。
「神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。」(ローマ11:29)

3.そして、信じる私たちも

 教会は幾度もの迫害や、危機に陥ってきました。しかし、そのような中でも、信仰は不思議なように保たれ、風前の灯火になっても消える事はありませんでした。なぜならば、宝(イエス・キリスト)を持つ者とされたからです。いつも十字架の死を帯びていますが、イエス様のいのちを私たちが現わす為なのです。

10.祈祷・・一 同
11.献金 250(平安) 世の波風いかに荒れて 一 同
12.感謝祈祷 ・指 名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.主の祈り・一 同
 
天にまします我らの父よ
ねがわくは 御名〔みな〕をあがめさせたまえ
御国〔みくに〕を来たらせたまえ
御心の天になるごとく
地にもなさせたまえ
我らの日用の糧〔かて〕を 今日〔きょう〕も与えたまえ
我らに罪をおかす者を 我らがゆるすごとく
我らの罪をもゆるしたまえ
我らをこころみにあわせず
悪より救いだしたまえ
国とちからと栄えとは
限りなくなんじのものなればなり   アーメン

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第19主日家庭礼拝式順序 2020年5月10日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美216(神の愛) ここに真の愛あり 一同起立
3.祈り・・・一同起立
4.使徒信条・一同起立
 
 我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこよりきたりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。   アーメン
 
5.賛美470(天国) 懐かしき住まい 一同着席
6.三大祷告
 再 臨・有 志
 イスラエル・有 志
 日 本・・・有 志
7.聖書・・・有 志
8.証・・・ 一 同
9.説教・・・寺東真也師

講壇 「見守られる神」  出エジプト2:11〜25/へブル13:5

「金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。主ご自身が「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われたからです。」(へブル13:5)

 神様は私たちに「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」(へブル13:5)と仰ってくださいます。父母がその子供を慈しみ、見守るように。その距離感は抜群です。過保護になりすぎず、放任せず、です。

〇モーセの選択

「信仰によって、モーセは成人したときに、ファラオの娘の息子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみにふけるよりも、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。」(へブル11:24〜25)
 モーセはファラオの娘の子供として育ちました。詳しく聖書は語っていませんが、生活、教育、全てにおいて最上級のものを与えられていた事でしょう。それこそ、同胞たちに比べれば、住む世界が違ったのです。しかし、モーセは帝王学を学びながらも、とても幼い時に実の母が乳母として育ててくれていた時、真の神を恐れる姿勢と教えを忘れていなかったのだと思います。今が良ければそれでいい、自分さえ良ければそれでいいという本能の叫びよりも、信仰から来る良心の声に耳を背けなかったのです。
 大人になったモーセは、同胞がエジプト人に虐げられるのを見て、我慢できなくなり、隠れて加害者のエジプト人を打ち殺して、砂の中に隠したのでした。どうして、そのような危ない橋をモーセは渡ったのでしょうか。やり方は別として、動機は同胞への愛、神への信仰と言えます。

〇人が前に出すぎると

 いかに動機が優れていても、その方法が間違っているならば、とても残念な結果になってしまいます。モーセは自分の持てる立場、知識、力を最大限発揮して、同胞を守りました。しかし、そこに、神様が働かれる余地がない方法をとってしまいました。結果的に、モーセは同胞からの信頼を勝ち得ることが出来ず、愛した同胞同士の争いからモーセの殺人が明るみになり、ファラオから命を狙われ、命からがらミディヤンの地に逃げることになったのです。

〇取り扱いの40年

 ステパノの説教の中で、モーセが同胞を助けた時、40歳であった事が分かります。そして、そしてそこから40年後に召命を受けるのです(使徒7:23、40)。ミディヤンの地でモーセはツィポラと出会い、結婚して二人の子供が与えられます。そこでは、エジプトの王子としての権力や力はありません。自分の無力さを徹底的に学ぶ時だったのです。

〇求めなさい

 虐げられて40年以上経って、民は「神」に向かってようやく叫びの声を上げます。そして、神様はその祈りに耳を傾け、彼らを御心に留めて、神の手は動き出すのです。主に求めましょう(マタイ7:7)。

10.祈祷・・一 同
11.献金 355(確信) 主と共に歩む(過去の聖歌隊録音です) 一 同
12.感謝祈祷 ・指 名
13.頌栄63 父 御子 御霊の(過去の礼拝録音です) 一同起立
14.主の祈り・一 同
 
天にまします我らの父よ
ねがわくは 御名〔みな〕をあがめさせたまえ
御国〔みくに〕を来たらせたまえ
御心の天になるごとく
地にもなさせたまえ
我らの日用の糧〔かて〕を 今日〔きょう〕も与えたまえ
我らに罪をおかす者を 我らがゆるすごとく
我らの罪をもゆるしたまえ
我らをこころみにあわせず
悪より救いだしたまえ
国とちからと栄えとは
限りなくなんじのものなればなり   アーメン

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第18主日家庭礼拝式順序 2020年5月3日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美155(賛美) 御位を降り 一同起立
3.祈り・・・一同起立
4.使徒信条・一同起立
 
 我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこよりきたりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。   アーメン
 
5.賛美467(再臨) 世の終わりのラッパ 一同着席
6.三大祷告
 再 臨・有 志
 イスラエル・有 志
 日 本・・・有 志
7.聖書・・・有 志
8.証・・・ 一 同
9.説教・・・寺東真也師

講壇 「水と御霊によって生まれる」出エジプト2:1〜10、ヨハネ3:5

「イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。」(ヨハネ3:5)

 神様は、私たちにこの世界で生を受ける事を計画し(詩篇139:16)、良いもので満たしたいと願っておられるお方です。しかし、私たちの人生の中には、想定外の事が起こり、苦しむことの方が多いのです。それは、人がいるべき場所におらず、共に歩むべきお方から離れてしまった結果なのです。
 神様はそんな人類を見捨ててしまいませんでした。人には一度死ぬ事と、死後に裁きを受ける事が定まっています(へブル9:27)。そこで、神様は私たちの罪の身代わりとして、ご自分のひとり子をお遣わしになり、十字架の死と復活によって救いの道を開いてくださったのです。その救いの計画が聖書には、型としてちりばめられています。

〇モーセの誕生

 聖書を読んだ事がない人でも、モーセという名前は知っている程、有名です。そのモーセの誕生は理不尽な世界の中で産み落とされるところから始まります。
 舞台はエジプトです。ヨセフの時代に、ヤコブ(イスラエル)一家は飢饉から逃れ、ヨセフがエジプトで大臣をして、国難を救った英雄になっていたので引っ越してきたのです。最初のうちエジプトは恩人の一家として大歓迎をしましたが、ヤコブ一家は神様の祝福を得て、モーセの時代になると、エジプトを脅かすほどの人数に増えていたのです。過去の恩を忘れ、恐怖から保身に走り、エジプトはイスラエル民族を奴隷とし、ある年代の男の子を間引く政策をとったのです。
 生まれたばかりのモーセは丁度、対象になったのでした。しかし、両親はあまりにも美しい容姿の赤ちゃんだったので、3か月間隠し、その後、藁にもすがる思いで、パピルス製の籠に防水加工を施して、ナイル川に流したのでした。

〇救い出されるモーセ

 絶体絶命のモーセでしたが、神様は、そこに救いの御手を差し伸べてくださいました。ファラオの娘である王女がナイル川で水浴びをしており、モーセを拾い上げたのです。そして、モーセの容姿があまりにも美しいので、イスラエル人であると理解しても殺さず、自分の息子として育てることになったのでした。しかも、実の生みの親が、乳母として育てるように導かれました。
 モーセが大きく育った時、ファラオの娘は正式に息子として引取り、モーセ(引き揚げる)と名づけられました。それは、「水の中から、私がこの子を引き出したから」(10節)と王女は言っています。

〇水と御霊によって

 このモーセの水の中から引き揚げられる事は、本当の救いの型です。
 イエス様はニコデモというパリサイ人との会話の中で、新しく生まれることなしで神の国に入ることはできないと説き(ヨハネ3:3)、その方法は「水」と「御霊」によるというのです。
 「水」とはイエス様が与える生ける命の水、十字架の救いを意味し、その印としての信じた者は洗礼(水に浸かる)を受けるのです。そして、だれも御霊(神の聖霊)によらなければイエス様を主と呼び信じる事はできないのです。

〇だれでも来て飲みなさい

 神様は全ての人が、イエス様が与える救いの水を飲んで(十字架の救いを信じて)欲しいと願っておられます。今、このお方を信じれば救われるのです。

10.祈祷・・一 同
11.献金 43(洗礼) わが君イエスよ 一 同
12.感謝祈祷 ・指 名
13.頌栄63 父 御子 御霊の 一同起立
14.主の祈り・一 同
 
天にまします我らの父よ
ねがわくは 御名〔みな〕をあがめさせたまえ
御国〔みくに〕を来たらせたまえ
御心の天になるごとく
地にもなさせたまえ
我らの日用の糧〔かて〕を 今日〔きょう〕も与えたまえ
我らに罪をおかす者を 我らがゆるすごとく
我らの罪をもゆるしたまえ
我らをこころみにあわせず
悪より救いだしたまえ
国とちからと栄えとは
限りなくなんじのものなればなり   アーメン

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第17主日家庭礼拝式順序 2020年4月26日 午前10:30〜

1.黙祷・・・一 同
2.賛美34 主よ汝が前をば 一同起立
3.祈り・・・一同起立
4.使徒信条・一同起立
5.賛美466 来り給う主を一同着席
6.三大祷告
 再 臨・有 志
 イスラエル・有 志
 日 本・・・有 志
7.聖書・・・有 志
8.証・・・ 一 同
9.説教・・・寺東真也師

講壇 「主の恵みの招き」ヨハネ21:15〜17

「彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの子羊を飼いなさい。」」(ヨハネ21:15)

 神様は私たちが優秀で、失敗せず、有能であるから、召してくださるわけではありません。その反対です。地上では取るに足りない者を選び、召し、磨き、用いてくださるのが神様です(?コリント1:26〜27)。
 イエス様が大失敗を犯したペテロを再び立ち上がらせるためになしてくださった恵みの招きに目を向けましょう。

〇ペテロの大失態

 ペテロはイエス様にとって一番大切な時(十字架刑への裁判)に大失態をさらしてしまいました。それは、「イエスの仲間ではない、イエスなんて知らない」と3度拒否したことです(マタイ26:69〜75)。ペテロは最後の晩餐の最後にイエス様に「あなたのためなら、いのちも捨てます。」(ヨハネ13:37)と言っていたのですがその直後に、イエス様から「わたしのためにいのちも捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」(ヨハネ13:38)と言われており、しかしてまさしくそのようになったのでした。

○喜びと葛藤

 ペテロにとって、イエス様の復活は歓喜に沸く出来事であった事は確かです。しかし、イエス様を裏切った事実からその中にやるせない葛藤もあったのです。  イエス様が弟子たちの前に3度目に姿を現されたのは、いつもの、ガリラヤ(ティベリア)湖畔でした。イエス様が先に、ガリラヤに行くと仰っておられたので、弟子たちもガリラヤに来ていたのです。そして、久しぶりに漁をする弟子たちをよそに、イエス様は弟子たちの為に、朝食を用意くださっていました。そこには、イエス様の変わらない愛と赦しが溢れていたのです。しかし、ペテロにとって、楽しいはずの朝食は嬉しくとも、気まずいものだったでしょう。

1.赦しの招き

 朝食を終えたペテロにイエス様は一つの質問を3度、語りかけられました。それは「あなたはわたしを愛しますか。」でした。ペテロはもう「愛します!」とは言えませんでした。しかし、イエス様の招きに立ち返ったペテロは精一杯でその招きに応答したのです。イエス様は、3度裏切りの発言をしたペテロに、3度の悔い改めの機会を与えられたのです。

2.再召命の招き

 ペテロの精一杯の応答に対するイエス様の答えは「わたしの羊を飼いなさい。」「わたしに従いなさい。」(ヨハネ21:17、19)でした。イエス様はただ赦しただけではなく、生きる意味と使命をペテロに与えられたのです。
「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」(マタイ4:19)  イエス様の召しは、私たちが担保ではなく、神の約束が担保なのです。主の恵みの招きにいつも応答させていただきましょう。
「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。」(ヨハネ15:16)

10.祈祷・・一 同
11.献金 337 愛する主よ 我が君よ・一 同
12.感謝祈祷 ・指 名
13.中高生祝福祈祷・一同
14.頌栄63 父 御子 御霊の 一同起立
15.主の祈り・一 同

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第16主日家庭礼拝式順序 2020年4月19日 午前10:30〜

1.黙祷・・一 同
2.賛美21 輝く日を仰ぐとき 一同起立
3.祈り・・一同起立
4.使徒信条・一同起立
5.賛美149 いつ主は来り給うや一同着席
6.三大祷告
 再   臨・有 志
 イスラエル・有 志
 日   本・有 志
7.聖書・・・有 志
8.証・・・ 一 同
9.説教・・寺東真也師  

講壇 「真の信仰者への招き」ヨハネ20:24〜29

「それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」」(ヨハネ20:27)

 12使徒のひとりで、トマスは「デドモ」とも呼ばれていました(24節)。デドモはギリシャ語でトマスはアラム語です。そして、どちらも双子という意味です。トマスは双子の生まれであったようです。
 聖書にはトマスの素性はほとんど記されていません。ただし、ヨハネの福音書には、名前だけでなく、エピソードが多くはありませんが記されているのです。

〇トマスのストーリー
1.勇敢か投げやりか

 イエス様をとても慕い、仲が良かった、エルサレムにほど近い町のベタニアに住むラザロが不治の病で死にかかっていた時、その知らせがイエス様のもとに届きました。その知らせを受けたイエス様が、もう一度ユダヤに行くと言われたのですが、その直前まで、宮きよめの祭りの為に上京しており、いのちが脅かされるような状況になったばかりでした。そこで、トマスはこう言いました。
「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。」(ヨハネ11:16)
 とても勇敢に見える発言ですが、一方で、とても投げやりな発言にもとれる言葉です。

2.現実主義の応答

 最後の晩餐の中で、イエス様が転移変えられる事と再臨の希望を、霊的に語られました。
「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」(ヨハネ14:1〜4)
 しかし、トマスはその場所がどこにあるのかが分からないと、訴えました。
「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」(ヨハネ14:5)

3.不信仰告白

 イエス様が復活して、女性たちにそして、トマス以外の弟子達に姿を現されたと聞いた時、この目で見、触れなければ、決して信じないと言いきりました。
「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」(ヨハネ20:25)

○信仰者の告白へ

 残念ながらトマスのエピソードからはトマスの弱さしか記されていません。投げやりで、疑い深く、不信仰な姿です。しかし、そんなトマスをイエス様は心から愛して下さいました。そして、その両手、と脇腹を見せて触れるように優しくトマスに語りかけたのです。見て触って、信じる事が出来るならばそうしなさいと。
 でもトマスは、見て触れて確かめずに、イエス様の愛に触れて、信仰告白に至りました。
「私の主、私の神よ。」(28節)
 イエス様の愛に触れたトマスは、その信仰が「私たちの主」から「私の主」に変えられたのです。

10.祈祷・・・一 同
11.献金 341 恐れなく近寄れ・一 同
12.感謝祈祷 ・指 名
13.頌栄63 父 御子 御霊の 一同起立
14.主の祈り・・一 同
15.祝祷・・寺東真也師

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第15主日イースター家庭礼拝式順序 2020年4月12日 午前10:30〜

1.黙祷・・一 同
2.賛美123 救いの主は 一同起立
3.祈り・一同起立
4.使徒信条・一同起立
5.賛美148 夕べ雲焼くる一同着席
6.三大祷告
 再   臨・有 志
 イスラエル・有 志
 日   本・有 志
7.聖書・・有 志
8.証・・・一 同
9.説教・寺東真也師

講壇 「勝利を得る秘訣」ヨハネ16:33

「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ16:33)

 復活の主の御名を賛美いたします。私たちの主は、今も生きておられます。先週、日本でも緊急事態宣言が出され、世界での死者は8万人を超えました。死が世界を覆い支配していると言えましょう。しかし、主は二千年前にすでに勝利をしてくださったのです。その勝利を得る秘訣が聖書にあります。

〇キリストの平安を得る
「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです」

 異常事態の中では、不平、不満、不安が蔓延します。そして、人々の心には、見えない敵が蒔く、「恐れ」に支配され取り乱し、パニックを起こすのです。
 イエス様は、十字架を前に、逃げてしまう事さえも前もって弟子たちに告げておいてくださり、そこから立ち直ることの道備えをしてくださいました。どこまでも、受け入れ、愛し、包み込んでくださるお方がおられる事、そして、そのお方の持っておられる平安は、一時的な恐れ、不平、不満、不安を超えて、永遠の希望と喜びに目を向けることが出来るようにしてくださるのです。
「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。」(ヨハネ14:27)

〇苦難の中の勇気を得る
「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。」

 この世にある限り、苦難はつきものです。時に、その苦難の大きさに押しつぶされそうになる事も事実です。しかし、そのような中でもイエス様は私たちに「勇気を出しなさい」と声をかけてくださるお方です。この「勇気を出せ」という言葉はギリシャ語で「サルセオー」とう言葉で、新約聖書に7回出てきます。すべて、イエス様が語られたことばで使われています。
 中風の人(マタイ9:2)、12年の長血の女性(マタイ9:22)、湖の弟子たち(マタイ14:27、マルコ6:50)に「しっかりしなさい」と、盲目のバルテマイに「心配しないでよい」と、そして、エルサレムで裁判を受けるパウロに「勇気を出しなさい」と声をかけられたのです。しかもただ声をかけるだけでなく、そこには、癒し、罪を赦し、励まし、共におられる主の臨在と愛を明確に感じる出来事だったのです。そうです。全能の主は、あなたに勇気を与えてくださいます。

〇復活の主の勝利を得る
「わたしはすでに世に勝ちました。」

 イエス様は確かに、十字架上で死に、墓に葬られました。しかし、十字架に架かられる前から「すでに」イエス様は死に勝利されていました。重く、固い岩によって封印された墓は、溢れる永遠の命の輝きによって、わきに転がされ、墓は空となり、そこに命の主が葬られ続けることはありませんでした。イエス様は、このお方を信じる者の初穂としてよみがえってくださいました(?コリント15:20)。ゆえに、私たちも、すでに死に勝利をしており、縛られることはありません。肉体は塵に帰っても、命は主にあって生き、新しい体を頂く勝利の約束を頂いているのです(ピリピ3:21)。 「神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」(?ヨハネ5:4〜5)

10.祈祷・・一 同
11.献金 127 墓の中に・一 同
12.感謝祈祷 ・指 名
13.頌栄63 父 御子 御霊の 一同起立
14.主の祈り・一 同
15.祝祷・寺東真也師

x

第14主日家庭礼拝式順序 2020年4月5日 午前10:30〜

1.黙祷・・一 同
2.賛美102 主は命を 一同起立
3.祈り・・一同起立
4.使徒信条・一同起立
5.賛美465 いつかは知らねど一同着席
6.三大祷告
 再 臨・有 志
 イスラエル・有 志
 日 本・・・有 志
7.聖書・・・有 志
8.証・・・ 一 同
9.説教・・寺東真也師

講壇 「十字架を背負って」マルコ15:21〜22

「イエスは皆に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、 自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」(ルカ9:23)

 今週は受難週です。今週の金曜日にイエス様は十字架に架けられたのです。
 今日は、イエス様がゴルゴタの丘に向かう途中に良くも悪くも巻き込まれた男性にスポットライトを当てます。

〇クレネ人シモン

 クレネとは当時の地中海に面する北アフリカのリビア地方にある地名です。そこは多くのユダヤ人が移住していました。クレネ人シモンはクレネに住んでいたユダヤ人だったのです。遠く離れた地に住んでいても、ユダヤ人たちは、年に三回の祭りにはエルサレムに上り祭りを祝いました。この時も、シモンは忠実に田舎から出てきていたのです。

〇強制的に

 シモンは歴史的瞬間に立ち会う事になります。あの時の人であったイエス・キリストが十字架刑に処せられ、今、ゴルゴタの丘に向かおうとしていたのです。そして、「通りかかった」シモンをローマ兵は強制的に徴用し、十字架を代わりに背負うことになったのです。
「捕まえて」「無理やり」「背負わせ」「運ばせた」(ルカ23:26、マルコ15:21)のです。自分が望んで、しようとしたことならば納得がいきますが、死刑囚の死刑の手伝いなど、誰がしたいでしょうか。シモンの感情は記されていませんが、きっと、「なぜ自分が!」という思いで満たされていたと思います。

〇イエス様の背中

 シモンはイエス様の後ろを十字架を背負って十字架への道を歩きました(ルカ23:26)。その背中は、他の十字架を背負う二人の囚人とは違いました。罵詈雑言を吐かれても、言い返さず、恨み言を言わず、命乞いもしない。その背中には確固たる確信と決意に満ちながら、人々への愛とその大きさをたたえていたのです。

〇シモンのその後

 ゴルゴタに到着した後のシモンのその後は、聖書は語っていません。しかし、私は想像するのです。シモンは、そのままゴルゴタに留まり、そして、神の子として、私の為に死んでいかれる主イエスを見て、あの百人隊長が告白したように神の子と告白し、クレネの家族を救いに導いたのではないかと。
 なぜか、マルコだけ、シモンの子供の名前を書き記しています。そこには意味があると私は信じるのです。二人の息子のうち、一人はルフォスと言いますが、この後30年ほど後に書かれたローマ人への手紙の中で同じ名前の人物が出てきます。

「主にあって選ばれた人ルフォスによろしく。また彼と私の母によろしく。」(ローマ16:13)

 ルフォスは主にあって選ばれた人とパウロは呼び、彼の母であり、パウロにとっても母のような存在となったシモンの妻によろしくと書いているのです。きっと、シモンは十字架の主に出会い、今度は強制的にではなく、自ら、イエス・キリストを信じ、自分のなすべき使命という十字架を負ってクレネに帰ったのでしょう。
 今、世界は暗雲が立ち込めています。強制的に負の連鎖のような現状の中に投げ込まれているでしょう。しかし、そこに、主は確かにおられるのです。そして、福音の為に、自分の持ち場立場の中で何ができるのか、各々の十字架を背負って欲しいと願っておられます。

10.祈祷・・一 同
11.献金 110 都の外なる・一 同
12.感謝祈祷 ・指 名
13.頌栄63 父 御子 御霊の 一同起立
14.主の祈り・一 同